学位論文要旨



No 216155
著者(漢字) 建部,恭宣
著者(英字)
著者(カナ) タテベ,ヤスノブ
標題(和) 京・近江及び丹後国における建築生産活動の展開に関する史的研究
標題(洋)
報告番号 216155
報告番号 乙16155
学位授与日 2005.01.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16155号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

 建築という「もの」を創る行為の背景には、大工を初めとする各職の仕事への情熱や姿勢、さらに営業のような一種の駆け引きを含む様々な活動が存在した。これらの大工達が日常いかに仕事をしたのか、人間味溢れる大工像とその活動状況を浮かび上がらせた。

 京の大工「三上吉兵衛」家は天保10年(1839)頃から大工業を営み、代々「吉兵衛」を世襲してきた。幕末から明治・大正にかけて活躍するのは、四代目(吉右衛門)と、五代目(伊之助)である。吉右衛門の事蹟からは広域に及ぶ足跡が窺え、京都やその周辺に限らず東京など遠方の仕事も増えている。早い時期から煉瓦造や「小屋組鉄製」を試みるなど、新種の材料や構造体も意欲的に手掛けた。幕府が崩壊し、大きな変動を体験した吉右衛門の事蹟からは、激しく揺れる社会情勢に巧みに対応していった様子が窺われる。伊之助は京都で活躍する商人達を得意先とするなど、独自の世界を開拓した。二人は伝統工法を継承するだけでなく、常に新しい技術や経営方式などを指向していた。特に吉右衛門は、明治13年(1880)頃に「京都府下大工組合會社」の設立に関わり、大工を結集して「組合」の名の元に共同請負を行うなど、旧態からの転換を図り近代的な組織作りを目指した。京都における建設業の発展と近代化を積極的に推進した中心人物として、重要な役割を果たした。

 近江坂本の大工中嶋次郎左衛門は、享保15年(1730)12月に中井役所へ西教寺本堂の修理願を出した。6年後、御断書により計画変更を願い出たが、修理という形を採りながら実は新築再建であり、願の内容と実態が大きく異なってもこれを是とする意識が内在していたと考えられる。歴代の仕事は、西教寺や末寺及び延暦寺の諸堂に集中している。慶応元年(1865)、前年の「どんどん焼け」に遭った京都中心部の利生院を再建したが、復旧という特殊な状況下でも、同地の大工の活動領域で仕事をするには了解のもと連署して中井役所へ普請願を出すという、営業圏の問題があった。西教寺本堂の出面板は元文3年(1738)のものと判断され、5ヶ月もの日々の仕事振りが記される。この間を通じて、大工全員が揃って休んだ日は1日も無い。節句などを休日とする他の例があるが、ここでは節句といえども休んでいない。中核的な大工は他に比べて就労日数が多く、2〜3ヶ月無休で働くこともあった。中嶋家に伝わる『定』には現場での注意事項が記され、喫煙は湯小屋に限られていた。職人達は「六ツ半時」に登山して仕事を始め「七ツ七歩」に下山するが、休憩は午前に1回、午後は2回であった。これを拘束時間とすると、春(秋)分では午前7時に登山、下山は17時24分頃となり、昼食と休憩を含み約10時間半である。夏至には12時間8分、冬至には8時間40分となり、夏と冬で3時間半の差があったことになる。

 丹後国における天正期から約120年間に、「冨田」氏以外の大工が19件の社寺造営を手掛けた。宮津と近隣で過半数を占め、他は丹後半島北西部に多い。17世紀前半では宮津や伊根の神社を隣藩田辺の大工が手掛けているが、寛文8年(1668)牧野氏の田辺入封後は他所稼ぎを制限したようである。元禄10年(1697)頃まで大規模な大工集団は無く、組織化や特定の出入場を確立する動きは未だ芽生えていなかった。他国大工の足跡も認められるが、出石大工の活動は宝暦・明和年間の僅か数年であった。一方豊岡大工が仕事をする際は、地元大工と共同であった。17世紀後半〜18世紀にかけて、丹後半島北西部を中心に淡路国浦村大工「北条」氏の作品が認められるが、享保初年でその活動が停止している。

 宮津葛屋町について、天保年間の『細見帳』には、各家の間口・奥行、家族構成や年令・職業、同居者などが細かく記される。住人の職業は多様だが、大工・鍛冶など建築関係が多い。なかでも大工は4〜5軒に1軒の割で集住しており、合計34人を数え「大工町」の様相を呈していた。その中には「冨田」氏一族も含まれるが、安永年間に「支流八九家」あったと伝えられる「冨田」氏も他の町へ拡散し、その数が減少している。

 寛文12年(1672)に如願寺本堂を再建した冨田平左衛門が「冨田」氏の初見で、以降江戸末期まで約90件もの社寺造営に「冨田」大工が関係し、宮津・加悦・野田川が主な活動領域であった。彼らの活動は三期に分けられ、第一期は河内守・又左衛門・十郎兵衛兄弟の貞享〜享保年間だが、未だ特定の出入り場を確保するには至っていない。享保20年までの「冨田」氏による仕事中、河内守一族が約7割を手掛け、「冨田」の名を不動のものにした功績は大きく、「確立期」であった。第二期は庄次郎・清右衛門兄弟の宝暦〜寛政年間である。仕事場はごく限られ、宮津では智恩寺と江西寺、加悦では常栖寺だけである。智恩寺と常栖寺は特定の出入り場として定まっていたことを示し、河内守の後を受けて「定着期」であった。第三期は、宮津から地方の「冨田」へ派生した文化年間以降で、加悦の清兵衛と儀兵衛が活躍する。彼らは同地域を主な出入場としており、「発展期」であった。3グループの仕事は「冨田」氏による全事蹟の過半数を占め、それぞれがエポックメーカー的な存在であった。享保年間の松尾寺本堂再建では、豊富な経験と技術の優秀さによって寺側から指名された形で、宮津の冨田河内は「切者之大工」として田辺藩まで知れ渡っていた。京都では1人工の作料が2匁8分だが約1割値引きして2匁5分にするとあり、営業的な姿勢が多分に感じられる。実は2人の仕手大工が別にいるので、河内守はプロデユーサーもしくは総合請負者としての性格が濃かったと解釈される。重郎兵衛と庄次郎が手掛けた成相寺本堂と智恩寺山門に動員された大工は総勢126人を数え、18世紀後半の宮津と周辺大工の大部分を占める数と考えられる。ある地域に集住し多数の大工を動員可能だったことは、大規模な造営や同時に複数の仕事をこなす為に組織として不可欠な条件であり、様々な場面にも容易に対応できる体制であった。

 智恩寺山門再建の出面板には、宝暦12年(1762)9月から明和4年9月の上棟まで60ヶ月に亙る大工の就労状況が記録され、この間1人でも大工が現場で働いた日は1772日の内1545日で稼働率は87.2%であった。正月や盆など長期休業する月を除くと、現場が稼働していたのは1ヶ月28日で、1〜2日間は休業だった。年末・年始は11〜23日間休みで年によって幅があり、お盆休みは概ね7月11〜16日、節句は原則として1〜2日間、8月1日の「八朔」も休みであった。上棟までの前半約3分の2の間は、平均すると1日3〜4人の大工を投入した。これに対し後半3分の1の明和3年初めから大工数を徐々に増やし、工事の進捗に伴って月間延べ工数は曲線的に上昇し、累計工数も大きく増加する。この21ヶ月間の稼働大工数は総工数の62%となる。上棟直前6ヶ月間では28.4%であった。建築の出来高を示す指標として累計工数が挙げられるが、上棟時には建物の90%が施工済みであった。多数の大工が関わったが、本棟梁の就労工数が最も多く、しかも長期間連続して就労した。相棟梁は、数人の助工と共に中核となって良く本棟梁を補佐している。

 慶長17年(1612)から明治初年までの間で、田辺藩における仕事59件が判明した。明和3年(1766)に作事奉行原正登が記した「大工人数之覚」によると、当時の町大工は67人で、技量によって上・中・下の3段階に分けられる。8割強は「上」大工だったので、「中」「下」と書かれた大工は修業中の大工と解釈される。大工の3割弱が引土町に集住しており、大工町の様相であった。また当時の田辺藩では、作事棟梁二人制を採っていた。文政年間には87人と数十年の間に20人増えている。安政2年(1855)には人数はさらに10人増えたが、棟梁は引土町に住む吉兵衛一人しか記されておらず、何らかの理由により前年の嘉永7年4月に一人制に変更されたものである。田辺藩最後の作事棟梁を務めたのは「瀬尾」氏で、四代吉右衛門は天保6年(1835)に作事棟梁となり、約17年間務めた。嘉永5年(1852)には、吉右衛門老齢のため息子の吉兵衛が作事棟梁役となり約12年間務めた。その後六代吉右衛門は田辺藩最後の作事棟梁を務め、明治を迎えた。

 瀬尾家に伝わる嘉永5年(1852)の史料に、藩士住居の図が描かれている。35.25坪の「中并御屋舗」から御徒士の住む8坪の「二間御長家」まで、地位によって規模や仕様が定められていた。独立した「中并御屋舗」と「小屋舗」では、床の間や式台など接客空間が確立され、「御家舗」には両脇袖壁付の門が開かれ、「小屋舗」にも9尺の門があった。家禄160石の藩士では独立家屋には住めず、24坪程で接客空間も十分に確立されてはいなかった。独立住居に住むことができたのは、おそらく禄高180石以上の藩士であったことが導き出される。給人・惣領・御中小性等は、長屋に住んでいた。

 木材について、貫・垂木・板以外は殆ど丸太として長さや末口径が表示され、そこから木取りしたことが知られる。建具や金物及び瓦・石材・雑材料など各用材の寸法や数量等も書かれている。建築各部の歩掛りも記され、屋根材の違いによる坪当たりの大工工数は、草葺き家は7.5人、板葺き家は8人、瓦葺きの家は8.5人であった。天井張り手間は八畳当たりの人工数で記され、敷鴨居の製作手間や建具の種別による人工数等も知ることができる。貫や垂木・敷居等の大きさや等級による値段の記述も見られ、田辺城下では規格寸法の材木がある程度流通していたことが想定される。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「京・近江及び丹後国における建築生産活動の展開に関する史的研究」と題されたもので、近世における、京・近江・丹後国における大工達の活動の実態を、主に実際の遺構の修理、調査を通して得られた資料をもとにして、明らかにしたものである。

 本論文は、全体が7章で構成される。著者の視点は、建築を造る事に関わった大工を始とする各職人達の、仕事への情熱や姿勢、さらに営業というような一種の駆け引きを含む、様々な活動があった、ことに注目しており、これらの大工、職人達が日常にいかに仕事を進めていたのか、人間味あふれる大工像を描くことが目標であるという。

 第一章は、「京の大工「三上吉兵衛」の事績と近代化への対応」である。近世以来の大工であった京の大工「三上吉兵衛」家は、近代に入ると、様々な活動を新たに起こし対応した。幕末から明治・大正にかけて活躍するのは、四代目(吉右衛門)と、五代目(伊之助)である。特に吉右衛門は、明治13年(1880)頃に「京都府下大工組合會社」の設立に関わり、大工を結集して「組合」の名の元に共同請負を行うなど、旧態からの転換を図り近代的な組織作りを目指した。京都における建設業の発展と近代化を積極的に推進した中心人物として、重要な役割を果たした。

 第二章は、「西教寺本堂造営と江州坂本大工「中嶋次郎左衛門」の仕事」である。大工中嶋次郎左右衛門は、享保15年(1730)12月に中井役所へ西教寺本堂の修理願を出した。修理という者の、実は新築再建であって、同時代の願と実態の乖離が伺われる。西教寺本堂の解体修理においては、大工の出面を記した板が発見されて、大工らの仕事の実態の一部が明らかになった。

 第三章は、「丹後地方における大工の活動と宮津葛屋町の大工達」である。史料は主として棟札を用い、丹後地方において活動した大工の出身地と、中心となった富田氏の宮津における集住形態を明らかにした。

 第四章は、「宮津の大工「富田」氏の活動とその意義」である。当地方でもっとも多くの仕事をこなした富田氏の活動を追跡した。主として棟札を史料とする。近世後期においは、プロデユーサーもしくは総合請負者としての性格さえ色濃くもったことが明らかにされた。

 第五章は、「智恩寺山門再建と大工の就労状況」である。京都府下宮津市の智恩寺山門再建の出面板を主とした史料とする。これには、宝暦12年(1762)9月から明和4年9月の上棟まで60ヶ月に亙る大工の就労状況が記録されている。大工の就業実態の克明に判る史料である。多数の大工が関わったが、本棟梁の就労工数が最も多く、しかも長期間連続して就労した。相棟梁は、数人の助工と共に中核となって良く本棟梁を補佐していた。

 第六章は、「田辺藩における大工の活動状況と構成」である。丹後国田辺城下居住の大工達の活動状況の分析を行っている。当時の町大工は67人で、技量によって上・中・下の3段階に分けられていた。8割強が「上」大工であり、「中」「下」と書かれた大工は修業中の大工と解釈される。大工の3割弱が引土町に集住しており、大工町の様相を示していた。

 第七章は、「田辺藩における藩士の住居とその仕様」である。瀬尾家に伝来する嘉永5年(1852)の史料に、藩士住居の図がある。そこにおける大工の居住の実態を明らかにした。大きさは、35.25坪の「中并御屋舗」から御徒士の住む8坪の「二間御長家」までで、地位によって規模や仕様が定められていた。同時に書き込みにより、以下のような実態が知られる 木材について、貫・垂木・板以外は殆ど丸太として長さや末口径が表示され、そこから木取りしたことが知られる。建具や金物及び瓦・石材・雑材料など各用材の寸法や数量等も書かれている。建築各部の歩掛りも記され、屋根材の違いによる坪当たりの大工工数は、草葺き家は7.5人、板葺き家は8人、瓦葺きの家は8.5人であった。天井張り手間は八畳当たりの人工数で記され、敷鴨居の製作手間や建具の種別による人工数等も知ることができる。貫や垂木・敷居等の大きさや等級による値段の記述も見られ、田辺城下では規格寸法の材木がある程度流通していたことが想定される。

 本論文は、従来近世の大工の活動が、中井役所など公儀の仕事を中心に研究されてきたのに対し、地方における実態を明かにした事に大きな特徴がある。史料としては、棟札、解体修理などで発見された出面板など、現地でなくては採取できない、しかも建築史特有の情報を得ることの出来るものを大きく使用していることに特徴がある。特に現場での就労実態が克明に判明する新出資料を丁寧に分析して、現場での大工、諸職人の活動実態を明らかにしている点は特筆される。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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