学位論文要旨



No 216226
著者(漢字) 松原,英一
著者(英字)
著者(カナ) マツバラ,エイイチ
標題(和) 量子常誘電体における多段コヒーレント・アンチストークス・ラマン散乱分光
標題(洋)
報告番号 216226
報告番号 乙16226
学位授与日 2005.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16226号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 講師 中,暢子
内容要旨 要旨を表示する

アブストラクト

 Γ点における1フォノンモードが全てラマン禁制であるKTaO3について,強い2次のラマン散乱ピークを,2つのフェムト秒近赤外パルスレーザー光のエネルギー差で共鳴励起する四光波混合分光を行うと,ラマンの選択則が破れてブリルアンゾーン(BZ)端における1フォノンモードのエネルギー間隔をもった多段CARS信号が,低次の近赤外領域から高次の可視全域にわたる広い波長帯で観測されることがわかった.この現象は,対状態密度が発散的に増大するBZ端のフォノン対の凝縮による格子定数の倍化,すなわちBZの折り返しのモデルで説明することができる.

背景

 物質中の素励起を調べる光学的な実験方法として,コヒーレント・アンチ・ストークス・ラマン分光(Coherent Anti-Stokes Raman Scattering: CARS)が従来から知られている.最近,ペロフスカイト型遷移金属酸化物であるYFeO3に,光子エネルギー差があるフォノンモードに共鳴するようなフェムト秒近赤外の2パルスを照射することによって,基本波,およびその第3高調波を起点にして5次から10次,あるいはそれ以上の多段CARS信号が発生することが報告された[1].この実験の光源は,モード同期チタンサファイアレーザーの出力を,チタンサファイア結晶を媒質として再生増幅した光をポンプ光とする,光パラメトリック増幅器(Optical Parametric Amplifire: OPA)のシグナル光とアイドラー光である.これは,パルス光の時間幅を極力小さくし,電場の尖頭値を上げた光源の開発によって,試料に熱的損傷を与えることなしに,非線形光学現象のみを抽出することが可能になって初めて実現された現象であり,同時に新たなコヒーレントフォノン分光法として提案された.

 一方,反強磁性酸化物であるα-Fe2O3(ヘマタイト)において,互いに反対方向の波数ベクトルをもつBZ端のマグノン対と,これにΓ点における1マグノンを加えた3マグノンが,フォノンのアシストなしに電子双極子遷移によって直接励起され,中赤外領域でそれぞれ2マグノン,3マグノン吸収ピークとして観測されることが発見された[2].この現象では,ヘマタイトの磁性と結晶の対称性,マグノンの分散曲線と状態密度が重要な役割をはたす.中でも光学過程によってBZ端付近のマグノン対の凝縮状態が起きるということが重要である.

目的

 ペロフスカイト型酸化物KTaO3は量子常誘電体としてよく知られており,その他の側面からも盛んに研究が行われている[3,4].この物質は極低温においてもイオンの量子揺らぎによって強誘電性相転移が妨げられている.このことはKTaO3におけるフォノンモードの一部は強い非調和性をもっていることを意味する.一方,KTaO3にごく少量のNbやLiをドープ(置換)することによって,ある温度以下で強誘電性相転移が起こることがわかっている[5,6].これを量子強誘電性という.そして,ノンドープのKTaO3に紫外光を照射するバンド間励起によって静的誘電率が異常な上昇を示すことが報告されている[7,8].

 KTaO3は立方晶(空間群Oh1)の対称性をもつため,7つある光学フォノンモードは全て奇のパリティをもち,ラマン不活性である.しかし,BZ端ではフォノンの状態密度が発散的に増大すること,また酸素イオンの分極がTa-O-Ta鎖方向に強い非調和性をもつことから,互いに反対符号をもったブリルアンゾーン端付近のフォノン対の励起によって,鋭く強い2次のラマン散乱スペクトルが観測されている[9].

 このKTaO3に,Takahashiらの実験手法,すなわちフェムト秒近赤外2パルス光のエネルギー差で2次のラマン散乱ピークを共鳴励起すれば,ヘマタイトにおいてBZ端のマグノン対が選択的に励起されたのと同様に,BZ端のフォノン対の凝縮状態を引き起こすことが可能であると考えられる.さらにBZ端でのフォノン対の凝縮は結晶の対称性の変化をともなう新現象が起きると予想される.それを実際に確かめることが本研究の目的である.

結果

 フェムト秒近赤外2パルスレーザー光によって,TO4+TA(589 cm-1),TO4+TO1(692 cm-1),TO4+TO2(738 cm-1),2LO2(886 cm-1)と同定される2次のラマンピークを共鳴励起したところ,可視光の領域で,励起されたBZ端の1フォノンの周波数間隔をもった多段CARS信号が観測された.また,近赤外の低次の領域では,基本波から発する通常の多段CARSと,対称性の破れを示す1フォノンのエネルギー間隔をもった多段信号が重畳して観測された.これは,ラマン選択則の破れ,すなわち結晶の対称性がダイナミカルに変化していることを意味する.更に,通常のCARS信号と1フォノンモードの信号のピーク強度の,入射光パワー依存性を調べると,前者が入射光パワーについてほぼゼロから連続的に立ち上がっていくのに対して,後者は入射光パワーの,あるしきい値を境に急激に立ち上がることがわかった.このことは,両者が全く物理的に異なるメカニズムによって生じていることを意味する.

考察

 2パルス光による2次ラマンピークの共鳴励起によってBZ端の1フォノンモードが観測されるという,この現象のメカニズムはX点からΓ点へのブリルアンゾーンの折り返しのモデルで説明することができる.まず,2パルスによる光励起によって互いに反対方向の波数ベクトルをもったX点のフォノン対が結晶中に作り出される.X点におけるフォノンの励起は隣り合う単位胞の互いに位相がπだけずれた格子振動を意味する.よって格子定数がダイナミカルに倍となり,ブリルアンゾーンが半分に折り返される.こうして,本来ラマン禁制であるはずの1フォノンがコヒーレントフォノンの寿命内でマルチステップ信号として観測されることが説明できる.

まとめ

 Γ点における1フォノンモードが全てラマン禁制であるKTaO3について,強い2次のラマンピークを2つのフェムト秒近赤外パルスレーザー光のエネルギー差で共鳴励起する四光波混合分光を行うと,ラマンの選択則が破れ,ブリルアンゾーン(BZ)端における1フォノンモードのエネルギー間隔をもった多段CARS信号が,低次の近赤外領域から高次の可視全域にわたる広い波長帯で観測されることがわかった.この現象は,対状態密度が発散的に増大するBZ端のフォノン対の凝縮による格子定数の倍化,すなわちBZの折り返しのモデルで説明することができる.また,この現象はBZ端のフォノンの凝縮によるダイナミカルな相転移であるという意味で,物理的に重要な新しい現象の発見である.同時に,中性子散乱を用いずに,分光によってBZ端のフォノンモードを観測する新たな実験手法としても利用することができる.

参考文献[1] Jun-ichi Takahashi et al, Phys. Rev. B68, 155102(2003).[2] S. Azuma et al, Phys. Rev. B 70, in press.[3] E. Courtens et al, Physca B219-220, 577(1996).[4]T. Neumann et al, Phys. Rev. B46, 10623(1992).[5] R. L. Prater and L. L. Chase, Phys. Rev. B 23, 221(1981).[6] P. Calvi et al, Phys. Rev. B 53, 5240(1996).[7] Masaki Takesada et al, J. Phys.Soc. Japan 72, 37(2003).[8] Ikufumi Katayama et al, Phys. Rev. B 67, 100102(2003).[9] W. G. Nilsen and J. G. Skinner, J. Chem. Phys, 47, 1413(1967).
審査要旨 要旨を表示する

 誘電体における構造相転移発現の微視的機構は今なお未解明であり、基礎物理学研究の重要な課題の一つである。特に強誘電性相転移は応用上も究めて重要であり盛んに研究が続けられている。一方、近年の超短パルスレーザー技術の進歩により、強い光によって、固体中にマクロに位相がそろった格子振動波、すなわちコヒーレントフォノンを作り出すことが可能となった。これにより、ソフトモードやフォノンポラリトンの振動やその緩和を時間領域で追跡し、従来得られなかった新たな知見が得られるようになった。特に、パルス光による大振幅のコヒーレント格子振動の励起によって、相転移を人為的に制御する技術は基礎応用両面から注目を集めている。最近、フェムト秒近赤外2パルス光照射によって、YFeO3結晶で高次のコヒーレント・アンチストークス・ラマン散乱(CARS)信号が発生することが報告された。本研究では、このような背景のもとで、量子常誘電体として知られるペロブスカイト型の酸化物誘電性結晶、KTaO3およびSrTiO3において、2色の強いフェムト秒パルスによって、高次のCARS分光を行ったものである。ここで、フェムト秒近赤外2パルス光の周波数をフォノン周波数の近傍に同調させ、それを結晶に照射し、フォノンに起因する高次の非線形光学信号を検出する新しい分光法を提示している。その信号の時間応答特性、周波数特性、角度依存性から、過渡的な結晶の対称性の変化がラマン選択則の破れとして観測されることを見出している。この現象を説明する為に、対称性の高いブリルアンゾーン端におけるフォノンが大振幅で励起されることによって結晶の格子定数が一軸方向に倍となり、ブリルアンゾーン折り返しモードが光学活性となるというモデルを提示している。

 KTaO3およびSrTiO3は結晶としては最も高い対称性をもつ立方晶の構造をとるペロブスカイト型酸化物であり、Γ点における光学フォノンモードは全てラマン不活性である。しかし、波数ベクトルの和がゼロとなるようなフォノン対による2次の散乱過程は許容となり、状態密度が発散的に増大するブリルアンゾーン端のフォノン対が強いラマン散乱信号をもたらす。この2次のラマンピークを2色のフェムト秒近赤外パルスにより、それらの光子エネルギー差を同調して共鳴励起すると、通常の高次CARS信号のみならず、ラマン選択則では禁制の1フォノンの周波数間隔をもった系列の信号が、低次から高次のものまで、近赤外から可視全域に渡って効率よく発生することを見出した。特に音響フォノンによる高次信号は、ブリルアンゾーン端のフォノンモードの凝縮による過渡的な対称性の変化を示唆するものである。

 本論文は以下の6章からなる。

第1章では、本研究の背景として、ペロブスカイト型酸化物の光学的研究の変遷、光機能素子における結晶の対称性の考察の意義、コヒーレントフォノン分光法について概説し、これらを踏まえた上で本研究の目的を示し、さらに本論文の構成について述べている。

第2章では、本研究の対象物質であるKTaO3およびSrTiO3の基礎物性について解説している。また、本研究と深い関係をもつ構造相転移やフォノンの観測方法、KTaO3をはじめとする量子常誘電体についての最近の研究例を紹介している。

第3章では、本研究で行った実験方法について述べている。まず、KTaO3試料の作製方法、試料の透過スペクトルやラマン散乱スペクトルなどの基礎光学データ、使用した光源および波長変換の方法、本研究に関連する非線形光学現象ついて述べている。続いて第4章では、KTaO3とSrTiO3の可視および赤外域でのフェムト秒2色パルスによる高次CARS分光の実験結果と解析結果について詳述している。

第5章では得られた実験の結果について考察している。KTaO3において観測された、ラマン選択則を破る1フォノンによる高次CARS信号の周波数分布と波数ベクトル分布を示し、入射光パワーに対するしきい値的特性が現れる理由や結晶軸方位と励起されるフォノンの波数ベクトルとの関係について論じている。またこれらをSrTiO3での結果と比較することにより、フォノンの非調和性の大小、大振幅のフォノン励起にともなう動的な対称性の破れについて議論を行っている。

第6章では、本研究の結果をまとめ、最後に課題と今後の展望を述べている。

 以上のように本研究は、2色の波長可変なフェムト秒光源を用いた高次のCARS分光法を、パルス誘導ラマン散乱法、ポンププローブ法に次ぐ第3のコヒーレントフォノン研究法として提案しその実証例を示したものである。本研究によって、従来の手法では得られなかったコヒーレントフォノン対の高密度生成を達成し、フォノンの非調和性に起因する非弾性散乱効果を新たに見出した。この研究は、光による相転移現象の制御にかかわる新しい知見を提示し、中性子散乱を用いずにブリルアンゾーン端におけるフォノンを検出する手法を提示したという点で意義のある成果である。これらは、物理工学の発展への寄与は大きいと判断できる。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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