学位論文要旨



No 216209
著者(漢字) 角田,俊男
著者(英字)
著者(カナ) ツノダ,トシオ
標題(和) 主権・社交性・判断力 : 18世紀イギリス連合王国・帝国の情念論
標題(洋)
報告番号 216209
報告番号 乙16209
学位授与日 2005.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16209号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 草光,俊雄
 東京大学 教授 柴田,寿子
 東京大学 助教授 安西,信一
 東京大学 教授 森,政稔
 東京大学  犬塚,元
内容要旨 要旨を表示する

 本論はブリテンの連合王国の統合と帝国への拡張による18世紀の広域的な政治空間における国家主権の偏狭さを問題として取り上げ、帝国主権による属州化の危険にさらされるスコットランド、アイルランド、インドの経験を背景とする思想家に主権の国家理性を反省する国際的に公平な判断力の理論を求めた。「イギリス」地域文化研究は、その地域の複合性をイングランド中心の主権国家研究やケルトの周縁のナショナリズムの研究によっては十分に解明できず、複数の文化の関係・交流を含む観点が求められる。この課題に答えるのに近代政治思想史の二つのパラダイムには限界がある。自然法学は国家主権に、シヴィック・ヒューマニズムは共和国に帰結し、両者とも権力の拡張を求める個人と国家の独立と自由を想定し、特殊共同体を超える国際的な視座を開くことができないのである。第三の言説として社交性(sociability)の洗練、礼節(politeness)が自然権の利己心と共和主義の徳に対立する商業社会の原理として論及されているが、主権を反省する判断力に関わる国際関係の含意は問われていない。本論は主権国家の絶対的独立性を相対化する重要な意味を他者の観点に入る公平な情感的判断(趣味tasteや感情sentimentと呼ばれた)による社交性に求める。世界市民的な判断力への社交性の言説の思想的展開を論究することで、主権国家の公的判断から排除されがちな私的領域が肯定され、他方で異邦人の差異への共感が公的に表明されるなど、国家の枠組みを相対化する複数の国民と文化の相互関係の可能性が明らかになった。こうして本論は従来政治思想史では十分に取り上げられてこなかった社交性が国際政治で主権を修正する重要な歴史的意味を有していたことを論証し、その公平な判断に18世紀に成長する社会の公共圏(商業・社交・学芸)の政治に対する自立した存在形式の基礎を求めた。

 古代ローマの拡大型共和国(マキアヴェリ)や近代自然法の主権国家の戦争権(グロティウス、ホッブズ)に代表されるような戦争の思想に対し、プーフェンドルフが国際社会の社交性により国家主権を抑制する連合(confederation)の国際秩序を提唱したことが、本論のヨーロッパの思想史的コンテキストとなる。主権は複合王国の周辺地域の統合を強化しながら、「世界王国 universal monarchy」を志向したので、この脅威を受ける周辺の小国の主権の存続には連合が望ましい国際秩序であった。本論で公共的判断を依然主権に依存する限界を指摘されたプーフェンドルフの社交性は、フレッチャーのヨーロッパの小共和国への分割と連合、商業と社交の交流の構想、そしてハチソンの自然神学と詳細な情念論における「自然的社交性 natural sociability」の主張によってイギリスに受容される。主権国家批判としてフレッチャーは共和主義の愛国心の偏狭さを批判する世界市民的視野を持ち、ハチソンは親密圏の私的な情愛の幸福を肯定したことに注目するなど、本論はシヴィック・ヒューマニズムのパラダイムによる両者の解釈に対し社交性につながる側面を強調した。

 社交性の感情は思想家からさらに都市民の生活へ『スペクテーター』的な礼節の実践道徳により普及した。この啓蒙の礼節の文化はイングランド中心の主権から周縁化された人々に主権の保持によらない市民的公共性を提供する重要な役割を果たす。イングランドとの合邦により議会を失ったエディンバラは、実態は曖昧なスコットランドの主権の保持へのこだわりから離れ、その地方都市の社交・文化・経済の改善に「北ブリテン」としてのナショナル・アイデンティティの方向を模索する。本論はこのことをスコットランド国民詩人ラムジの牧歌『生まれのよい羊飼い』において具体的に実証した。主権を回避する同様の社交性の言説はアイルランド・カトリックにも見られ、彼らを排除する宗派主義のプロテスタント国家に対して政治参加を求め対決するのではなく、教会・国家体制の主権と別の商業・社交・文化の領域で宗派を超えた参画を求める穏健な解放運動が展開された。このように通常別個に扱われるスコットランドとアイルランドの状況と運動を、主権と対比される社交性の言説の流れのなかに本論は統一的に説明した。これらの社交性論は私的領域の公共性を評価することで政治や国家を相対化し、シヴィック的伝統を商業社会のなかで再構成する意味があったと解釈される。

 社交性の言説は礼節の実践道徳に尽きるものではなく、そこにはイギリスに対する政治批判の回避など限界があり、ヒュームとバークにより批判的に新しい方向に展開される。両者の思想を社交性の展開として叙述する思想史の慣例はないが、彼らの思想をこの概念を中心に世界市民的な判断力の理論の追究と解釈することは可能で、それにより社交性概念の多様な展開を歴史的に把握できるだろう。ヒュームにおいて主権国家は法秩序の重要な枠組みであるが、社会の私的領域とヨーロッパの国際社会とに挟まれ相対化されている。本論のヒューム論の主題は正義と社交を通した、情念から公平な感性的判断への進化であり、その条件としての商業社会やその感情が帰結する世界市民主義の国際関係論に論及した。最初に社交性は孤立した知性の哲学を批判する日常生活の穏やかな懐疑主義として表れる。次に情念論で商業社会の所有権を基礎とする「誇り」の情念は名声のような社交性の原理により間主観的な自己評価につながり、社会の私的領域の個人的自由を確立する。さらに私的自由が、ホッブズの自然状態の自由とは対照的に、商業社会の社交と正義の慣習的制度による教化を通して社会の共通利益を判断する道徳感情に展開することを本論は強調する。ヒュームが自然神学によるハチソンの「自然的社交性」を経験哲学的に支持しえないと批判し、慣習的な制度による、利己心に基礎を持つ、正義の「人為的徳 artificial virtue」を説いたことはよく知られているが、本論は彼の正義論に社交性の展開を認める。正義は特殊共同体への偏愛から自由ではない「自然的社交性」から公平な判断力への感情の洗練を可能にする重要な働きを持つのである。偏る情念から他者の特殊状況への共感により一般的観点に到達することを論証するヒュームの感情の洗練は、社交性の思想の一つの到達点となる。この正義に基礎を持つ市民的公共性は、国際関係に適応されるとき、自国の主権の偏りを批判する公平さを特徴とする。各国の公衆が結びつく商業と学芸の自由な交流のヨーロッパ連合共和国が、ヒュームの多元的で文明の進歩を促す国際秩序のイメージとなり、他方彼の世界市民的判断はイギリスの主権が帝国の国家理性を追求する勢力均衡の過度な介入・重商主義の貿易規制・公債の軍事財政などの政策の原理である「ねたみ」の情念を批判する。こうして本論は主権国家を相対化する商業と学芸の社交性の私的な、またトランスナショナルな領域の重要性を示すことで、イングランド国制論やその自由の成長を説明する文明社会史など従来の内政中心のヒューム理解を拡大することを試みた。

 ヒュームの趣味論を新たに国際関係論と関連させることで、本論は彼のヨーロッパ大の世界市民主義が、趣味論において異文化の差異への共感的理解を示しながらも、道徳や社会の利益に破壊的とみなされる「野蛮と宗教」の差異を承認しないという限界を持つことを指摘した。ここでヒュームの商業文明論と本論が対照させるのが、バークによるもう一つの社交性である。彼のアイルランドとインドの言説は、経済の改善中心のスコットランド啓蒙からは死角となる低開発化地域の問題に目を向けさせる意味があろう。ヒュームの商業による富の快適さへの共感からバークの共感は提携したアイルランド・カトリックやインドの無告之民の痛みへの共感に転換することを、本論は苦と恐怖に基づかせたバークの崇高の美学と関連させて明らかにした。英雄主義の崇高に代わる痛みの崇高への共感は離れた異邦人へのイギリス政治の公共性の拡大であり、周辺の無告之民への党派的な関与を排除する公権力の公共性に挑戦する。さらに彼らとの間の崇高の距離感が異文化の差異を、無視したり安易に同化したりすることなく、承認することにつながる。植民地のコンテキストで理解される本論のバークは、保守主義者バークの通説とは異なり、アイルランドからインドへの一貫した位相を持つ帝国問題への実践的、思想的対応が中心的関心となる。同時に政党、代表、国教会など彼の内政に関する従来の主題も帝国主権批判の含意を持つことが新たに指摘された。バークは穏健な改革というよりも議会主権による東インド会社の大幅な改革を提起し、さらに帝国の互恵的維持よりも帝国の存続にほとんど否定的な、インド分離を容認する意思さえも示唆していたことを本論は論証した。しかし健全な限定的国家主権のリアリズムと識別されるべき、道徳主義的な反革命戦争をフランス革命に対抗させるバークの共感の社交性の転用も指摘された。インド論での差異への共感が反革命ではヨーロッパ旧体制の同質性への共感に代わったのである。

 最後に哲学者ヒュームと政治家バークという対照的な二人に共通する晩年の失意と苛立ちの情念は、イギリス帝国主権の問題の深刻な根深さを象徴すると解釈できよう。ヒュームは公平な批評と学芸を阻害するイングランドの反スコットランド偏見と北米植民地への帝国支配を求める愛国心に憤慨し、バークはインド人の痛みに共感する彼の公共的判断とイギリスの公衆の距離に疎外感を覚えながら、インド総督の弾劾に後世への記録として偏執的に執着した。社交性による帝国主権の克服を試みる彼らの啓蒙活動の困難さは偏狭な主権原理の力の危険性と広い判断で補う必要性を示している。

審査要旨 要旨を表示する

角田俊男氏の論文「主権・社交性・判断力--18世紀イギリス連合王国・帝国の情念論」は、近代自然法思想(グロティウス、ホッブズ、プーフェンドルフ、など)とシヴィック・ヒューマニズム(マキャヴェリ、ハリントン、ハチソン・フレッチャーら)のヨーロッパ思想史のパラダイムを検討した上で、主権国家の戦争権に対して、社交性によって国際秩序を模索する思想家の系譜を、主にスコットランド、アイルランド、インドの経験を背景に自らの思想を構築してきた思想家や詩人の言説を詳細に検証したもので、特に論文全体の4分の3を占める、ヒュームとバークに関する議論は、これまで国制論からアプローチされることの多いヒュームとたんなる保守主義者としてのみ見られがちなバークの思想を、一新させる業績といえます。また角田氏の研究は、膨大な一次文献のみならず、多くの重要な二次文献を渉猟し近年の研究動向を着実に踏まえたうえで、それらの知見を明快な全体の図式の中に格納して統一的に説明することに成功しています。従来の研究によれば、ロックからハチソン、ヒューム、スミスを経てバークにいたるイギリス思想史は、自然法理論や情念論の継承・転換を背景とした国民国家論のヴァリエイションとして提示されてきましたが、本論文は、イングランド、スコットランド。アイルランド相互の対抗・連帯関係、またイギリス連合王国の帝国的構造や国際関係といった分析視覚を新たに導入することによって、一世紀の長きにわたる諸思想の布置を構造的に捉えなおした、浩瀚で画期的な研究といえます。

審査委員会は角田氏の労作のイギリス思想史への大きな貢献を高く評価し、博士論文としてふさわしいものと判断したが、一方、その構想の壮大さ、新しい学際的なテーマへの果敢なチャレンジに必然的に伴うさまざまな問題点を指摘せざるを得なかった。本論文の一つの重要な問題提起は「主権」概念と「社交性」概念の再検討であるが、そのための方法論・概念規定を扱う章がなく、情念論・人間論から国際関係論までを包括的に取り扱うという野心的な試みを遂行するための妥当性を十分に示すためにも、分析手法についていっそう自覚的・意識的であるべきであったろう。また社交や公共圏についての議論において、ヒュームのコスモポリタニズムやバークの崇高の観念に着目し、この時代に距離の観念が導入されて、水平的な次元における拡大が見られたことを説得力を持って論証したが、たとえば宮廷やサロンなどの社交空間、そこにおける「文明化の過程」を論じなかったのは、ヒュームのフランス君主制論やバークの騎士道論との関係を考えるときに見落とせない問題である。社交圏や公共圏の階層性、それらの変容に着目すれば、この時期の思想の転換がよりいっそう立体的に描かれたと思われる。それはまた社交性が排他性と他律的規律性の両義性を持ち、逆機能するという論的可能性についての分析を可能としたであろう。本論文はイングランドの周縁から発せられた新しい政治思想の枠組みを発見することが主眼であったために、それらの思想が批判、あるいは目標とするイングランド自体の叙述にやや平板さが見られた。またバークの崇高論の解釈については崇高を感ずる主体が誰であるか、という点での誤解があるのではないかという指摘もなされた。最後に、本論文は450ページを超える浩瀚なものであるが、スタイルや文章表現に難解さが見られ、展開の大筋を読者により鮮明に伝えるような叙述の形式をとるべきであった。たとえば議論の枝葉に当たる部分を脚注にまわして処理するなどの方法を考えるべきであった。これらの批判や指摘を踏まえて、今後本論文を出版して欲しいという要望が全委員から出された。

以上の審査結果をふまえ、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものとして認定する。

UTokyo Repositoryリンク