学位論文要旨



No 216161
著者(漢字) 崔,基成
著者(英字)
著者(カナ) チェ,キソン
標題(和) ジョン・ロールズの「正義に基づく良き秩序論」に関する研究
標題(洋)
報告番号 216161
報告番号 乙16161
学位授与日 2005.01.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16161号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 教授 森,政稔
 東京大学 教授 松原,隆一郎
 東京大学 教授 井上,達夫
 日本大学 教授 長尾,龍一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、20世紀後半の代表的な思想家の一人であるアメリカの政治哲学者ジョン・ロールズ(John Rawls:1921-2002)の「正義に基づく良き秩序論」に関する研究である。ロールズは正義を社会秩序の基本原理と把握しつつ、「良く秩序づけられた社会」(a well-ordered society)を構想している。ロールズによれば、「良く秩序づけられた社会」であるかどうかは、当該する社会が「公正な社会」かどうかということによって、また、公正さを持続的に維持する「安定性」によって判断される。それゆえロールズは、公正としての正義にもとづいて適正に安定性が保障されるとき、「良く秩序づけられた社会」が実現できると想定したのである。こうした「正義に基づく良き秩序」論は、単なる一時的な解決と異なって、長期的な視点に立って安定した政治的秩序の構築可能性を追求しつつ、人類の共存を模索した、ロールズの思想におけるもっとも注目に値するテーマといえる。

 然るに、このテーマは、ロールズの全生涯を通じて重要な関心事であったにもかかわらず、ロールズ研究者の間においてさえ、これまであまり議論されることがほとんどなかった。あるとしても、たとえばB・バリーやS・オーキンなどに見られるように、断片的にしか論じてこなかったのである。つまり、従来のロールズ研究者は、前期ロールズの思想に比して、後期ロールズの政治思想、とりわけ「政治的な正義観(正義の政治的構想)」に対して不当な評価しか与えておらず、その意義や可能性について正しく評価することはなかった。その結果、従来のロールズ研究においては、正義論における「安定性」の問題を、「公正としての正義」の問題と同等に重視したロールズの意図や思想の一貫性を見いだすことはできなかったのである。

 しかし、最近、S・フリーマンが指摘しているように、この問題はロールズの正義の理論を理解する上で欠かせないもっとも重要なテーマである。それゆえ、本論文の考察を通して筆者は、ロールズの「正義論における安定性の問題」に焦点を当てつつ、正義に基づく良き秩序論がロールズ政治思想の一貫した中心テーマであることを確認し、その意義や可能性や限界を追究した。

 したがって本論文は、第一に、ロールズの正義に基づく良き秩序論が「公正と安定性という正義の二つの主題」によって密接に結びついていることを確認し、それが前期ロールズから後期ロールズに至るまで一貫していることの論証を企てている。それゆえ本論文は、第二に、前期ロールズと後期ロールズの方法論が断絶しているという批判に対する一定の反論を加えると共に、正義論における「安定性」の問題が正義論における「公正」の問題の副次的な要素にすぎないという批判にたいして一定の反論を提示するものとなっている。

 さて、本論文の主な論点をまとめるならば、次のとおりである。

 第一章においては、まず、ロールズが「公正としての正義」観を提示したとき、その目的が「民主的な社会のための道徳的基礎」を提供するものであったことを確認している。このことは、ロールズが正義を社会秩序の基本原理と理解していることを含意する。この際、ロールズの思想の背景にある人間観は、前期の「合理的(rational)人間」観から後期の「道理的(reasonable)人間」観への移行によって特徴づけられるが、ロールズのこうした移行は、近代的意味における合理的理性の際限なき欲望を、道理的理性を以って制御することによって、社会秩序の安定した基礎を構築しようとした点にある。そこで、実践的方法論として、包括的諸教説の真理把握の困難性を指摘しつつロールズは、前期の「カント(道徳)的構成主義」から「政治的構築主義」へと移行したが、従来の研究者の間においては、ロールズのこうした移行に対して、哲学的普遍主義から歴史的文脈主義への後退であるという批判が多かった。しかし、ロールズの主な関心が方法論の問題に尽きるのではなく、安定した社会秩序にあったことを想起するならば、政治的構築主義へ移行した後期ロールズの意図は十分説得性を持つことが指摘される。

 第二章においては、「いかにして社会秩序は可能か」というホップス的問題が、ロールズの安定性の問題と密接に関連していることを確認しつつ、ロールズの場合、それが正義の概念を必然的に要求していることやそれが果たす固有の役割について解明している。この問題の重要性は、異なった諸価値や信念、利害関係に基づいて行動しようとするならば、それぞれの諸価値や信念、利害関係が必然的に衝突しかねないことや、今日の多元主義の事実が突きつける秩序の正統性の危機が社会の安定性を損なうばかりではなく、われわれの生活そのものを根本から歪めてしまう可能性があるという点からも十分理解できる。それゆえ、ホッブズ的問題を解決し、秩序ある社会を構築するためには、社会の諸構成員の合意によって決められたルールが尊重されなければならない。こうした意味で、秩序の問題は「もう一つの正義の主題」であり、秩序の正統性の危機の問題を解決することがロールズの政治哲学の重要な課題となる。

 このようなロールズの政治哲学は、自己利益や集団利益の有害な影響を緩和する政治制度を構築するための根本原理(にもとづく憲法的秩序)を探すものでもあった。それゆえロールズは、多様な諸価値や信念の平和的かつ持続的な共存を、「包括的かつリーズナブルではあるが、相互に両立不可能な諸教説の共存の問題」という仕方で提出したのである。ロールズによれば、秩序ある社会を真に実現しうる方法は、だれでも受け容れ可能な政治体制を作ることであり、この条件が満たされることによって社会の諸構成員の間の共生のための条件が整うことになる。もしこの条件が欠けるならば、一時的妥協による平和が実現され、それがどれほど長期間続いたとしても、安定した社会の秩序維持は望みにくい。たとえば、かつてハンス・ケルゼンが「絶対的価値の不可知性」を説き、諸々の政治的イデオロギーが相互的に自己を相対化することによって、妥協による地上的秩序の構築を唱えたのも、そうした理由からである。したがって重要なのは、公共道徳の諸原理についての真実を発見することではなく、様々な道徳、宗教、その他の包括的諸教説に共通にかかわるバランスのとれた合意を見出すことである。このことこそ、ロールズの「重なり合う合意」(overlapping consensus)と呼ばれるものであり、これは、後期ロールズの「政治的な正義観=正義の政治的構想(political conception of justice)」の核心を成すものである。

 ロールズによれば、「重なり合う合意」は、秩序ある社会という観念をより現実的なものにするため導入された概念であり、理にかなった多元主義の事実を含む民主的社会の歴史的、社会的諸条件へ適用するための概念である。ここで注目すべきは、ハーバーマスとの論争にも見られるように、「重なり合う合意」をとりあげる際、ロールズが相対主義に陥ることもなく、多元性の事実を否定し社会正義の基礎づけに際してある単一の包括的な教説の支配を貫徹することによって社会の統一性と安定性を保とうとする独断論や、安定した公正な社会の可能性そのものを疑う懐疑論の両方を退けることに成功している点である。こうした観点で、ロールズはまた、包括的な功利主義を批判すると共に包括的な自由主義をも批判したのである。

 その際ロールズは、「公共的理性」の要請、すなわち民主主義体制の諸価値と理想を明示化するような正義の構想と、それにもとづく憲法が達成すべき諸目標と、それが尊重しなければならない制限とを特定しつつ、常識のなかに埋め込まれていると人びとが期待しうるような合意の基礎を発見し、それを定式化することを提案している。こうしてロールズの政治的正義観は、当事者たちの同意による正義の原理を導出し、それに社会の諸構成員がお互いに従うことを要求する。この際の公共的理性の観念は、市民が「公のフォーラム」で政治的支持活動に携わる場合にも、政党の構成員や選挙での候補者やそれを支援する他の集団にも当てはまる。ロールズのこうした政治的な正義観は公共的な政治文化に内在しているいくつかの根本概念によって示されており、それは「憲法上の本質的事項」として具体的に示される。

 確かに、このような「公共的理性」と「重なり合う合意」が実際にうまく機能しうるかどうかには若干の問題が残る。しかし、包括的諸教説がぶつかり合わずに共存し合う安定した社会秩序のあり方を示した点は、評価されなければならない。

 第三章では、この点をさらに発展させた晩年のロールズの政治思想が考察される。まず、ロールズが、多人種・多民族・多文化によって特徴づけられるアメリカ社会における様々な対立や葛藤がその背景に、異なる道徳的および政治的コミットメントしている人々の双方が考慮に入れられるような政治的合意の条件を明瞭化しようとした点が浮き彫りにされる。この際、重要なのは「多元社会におけるリベラルな民主主義」の実現可能性であり、ロールズが正義に基づく「良く秩序づけられた社会」の理想的モデルとして立憲的民主体制を提唱した点である。そうした多元的価値によって特徴付けられている現代社会を生きる我々は、リベラルな民主主義をめぐる規範的問題について論議する際、つねにその社会の歴史、文化的コンテクストを考慮に入れなければならない。このことは、ロールズが現代社会の多元的事実を現代民主主義の公共文化の永続的特徴と把握しつつ、多様な諸価値や信念の平和的かつ持続的共存を模索したことと関連している。このように、ロールズは現に存在する諸対立・衝突に対する理にかなった解決を見出すこと、すなわち相争う様々な利害主張の間で裁定を下すためのやり方を定式化し、それを一つの実践的慣行の構造のなかで確立しようとしたのである。

 この際、ロールズがもっとも重視したのが、寛容の原理である。ロールズによれば、国際社会における良く秩序づけられた社会は、寛容の原理を実践し万民の法に従うことによって実現されるという。ところが、従来の支配的思想であった「自律基底的自由主義」はもちろん、後期ロールズが強調する「寛容志向的リベラリズム」でさえも、マイノリティ集団における個人としての人権や集団としての権利が十分に保障されているとは言えず、この点にロールズの限界が現れている。とはいえ、寛容の原理を国際社会に拡大適用した「万民の法」の構想に見られるように、ロールズの政治的な正義観は多元社会の諸紛争を解決し平和を模索する知的営みであり、公正な国際秩序の可能性と平和体制の構築を模索した点は評価されなければならない。ロールズの万民の法の提唱は、諸国民によって成り立つ国際社会における平和を保障し、安定したリベラルな政治システムをもつ社会と、リベラルではないが「まともな(decent)」社会の間の、国際社会における対立・闘争を避けつつ、人類共存の可能性を模索したものとして将来に受け継がれていくであろう。

 以上の本論文の考察から、ロールズが生涯を通じて「正義にもとづく良く秩序づけられた社会」を模索し続けたこと、そしてその延長線上に、後期ロールズが、多元社会における様々な対立や葛藤を解消するため、「理にかなった合意」に基づく「良く秩序づけられた社会」を提示したことは明確である。ロールズの政治思想は、「正義に基づく良き秩序論」を焦点として、前期から後期、晩年に至るまで一貫性を持って繋がっており、ロールズのかかる「正義に基づく良き秩序論」は、国内社会の問題の解決するための有効な方法であるのみならず、様々な価値観や利害関係によって分断されている国際社会の諸問題を解決するためのもっとも有効な方法の一つとして理解されなければならないのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、20世紀後半の政治哲学・法哲学に大きな影響を与えたジョン・ロールズの思想全般を、「良き秩序論」という観点に着目しつつ、体系的に考察・論考した労作である。これまで、ロールズの1971年の大著『正義論(A Theory of Justice)』と、1993年刊行の『政治的リベラリズム(Political Liberalism)』や晩年の1999年に出版された『万民の法(Law of Peoples)』との関連をめぐって、わが国でも批判的な考察がなされてきた。たとえば、法哲学者の井上達夫は、『政治的リベラリズム』以降の後期ロールズを、前期の『正義論』からの大きな後退とみなし、厳しく批判している(井上達夫『他者への自由一公共性の哲学としてのリベラリズム』創文社、1999など)。それに対し、政治哲学者の渡辺幹雄は、『政治的リベラリズム』を、『正義論』第三部の修正版にすぎないとみなす見解を提示している(渡辺幹雄『ロールズ正義論の行方一その全体系の批判的考察』(増補新装版、春秋社、2000)。本論文は、このような先行研究と対峙すべく、前期ロールズと後期ロールズの間に「良き秩序」や「安定性」への関心という点で連続性がみられるとした上で、『政治的リベラリズム』以降のロールズの思想を、前期の『正義論』では十分に論じられなかった「正義に基づいて良く秩序化された社会(well-ordered society)」論への重心移動とみなし、それを詳細に考察した上で、一定の評価を下し、残された課題をも指摘した点に、大きな特徴を持っている。

 まず序章で著者は、1971年の『正義論』には「公正(fairness)」と「安定牲(stability)」という二つの別次元の問題が含まれていたにもかかわらず、ロールズがそれらを区別せずに、前者のみを重んじ、後者をあまり論じなかったことを強調する。その結果、功利主義への対案として提示された『正義論』が、一つの包括的な道徳哲学のような印象を与えてしまい、そのことへの自己批判からロールズは、「相互に両立不可能な諸教説が共存しうるような安定した良き社会」のための『政治的リベラリズム』へ、主要テーマの重心移動を図ったのである。著者によれば、諸宗教に典型的に見られるような「包括的な教義」は、互いに相容れない部分をもつが故に、もしそれが相克すれば社会の深刻な不安定をもたらしかねない。そうした深刻な不安定状態に陥らないために、社会の様々な構成員によって受け入れ可能な「正義の政治的構想」を、国内的レベルと国際的レベルの双方で提示したのが、後期ロールズの政治思想の核心なのである。

 このような基本的視座の下、著者は以下の章で、ロールズの政治思想の特質を浮き彫りにしつつ、その意義・可能性・限界を定式化していく。

 第一章では、『正義論』以降のロールズの「方法論」と「人間観」が、他の政治思想家たちとの対比の中で、詳細に特徴付けられる。

 まず、包括的な道徳哲学の色彩を持った『正義論』から、『政治的リベラリズム』への移行は、ロールズの方法論的転換を伴っていた。それは、ロールズ自身の言葉を借りれば、カント的な「道徳的構築(構成〉主義(moral constructivism)」から「政治的構築(構成)主義(political constructivism)」への転換である。『正義論』でのロールズは、定言命法的な手続きによって道徳を構築しようとしたカントに似た形で、諸個人の自由と平等を構想していた。それに対し、『政治的リベラリズム』でのロールズは、カント的な道徳論がもっていた包括的・形而上学的な方法論と訣別し、「政治的な手続き」論として政治的諸価値を構築する方法論を提示した。政治的構築主義とは、「道徳的諸判断の真理性と妥当性」に関する包括的教説にコミットすることなしに、自由かつ平等な市民が共有し合える「政治的諸価値」の構築をめざす方法である。

 しかし、このような政治的構築主義は、何らかの人間観に立脚せずには遂行しえない。ロールズは、この点、正義の感覚と善の思考という二つの能力をもった道徳的人格を要請している。これはカントが考えた高次な道徳的人格ではなく、良く秩序付けられた社会を構築するために、人間に備わっている最低限の能力を持ち、「合理的(rational)」というよりは、「道理にかなった(reasonable)」行為能力を備えた市民とみなされる。周知のごとく、サンデルに代表されるコミュニタリアンがロールズの政治思想に横たわる「負荷なき自己」という問題を批判したが、ロールズのこうした人間観は、その批判を幾分なりとも免れていると著者はみなす。特にロールズが「合理的人間」の代わりに、「真理概念を問わない仕方で、理にかなった諸教説間の重なり合う合意を可能とする」ような「リーズナブル」な人間観を政治的構築主義の基礎として呈示したことは、重要である。著者は、こうしたロールズの人間観を、利己的な個人主義を脱却して他者の立場を尊重する人間観と評価しつつも、他方で、そのような道徳的人格を持たない人間が多数存在するという事実をロールズは十分に考慮していない点をも指摘している。

 続く第二章は、ロールズの「あるべき社会観」と「政治的な正義観=正義の政治的構想(political conception of justice)」が詳細に論じられる。

 社会契約論の伝統に立つロールズは、ホッブズと異なり、上述した人間観に立脚しつつ「相互互恵性の原理(principle of reciprocity)」に基づいて「あるべき社会」の姿を構想した。著者によれば、その際、後期ロールズが最も重視したのは「社会の安定性」の問題であり、それは正義の原理を人々が受け入れることによって成り立つ。ロールズの場合、正義の原理は人々に平等な自由を保障することであるから、それが人々を不当に拘束することはあり得ない。こうした正義の原理を担保するために、後期ロールズがまず持ち出すのは、「公共的理性(public reason)」という観念である。公共的理性とは、市民が公的なフォーラム(official forum)で政治活動に携わる場合や、憲法上の本質的事柄や基本的正義の諸問題が争点になる場合の選挙の投票などで発揮される理性や、陪審員たよる裁判所の判決などに現れる理性を意味する。しかし、こうした意味での公共的理性は立憲的民主主義の基礎となるが、制約されたものでもあるが故に、ロールズはさらに、互いに異なる教説を持つ人々の間での「重なり合う合意(overlapping consensus)」という観念を導入して、「正義の政治的構想」を呈示した。

 「重なり合う合意」とは、市民達が持つ様々な包括的見解に関係なく市民によって支持されるような政治的合意である。著者によれば、それは、自分と異なるアイデンティティ、価値観、世界観、人生観をもつ他人への理解を示すと同時に、自分のアイデンティティを他者から理解してもらうための、したがってまた、社会における対立や葛藤を解消し和解を模索するための根本装置である。包括的教説の多元性を保った上での、暫定協定ではないコンセンサス=重なり合う合意こそが、「政治的な正義観=正義の政治的構想」の中核を成し、それが正義に基づく良き社会秩序を可能にすると考えられなければならない。

 著者は、このように後期ロールズの「政治的リベラリズム」のエキスを浮き彫りにしながら、重なり合う「合意内容の真理」の妥当性要求を放棄している点、包括的諸教説の間の対立や闘争を回避している点、重なり合う合意の正統性根拠を曖昧にしている点などを、ロールズのウィーク・ポイントとして指摘する。しかしそうした留保をつけながらも、著者はここで、ロールズのこの構想が、理にかなった多元主義という事実によって特徴づけられる民主社会に適合した構想であると考え、肯定的な評価を下す。

 その上で著者は、第三章で、ロールズにおける「良く秩序づけられた社会」論の最終目標を、国内レベルでの立憲民主主義体制の形成・維持と、国際社会レベルでの諸国民の合意に基づく平和秩序の構築とみなし、それが十分に説得力をもつかどうかを検討する。

 著者によれば、ロールズは後期の「政治的リベラリズム」によって、リベラリズムの重心を「自律」の原理から「寛容」の原理へとシフトさせた。「リーズナブルなだけでなく、自由かつ平等な諸市民に受け入れられ、かれらに訴えることを目標」としている彼の政治的リベラリズムは、ともすれば、「文明対野蛮」「先進対後進」などの二項対立に陥りがちな自律志向的リベラリズムから距離を置き、寛容志向的リベラリズムに近づいた。しかし、著者はそれでも、国内の民族的マイノリティにおける個人の権利などを考慮する上で、ロールズの構想はまだ不十分な段階に留まっているとみなす。

 さて、晩年のロールズの著作『万民(諸国民)の法』は、リベラルな社会と、リベラルではないが「まともな(decent)」社会によって構成される国際社会での「良き秩序」を論じた書物である。リベラルではないがまともな社会とは、「秩序ある階層社会(well-ordered hierarchical society)」であり、ロールズは、そのような社会とも共存しうる国際秩序を、「正義の共通善的な考え方」としての「万民の法」によって呈示したのである。著者は、こうしたロールズの国際秩序論を、政治的リベラリズムの延長上にあるものとみなし、従来の国際法思想より一歩進んだものとして評価する。

 これらの考察を踏まえつつ、最終章で著者は、ロールズの政治哲学がもちうる展望についての総括を企てる。どのようにして安定した良き秩序を形成し維持しうるかという根本問題と取り組んだロールズの政治哲学は、国内的にはマイノリティの権利問題などについて不十分な点が見られるものの、「多中心的で多元的な良き社会秩序」という考え方を取り入れることによって、その不十分さを克服できるだけのポテンシャルをもつと著者はみなす。そして、コスモポリタン的な観点とコミュニタリアン的な観点め間に位置づけられるロールズの晩年の国際政治哲学は、ロールズが列挙しているよりももっと豊かな人権の概念を取り入れることによって、発展させることができると著者は結論づける。

 以上のように、本論文はロールズの後期の政治思想を、前期からの後退ではなく、「公正」から「安定性」への重心移動として捉え、それを的確に評価すると共に、限界やさらなる課題を浮き彫りにすることに成功した。重要な二次文献を踏まえてなされたこの試みは、我が国ではもちろん、英語圏でもあまりなされなかった試みとして高い評価に値しよう。実際、21世紀の政治のあり方を構想する上で「安定性」や「良き秩序」が極めて重要な課題となっていることは、昨今の状況がよく示すとおりである。ロールズの前期の思想が脚光を浴び続けられているのに比して、後期ロールズの意義が認識されることが少ない中、後期ロールズの政治思想がもつポテンシャルを引き出した本論文の意義は大きい。本論文が、今後、ロールズを論じる上で、また内外の政治の安定性を論じる上で、参照しなければならない重要な文献となることは、疑い得ないように思われる。

 とはいえ、本論文には次のような問題も残る。それは、前期ロールズの主要テーマであった「公正」と、本論文が追求した後期ロールズの「安定性」とが真に両立可能なのかどうかについての論考を著者が避けていることである。これは、著者が前期ロールズにおいて重視された格差原理(分配的正義)を後期ロールズがどのように考えていたかとも大いに関連する事柄であるが、その問題に立ち入らなかったのは、本論文の限界の一つと言えよう。また、現代の原理主義者のように、包括的教説の信奉者が「重なりある合意」を認めようとしない場合や、まともでない人権弾圧国家が存在する場合などに対して、ロールズの政治哲学が何を言えるかについて、ほとんど論考していないことは、本論文を迫力不足にしている感は否めない。

 このような限界は、しかし、後期ロールズの政治思想を考察した我が国で初めての論文としての意義を損なうものではない。したがって、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する次第である。

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