学位論文要旨



No 216175
著者(漢字) 平岡,尚文
著者(英字)
著者(カナ) ヒラオカ,ナオフミ
標題(和) 二硫化モリブデン焼成被膜の潤滑性能向上に関する研究
標題(洋)
報告番号 216175
報告番号 乙16175
学位授与日 2005.02.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16175号
研究科 工学系研究科
専攻 航空宇宙工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩谷,義
 東京大学 教授 藤本,浩司
 東京大学 教授 酒井,信介
 大学評価・学位授与機構 教授 田中,正人
 産総研 総活研究員 加藤,孝久
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は代表的固体潤滑剤である二硫化モリブデン焼成被膜の潤滑性能向上のため,その寿命メカニズムを解明し,それに基づいて潤滑性能向上のための方策を提示,実施し,改善を実証した研究についてまとめたものである.

 固体潤滑剤は,潤滑油やグリースが使用できない条件,たとえば真空中や高温環境などの特殊環境における潤滑剤として多用される他,フリーメンテナンスを求めて,また周囲の潤滑剤による汚染を避けたい場合などにも使用され,産業上不可欠の潤滑剤となっている.

 固体潤滑剤の中でも二硫化モリブデンは低摩擦を示す材料として広く用いられており,種々の形態で使用される.中でも二硫化モリブデン粉末を樹脂などのバインダで焼結し,厚さ10μm程度の被膜とした二硫化モリブデン焼成被膜は,その適用の容易さから,もっとも一般的に用いられている.しかしながら,二硫化モリブデンはその潤滑性能が使用する雰囲気の影響を強く受けるという欠点を持っており,これがより広い応用を防げる要因となっている.

 二硫化モリブデンの摩擦係数は,乾燥空気中や真空中では百分の一台を示すのに対し,通常湿度の大気中(相対湿度40%以上)では摩擦係数は0.2を超え,寿命も大幅に低下する.これは焼成被膜として用いたときにも同様である.

 また,焼成被膜として用いたときには,バインダの強度があまり大きくないために,高面圧を受けると著しく寿命が短くなるという欠点もある.これは第二の欠点としてあげられる.

 二硫化モリブデン焼成被膜の持つこれらの欠点のうち,まず通常大気中における寿命低下を改善するため,乾燥空気中や真空中に比較して通常大気中で寿命が大きく低下するメカニズムを検討した.そのために二硫化モリブデン焼成被膜を潤滑剤としたすべり軸受試験およびピンオンディスク試験を大気中,真空中で行い,寿命モード等を調べた.実験の結果,被膜寿命は大気中では真空中の数十分の一となり,摩擦係数は大気中では真空中の数倍を示した.しかしながら,寿命モードは大気中,真空中ともに共通して被膜の下地からのはく離であることが明らかとなった.

 摩擦が繰返し加えられた後の被膜はく離であるので,はく離のメカニズムは疲労と考えるのが妥当であり,その場合,被膜寿命と被膜に発生する応力の間に一定の関係が見られるはずである.そこで,その関係を調べるため,各実験条件に対応する条件で被膜内応力の弾性解析を行い,被膜−下地界面に発生する応力の計算値と実験で得た被膜寿命の比較を行った.その結果,被膜−下地界面の面内せん断応力と被膜寿命の関係は,大気中,真空中の区別なくひとつの線上に載り,疲労現象一般に見られるS-N曲線と同様のものが得られることがわかった.したがって,被膜寿命は被膜−下地界面のせん断応力に支配されていると考えることができる.なお,これはすべり軸受試験,ピンオンディスク試験という,接触形態がかなり異なる条件でも共に成り立ったことから,二硫化モリブデン焼成被膜の寿命メカニズムとして,ある程度一般性を持つ結論であるといえる.

 応力解析によると,被膜−下地界面に発生するせん断応力は,摩擦による被膜表面のせん断応力がほぼそのままの大きさを保って被膜−下地界面に達したものである.したがって,被膜寿命は摩擦力に支配されているということができる.このことから,二硫化モリブデン焼成被膜の大気中寿命が真空中に比較して著しく低下するのは,大気中の摩擦係数が真空中に比べ数倍大きくなることに起因すると考えることができる.

 一方,高面圧を与えやすいピンオンディスク試験において,一定以上の荷重を与えた試験において被膜はく離ではない寿命モードが観察された.これは高面圧下で著しく寿命が低下する第二の欠点が現れたものであり,高面圧により被膜が表面あるいは内部から破壊して厚さを減じていく寿命モードを示した.

 以上のように,通常の面圧条件では二硫化モリブデン焼成被膜は下地からのはく離よって寿命となり,寿命の長さは摩擦係数に支配されること,高面圧下では被膜の破壊により早期に寿命になることが示された.これらの知見を基に,二硫化モリブデン焼成被膜の潤滑性能向上のための方策を検討した.

 まず,大気中での寿命を向上させるための方策について述べる.大気中で寿命が低下するのは,大気中の摩擦係数が真空中に比較して大きいためであることから,大気中摩擦係数を低下させる何らかの方策を講じればよい.二硫化モリブデンが大気中で大きな摩擦係数を示すのは,大気中の水分が二硫化モリブデンに吸着するためであることがすでに明らかにされている.したがって,水分の吸着を阻害するような物質を二硫化モリブデンにあらかじめ吸着させることができれば,大気中での摩擦を低下させることができ,その結果大気中の寿命も向上するはずである.そこで,水分吸着阻害物質として陽イオン性界面活性剤を選定し,これを吸着させた二硫化モリブデンを用いて作製した焼成被膜について,ピンオンディスク試験を行って潤滑性能を評価した.

 実験の結果,界面活性剤を用いた被膜は,大気中において界面活性剤を用いない通常の被膜に比較して摩擦係数は20%程度小さく,寿命も大幅に伸びることが示され,この改善手法が有効であることが実証された.

 次に高面圧下での寿命低下に対する方策について述べる.高面圧下では被膜が破壊して寿命になるため,対策としては被膜の強度向上が考えられるが,実際的には困難である.また通常,片当り等による高面圧は,慣らし運転による接触面の摩耗変形により緩和されるが,二硫化モリブデン焼成被膜のような厚さ10μm程度の被膜では摩耗代が不足する.

 そこで,接触面が塑性変形して相手面に倣うことで面圧を緩和する方法を検討した.この目的のためには被膜の下地にアルミ合金などの軟質金属を用いればよいが,一方,被膜を下地に強固に保持するには下地材質は硬くする必要がある.この相反する性質を満たす下地を実現するため,次のような構造を考案した.

 塑性変形を受け持つ軟質金属の上に,硬質被膜を離散的に(島状に)配置し,その上に二硫化モリブデン焼成被膜を施す.このようにすることで,高面圧が作用したときには最下層の軟質金属部分が変形して面圧を緩和する.このとき中層の離散硬質被膜は,離散的であることで自身は変形せずに軟質金属下地の変形に倣うことができる.したがって,軟質下地の変形を阻害することなく,その上の焼成被膜を強固に保持する.

 以上の構造を,軟質下地にアルミ合金を用い,その上にチャンネル型ポーラスクロムメッキを施し,そのチャンネル部分が下地に届くまでエッチングして離散硬質被膜とすることで実現した.この下地に施した二硫化モリブデン焼成被膜の高面圧下での潤滑性能を,ブロックオンリング試験を行って従来の下地のものと比較した.ブロックオンリング試験では,リング側を本下地とし,リングと線接触する形状の硬質ブロックを用い,局所的高面圧を発生させた.

 実験の結果,本下地を用いることで,従来のステンレス下地の20倍以上の寿命を得ることができることが示された.また,試験片の断面観察などにより,本下地は想定どおり,ブロック形状に倣って変形して面圧を緩和していることがわかった.

 以上のように,二硫化モリブデン焼成被膜の寿命メカニズムを解明し,それに基づいて被膜の潤滑性能向上のための方策を提示し,その効果を実証した.これにより,二硫化モリブデン焼成被膜の信頼性と汎用性を従来より大きく向上することができ,応用範囲を広げることができた.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「二硫化モリブデン焼成被膜の潤滑性能向上に関する研究」と題し、5章からなる。

 二硫化モリブデン焼成被膜は、通常の潤滑油、グリースなどの使用が不可能な真空環境、あるいは高温雰囲気での固体潤滑剤として優れた潤滑性、長寿命を有することが知られている。また、潤滑油やグリースと異なり、漏出した場合の環境汚染の問題が小さく、メンテナンスフリー化も可能であるため、潜在的用途は広い。しかし、大気環境中では摩擦係数が増大し、また被膜の摩擦寿命が大幅に低下し、さらに実際の使用にあたって避けられない片当たりなどの高面圧下では被膜の破壊が瞬時に発生するという欠点がある。

 そこで本論文では、このような欠点を改善して使用範囲を拡大するために、まず、二硫化モリブデン焼成被膜の寿命とそのモードを実験的、理論的に解明し、次にその知見に基づいて合理的な二硫化モリブデン焼成被膜の設計法を提案することを目的として研究を展開している。

 第1章「序論」では、研究の背景、研究目的と研究方針などを記述している。すなわち、二硫化モリブデン系固体潤滑膜は焼成被膜として使用されることが最も一般的であること、その用途、優れた潤滑作用のメカニズム、しかし大気中では湿度により摩擦係数が大きくなって寿命が低下し、また高面圧下では寿命が極端に低下するという事実などが背景として述べられ、このため、用途を一層拡大するには、二硫化モリブデン焼成被膜の大気環境下、高面圧下での寿命低下の原因を実験的、理論的に解明し、この知見に基づいて潤滑性能向上、寿命延長の方策を提案、実証することが必要であるとして、これらを研究目的としている。また、この研究目的を達成するための研究の進め方について、概略の方針を説明している。

 第2章「二硫化モリブデン焼成被膜の寿命モードとそのメカニズム」では、被膜の構造と一般的な特徴を述べて、関連する先行の研究を批判的に検討し、寿命モードが単一ではないこと、それらの発現のメカニズムが未だ解明されていないことなどを明らかにしている。これをふまえて、真空中および大気中での二硫化モリブデン焼成被膜の摩擦試験、寿命試験を、揺動すべり試験、および接触面圧がそれよりもずっと大きいピン・オン・ディスク型試験を行って被膜の摩擦、摩耗の時間推移を測定し、さらに被膜内の応力解析も行って、真空中、大気中を問わず、摩擦により被膜に繰り返し作用する剪断力によって疲労はく離が下地との界面で発生する寿命モードがあること、ならびに、大気中での寿命が真空中より低下する理由は摩擦係数、すなわち被膜に作用するせん断応力の増大が原因であることを明らかにしている。また、面圧が大きい場合について実験と応力解析を行い、使用開始直後に被膜が破壊されて急速に寿命を迎えることを明らかにしている。さらに、大気環境下で被膜の寿命を延伸させるために、摩擦係数や接触圧力を低減する新しい方法の提案が不可欠であることを述べている。

 第3章「界面活性剤吸着による二硫化モリブデン焼成被膜の潤滑性能向上」では、前章で得た知見をもとに、大気環境下で摩擦が増大することを防止するために、陽イオン性界面活性剤の親水基を二硫化モリブデンの表面に吸着させることにより二硫化モリブデンを疎水性とする手法を提案している。次に、この手法を実際に適用した二硫化モリブデン焼成被膜についてピン・オン・ディスク型摩擦・摩耗試験を行ない、その有効性を確認するともに、実験結果について詳細な考察を行っている。

 第4章「柔下地構造による二硫化モリブデン焼成被膜の寿命向上」では、面圧が高い場合には焼成被膜が直ちに破損すること、破損防止のため下地金属を軟らかい材料にして応力緩和を図ろうとすると、被膜界面の塑性変形が大きくなって寿命が低下してしまうことを指摘している。これらのことを防止するため、第2章で得られた知見に基づいて、片当たりなどによって被膜内に高い応力が発生しないよう、最下層を軟質金属で、その上にポーラスな硬質金属層を配置した二層の下地金属の上に被膜を焼成する手法を提示している。これは最下層の軟質層が高い荷重を受けて塑性変形することにより被膜内応力を緩和するとともに、その上にあるポーラスな硬質層が焼成被膜を強固に保持するという機能を果たすことを目指す。実際にこの手法を適用して、軟質のアルミ合金層の上にポーラスな硬質クロムめっき層を配置した下地金属を製作し、その上に二硫化モリブデン被膜を焼成した試験片によりブロック・オン・リング型摩擦摩耗試験を行って、この手法の有効性を確認するとともに、実験結果について理論的にも詳細な考察を加えている。

 第5章「結論」では、以上の知見を総括し、本研究の成果と意義について本論文の結論を述べている。また付録では、本研究で行った理論解析に関連する接触圧力の計算方法、界面活性剤を吸着させた二硫化モリブデン粉末のFT-IR測定データ、ブロック・オン・リング型摩耗試験での摩耗量の計算方法を提示している。

 以上を要するに、本研究は従来明らかにされていなかった二硫化モリブデン焼成被膜の寿命モードその発現メカニズムを実験的、理論的に解明し、それに基づいて二硫化モリブデン焼成被膜の潤滑性、寿命を向上させる新しい手法を提案し、その有効性を実験的、理論的に証明したもので、全体としてトライボロジーを中心とする工学、および関連する工業技術に対する寄与が大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50260