学位論文要旨



No 216188
著者(漢字) 廣田,泰
著者(英字)
著者(カナ) ヒロタ,ヤスシ
標題(和) シリアンハムスターを用いた炎症性腸疾患モデルの作出と腸炎進展過程における好中球エラスターゼの役割
標題(洋)
報告番号 216188
報告番号 乙16188
学位授与日 2005.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第16188号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 中山,裕之
内容要旨 要旨を表示する

 炎症性腸疾患(IBD)は,潰瘍性大腸炎およびクローン病を指す疾患概念である.寛解と再燃を繰り返す難治性疾患であり,腸管における潰瘍形成,出血,好中球浸潤および好中球エラスターゼ(NE)の高値を特徴とする.

 NEは好中球顆粒に含まれる蛋白分解酵素であり,基質特異性が低いために幅広く結合織蛋白を分解でき,正常細胞をも傷害し得る.従って,急性炎症時の結合織分解や血管透過性亢進に関与し,組織破壊や臓器不全の原因となる.IBDにおいても,その活動期に大腸腔のNEが増加し,IBDの病勢と相関する.また,健常な状態では,NEは血清中の内因性プロテアーゼインヒビターと複合体を形成して速やかにその活性を失うが,IBD患者のNEは複合体を形成していない.これらの事実から,NEはIBDの増悪因子の1つと考えられてきたが,それを臨床的あるいは実験的に証明したという報告はない.

 IBDの増悪過程におけるNEの役割の検証や,NE阻害剤などの新しい機序のIBD治療薬の開発研究において,実験動物モデルは有用である.このため,ヒトのIBDと同様に,炎症局所でNE活性が上昇するIBDモデルが必要であるが,内因性プロテアーゼインヒビターの酵素阻害能は動物種毎に大きく異なるので,IBDモデルを作成する上で動物種の選択が重要である.申請者が行った予備検討では,従来繁用されているラットIBDモデルの大腸内NE活性は上昇しなかった.これは,ラットの内因性プロテアーゼインヒビターの酵素阻害能はヒトと比べて約3倍強いため,炎症局所のNEが内因性プロテアーゼインヒビターと速やかに複合体を形成してしまい,結果としてNE活性が失われた可能性が考慮される.また,マウスやモルモットの内因性プロテアーゼインヒビターの酵素阻害能はヒトと比べて2〜4倍強いことも知られている.一方,ハムスターの内因性プロテアーゼインヒビターの酵素阻害能はヒトに近い.そこで,本研究では,シリアンハムスターを用いてIBDモデルを作出し,それを利用して腸炎の進展過程におけるNEの役割の解明を試みた.得られた成果は下記の通りである.

 第1章では,シリアンハムスターの酢酸誘発大腸炎モデルの作出を試みた.その結果,ハムスターに酢酸水溶液を注腸することにより大腸炎を誘発できた.本モデルでは大腸腔のNE活性の上昇とともに潰瘍面積が増大し,病理組織学的には潰瘍,浮腫および出血が認められた.これらの変化は好中球浸潤が顕著な領域で生じており,ヒトのIBDと類似した病理組織像を呈した.さらに,ヒトのIBD急性期の第1選択薬であるプレドニゾロンの本モデルに対する効果を検討した.その結果,プレドニゾロンは大腸への好中球浸潤に影響しなかったが,NE活性および潰瘍面積の抑制あるいは抑制傾向を示した.プレドニゾロンはNEの放出を抑制することから,本モデルにおいてもプレドニゾロン処置によりNEの放出が減少し,潰瘍面積が抑制されたものと考えられた.この作用はプレドニゾロンのヒトIBDに対する薬効メカニズムの1つと推察された.

 第2章では,シリアンハムスターの酢酸誘発大腸炎モデルを用いて,特異的NE阻害剤・ONO-6818の大腸炎に対する作用を検討した.その結果,ONO-6818はNE活性を抑制するとともに潰瘍面積および大腸出血量を抑制した.また,NE活性と潰瘍面積には相関が認められた.ONO-6818が炎症部位のNE活性を抑制した結果,大腸の組織破壊が抑制されたものと考えられた.一方,ONO-6818は大腸への好中球浸潤を抑制しなかった.従って,好中球の大腸組織への浸潤過程にNEは関与していないものと考えられた.以上,NEが大腸炎の増悪因子であることが実験的に示され,またNE阻害剤により大腸炎の病勢を抑制し得ることが明らかとなった.

 第3章では,シリアンハムスターの酢酸誘発大腸炎モデルが有する2つの欠点(慢性炎症像が認められないこと,炎症持続時間が短いこと)を克服するために,シリアンハムスターのトリニトロベンゼンスルホン酸(TNBS)誘発大腸炎モデルの作出を試みた.その結果,TNBS溶液をハムスターに注腸することにより,急性炎症とそれに続く慢性炎症を誘発できた.また,本モデルの炎症持続時間は,酢酸誘発大腸炎モデルの5倍以上長かった.本モデルの急性期および亜急性期においては,大腸腔のNE活性の上昇とともに潰瘍面積が増大した.このとき,病理組織学的には潰瘍,浮腫,出血,好中球浸潤が認められ,亜急性期には単核球浸潤などの慢性炎症像も認められた.慢性期にはNE活性の低下および好中球浸潤の消失とともに,単核球浸潤などの慢性炎症像がより顕著となった.このとき,潰瘍面積は縮小しており,単核球は大腸の組織破壊に関与していないものと考えられた.さらに,本モデルに対するプレドニゾロンの効果について検討したところ,酢酸誘発大腸炎モデルへの作用と同様,プレドニゾロンは大腸への好中球浸潤に影響しなかったが,NE活性および潰瘍面積を抑制した.この結果からも,プレドニゾロンのNE放出抑制作用は,プレドニゾロンのヒトIBDに対する薬効メカニズムの1つと考えられた.

 第4章では,シリアンハムスターのTNBS誘発大腸炎モデルを用いて,ONO-6818の大腸炎に対する作用を検討した.その結果,ONO-6818はNE活性を抑制するとともに潰瘍面積および大腸出血量を抑制した.また,NE活性と潰瘍面積には相関が認められた.本モデルにおいても,ONO-6818は炎症部位のNE活性を抑制し,大腸の組織破壊を抑制したものと考えられた.一方,酢酸誘発大腸炎モデルと同様に,ONO-6818は大腸組織への好中球浸潤を抑制しなかった.さらに,ヒトのIBDに対するNE阻害剤の臨床応用の可能性について明らかにするために,大腸炎誘発後からのONO-6818処置による治療的効果を検討した.治療的効果の検討は,炎症持続時間が短い酢酸誘発大腸炎モデルでは実施できなかった項目である.その結果,ONO-6818は潰瘍面積,大腸出血量およびNE活性を抑制した.IBDの治療薬は発症後に投与されることから,ONO-6818の治療的効果は臨床応用の観点から重要と考えられた.以上,TNBS誘発大腸炎モデルにおいてもNEが大腸炎の増悪因子であることが実験的に確認され,またONO-6818の後処置により大腸炎が抑制されたことから,NE阻害剤の臨床応用の可能性が広がった.

 これまでの結果から,NEが大腸炎を増悪させることが明らかとなったが,大腸に浸潤した好中球からNEが放出される機構については明らかでない.一方,ヒトのIBDにおいては,炎症性エイコサノイドのTXA2およびLTB4の産生能が亢進していることが知られている.このことから,TXA2やLTB4はIBDの炎症メディエーターと考えられているが,両者の病態生理学的役割については不明な部分が多い.第5章では,シリアンハムスターのTNBS誘発大腸炎モデルを用い,炎症性エイコサノイドの大腸炎における役割解明の一環として,NE放出への関与について検討した.大腸炎を誘発した大腸組織片をin vitroでU-46619(TXA2アナログ),TXB2(TXA2の不活性自然分解産物)およびLTB4で処理し,大腸組織片からのNE放出を調べた.その結果,U-46619はNE放出を亢進したが,TXB2のNE放出作用は極めて弱く,LTB4はNE放出に影響しなかった.このU-46619のNE放出作用が,TXA2受容体のTPレセプターを介した作用かどうかを確認するために,TPレセプター拮抗剤(SQ29548)によってU-46619のNE放出が阻害されるかどうか検討した.その結果,SQ29548はU-46619のNE放出作用を阻害した.これらの結果から,ハムスターのTNBS誘発大腸炎モデルにおいては,TXA2がTPレセプターを介してNEの放出を調節しているものと考えられた.さらに,in vivoにおいてもTXA2がNE放出作用を有し,LTB4がNE放出作用を有さないことを示すために,ハムスターのTNBS誘発大腸炎モデルをNDGA(シクロオキシゲナーゼ/リポキシゲナーゼのデュアル阻害剤)で処置し,大腸腔のTXB2量(TXA2は不安定なため自然分解産物のTXB2を測定)とNE活性との相関,LTB4量とNE活性との相関について検討した.その結果,LTB4量とNE活性には相関が認められなかったが,TXB(A)2量とNE活性とに相関が認められた.この結果からもTXA2がNEの放出を調節していると結論された.また,このとき潰瘍面積も抑制されており,NE活性と潰瘍面積には相関が認められた.潰瘍面積の抑制効果は,NDGAによりTXA2産生が減少し,その結果NEの放出が抑制され,ひいては組織破壊が抑制されたためと考えられた.TXA2のNE放出作用は,これまでに報告のないTXA2の新たな生物学的作用であり,炎症性エイコサノイド研究において重要な知見と考えられた.

 以上,シリアンハムスターを用いた2種類のIBDモデルを新たに作出し,NEが大腸炎の増悪因子であり,NE阻害剤が大腸炎を抑制し得ることを実験的に示した.また,NE放出に関与する炎症性エイコサノイドも明らかにした.今後,NE阻害剤を用いた臨床試験等で,ヒトのIBDにおけるNEの役割を検証する必要があると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

 好中球エラスターゼ(NE)は蛋白分解酵素であり,炎症局所で好中球から放出され組織破壊を引き起こすことから,炎症性疾患の増悪因子と考えられている。炎症性腸疾患(IBD)でも腸管の潰瘍形成,出血および好中球浸潤とともに大腸腔の好中球エラスターゼ(NE)が増加することが知られている。また通常,NEは血清中の内因性プロテアーゼインヒビターと複合体を形成して活性を失うが,IBD患者のNEは複合体を形成していない。これらのことから,NEはIBDの増悪因子と考えられるが,それを実験的に証明したという報告はない。

 IBDにおけるNEの役割検証や,IBD治療を目的としたNE阻害剤の開発において実験動物モデルは有用である。このため,ヒトIBDと同様に,大腸のNE活性が上昇するIBDモデルが必要であるが,内因性プロテアーゼインヒビターの酵素阻害能は動物種で異なり,IBDモデル作成には動物種の選択が重要である。ラット,マウスおよびモルモットの内因性プロテアーゼインヒビターの酵素阻害能はヒトより数倍強く,ラットIBDモデルでは大腸腔NE活性は上昇しない。一方,ハムスターの内因性プロテアーゼインヒビターの酵素阻害能はヒトに近く,上記の目的に適した実験動物である。そこで,ハムスターのIBDモデルを作出し,大腸炎におけるNEの役割解明を試みた。

1)ハムスターの酢酸誘発大腸炎モデルを作出した。本モデルでは大腸腔NE活性の上昇とともに潰瘍が増大した。病理組織学的には潰瘍,浮腫および出血が好中球浸潤の顕著な領域で生じ,ヒトIBDの病理像と類似していた。また,本モデルでIBD治療薬・プレドニゾロンの効果を検討したところ,NE活性および潰瘍が抑制された。プレドニゾロンがNE放出を抑制し,大腸の組織破壊が抑制されたものと考えられた。

2)ハムスター酢酸誘発大腸炎モデルでNE阻害剤・ONO-6818の効果を検討したところ,ONO-6818はNE活性,潰瘍および出血を抑制した。ONO-6818がNE活性を抑制し,大腸の組織破壊が抑制されたものと考えられた。

3)ハムスター酢酸誘発大腸炎モデルでは慢性炎症像が認められず,炎症持続時間も短い。この欠点を克服するため,ハムスターのトリニトロベンゼンスルホン酸(TNBS)誘発大腸炎モデルを作出した。本モデルでは炎症持続時間が酢酸誘発大腸炎モデルの5倍以上長かった。急性期および亜急性期では大腸腔NE活性が上昇し潰瘍も増大した。また,急性期では病理組織学的に潰瘍,浮腫,出血,好中球浸潤が認められ,亜急性期には単核球浸潤などの慢性炎症像も認められた。慢性期には慢性炎症像が顕著となったが,NE活性の低下とともに潰瘍も縮小した。また,本モデルでプレドニゾロンの効果を検討したところ,酢酸誘発大腸炎モデルと同様,NE活性および潰瘍が抑制された。

4)ハムスターTNBS誘発大腸炎モデルで,ONO-6818の効果を検討したところ,酢酸誘発大腸炎モデルと同様,ONO-6818はNE活性,潰瘍および出血を抑制した。また,炎症持続時間が長いことを利用し,大腸炎誘発後からのONO-6818処置による治療的効果も検討したところ,ONO-6818の治療的効果が確認された。

5)大腸に浸潤した好中球からNEが放出される機構を明らかとするために,炎症性エイコサノイドのNE放出への関与について検討した。ハムスターTNBS誘発大腸炎の大腸組織片を,in vitroでU-46619(TXA2アナログ),TXB2(TXA2の不活性自然分解産物)およびLTB4で処理し,組織片からのNE放出を調べた結果,U-46619はNE放出を亢進したが,TXB2の作用は弱く,LTB4はNE放出に影響しなかった。また,U-46619のNE放出作用はTPレセプター拮抗剤によって阻害されたことから,TXA2がTPレセプターを介してNEの放出を調節していると考えられた。さらに,ハムスターTNBS誘発大腸炎モデルをNDGA(シクロオキシゲナーゼ/リポキシゲナーゼのデュアル阻害剤)で処置し(in vivo),大腸腔のTXA2量とNE活性との相関,LTB4量とNE活性との相関について検討した。その結果,LTB4とNE活性は相関しなかったが,TXA2とNE活性とは相関した。この結果からもTXA2がNEの放出を調節していると結論された。また,このとき潰瘍も抑制された。潰瘍の抑制は,NDGAによりTXA2産生が減少し,その結果NEの放出が抑制され,ひいては組織破壊が抑制されたためと考えられた。

 以上,ハムスターを用いた2種類のIBDモデルを新たに作出し,NEが大腸炎の増悪因子であり,NE阻害剤が大腸炎を抑制し得ることを実験的に示した。また,TXA2がNE放出に関与することも明らかにした。

 本研究の成果は,ヒトの炎症性腸疾患の病態発現機序を考える上での基礎的知見として極めて重要である。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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