学位論文要旨



No 216191
著者(漢字) 小泉,真一
著者(英字)
著者(カナ) コイズミ,シンイチ
標題(和) クラスター負イオンと固体表面との衝突による反応過程
標題(洋) Reactions of Cluster Anions Induced by Impact onto Solid Surfaces
報告番号 216191
報告番号 乙16191
学位授与日 2005.03.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第16191号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 助教授 岩田,耕一
内容要旨 要旨を表示する

1.序

 クラスターを固体表面に衝突させると、クラスター―表面原子間およびクラスター構成粒子間で多体衝突が起こり、衝突部分は瞬間的に超高圧・高温となる。このような状況では、通常の熱平衡状態では起こらないような反応が起こると考えられる。実際に、クラスターが粉々に砕けるような反応(粉砕反応、或いはシャタリング)が理論・実験の両面から実証され、クラスター中に埋め込まれた反応分子間で四中心反応が進行することが理論的に予測されている。これらは、「クラスターインパクト反応」といわれ、新しい種類の反応系として注目されている。

 クラスターインパクト反応の特異性は、衝突に伴うエネルギー移動の特徴に起因している。入射クラスターの衝突エネルギー(並進エネルギー)は、衝突後瞬時にクラスターおよび近傍の表面原子(衝突系)の内部自由度に効率よく変換される。クラスターや表面の構造によって、衝突エネルギーが特定の内部自由度に集中し、その後緩和して他の自由度に再配分される。比較的小さなクラスターが、結合エネルギーと同程度のエネルギーで固体表面に衝突する場合に、このようなエネルギー移動やそれに伴う反応の特徴が顕著に現れる。以上の観点から、本研究では、固体表面との衝突によって誘起されるクラスターインパクト化学反応の本質の一端を解明することを目的として、主に実験により研究を行なった。

2.Br2-(CO2)nの固体表面衝突により誘起されるBr2-解離過程―溶媒和構造依存性

 真空中にCO2ガスで希釈したBr2蒸気を導入し、電子衝撃によりクラスター負イオンBr2-(CO2)n(n=0-15)を生成した。サイズ選別し、薄い酸化膜で覆われたSi(100)表面に衝突させた。衝突エネルギーはBr2-あたり30-50eVとした。主な生成負イオンはBr-およびBr2-であった。Br2-の解離分岐比のクラスターサイズ依存性を求めたところ、50eVでは、(1)n=0-4において急激に増加すること、(2)n=12付近において急激に減少し始めることを見出した。Br2-の解離分岐比のクラスターサイズ依存性を以前行われたI2-(CO2)n衝突実験におけるI2-のそれと比較すると、値が増加するサイズ領域はほぼ同じであるが、減少が始まる領域がI2-(CO2)n衝突ではn=16であり異なっている。I2-とBr2-の結合エネルギーがほぼ同じであることを考慮に入れると、(1)および(2)は、それぞれくさび効果(CO2分子がBr2-間に割り込むことによりBr-Br結合を切断する)およびかご効果(解離したBr-Br-対が溶媒和殻により包み込まれ再結合する)によると考えられ、またそのような動的溶媒効果は、クラスターの溶媒和構造に依存すると結論できる。すなわち、くさび効果がみられるサイズ領域はBr-Br分子軸の周囲にCO2分子が配位する領域であり、かご効果がみられるのは第1溶媒和殻が完成するクラスターサイズ付近である。くさび効果について、分子動力学計算により再現されることを確認した。

3.ICl-(CO2)nの固体表面衝突により誘起されるICl-解離過程―衝突配向依存性

 サイズ選別したクラスター負イオンICl-(CO2)n(n=1-20)を、薄い酸化膜で覆われたSi(100)表面に衝突させた。ICl-あたりの衝突エネルギー30-70eVとした。主な生成負イオンは、中心イオンICl-および、その解離生成物I-、Cl-であった。ICl-(CO2)n衝突における中心イオンの解離分岐比増加Δfdis(n=0に対する増加)がサイズnによってどのように変化するかを図1に示す。ここで、中心イオンあたり衝突エネルギー50eVに設定してある。また、比較のためI2-(CO2)nおよびBr2-(CO2)nについても図1に示した。ICl-(CO2)n衝突ではX2-(CO2)n衝突と異なり、Δfdisのサイズ依存性はみられなかった。このような現象は、ICl-(CO2)nの中心イオンICl-の分子軸が表面法線に対して垂直に衝突する確率が非常に小さいために起こると推定される。その原因は中心イオンのIとClの質量(運動量)差によると考えられる。以上の推定を確かめるため、分子動力学計算を用いて、ICl-(CO2)3の最安定構造を求めた。その結果、X2-(CO2)nとほぼ同様に、CO2が中心イオンの分子軸周囲に配位していた。ICl-(CO2)3およびBr2-(CO2)3をそれぞれ衝突エネルギー50eVでSi表面に衝突させる計算を行い、中心イオン分子軸配向の時間変化を求めた。配向角(表面法線とX2-分子軸とのなす角)は、衝突後、Br2-(CO2)3衝突ではほぼ90°となるのに対し、ICl-(CO2)3衝突では55°となり、I原子がより表面に近づく配向を取った。ICl-(CO2)nの溶媒和構造はX2-(CO2)nと同様であり、構造的には分子軸周囲のCO2はI-Cl間に割り込み得る。しかし実際は、衝突時にICl-が表面に対して傾いているため、CO2がうまくI-Cl間に割り込めず、ICl-の解離を促進しないと結論した。

 また、生成負イオンのもつ並進エネルギーを測定した結果、いずれの生成物の速度分布についても1次元Maxwell-Boltzmann分布によく一致した。しかし、並進温度が生成物の質量に依存しないI2-(CO2)n衝突の結果とは異なり、Cl-の並進温度がI-およびICl-の値より高かった。中心イオンの表面衝突時のエネルギー分配過程について、(1)まず表面にエネルギーを与え、(2)その後周囲のCO2分子と連続して衝突しエネルギーを与えるといったモデルに基づき、並進温度の実験値を用いて、各生成負イオンの表面衝突後残留するエネルギーおよびCO2 1分子あたりの衝突回数を見積もった。その結果、いずれもCl-についての値が大きくなった。これについても、Cl原子の表面陥入が浅いことから説明できた。

4.固体表面衝突によるX-(H2O)n(X=Cl,I)の解離およびエネルギー分配過程の衝突エネルギー依存性

 クラスター負イオンX-(H2O)n(X=Cl,I,n=13-31)を(La0.7Ce0.3)B6(100)表面にH2Oあたりの衝突エネルギー1-5eVで衝突させ、クラスターの解離によってX-(H2O)m(m=0-4)が生成することを観測した。また、生成負イオンの速度分布は1次元Maxwell-Boltzmann分布を示し、その並進温度は生成物の質量によらず一定であることがわかった。入射クラスターの持つ衝突エネルギーが、系全体の並進エネルギー、解離に費やされるエネルギー、生成分子の並進・回転・振動エネルギー、および表面に与えられるエネルギーに分配されるとするモデルに基づき、実験から得られる並進温度を用いてそれぞれの分岐比を求めた。Cl-(H2O)nの5eV衝突においては、衝突系のすべての自由度に統計的にエネルギーが分配されることがわかった。同様の結果は、以前行われたCO2あたり8.7eVの衝突エネルギーにおけるI2-(CO2)n衝突においても観測されている。また、サイズが大きくなると表面に与えられるエネルギーの割合も増加する。これは、クラスター(またはその生成物)の表面滞在時間がサイズが大きくなるにつれて長くなることから説明できる。図2にCl-(H2O)31を衝突させた際の、エネルギー分岐比の衝突エネルギー依存性を示す。3eV、1eVと衝突エネルギーが減少するにつれて、表面、分子の振動・回転自由度には順次エネルギーが分配されにくくなる。これも、衝突エネルギーが減少するとクラスターの表面滞在時間が各自由度の緩和時間より減少するためと説明できる。生成物がクラスター構成粒子間の解離と再結合の平衡反応により得られるという準平衡モデルに基づき、実験で得られた並進温度を用いて生成物の解離分岐比を算出した。イオン強度から求めた解離分岐比と比較したところ、Cl-(H2O)n衝突においては一致しないがI-(H2O)n衝突においてはよく一致することがわかった。中心イオンの質量が大きいほどその表面滞在時間が長く、生成物はより多くの自由度にエネルギー分配が行われた状態を反映した並進温度を示すことになる。

5.固体表面衝突により誘起される(CS2)n- および(OCS)n-のクラスター内反応

 (CS2)5-を1分子あたり衝突エネルギー80eVでシリコン表面に衝突させたときに生成する負イオンはS-、S2-、S3-であった。n=1においてS2-は生成しなかった。また、S3-はn≧5においてのみ生成した。図3に、衝突エネルギーを1分子あたり100eVとして得られる各生成物の生成分岐比のクラスターサイズ依存性を示す。この依存性を用いて、S-とCS2が1回の衝突で反応してS2-を生成する確率を求めた。その値は、気相反応における値とほぼ一致した。これは、S2-がクラスター内硫黄原子引き抜き反応S-+CS2→S2-+CSによって生成することを示している。またS3-もS2-同様、クラスター内反応S2-+CS2→S3-+CS、により生成すると考えられる。S3-は、(CS2)n-の光励起によるクラスター内反応からは生成しないため、S3-の生成には、多重衝突などの固体表面衝突に特有な反応環境が必要であると考えられる。(OCS)n-衝突反応においてみられるS2-生成も、上記と同様のクラスター内反応によるものと考えられる。これらのクラスター内反応を、2つの異なる表面で行わせたところ、S2-生成反応効率は変わらなかった。この反応に関して、固体表面は剛体壁として働いていると考えられる。次に、(CS2)n-を1分子あたり50eVで(La0.7Ce0.3)B6(100)表面に衝突させると、n=2のみにおいて、(1)C2S2-が生成する、(2)S2-の生成分岐比が大きな値となることがわかった。(CS2)n-の2種類の異性体のうち、n=2においてのみ中心イオンがC2S4-であるものが多く存在することから、C2S4-が解離によりC2S2-を生成すると説明できる((1)参照)。また、衝突エネルギー50eV程度の低エネルギー衝突においては、C2S4-は、異性体CS2-(CS2)と比較して、S-よりS2-を生成しやすいと説明できる((2)参照)。

6.まとめ

 クラスター負イオンが固体表面に衝突したとき、そのクラスターがどのように反応するかについて、実験と計算の両面から研究した。クラスター負イオン中の溶媒和分子が中心分子イオンの原子間に衝突することによりその解離を促進する反応において(くさび効果)、クラスターの溶媒和構造および衝突時の中心イオンの表面に対する配向が重要であることを明らかにした。また、入射クラスターのもつ衝突エネルギーが分配される自由度の数は、クラスターの表面滞在時間が長いほど大きくなることを明らかにした。さらに、表面衝突により誘起される、結合の組換えを伴う逐次原子引き抜きクラスター内反応を観測した。

図1:中心イオンあたり衝突エネルギー50eVにおけるICl-(CO2)n、I2-(CO2)nおよびBr2-(CO2)nの解離分岐比とn=0のそれとの差のクラスターサイズ依存性。

図2:エネルギー分配の衝突エネルギー依存性。色分けは上から系重心の並進エネルギー、解離エネルギー、生成物の並進エネルギー、および生成物の回転・振動エネルギーと表面に与えられるエネルギーの和。

図3:1分子あたり100eVで(CS2)n-をSi(100)表面に衝突させて得られる各生成物Sm-の生成分岐比fmのクラスターサイズ依存性。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり、固体表面との衝突によって誘起されるクラスター衝突化学反応の本質の一端を解明することを目的として行なった主として実験研究の成果をまとめたものである。

 第1章は序文であり、新しい種類の反応系としてのクラスター反応について、その研究背景および研究の意義を述べている。

 第2章ではBr2-(CO2)n(n=0-15)の固体表面衝突により誘起されるBr2-解離過程―溶媒和構造依存性について研究している。電子衝撃により生成したクラスター負イオンBr2-(CO2)n(n=0-15)をサイズ選別し、薄い酸化膜で覆われたSi(100)表面に衝突させ反応を起こさせたところ、Br2-の解離反応が、CO2分子がBr2-間に割り込むことによりBr-Br結合を切断する「くさび効果」、および解離したBr-Br-対が溶媒和殻により包み込まれ再結合する「かご効果」によって説明できることを示している。

 第3章ではICl-(CO2)n(n=1-20)の固体表面衝突により誘起されるICl-解離過程、特に衝突配向依存性について研究している。サイズ選別したクラスター負イオンICl-(CO2)n(n=1-20)を、薄い酸化膜で覆われたSi(100)表面に衝突させ、そのICl-の解離過程を調べている。分子動力学法による計算を併用することによって、衝突時の配向によって反応過程が影響を受けることが示されている。

 第4章では固体表面衝突によるX-(H2O)n(X=Cl,I,n=13-31)の解離およびエネルギー分配過程の衝突エネルギー依存性について研究している。特に入射クラスターの持つ衝突エネルギーが、系全体の並進エネルギー、解離に費やされるエネルギー、生成分子の並進・回転・振動エネルギー、および表面に与えられるエネルギーにいかに分配されるかをモデルに基づいて明らかにすることを試みている。例えば、Cl-(H2O)nの5eV衝突においては、衝突系のすべての自由度に統計的にエネルギーが分配されることが示されている。

 第5章では固体表面衝突により誘起される(CS2)n-および(OCS)n-のクラスター内反応について研究している。(CS2)n-の場合S2-がクラスター内S原子引き抜き反応S-+CS2→S2-+CSによって生成すること、また、S3-もS2-同様に、クラスター内反応S2-+CS2→S3-+CS、により生成することが推定されている。

 以上のように本論文はクラスター負イオンが固体表面に衝突した場合、そのクラスターがどのように反応するかについて、実験と計算の両面から研究しており、その解離反応において、くさび効果により解離が誘起されること、また、クラスターの溶媒和構造、および、衝突時の中心イオンの表面に対する配向が重要であることなど、クラスター反応に関する新しく重要な知見を得る事に成功している。

 よって、本論文が博士(理学)を授与するにふさわしい研究であることを審査員は全員一致で認めた。

UTokyo Repositoryリンク