No | 216210 | |
著者(漢字) | 姚,勝旬 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ヨウ,ショウジュン | |
標題(和) | 中国法の近代化と日本 | |
標題(洋) | The Modernization of Law in China and the Influence of Japan | |
報告番号 | 216210 | |
報告番号 | 乙16210 | |
学位授与日 | 2005.03.10 | |
学位種別 | 論文博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 第16210号 | |
研究科 | ||
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文は、阿片戦争(1840年)以後動揺を重ねた清朝が、なお西洋法継受に消極的であり続け、日清戦争(1894・5年)の敗北によって漸く法近代化の必要に目覚めるに至った過程、「戊戌変法」(1898年)の失敗の後、義和団事件を契機として本格的西洋法継受に乗り出した経緯、その継受が、先に西洋法を継受した日本法を継受する形で行なわれた過程を資料を通じて明らかにするとともに、そのことが中国法近代化に対してもった意義を考察するこれを意図するものである。 中国法は、阿片戦争以後の「西洋の衝撃」(Western impact)によって動揺し、その激動の中で、法制度の西洋化・近代化が試みられた。清末、日清戦争(1895年)敗北より辛亥革命(1911年)勃発に至る約十六年間が、西洋法導入、法近代化に向かう最も重要な過渡期をなすものである。本論文は、この時期において、中華法系の崩壊に伴う新しい立法形式と内容を、その思想的・政治的背景を顧慮しつつ、全体として研究・考察しようとするものであるが、特にその過程で注目するのは、日本の果たした強い影響である(序論)。 中国の伝統社会は清朝に至っても、社会構造は基本的に従来のままで、その頂点に立つ法制度も同様であった。『大清律例』を代表とする刑法典が法制度の全体を包摂する体制もそのままで、社会の発展に即応できないものとなりつつあった(第一章)。 しかし、十九世紀が終末に近づくにつれて、改革派の知識人は、軍事や科学技術のみならず、徐々に西洋の憲政思想を受け入れるようになった。それは前代未聞の異端思想ともいうべきものであったが、宣教師の伝来や知識人の海外見聞などによって、西洋知識が国内に迅速に普及したこととともに、知識人たちは公羊学を基礎とした「更法論」「変法論」という伝統的イデオロギーを改新することによって、西洋式の改革と中国の伝統を結びつけることを努めた。新時代に対応するこれらの新思想の潮流の中で、古い儒教思想の諸説を近代化の思想として再解釈した?自珍・魏源・康有為等の改革士大夫が、大きな役割を果たした(第二章)。 「西洋の衝撃」は日清戦争以降に、事実上日本の影響に代替されるようになった。改良派の康有為・梁啓超達のみならず、革命派の孫文なども、八十年代頃から西洋の文明を現地の実感、或いは書籍の研究により相当認識してきた。この中、一部重要な改革派の知識人の憲政思想の形成に対して、日本の影響は決定的ものとなった(第三章)。 日本が幕末に開国し、特に明治の新政権が積極的に西洋文明を吸収して、改革を推進している様子は、中国知識人の一部の注目を惹き始めていたが、この動向が一挙に加速したのが、日清戦争である。こうした影響はいくつかパイプを通じて行われた。 第一に挙げられるべきは、留学・遊学である。留学生たちは、日本を拠点として憲政思想・近代法知識を中国に伝播させた。日清戦争後の早い時期に、清朝政府は日本への官費留学生の派遣と民間留学生の奨励を決定した。日本の早稲田・法政などの諸大学も、中国人留学生のために受け入れる体制を整備した。これらの措置は、一種の日本留学ブームを惹き起し、最高時には一万人近い留学生が日本に滞在していたという。彼等は政治・法律の学習を重視し、帰国後重用され、その多くがその後の政界・官界で指導的役割を果たした(第四章)。 次に挙げられるべきは、翻訳事業である。官民両面における日本文献の翻訳活動も積極的に行なわれ、広く読まれた。その結果、日本の法律が近代中国法に多く取り込まれ、特に、法律用語が大量に中国法・中国法学に導入された(第五章)。 第三には、政治視察五大臣・地方高官の外遊である。正規の学生として外国に長期滞在することができない官僚層に憲法制度の実地を見聞させるために、載沢(1905)などの中央高官を視察に赴かせ、また地方官たちを「遊学」者として送り出した。一方、日本の官民もこれに協力的で、伊藤博文首相などの日本政界・学界の有力者も載沢一行に憲政を巡る特別講義を行ない、日本式の立憲君主制を熱心に紹介した(第六章)。 第四には、中国の法律専門家の派遣と日本の法律専門家の招聘である。政治視察五大臣が訪日した後、1907年、日本式の憲政を再確認するために、達壽は法律専門家として初めて正式に派遣された。達壽は六ヶ月の訪問期間を経て帰国し、続いて駐日公使李家駒がその後任として六項目にわたる憲政調査の任務をついに完遂した。一方、日本の法律専門家も教習・顧問として中国に招聘され、法学の教育や法典の編纂などに参加し、西洋法或いは西洋化された日本法の知識を直接に伝授した(第七章)。 最後に、近代的立法作業に着手したことである。新政期に入ると、商法・民事刑事訴訟法・民法などの諸分野の法典編纂が行われ、近代的法体系の形成が促進された。この法典編纂過程において、日本の刑法学者の岡田朝太郎、商法学者の志田〓太郎、裁判官松崎義正、監獄学者小河滋次郎が招聘を受け、民法・訴訟法等を起草する作業に参加して、重要な役割を果たした(第八章)。また、岡田朝太郎は中華法系の中核である刑法典の改正作業にも積極的に参与し、刑法の近代化に貢献した。本論文は条文を対照することにより、中華民国刑法(1935年)が「大清現行刑律」の手本である「明治刑法」(1907年)の大きな影響を受けていることを明らかにした(第九章)。 中華法の伝統からみると破天荒ともいうべきこのような立法活動は、内外情勢の考慮や、清朝権力による既決事項であったこともあって、指導層の間では概してやむをえないものとして受け容れられたが、思想的抵抗が存在しなかったわけではない。礼教派の長老張之洞及び資政院議員労乃宣などは、刑事民事訴訟法(1906年)と新刑律(1907年)の起草を契機として、それらが伝統的礼教を無視しているとして批判を展開した。こうして法治派の中心人物沈家本などとの間に生じたのが、いわゆる「礼法之争」である。礼法論争は、礼教規範を内容とする「暫行章程五条」を「附則」として新刑律に付するという妥協によって落着した。この妥協は、張之洞と沈家本が、儒家思想の伝統尊重と西洋化の不可避性の認識を共有していたことにより可能となったと考えられる(第十章)。 日本法の強い影響下で各分野の立法が行なわれたのは、清朝滅亡の直前で、その多くは殆んど実施されないままで辛亥革命を迎えた。ところが、これらの未施行の諸法典は、新政権によって廃棄されず、中華民国の法制は、君主制に関する条文を削除した上、ほぼこれを全面的に継承した。これは、清末の立法が法の近代化という要請に適合していたからであろう。こうして日本の強い影響下で起草された清朝の諸法典は、その後の中国法の在り方を大きく規定するものとなったのである(第十一章)。 上述したように、中国法の近代化過程において、「西洋の衝撃」と「東洋の影響」を前後に受け、その渦中で法近代化の歴史的使命が完成された。このような法史を回顧した上で現行法の体系・文化を再分析すると、中国にとって、日本法は単なる通過点のみならず、実は日本化された西洋法を継受したのであるまいか(終章)。 以上の叙述を通じて、清末における中国法の近代化が、日本の明治維新以後の法改革に比べて、伝統の清算が不充分なままで遂行されながら、その後の法発展に重要な意義をもったこと、それへの日本の先例が、それ自体一つの法継受とよんでさしつかえないほどの重要な貢献をしたことを明らかにすることができたものと考える。 | |
審査要旨 | 本論文は、中国法の近代化、即ち中国における西洋法の継受の過程において日本の果たした役割を史実に基づいて解明し、その歴史的意義を考察したものである。 第一章において、清朝に至る伝統的中国法が、刑罰法規である「法」と、道徳や慣習などと深く関わりつつ、行政法や家族法などの法領域の規範を含んだ「禮」の二元性を有していたことを述べ、第二章において西洋文明の影響を受け始めた阿片戦争(一八四〇年)以後においても、清朝は西洋法導入の構想を持たなかったことを述べる。 しかし民間においては、儒学における進化的史観を説いた公羊学派の擡頭が「変法」思想登場の契機となった。また留学者・翻訳家等によって欧米の憲政の思想や制度が紹介され、特に日清戦争後康有為等の日本をモデルとする法制改革論が、朝廷によって取り上げられ、「戊戌変法」(一八九八年)をもたらした。これは短命に終ったが、後の改革の先駆形態として重要である、と論述する(第二・三章)。 以下第四章より第七章までは、義和団事件(一九〇〇年)を契機とした列強の圧力の下で、実質上の権力者西太后が遂に西洋法の継受を決定した後、儒家・法家双方の伝統の承継者である沈家本が立法改革の担当者となったことが述べられ、日本への留学生の派遣、翻訳作業、載澤・張謇など高官の日本派遣、岡田朝太郎など日本法律家の招聘と、その下での法典編纂作業の経緯が叙述される。 第八章・第九章は、こうして成立した商律・大清明律草案、刑律の他、訴訟法や出版法、著作権法などの内容が概観され、その特質が考察される。 第十章は、いわゆる「禮法論争」、即ち張之洞など性急な西洋法継受に対する批判者の登場と、それに対する沈家本らの反論の過程が紹介され、一方において張之洞らに洋務派的性格、他方において沈家本らに儒家的背景があり、論争が妥協に終ったことが述べられる。これに附随して張・沈の伝記及び思想的背景の叙述があり、またドイツ及び日本の法典論争の比較が試みられる。 第十一章は、こうして編纂された諸法典が、辛亥革命(一九一一年)によって殆んど実施されないままに終ったこと、しかし民国時代の立法に強い影響を及ぼし、そのことが現在においても中国法の体系原理や用語などにおける日本法との共通性をもたらしていることが述べられる。 最後に終章において、明治期における日本の西洋法継受が、重要なものを取捨選択し、国情に合わせて適宜修正していて、日本法を通じて西洋法を継受したことは、西洋法を直接継受するより合理的な政策であったこと、日本の法学者たちが西洋的法概念を漢語に訳しており、この日本製の訳語を継受したことは、法における言語の本質的重要性という点から見て、媒介者としての日本の重要性を物語るとして、本論文を閉じている。 本論文の意義としては、下記の三点が挙げられる。 (一)まず主題の選択において、幾千年の歴史をもつ中国法系を廃止し、全く基盤を異にする西洋的法を全面的に継受するという、法学史上最も重大な事象について、その過程を解明しようとしたことは、法学史のみならず、比較文化・文化摩擦という見地からも注目すべき業績である。このような研究は、近年北京大学李貴連教授などによって推進されているが、著者がこの主題の着想を抱いた時期は李教授より早いことも注目さるべきである。 (二)特に「禮法論争」に着目し、個々の論点を分析し、論争当事者たちの思想的背景を解明し、それと関連づけて論争の経過・結末を意味づけ、独日の法典論争との比較を試みたことは、法思想史の論考としても重要な意味をもつ。日本の民法典論争が英法派対仏法派と言う洋務派同士の対立であったのに対し、「禮法論争」の改革派沈家本も儒家的背景をもち、それ故「禮」の残存という仕方で決着したという説明は説得力をもつ。 (三)扱った資料については、島田正郎の先駆的業績に依拠している点もあるが、視野を広めて明治法学史の諸領域と関連づけており、他方で中国側に資料をも渉猟している点で、多くの独自の貢献をしている。 もっとも本論文には、なお望蜀の憾を抱かせるところも少なくない。まず、清末以降の中国においては、欧米の顧問や欧米留学帰国者なども多く、彼等の法典編纂に対する影響、あるいは日本法継受に対する抵抗などもあったと思われるが、その点についての叙述が不足している。また、日本法の継受の対象となった仏独法の参照が充分でなく、どこまでが西洋法の特質で、どこからが日本的継受の性格かが必ずしも明確でない印象が残る。他方、長い論文成立の過程で、日本語の不自然さや細部の誤り、記述の不統一なども随分修正されたが、依然としてそのようなものが根絶されたとは言い難い。 これら不十分と思われる点はあるものの、全体としては、法学史上極めて重要な事象について独創的かつ実証的な研究を行った本論文の意義を損なうものではない。したがって、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認める。 | |
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