学位論文要旨



No 216182
著者(漢字) 石田,雅樹
著者(英字)
著者(カナ) イシダ,マサキ
標題(和) 祝祭性・物語性・公共性 : ハンナ・アーレントにおける「政治」の両義性
標題(洋)
報告番号 216182
報告番号 乙16182
学位授与日 2005.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16182号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,政稔
 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 教授 柴田,寿子
 国際基督教大学 教授 千葉,眞
 東京家政学院筑波女子大学 教授 三石,善吉
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、政治哲学者ハンナ・アーレントの思想の内実を、「祝祭性」「物語性」の視点からその「公共性」の枠組みを再構成し、現代的文脈におけるその意義を明らかにしたものである。「祝祭性」とは、アーレントにおけるその「実存主義」モメントの有する政治性、すなわち、断絶した他者とのあいだに共同性を構築する契機を指しており、「物語性」とは、アーレントのテクストにおける特異な叙述構成が、過去と現在との新たな共同性を指向するものであることを指示している。本論文は、これまで様々な観点から行われてきた先行研究を踏まえながらも、この「祝祭性」「物語性」という新たな概念枠組を提示することにより、アーレントの語る「公共性」の意義を再考し、そこからアーレントの「政治」を巡る一連の議論が、本来的に両義性を孕むものとして、つまり、共同性の可能性と不可能性との<あいだ>を巡るものとして展開されていることを論証するものである。

 このような形で再構成されたアーレントの「公共性」に関する考察は、より具体的には、各章で取り上げた以下のテーマ群において展開されている。

 第1章「ワイマールにおけるハンナ・アーレント――戦間期ドイツの知的言説とアーレントの思想形成」では、全体の導入部として、ワイマール・ドイツにおけるアーレントの思想の位置を検証している。ここでは、当時の学知の状況を視野に入れながら、アーレントがマルティン・ハイデガーやカール・ヤスパース等の実存哲学に関心を示していった過程と、それがその後の政治思想に接続されて行く過程が論じられている。

 第2章「ニヒリズム・ユートピアニズム・全体主義」では、アーレントの全体主義論を、ユートピアニズムとニヒリズムという視点から読み解き、全体主義が提示する大きな「物語性」の魅力に関して考察している。ここでは、「全体主義」という政治運動の教義(大きな物語)が、世界を「客観的に」意味づける公理(人種論、階級社会論)に基づいて、秩序を創出しようとすること、またそれが「確実性への欲望」に囚われた大衆社会において抗しがたい「魅力」を持つことへのアーレントの言及の意味を検証している。

 この全体主義の「物語性」という問題は、第3章「政治と祝祭(1)―― ルソー、ハイデガーと、アーレントにおける祝祭的公共空間」において「祝祭性」の問題と交錯することになる。この章では、ジャン=ジャック・ルソーの演劇論とハイデガーの祝祭論を媒介にして、全体主義の「公的祝祭」に対して、アーレントの公的空間がどのような位置を占めるかが問題とされている。つまり、全体主義が、その「教義」たる壮大なテクスト(=物語)を可視化・受肉化させる「祭儀」(=祝祭)によって政治プログラム化されていること、またこの全体主義の政治的「祭儀」に照応するものが、ルソー、ハイデガーの言説に存在すること、そして、アーレントの言説がこれら二者と微妙な位置関係にあることが、ここで明らかにされている。

 第4章「政治と祝祭(2)――代表―再現前(レプリゼンテーション)をめぐるアーレントとシュミットとの対話」では、前章の「祝祭性」の問題を引き継ぎながらも、それを、アーレントとカール・シュミットの「再現前 representation」概念と重ね合わせることで、前章の議論を発展させている。ここでは、両者が「代表制 representation」の喪失という現代政治の情況を意識しながらも、政治における「再現前」を思索し続けた点を、彼(女)らの革命論に焦点を当てることで明らかにしている。そして、このアーレントとシュミットにおける「再現前」への関心が、当時のワイマール・ドイツ知識人に共有された美学の政治的含意、とりわけ秩序・フォルムの解体を志向する「衝撃的恐怖の美学」の政治的危うさを念頭においたものであること、つまり、政治という営みがあくまで秩序というフォルムに携わる営為であることを踏まえ、政治フォルムを付与する「再現前」の美学に彼(女)らが固執したことが示されている。

 第5章「「法」「権力」のドラマトゥルギー――アーレントと「革命」のアポリア」では、前章で取り上げられた「革命」論を掘り下げて、そこからアーレントの「法」と「権力」論を浮かび上がらせる試みが行われる。つまり、「革命」という現象が、既存の「法」と「権力」の再編成であること、またそうした再編成を遂行する行為こそがアーレントの語る「活動」概念であることが明らかにされている。ここにおいて、アーレントの「政治」論と「法-権力」論との接合部分が提示され、それが「演劇」における「劇作法(ドラマトゥルギー)」あるいは「ゲーム」における「ルール」として捉え返すことができること、またそうした発想がアレクサンドル・P・ダントレーヴの政治論を経由してハーバート・L・A・ハートの法論、そしてルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語論に近接していることが示されている。

 この「革命」という現象は、新たな時間の開始である点で「歴史性-物語性」の問題と密接な関係にあるが、第6章「破壊/救済としての<歴史-物語(ゲシヒテ)>」では、アーレントにおける歴史の問題を、その古代ギリシア解釈に焦点を当てながら考察している。ここでは、古代ギリシャ・ポリスを「政治」の引証点とするアーレントの言説、またそれに代表されるその歴史論が、歴史の「全体性」を排斥している点で、ヘーゲル−マルクス派の「歴史哲学」、そしてヴィルヘルム・ディルタイ等の「歴史主義」と一線を画し、また歴史事象の「客観性」に関心を払わない点でマックス・ヴェーバーの歴史社会学とも異なること、そして伝統的な歴史解釈の破壊によって過去を再生させようとするその方法論的姿勢は、ハイデガーの解釈学あるいはヴァルター・ベンヤミン的批評と通底していることが論証されている。

 本稿は以上のような構成において、ワイマール・ドイツ以後、彼女に影響を与えた同時代のドイツ知識人(ハイデガー、ヤスパース、シュミット、ベンヤミン、ハバーマス etc.)との議論の同一性/差異を検証することで、「伝統の糸が切れた」ワイマール以後の世界におけるアーレントの政治思想の意義と特異性を浮き彫りにしようと試みるものであるが、またそれと同時に、伝統的な政治学におけるアーレントの政治思想の位置づけを測定することによって、そのオリジナリティを捉え返す作業も行われている。ハンナ・アーレントという思想家が、既存の「政治学」という学の枠組みを逸脱する存在であることは疑いないが、しかしながら、アーレントの議論を支える前提、すなわち、共同性を創出する「権力(パワー)」が、単なる「暴力(ヴァイオレンス)」とは異なること、あるいは、学としての政治学が、倫理や宗教的戒律とは異なる言語によって構成されねばならないこと、こうした認識は、アーレントの議論を待つまでもなく、「政治学」の古典的問題に他ならない。それゆえ本稿は、アーレントが既存政治学の学派の言語に拠らずに、実存哲学の理論枠組みにおいて、こうした政治学の根本問題をどのように構成し、またどのように対応したのか、そしてその対応がどのようにして新たな理論的視座を示すものであるかを、検証するものである。

 本稿は、以上のような形で、「公共性」をめぐるアーレントの議論の特異性と、その今日的可能性を明らかにすることによって、従来のアーレント研究に見られる二つの傾向――専門用語(ジャーゴン)の内在的な解釈に終始するあまりにその現代的意義を見失うか、あるいは、現代政治の諸問題に安易に翻訳するあまり、精緻な解釈がお座なりにされるという二つの陥穽――への根本的な批判を提示している。そしてさらにまた、「政治思想」の枠組みに収まりきらない多様な学知を横断するアーレントの言説を、政治学、哲学、社会学、歴史学、言語学、倫理学、美学といった学知の相関性の下に捉え返す点において、単なるアーレント研究の刷新という次元に留まらず、現代政治思想の新たな次元を切り開こうとするものに他ならない。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、独創的な政治哲学者として知られるハンナ・アーレント(1906-75)について、その特異な「政治的なもの」の把握を試みる研究である。アーレントの研究はこの20年ほどの間に質量ともに大きな進展を見せ、欧米のみならず、日本においても、すでに多数の研究が蓄積されてきた。そのなかで本論文は、アーレントの思考枠組に注目し、これをユートピア論などの系譜において語られてきた「祝祭性」や、また記憶の語りを特徴付ける「物語性」との関係のなかで読み解き、これらの成果をもとにして、アーレントの主張である「公共性」の復権に、新たな視角から光を当てようとする意欲的な研究である。こうした道具立てはアーレントのテキストに対して外挿されたように見えるが、決してアーレントの内在的な思想の発展の理解を軽視するわけではない。本論文は、アーレントの先行研究を丹念に跡付けつつ、それらによってなお解かれていない問題があることを見出し、とりわけ「実存主義」の政治的側面について、戦間期ドイツにおけるコンテクストを検討している。またそうしたコンテクストとの関わりで、全体主義の政治体験がアーレントに与えた決定的な重要性が強調されていることも、本論文の特徴のひとつである。そして、アーレントが全体主義批判のために用いる「活動」などの観念そのものが、たしかに全体主義とは区別されながらも、それとかなり際どい類似性をもつことが示され、ここにアーレントにおける「政治的なもの」の両義性が論じられる。

 まず序論「アーレントにおける「政治」の不可能性/可能性」では、先行研究が把握されるとともに、それをもとに本論文の問題設定が提示される。川崎修による研究に依拠しつつ、アーレント解釈の文脈を「共和主義」「カント主義」「実存主義」に分けて検討するとともに、それぞれの不十分さが示される。本論文によれば、第三の文脈に関連する最近のポストモダニズム的なアーレント解釈、すなわち自己/他者の共約不可能性にたち、「闘争(アゴーン)」を重視する解釈は、「伝統の糸が切れた」世界喪失の時代としての現代にあって有利な面をもつ。しかしそれは実存主義の政治思想の出発点を示すものではあっても、実存主義の政治が目指すものを明らかにしない点でやはり不十分である。また、アーレントの政治に「演劇性」を見る解釈はしばしば見られるが、演劇的な活動を可能にする政治空間自体の刷新をアーレントが試みたことを理解するうえでは十分ではないとして、本論文では「祝祭性」の概念が導入される。

 第1章「ワイマールにおけるハンナ・アーレント」では、アーレントの伝記的諸事実、ハイデガーおよびヤスパースとの出会い、当時のドイツの危機や表現主義などの思想状況から、アーレントのアメリカへの亡命までがたどられる。そしてこの亡命はアーレントにとって、ナチスに同調したドイツの知的社会に対する決定的な不信感を伴うものであったことが示される。

 第2章「ニヒリズム・ユートピアニズム・全体主義」では、アーレントの全体主義理解の特徴が検討され、それがアーレント『人間の条件』における著名な人間の3種の行為類型(「労働labor」「制作work」「活動action」)との関連で論じられる。本論文によれば、近代の社会的領域における「労働」のプロセス的性格が、存在の空虚さと世界の意味喪失をもたらすことにより、全体主義を準備する一方、「制作」の持つ完全な目的―手段関係を志向する論理が、「千年王国」的な理念と結合して、ユートピア的伝統の鬼子としての全体主義(ディストピア)を生み出した。そしてアーレントはこのような全体主義のもつある種の魅力と幸福感についても言及していたことが指摘される。

 「政治と祝祭(1)」「同(2)」と題された第3章と第4章は本論文の中核をなす章であり、第3章ではルソーおよびハイデガー、第4章ではシュミットとの比較や関連のもとに、アーレントの政治が展開される公共的祝祭空間の意義と問題性が論じられる。前章での検討において、アーレントにとって全体主義を回避するのは、人間間の意味に満ちた「活動」の世界であるはずであった。しかし本論文によれば、この「活動」にも固有の危険が伴う。アーレントの「活動」的な政治はまず、ルソーにおける<観る―観られる>関係の相互性としての<演劇―祝祭>空間と類似するものであり、さらにハイデガーが関与したナチスの運動におけるポリスの回帰としての祝祭空間との類似性をも導き入れてしまうのであって、ここにアーレントのもつ危うさが指摘される。アーレントのこのような政治空間は、ハイデガーと同じく全体主義に関わったカール・シュミットの「再現前」の発想とも近縁性を有することになる。ただし本論文は、ネイション―フォルクの再現前の試みであるシュミットに対し、アーレントの場合は空間的同一性を前提としない、遍在的で動態的な政治空間の構成である点で、以上の危険を克服する契機をも持ち得ることを指摘している。

 第5章「法、権力のドラマトゥルギー」では、『革命について』と『精神の生活』を中心に、アーレントの革命観を題材として、歴史の断絶性と物語性との関係が考察される。アーレントがフランス革命と対比してアメリカ革命を称賛したことはよく知られているが、アメリカ革命が古代ローマの反復という旧い面と、政治体の新しい創設という面とを、どのように関係付けているかという点に関して、先の二著作の間には差異が存在することが指摘される。本論文によれば、その差異は重点の置き方の相違に由来するものであって、新と旧、断絶と連続とを関係付ける論理がアーレントには見出される。すなわち、アーレントによれば、自由はあくまで人間相互間の関係の網の目において意味を有するのであるが、これは決して固定的ではありえず、革命という祝祭的な空間の出現によって関係の刷新が行なわれる。しかしこの場合も刷新である以上は、無からの創造はありえず、伝統や関係の網の目が否定されるわけではないことが緻密に論証される。

 第6章「救済/破壊としての<歴史―物語>」では、まずアーレントがヘロドトスから引用したとする、「支配の不在」としての「ポリス―イソノミア」観を疑問に付し、しばしば古代回帰のノスタルジアとして批判されるアーレントの企てが成功していないことを示したうえで、むしろ過去のノスタルジックな再生の挫折にこそアーレントの可能性を探る立場が提起される。ベンヤミンを引合いに出しつつ、本論文は伝統の破壊と再生の両義性を秘めたものとして、アーレントの物語論の逆説を明らかにする。そして物語を作ること自体に破壊と闘争の契機が含まれているゆえに、最近の解釈で対立する闘争(アゴーン)の立場(ヴィラなど)と物語性に重点を置いた立場(ベンハビブなど)とが、二者択一的ではなく、アーレントの関心のなかで統一されていることが示される。

 以上のように本論文では、アーレント政治思想の再構成の試みにおいて、「祝祭性」をはじめ、アーレントを論じる上では斬新な概念が導入されている。これらは一見違和感を与えてもおかしくないものでありながら、先行する諸解釈ときわめて周到に突き合わされて検討されており、アーレント解釈においてこれまで別々に検討されてきた諸問題が、これらの道具立てによって見事に関連付けて把握されたということができる。またこのような理論志向が本論文の特徴であることは明らかであるが、しばしば理論志向の研究に見られるような歴史の軽視も本論文には見られない。さらに、「ユートピア論」「千年王国論」など、現実を超越する諸意識形態の研究との接点を見出すことができた点でも、アーレント研究の幅を広げた意義は大きい。

 一方、国家、民族、アイデンティティなど、アーレントを今日の政治的課題に繋ぎ止めている諸問題に、独特の視点から切り込んだ点にも、本論文の意義が見出される。このようなアクチュアリティはアーレントの貴重な遺産であるが、それゆえにこの点を強調する論者が、ともすれば自分の願望をアーレントに恣意的に読み込む場合も少なくない。それに対し本論文はあくまでアーレントの視野の広がりを押え、またアーレントに批判的な距離をとったうえで、このような政治的課題を説得的に論じ得た点でも高く評価することができる。

 もちろん、このように高い評価に値する本論文にも、細かな欠点や論じ足りない部分が存在しないわけではない。アーレントの「両義性」を解明するという方針からして、ある程度はやむをえないと言うべきであるが、叙述はかなり難解であり、より平易に書くことができれば一層良かったと思われる部分が存在する。また、「実存主義」の政治思想とされる場合の、その一般的な特徴や他の「実存主義」政治思想とアーレントのそれとの関係などが十分に論じられていない点などが挙げられる。

 しかし、これら不十分と思われる点も軽微なものであり、本論文のきわめて高い価値をそこなうものでは決してない。本論文はきわめて多数にのぼる日本でのアーレント研究のなかで屈指の成果ということができ、英語圏その他での研究成果と比較してみても高い水準に達している。それゆえ本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしい業績と判断する。

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