学位論文要旨



No 216245
著者(漢字) 杉下,元明
著者(英字)
著者(カナ) スギシタ,モトアキ
標題(和) 江戸漢詩 : 影響と変容の系譜
標題(洋)
報告番号 216245
報告番号 乙16245
学位授与日 2005.04.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16245号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 藤原,克己
 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京文化研究所 教授 大木,康
 帝京大学 教授 延廣,眞治
内容要旨 要旨を表示する

本論文で論じたのは江戸時代から明治初期にかけての日本漢文学についてである。全体を四部に分け、第一部を「元禄〜享保の漢詩文」、第二部を「江戸後期漢詩文の諸相」、第三部を「漢詩表現が俗文藝にあたえた影響」、第四部を「幕末から近代へ」とした。

巻頭に序論として「山を詠む詩」を置いた。江戸時代をとおして制作された、山を詠んだ漢詩の特色を考察しつつ、それらの詩の詠まれかたは十八世紀末から十九世紀前半、すなわち元禄から享保に一つの転機があったことを論じた。

これを受けて第一部では、木門すなわち木下順庵の門人を中心に、元禄から享保にかけての江戸漢詩の特色を明らかにした。

順庵の門下に若者たちが集い、盛んに詩作をおこなったのは、元禄期である。第一章「祇園南海の詩作と推敲」、第二章「一夜百首考」では祇園南海を例にとり、この時期の木門の詩作の実態を解明した。

さらに第三章「『室新詩評』考」では『室新詩評』という書物を取り上げ、元禄後期における新井白石・室鳩巣らの詩作を考察した。この書物からは白石や鳩巣らは漢詩の制作においてかなり高度な境地に達していたことが窺える。にもかかわらず、彼らの詩人としての名は今日、荻生徂来(徂徠とも)の門下の人々に比べて必ずしも高いとはいえない。その理由の一つは、正徳期の白石らが単なる詩人というよりも政治にかかわることを選んだことにあろう。正徳期の白石らが漢詩を外交のための道具として利用した事情を考察したのが、第四章「朝鮮の学士李東郭」である。この章では、正徳元年(一七一一)に来日した朝鮮通信使の一人李東郭と、白石らとの交渉について論じた。ちなみに李東郭は浮世草子にも主人公として登場するなど、同時代の人々にも広く知られた存在であった。第四章ではこの点にも着目し、漢文学と俗文藝のかかわり、特に俳諧と漢文学に幾つかの共通点があったことについても論じた。

このように正徳期の白石は政治に深く関与していたが、つづく享保期に失脚する。失脚後の白石を慰めたのは、漢詩であり、かつて同門で学んだ友人たちとの友情であったと思われる。第五章「新井白石と八居詩」では白石が、清の詩人魏惟度の詩に次韻し、友人たちにも次韻を求めた書物『八居題詠』に着目し、享保期の白石・鳩巣らの交流の実態を明らかにし、彼らの交流の結果、知的な技巧に富む作品が成立したことを述べた。また第六章「『停雲集』版本考」では、享保三年(一七一八)に編集され、同十二年に刊行された、新井白石編の詞華集『停雲集』について書誌学的な考察を加えた。

第一部からは江戸漢詩の特色として、同時代の朝鮮や清など東アジアとかかわりがあったこと、浮世草子など俗文藝とも共通点が見られること、特に俳諧と深い関係があったことが知られる。第二部ではこれら三点に重点を置き、十八世紀後半から十九世紀初頭の江戸漢詩の特色を論じた。

まず第一章「赤城の霞」では、木下順庵・祇園南海・太宰春台・大田南畝らが、『文選』に由来する「赤城」の「霞」という表現をしばしば用いていることに着目し、十八世紀の江戸漢詩について概説的に考察した。見慣れた光景を眼前にしつつ空想を馳せるために、こういった表現が有効であったこと、十八世紀の詩人たちが六朝文学に深い関心を寄せていたことなどを論じた。

第二章「美人を詠む詩」では、漢詩と俗文藝の関わりを中心に論じた。安永・天明のころの江戸漢詩には「美人角觝」の如く、「美人」を題とした詩が多く見られる。同時代の俳諧に「美人」という語が頻出するのもこれと無縁ではないこと、諧謔味のある漢詩が流行したのと軌を一にして、諧謔味のある随筆も書かれていたことなどを明らかにした。

第三章「松村梅岡と清の汪鵬」では、江戸漢詩における海外との交流について論じた。安永五年(一七七六)に刊行された詩集『梅岡詠物詩』に着目し、この詩集が成立するために清人の協力を得た事情、さらに梅岡の詠物詩が清国に読者を得るにいたった経緯などを解明した。

第四章「『源氏物語』を詠む詩」では、江馬細香・頼山陽などの詩に『源氏物語』の一場面を詠み込んだ表現があることに着目し、それに先立って日本の古典を詠んだ漢詩である新井白石「容奇」と比較した。

第五章「一茶の享和年間」では、俳諧と漢文学のかかわりについて論じた。享和三年(一八〇三)ごろの一茶が『詩経』などの漢籍に親しんでおり、それを創作に生かしていた事情を解明した。

最後に第六章「近世詩歌から近代へ」では、十九世紀の前半、志筑忠雄・大槻平泉・斎藤竹堂らに西洋文学の影響を受けた詩があることに着目し、近代文学の嚆矢ともいうべき特色があることを明らかにするなどした。

第三部はやや視点を変え、漢詩が江戸文学にあたえた影響について検討した。その前提として第一章「蒹葭水暗蛍知夜」では、「蒹葭水暗くして蛍夜を知る、楊柳風高うして雁秋を送る」という許渾の詩句を例にとり、中世以前の漢詩の受容について考察した。中世以前、我が国の文学に影響をあたえた漢詩といえばむしろ許渾らの詩であり、その傾向が江戸時代に大きく変化したことを明らかにした。次に第二章「年年歳歳花相似」では、「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という詩句を例にとり、『古文真宝』『唐詩選』と江戸文学の影響関係について論じた。中古以来の雅文藝の流れは近世をもって一旦途切れると考えられること、近世に広く受容されるという段階を通過できなかった詩句は、近代には忘れられたものも多いことなどを明らかにした。

ついで第三章「二月中旬已進瓜」では、「二月中旬已に瓜を進む」という、王建「華清宮」の一句を例にとり、『三体詩』と江戸文学の影響関係について論じた。また第四章「春宵一刻値千金」では、宋詩「春夜」と江戸文学の影響関係について論じた。

最後に第五章「十月蟋蟀入我牀下」では、「十月蟋蟀我が牀下に入る」という「七月」の詩句を例にとり、『詩経』が我が国の文学に及ぼした影響について論じた。この詩句が王朝の和歌以来、近代の正岡子規の俳句に至るまでさまざまな形で影響をあたえていること、しかしながら『詩経』をもとに俳句を創作することはおおむね明治三十年ごろに伝統が途切れることなどを明らかにした。

以上を念頭に置きつつ、第四部では明治三十年ごろまでの日本漢文学について論じ、江戸漢詩の伝統がどのように近代へ受け継がれていったかを考察した。

第一章「ナポレオンを詠む詩」では、第二部第六章を受けつつ、斎藤竹堂「外国詠史」を中心に、ナポレオンを扱った江戸漢詩について論じた。

漢詩が近代の散文へどのような影響を与えたかを考察したのが、第二章「若き日の成島柳北」と第三章「斎藤緑雨と漢文学」である。第二章では安政年間の柳北の詩に則しつつ、江戸時代人にとって漢詩という形式が、近代の随筆の持つ役割の一部を担っていたことを論じた。ついで第三章では、明治の文学者斎藤緑雨が漢籍について或る程度の知識を有しつつも、それを漢詩という形で表現することはせず、小説の描写などの表現に用いているという事情を論じた。

第四章「『逍遙遺稿』はいかにして推敲されたか」では、子規・緑雨らと同世代の漢詩人中野逍遙の『逍遙遺稿』について、書誌学的な考察を加えた。逍遙に着目したのは、彼がほかの漢詩人とは一線を画する、文学史上重要な人物だからであり、また『逍遙遺稿』は今日見るような形になるまでに、特異な過程を経ているからでもある。第五章「中野逍遙考」も同様の視点に立ちつつ、漢詩が近代詩に与えた影響を考察した。逍遙らの漢詩は島崎藤村の新体詩や吉井勇の和歌に影響をおよぼすという形で、近代に受け継がれたと考えられる。

最後に木下順庵の年譜を附した。これまで順庵およびその門下の研究は進んでいると必ずしも言いがたい。しかし江戸漢詩史のうえで彼らはきわめて重要な位置を占めていると考えられるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、江戸前期から明治に至る漢詩史を、各時期の漢詩は前代から何を受け継ぎ、また逆に何が変わっていったのかという観点に立ちつつ、詳細に検討したものである。構成は、序章に「山を詠む詩」の論考を掲げ、第一部「元禄〜享保の漢詩文―木門を中心に」には「祇園南海の詩作と推敲」等6編、第二部「江戸後期漢詩文の諸相」には「赤城の霞―江戸中・後期の漢詩概観」等6編、第三部「漢詩表現が俗文藝にあたえた影響」には「蒹葭水暗蛍知夜―中世以前の漢詩受容について」等5編、第四部「幕末から近代へ」には「ナポレオンを詠む詩」等5編の論考をそれぞれ収め、巻末に「木下順庵年譜稿」を付載する。

序章では、山を題材にして詠んだ漢詩を例に取りながら、元禄から享保にかけて江戸漢詩には大きな転機があったことを指摘し、あわせて江戸漢詩の時期区分についても触れる。

第一部では、18世紀前半までの江戸漢詩の特質を、木門(木下順庵門)の詩人達を中心に据えて詳細に検討する。祇園南海の詩集により南海十代の詩作の実態を解明し、新井白石の詩評を分析して彼らが韻律にも見識を持ち、一般には荻生徂徠の提唱とされる古文辞学にすでに関心があったことを指摘するなど、従前の研究を大幅に前進させている。また、この期の漢詩の朝鮮や清との深い関係、俳諧等の俗文学との交渉を明らかにする。

第二部では、18世紀後半から19世紀前半の江戸漢詩が、前代の漢詩にすでに見られた特色を、どのように継承・発展させていったかを論じる。俗文学との交渉については、この時期の漢詩に頻出する「美人」の語が、同時期の俳諧にも数多く見出されること、庶民的とされる一茶の俳諧にも『詩経』の顕著な影響があること等を、具体例に基づき丁寧に論証する。また、海外との交流については、松村梅岡の『梅岡詠物詩』を例に、この時期に日本と中国の漢詩人の間の交流が一層進んだことを明らかにする。

第三部では、中国漢詩の著名な詩句が江戸の俗文学にどのように取り入れられているかを、豊富な挙例により詳細に検証する。『古文真宝』『唐詩選』『三体詩』『詩経』等々の漢詩中の詩句が、狂詩、俳諧、狂歌はもとより、浮世草子、談義本、浄瑠璃、噺本等にまで引用されることを指摘し、中国漢詩が江戸の俗文学に与えた影響の大きさを確認する。

第四部では、江戸漢詩が近代文学にどう継承されたかを論ずる。斎藤竹堂の「外国詠史」を中心に、漢詩が西洋の歴史を詠むまでに素材を広げた様子を詳述し、また成島柳北における漢詩文の意味を検討して、彼には漢詩が随筆や日記の役割を果たしたことを指摘する。さらに、夭折した中野逍遙の恋愛詩が、島崎藤村の新体詩等に強く影響していることを論証して、江戸漢詩と近代詩歌に連続性があることを指摘する。

巻末の木下順庵の年譜は、今後、遅れがちな木門全体の研究に資する詳細な年譜である。

従来の江戸漢詩研究が、各時期における詩風の相違のみをもっぱら問題としてきたのに対し、本論文ではそれに加え、前代からの連続性を重視する視座を併せ持つことにより、詩風の変遷についての分析を、正確かつ立体的にした点が卓抜である。また、漢詩と散文を含めた他ジャンルとの交渉を、資料を博捜して丹念に検討することにより、江戸時代文学中に占める漢詩の意義を明らかにしたところに、極めて大きな意義がある。中国の漢詩との関係など、今後また検討を重ねてゆく余地のある箇所もあるが、それはむしろ本論文の成果によって明らかになった課題であり、本論文の価値を損じるものではない。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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