学位論文要旨



No 216157
著者(漢字) 清水,重敦
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,シゲアツ
標題(和) 日本近代における建築保存概念の生成に関する研究
標題(洋)
報告番号 216157
報告番号 乙16157
学位授与日 2005.01.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16157号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 木下,直之
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本近代における建築保存概念生成の過程とその意味を論じるものである。

 日本における歴史的建造物の保存は、今日、拡大の一途を辿りながらも、未だそこにまとわりつく閉塞感がぬぐい去られずにいる。こうした状況に思想的根拠を与えつつ、呪縛ともなっているのが、保存に関する歴史叙述である。保存の現状説明のために編まれた通史は、その専門性の深化の過程を詳細に描き出しているものの、逆にそれが保存の分野を閉じた領域として認識させてしまう元凶ともなっている。新たな視点での保存の歴史の再読が急務といえる。

 歴史の中の建築保存は、必ずしも「日本」あるいは「文化財」に閉じこめられていたものではなかった。その誕生期である19世紀には世界との同時代性を強く有しており、またその経験は、東アジアにおける伝統と西洋との邂逅と融合の典型例と位置付けることもできる。そして、近代建築史の文脈からすれば、保存概念の生まれる過程とは、過去認識の構造的変化に他ならず、そこには近代の問題のみならず近世との関係も見出しうるはずである。

 以上を踏まえて、本論文は、日本近代における建築保存概念の生成過程を、第一に日本近世における過去認識からの継承と転換、第二に建築概念の定着過程、そして第三に世界との同時代性に留意しながら考察し、建築保存理解の新たな礎を得ることを目的とする。研究の主要な対象時期は明治時代とし、必要に応じて近世及び大正以降に触れていく。

 この問題関心に近い研究としては、近代の建造物保存・修理史、明治期の古社寺保存、近代建築史における伝統解釈の問題があるが、本論文は、「建築保存概念生成史」というアプローチにより、こうした諸研究に対して横断的な切り口を用意する。

 論文は3部構成とし、その前後に序論と結論を設ける。

 序論では研究の目的と方法を述べ、加えて保存・修理をめぐることばの変遷を論じる。近年、建造物保存の国際化にともなって、保存用語のターミノロジーについての関心が高まりつつあるが、日本語としての語の歴史については等閑視されたままである。そこで、保存用語の近世から近代への変遷過程を追った。

 第I部では、建築における過去認識の問題を考えていく。保存概念が近代特有の過去認識の一形態であるとしても、その形成には近世以来の建造物継承の手法、考え方と過去認識のありようが刻み込まれているはずである。

 第1章では、近世から近代に至る建築をめぐる過去認識とその変遷を扱う。近世においては、工匠たちの抱く過去認識と復古意識等の強力な過去意識との間に、国家の枠組みを巡る認識の差異が見られた。近代に流れ込んでいったそれら複数の意識の相は、ナショナリズム下に各々の文脈で転換され、新たな意味を付与されていったが、とりわけこの分析によって、保存の概念が、それら転換された諸意識が吸い寄せられるようにして生まれ出たものであるとの見通しが得られた。

 第2章は、寺社建築とそれを支える建築生産組織が近世から近代へと転換する具体的な過程を、奈良の大工集団春日座の持続と終焉の過程からみていくものである。春日社式年造替と興福寺造営を支えたこの大工集団は、中世に形成された組織を近世を通じて守り続けた。明治に至り、式年造替の終焉、興福寺の廃仏毀釈、大工組織の解体が同時に進行したが、その一方で各々は新たに勃興する保存概念や洋風建築へと巧妙に転換されていった様子がうかがえた。

 第II部では、建築保存概念の誕生過程を扱う。そこには明治13年の古社寺保存金制度から明治30年の古社寺保存法の成立へという制度史の展開のみならず、建築という概念が日本に定着していく過程も織り込まれているので、「建築」と「保存」の同時並行的な定着過程を考察することとなる。

 第1章では、歴史的建造物の写真を扱う。明治初年から撮影され始めた歴史的建造物の写真は、保存への意識が込められることが多かった。30年代までの写真を比較すると、その視覚が名所及び境内空間の一要素としての建造物という視覚から、建造物単体としての写真、すなわち建築写真へと変化していく様が浮かび上がる。その画期には、保存への意識あるいは古社寺保存事業における写真家と建築家との出会いがあり、写真、保存、建築概念の三者の相互補完関係がうかがえる。

 第2章では、古社寺保存金制度の特質を、制度の運用レベルに踏み込んで検討する。組織体としての古社寺を保存するものとされるこの制度の運用の実態分析から、建造物そのものを保存しようとする意図も見えた。これは、この制度の制定の背景に、内務省における社寺局と博物局のごとき、保存を巡る異質な複数の思惑の絡み合いがあったことに由来しよう。この保存対象のゆらぎこそ、この時期における古社寺保存という枠組みの独自の位置を示すものである。

 第3章では、古社寺保存法の一方の源である「美術保存」に建築を組み込んでいく過程に貢献した伊東忠太の活動を、伊東の両親宛書簡等により再検討する。ここでは、伊東による古社寺保存への主張が、むしろ伊東の主要課題であった日本建築術研究を遂行するための方便だったことがうかがえた。だが、古社寺保存法の成立という形で保存への主張が実を結ぶと、逆に日本建築術研究は国家の枠組みへと閉じこめられることとなっていった。

 第4章では、古社寺保存法制定後における古社寺保存の社会的意義を、指定制度の具体的な運用状況を通して考えていく。特別保護建造物指定の順序を分析すると、明治40年頃までの間に、桃山建築の指定が急速に進められるなど、時代順に指定を進めるという原則から外れた傾向が確認された。その背後には、伝統像を国家ないし地域のイメージ形成に利用しようとする政治性が見え隠れしている。このことは、古社寺保存法の最初期には未だ保存概念の枠組みが流動的であったことを顕わにしている。

 第III部では、明治30年に制定された古社寺保存法による古社寺保存事業を、古社寺修理の実態を通して考察し、保存の建築的意味を問う。

 第1章、第2章は、建造物修理の歴史を通して、明治期の古社寺修理を分析する上での問題をあぶり出すものである。そのためにまず日本の建造物修理史を概観し、さらに実測図の作成という修理における具体的な一事象を取り上げる。修理の内容及び理論からいくつかに時期区分ができる中で、とりわけ、昭和初期以降をそれ以前から区分する特質を、実測図の変化から読み取ることができる。昭和初年における破損図の廃止がそれで、経年による歪みを無意味なものとみなすこの態度は、伝統的修理手法に西洋理論、技術を接ぎ木した明治の生硬な段階から、それを咀嚼した上で、建造物を構造システムとしてとらえて修理をおこなう日本独自の手法へと変化したことを示している。

 第3章、第4章は、古社寺修理の開拓者である奈良県技師関野貞と京都府技師松室重光の古社寺保存活動を、両人の建築観と絡めながら詳細にたどっていく。関野は、建築一般に開かれた場として古社寺保存事業を開拓していった。その業績は、建造物調査方法の開拓、解体修理の手法の導入、古社寺修理を人材育成の場としたこと、において高く評価できる。わけても元来伝統的な手法である解体修理を、関野は復原等の手法や近代技術を建造物修理に挿入する際の変換装置のごとく位置付けた。一方、関野に一歩遅れて参入した松室については、古社寺の建造物を、境内空間及び都市の風致としてとらえたところにその業績の特質が認められた。新築設計から古社寺修理に至るまで一貫していたその思考態度は、不幸にもその後継承・展開される機会を失ったが、初期古社寺保存が持ち得た可能性の一端をよく示している。

 第5章では、古社寺修理に関わる技術者の問題を扱う。ここでは、監督技師を務めた建築家のみならず、その下で修理の実務を支えていた多数の大工出身の技術者たちを含めた系譜を追った。明治初期の京都で複数実施された大規模社寺造営は全国からすぐれた人材を集めたが、木子清敬と伊東が繋ぎ役となって多数の技術者が古社寺修理の場へと移り、さながら京都における諸造営の続章のごとき様相を見せた。また、とりわけ明治40年代までの技術者は、その後、内務省神社造営組織をはじめ、新築設計に活動の場を移していく傾向が見られた。すなわち、古社寺修理の場は、日本建築の様式修練の場となったわけである。明治を通してみたとき、それは堂宮系の和風建築の展開過程における分水嶺として位置付くことになる。

 第6章では、建造物修理の理論形成過程を論じる。古社寺修理開始直後の明治34年に起こった復原論争には、19世紀後半の欧州における反修復運動と類似の論調が見られたが、修理担当の建築家たちはこの批判をよそにむしろ復原を正当化する理論を構築していった。その建築家たちの理論には、欧州への言及が多々見られるが、それらは1860,70年代の議論を参照したもので、なおかつその議論の核心である反修復運動の真意は受容されなかった。日本では欧州19世紀のごとく「様式的修復」を乗り越えるのではなく、むしろそれを伝統的手法の上に定着させていく道が歩まれたのだった。

 以上の各論を踏まえて、建築保存概念の生成の過程を通時的に再整理し、本論文の結論とする。日本近代における建築保存概念は、「日本」「建築」「保存」という枠組みを並行して発生させながら形をなしていった。それは、形式についての考え方や解体修理という手法における巧妙な操作により、近世の過去認識及び建造物継承の方法を、近代の概念、手法へと転換して成立していった。すなわち、近世以来の建造物と過去への認識のパラフレーズとして、それは生まれ、機能していったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「日本近代における建築保存概念の生成に関する研究」と題されたもので、明治期において、建築の保存が開始された時期を対象に、「建築保存」という概念がいかにして形成され、いかに実施されたのか、概念と実際を相互の関係を検討したものである。

 論文は三部で構成されている。第I部は「過去認識と建築」と題され、日本の近世と近代における建築の分野において、過去の認識の実態を検討する。第II部は「建築保存概念の誕生」と題され、明治初期から30年頃までの状況を検討する。第III部は「古社寺修理」と題され、保存の重要な部分である修理の実施状況について、検討する。

 第I部では、建築における過去認識を検討する。第1章では、近世から近代に至る建築をめぐる過去認識がテーマである。近世においては、工匠たちの抱く過去認識と復古意識等の強力な過去意識との間に、国家の枠組みを巡る認識の差異が見られた。近代に流れ込んでいったそれら複数の意識の相は、近代国家としてのナショナリズムのもとに幾つかの文脈で転換され、新たな意味を付与されていったことを明らかにした。概念形成史として、本論文の全体を総括する位置を占める。第2章は、建築生産組織が近世から近代へと転換する具体的な過程を、奈良の大工集団春日座の持続と終焉の過程からみている。春日社の式年造替を支えたこの大工集団は、中世に形成された組織を近世を通じて守り続けた。明治に至り、仕事の変質から大工組織が解体されたが、元々の技術、概念が新たに勃興する保存概念や洋風建築へと巧妙に転換されていったことを明らかにした。

 第II部では、建築保存という事業の成立と、それに伴う保存概念の誕生の過程を検討している。第1章では、歴史的建造物の写真を扱う。明治初年から撮影され始めた歴史的建造物の写真は、保存への意識が込められることが多かった。写真が、名所及び境内空間の一要素としての建造物という視覚から、建造物単体としての写真へと変化していくことを明らかにした。その画期には、保存への意識あるいは古社寺保存事業における写真家と建築家との出会いがあり、写真、保存、建築概念の三者の相互補完関係がうかがえる。第2章では、古社寺保存金制度の特質を、制度の運用レベルに踏み込んで検討している。古社寺が保存の対象とされる制度であるが、運用の実態から建造物そのものを保存しようとする意図も伺える。制度の制定の背景に、内務省における社寺局と博物局のごとき、保存を巡る異質な複数の思惑の絡み合いがあったことに由来しよう。この保存対象のゆらぎは、当時期における古社寺保存という枠組みの独自の位置を示す、という。第3章では、古社寺保存法の制定に伴う動きを分析する。「美術保存」に建築を組み込んでいく過程に貢献した伊東忠太の活動を、伊東の両親宛書簡等により再検討する。ここでは、伊東による古社寺保存への主張が、むしろ伊東の主要課題であった日本建築術研究を遂行するための方便だったことがうかがえた。だが、古社寺保存法の成立という形で保存への主張が実を結ぶと、逆に日本建築術研究は国家の枠組みへと閉じこめられることなった、と結論する。第4章では、古社寺保存法制定後における古社寺保存の社会的意義を、指定制度の具体的な運用状況を通して検討した。特別保護建造物指定の順序を分析すると、明治40年頃までの間に、桃山建築の指定が急速に進められるなど、時代順に指定を進めるという原則から外れた傾向が確認された。その背後には、伝統像を国家ないし地域のイメージ形成に利用しようとする政治性が見え隠れする。このことは、古社寺保存法の最初期には未だ保存概念の枠組みが流動的であったことを顕わにしている。

 第III部では、明治30年に制定された古社寺保存法による古社寺保存事業を、古社寺修理の実態を通して考察し、保存の建築的意味を問う。第1章、第2章は、建築修理史を概観するなかで、日本の建造物修理史における図面の問題を検討した。大きな変化は、昭和初年における破損図の廃止であり、経年による歪みを無意味なものとみなすこの態度は、伝統的修理手法に西洋理論、技術を接ぎ木した明治の生硬な段階から、それを咀嚼した上で、建造物を構造システムとしてとらえて修理をおこなう日本独自の手法へと変化したことを明らかにした。第3章、第4章は、古社寺修理の開拓者である奈良県技師関野貞と京都府技師松室重光の古社寺保存活動をたどる。両者の業績は、建造物調査方法の開拓、解体修理の手法の導入、古社寺修理を人材育成の場としたこと、において高く評価できる、とする。特に、本来伝統的な手法である解体修理を、関野は復原等の手法や近代技術を建造物修理に挿入する際の変換装置のごとく位置付けた。一方、松室は、古社寺の建造物を、境内空間及び都市の風致としてとらえたところにその業績の特質がある、とする。第5章では、古社寺修理に関わる技術者の問題を扱う。監督技師を務めた建築家と同時に、修理の実務を支えていた多数の大工出身の技術者たちの事跡を明らかにした。明治初期の京都で実施された大規模社寺造営は全国から人材を集めたが、その後、多数の技術者が古社寺修理の場へと移り活躍した。とりわけ明治40年代までの技術者は、その後、内務省神社造営組織をはじめ、新築設計に活動の場を移していく傾向が見られた。古社寺修理の場が、日本建築の様式修練の場となっていたことを明らかにした。第6章では、建造物修理の理論形成過程を論じている。古社寺修理開始直後の明治34年に起こった復原論争には、19世紀後半の欧州における反修復運動と類似の論調が見られたが、修理担当の建築家たちはこの批判をよそにむしろ復原を正当化する理論を構築していった。その建築家たちの理論には、欧州への言及が多々見られるが、それらは1860,70年代の議論を参照したもので、なおかつその議論の核心である反修復運動の真意は受容されなかった。日本では欧州19世紀のごとく「様式的修復」を乗り越えるのではなく、むしろそれを伝統的手法の上に定着させたものだった、とする。

 本論文は、日本における文化財建築の修理を主たる対象としながら、伝統的な建築がどのように認識されていったのか、その制度の成立過程、および思想の問題を、取り扱ったものである。文化財保護という近代的な法制度と、それを成立させた背景、それを取り囲む様々な近代化の過程について、実証的な方法を用いながら、同時に概念の成立過程をとらえており、明治期における建築の世界全体をとらえる可能性をも示したものと言えよう。著者は、図面、写真などの建築に関わる二次資料を分析することを通しても、それらの概念を発見しており、新しい方法論としても高く評価できる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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