学位論文要旨



No 216143
著者(漢字) 溝淵,律子
著者(英字)
著者(カナ) ミゾブチ,リツコ
標題(和) イネの擬似病斑葉突然変異体の病害抵抗性に関する育種学的研究
標題(洋)
報告番号 216143
報告番号 乙16143
学位授与日 2004.12.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16143号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 教授 難波,成任
 東京大学 助教授 経塚,淳子
 東京大学 助教授 中園,幹生
内容要旨 要旨を表示する

 植物体内への病原菌の侵入に対する抵抗性反応の一つに過敏感反応と言われる現象がある.これは,病原菌の侵入を受けた細胞およびその周辺の細胞が死ぬことにより,それ以上病原菌が広がるのを防ぐ現象である.擬似病斑葉変異体は,病原菌の存在の有無に関わらず過敏感反応に似た褐点を葉身などに形成するもので,今までにシロイヌナズナやオオムギなどの多くの植物において同定されてきた.さらに,いくつかの擬似病斑葉変異体は病原菌に対して抵抗性を示すことが明らかになり,それらは植物の過敏感反応を解析するための有用な材料であると考えられている.イネにおいても,1965年に関口病斑という病斑状の褐点が葉身に現れる擬似病斑葉変異体が同定されて以来,複数の擬似病斑葉変異体(spotted leaf 1(spl1)〜spl11)が見つけられている.しかしながら,それらの変異体間での擬似病斑の程度の比較や農業形質との関連についてはあまり明らかにされていない.

 本研究では,イネにおける病害抵抗性がどのように制御されているかを明らかにする目的で,擬似病斑葉変異体を詳細に解析するとともに,それらの病害抵抗性およびPRタンパク質などの病害抵抗性関連の遺伝子の発現について解析した.さらに,有望と思われる擬似病斑葉変異体について実用品種への戻し交配系統を作出して,それらの農業形質の評価を試みた.

1.擬似病斑葉突然変異体の表現型の解析

 メチルニトロソウレアによる変異原処理を行ったM2又はM3世代の合計13000系統の中から,病原菌の接種なしで自発的に葉身に褐点が現れ,しかもイネいもち病菌を接種した時,原品種より病徴の伸展程度の低い5系統を同定した.遺伝分析の結果,2系統が単因子優性の突然変異であり,3系統が単因子劣勢の突然変異であった.また,これらの変異体および既知の擬似病斑葉変異体を用いた対立性検定の結果,これらの5つの擬似病斑葉変異体のうち,1つがspl5-1と対立関係にあることがわかりspl5-2とした.残りの4つの突然変異は新しい遺伝子座に由来することが明らかとなり,Spl12,spl13,spl14およびSpl15と名付けた.

 新しく見い出された擬似病斑葉変異体と既知の擬似病斑葉変異体を用いて,擬似病斑の色,大きさ,発生する時期,発生する器官について調査した.

 生育初期から擬似病斑が現れるのはspl1,spl2,spl3,spl4,spl5-1,Spl7,Spl12およびSpl15であり,spl2およびSpl12では第2葉,spl1では第3葉,spl3,spl4,spl5-1,spl7およびSpl15では第4葉から擬似病斑が現れた.Spl5-2およびspl6では第6葉から擬似病斑が現れ,spl8,spl,spl10およびspl13では第9葉または第10葉から擬似病斑が初めて見られた.spl14は特異的な発現パターンを示し,第2葉,第3葉および第4葉で擬似病斑が出現したが,第5葉および第6葉では擬似病斑が見られず,第7葉から再び擬似病斑が現れた.擬似病斑の大きさは直径が3mm以下の系統が多かったが,spl1およびspl2では擬似病斑同士がつながり広がった.擬似病斑の色は赤茶色の系統が多かったが,灰色,黄色なども存在した.

 spl3,spl5-1,spl5-2,spl7,spl9,Spl12(ホモ),spl14およびSpl15においては,葉身以外に,止葉の葉鞘,外穎,内穎,枝梗のいずれにおいても擬似病斑が見られた.spl1,spl2,spl4,Spl12(ヘテロ)およびspl13においては止葉の葉鞘,外穎,内穎,枝梗のいずれかで擬似病斑が見られた.spl6,spl8およびspl10においては,葉身以外では擬似病斑が見られなかった.

 次に農業形質を調査した.優性の変異体であるSpl12およびSpl15は,稈長,穂長,一株穂数および一株籾重のいずれも極めて小さかった.劣性の変異体の多くは,稈長,穂長,および一株籾重が原品種より小さかったが,spl6,spl8およびspl10のように一株籾重が原品種と同程度またはやや大きい系統も存在した.

2.擬似病斑葉突然変異体の病害抵抗性

 新しく見い出された擬似病斑葉変異体と既知の擬似病斑葉変異体に関して病害抵抗性を調査した結果,spl4,spl5-1,spl5-2,spl7,spl10,Spl12,spl13,spl14およびSpl15において,いもち病および白葉枯病に対して抵抗性が誘導されていることが明らかになり,いずれもレース特異性はないと考えられた.

 次に,優性の変異体であるSpl12のホモ個体とヘテロ個体の擬似病斑の発現程度と病害抵抗性を比較した.Spl12のヘテロ個体は稈長,穂長および一株籾重について,Spl12のホモ個体と原品種の中間的な値を示し,擬似病斑の発現程度もホモ個体より少なかったが,いもち病および白葉枯病に対する抵抗性はホモ個体と同程度誘導されていた.

 次に,病害抵抗性を示した擬似病斑葉変異体のうちspl5-2,Spl12,spl13,spl14およびSpl15について,いもち病および白葉枯病抵抗性が植物体のどの生育ステージから誘導されているか調査した.播種後8週目の植物体の葉鞘向軸面にいもち病菌を接種したところ,葉身に擬似病斑が見られたSpl12,spl5-2およびSpl15のうち,Spl12ではいもち病菌の付着器からの菌糸の伸びは原品種より抑制されていたが,spl5-2およびSpl15の付着器からの菌糸の伸展程度はほぼ原品種と同程度であり,まだ抵抗性は誘導されていなかった.播種後8週目のspl13とspl14の葉身には擬似病斑がまだ見られなかったが,付着器は形成されるものの菌糸の伸展は極めて抑制されており抵抗性が誘導されていた.播種後12週目では,spl5-2,Spl12,spl13,spl14およびSpl15のいずれも葉身に擬似病斑が現れ,付着器からの菌糸の伸展が原品種より抑制されていた.spl13は播種後8週目および12週目のいずれにおいても,いもち病菌の付着器の付いた細胞の細胞質が褐色に変化していた.

 spl5-2,Spl12の止葉および止葉から数えて連続する3枚の葉について,出穂期に白葉枯病菌を接種したところ,全ての葉が抵抗性を示した.また,抵抗性の程度はspl5-2,Spl12および各々の原品種のいずれも,下位葉より上位葉で大きかった.spl5-2,Spl12,spl13,spl14およびSpl15について,播種後2,4,6,8,および10週の最上位展開葉に,白葉枯病菌を接種するとともに,各生育ステージにおける擬似病斑面積比率を調査したところ,優性の変異体であるSpl12およびSpl15は,劣性の変異体であるspl5-2,spl13およびspl14と比較し,生育初期から擬似病斑が現れ,擬似病斑面積比率も高く,病害抵抗性の程度も強かった.

 二重変異体Spl12spl14では,擬似病斑の発現程度はSpl12,spl14より激しく,相加的であったが,白葉枯病菌に対する抵抗性はspl14とほぼ同程度であり,相加的ではなかった.

3.擬似病斑葉突然変異体における病害抵抗性関連遺伝子の発現

 病害抵抗性を示したspl5-2,Spl12,spl13,spl14およびSpl15を用いて,植物体内での病害抵抗性関連の遺伝子の発現について調査した.

 病害抵抗性関連遺伝子のPR1,PBZ1およびキチナーゼ(Cht3)は,擬似病斑の出現後抵抗性を示したspl5-2,Spl12およびSpl15では,擬似病斑の現れた後で発現が誘導された.擬似病斑出現前に抵抗性を示したspl13およびspl14では,擬似病斑の現れる前から発現が見られた.従って,これらの変異体の病害抵抗性は病害抵抗性関連遺伝子の発現と強く相関していた.

4.擬似病斑葉突然変異体の実用品種への戻し交配系統の農業形質の評価

 spl13,spl14,Spl15およびspl5-2の農業形質を改良する目的で,ヒノヒカリあるいはコシヒカリとのF2に対し戻し交配を行ったところ,いずれの戻し交配系統(BC1F2)においても,一株籾重の標準偏差が大きく,系統内での個体間のばらつきが大きいことが示唆された.spl13およびspl14の戻し交配系統では,一株籾重がヒノヒカリと同程度又はやや小さい程度まで改良されていたが,spl5-2の戻し交配系統では,一株籾重があまり増えていなかった.Spl15の戻し交配系統ではコシヒカリより小さいが,Spl15より極めて大きくなっていた.

 BC1F3でもほとんどの系統において,依然として一株籾重がヒノヒカリ又はコシヒカリより小さかった.一株籾重が小さくなる原因として,spl13では穂長および籾百粒重,spl5-2では稈長,穂長および籾百粒重,spl14では籾百粒重,Spl15では稈長,一株穂数,および籾百粒重が少ないことによると考えられた.しかし,BC1F2系統よりも農業形質は全体的に改良されており,さらに戻し交配と選抜を進めることにより,実用化の可能性があると考えられた.

 以上,本研究では,イネの擬似病斑葉変異体を用いて,イネの発育と擬似病斑の発現との関係を詳細に明らかにするとともに,多くの変異体は,いもち病,白葉枯れ病に対する抵抗性を示すことを明らかにした.さらに戻し交配を行い,農業形質改善の可能性について検討した.

審査要旨 要旨を表示する

 擬似病斑葉変異体は,病原菌の存在の有無に関わらず過敏感反応に似た褐点を葉身などに形成するもので,そのうちいくつかの擬似病斑葉変異体は病原菌に対して抵抗性を示すことが明らかになっている。イネにおいても,今までに複数の擬似病斑葉変異体が見つけられているが,それらの変異体間での擬似病斑の程度の比較や農業形質との関連についてはあまり明らかにされていない。本研究では,イネにおける病害抵抗性がどのように制御されているかを明らかにする目的で,擬似病斑葉変異体を詳細に解析するとともに,それらの病害抵抗性およびPRタンパク質などの病害抵抗性関連遺伝子の発現について解析した。さらに,有望と思われる擬似病斑葉変異体について実用品種への戻し交配系統を作出して,それらの農業形質の評価を試みた。本論文の内容は,4つの章から構成されている。

1.擬似病斑葉突然変異体の表現型の解析

 メチルニトロソウレアによる変異原処理を行ったM2またはM3世代の計13000系統の中から,病原菌の接種なしで自発的に葉身に褐点が現れ,しかもイネいもち病菌を接種した時原品種より抵抗性を示す5系統を同定した。遺伝分析の結果,これらをspl5-2,Spl12,spl13,spl14およびSpl15と名付けた。既知のspl変異体とともに更に解析を行った。

 生育初期から擬似病斑が現れるのはspl1,spl2,spl3,spl4,spl5-1,Spl7,Spl12,spl14およびSpl15であり,spl5-2およびspl6では第6葉から擬似病斑が現れ,spl8,spl9,spl10およびspl13では第9葉または第10葉から擬似病斑が初めて見られた。擬似病斑の大きさは直径が3mm以下の系統が多かったが,spl1およびspl2では擬似病斑同士がつながり広がった。spl3,spl5-1,spl5-2,spl7,spl9,Spl12(ホモ),spl14およびSpl15においては,葉身以外に,止葉の葉鞘,外穎,内穎,枝梗のいずれにおいても擬似病斑が見られた。spl1,spl2,spl4,Spl12(ヘテロ)およびspl13においては,葉身以外の器官のいずれかで擬似病斑が見られた。spl6,spl8およびspl10においては,葉身以外では擬似病斑が見られなかった。

 優性の変異体は,稈長,穂長,一株穂数および一株籾重のいずれも極めて小さかった。劣性の変異体の多くもこれらの形質が原品種より小さかったが,spl6,spl8およびspl10のように一株籾重が原品種と同程度の系統も存在した。

2.擬似病斑葉突然変異体の病害抵抗性

 spl4,spl5-1,spl5-2,spl7,spl10,Spl12,spl13,spl14およびSpl15において,いもち病および白葉枯病に対してレース非特異的な抵抗性が誘導されていることが明らかになった。

 Spl12のヘテロ個体は稈長,穂長および一株籾重について,Spl12のホモ個体と原品種の中間的な値を示し,擬似病斑の発現程度もホモ個体より少なかったが,いもち病および白葉枯病に対する抵抗性はホモ個体と同程度誘導されていた。

 播種後8週目の植物体の葉鞘向軸面にいもち病菌を接種したところ,spl13とspl14の葉身には擬似病斑がまだ見られなかったが抵抗性が誘導されていた。spl5-2,Spl12の止葉および止葉から数えて連続する3枚の葉について出穂期に白葉枯病菌を接種したところ,全ての葉が抵抗性を示した。優性の変異体であるSpl12およびSpl15は,劣性の変異体であるspl5-2,spl13およびspl14と比較し,生育初期から擬似病斑が現れ,擬似病斑面積比率も高く,病害抵抗性の程度も強かった。

 二重変異体Spl12spl14では,擬似病斑の発現程度はSpl12,spl14より激しく,相加的であったが,白葉枯病菌に対する抵抗性はspl14とほぼ同程度であり,相加的ではなかった。

3.擬似病斑葉突然変異体における病害抵抗性関連遺伝子の発現

 病害抵抗性関連遺伝子であるPR1,PBZ1およびキチナーゼ遺伝子の発現を調べた。擬似病斑の出現後に抵抗性を示したspl5-2,Spl12およびSpl15では,擬似病斑の現れた後でこれらの遺伝子の発現が誘導された。一方,擬似病斑出現前に抵抗性を示したspl13およびspl14では,擬似病斑の現れる前から発現が見られ,変異体の抵抗性発現と病害抵抗性関連遺伝子の発現との間に相関が認められた。

4.擬似病斑葉突然変異体の実用品種への戻し交配系統の農業形質の評価

 spl13,spl14,Spl15およびspl5-2の農業形質を改良する目的で,ヒノヒカリ又はコシヒカリとのF2に対し戻し交配を行った。BC1F3ではほとんどの系統において,一株籾重がヒノヒカリまたはコシヒカリより小さかったが,BC1F2系統よりも農業形質は全体的に改良されており,さらに戻し交配と選抜を進めることにより,実用化の可能性があると考えられた。

 以上,本研究は,イネの擬似病斑葉変異体を用いて,イネの発育と擬似病斑の発現との関係を詳細に明らかにするとともに,多くの変異体はいもち病,白葉枯病に対する抵抗性を示すことを明らかにした。さらに戻し交配を行い,農業形質改善の可能性について検討したものであり,学術上,応用上価値が高い。よって,審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50258