学位論文要旨



No 216249
著者(漢字) 井上,貴子
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,タカコ
標題(和) 近代インドにおける音楽学と芸能の変容
標題(洋)
報告番号 216249
報告番号 乙16249
学位授与日 2005.04.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16249号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 渡辺,裕
 東京大学 助教授 長木,誠司
 東京大学 助教授 石橋,純
 東京大学 助教授 井坂,理穗
 千葉大学 教授 柳沢,悠
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、英領インドにおいて、ヨーロッパの音楽学がインド音楽研究に適用され、その影響を受けた新しいインドの音楽学の概念、理論、方法などが芸能の衰勢に及ぼす影響を考察するものである。全体は大きく二部に分かれ、第一部では、主に18世紀末から印パ分離独立前後までのイギリス人及び英語教育を受けたインドの知識人による音楽研究の特質を明らかにし、そこで培われたインド音楽観と文化政策を検証する。これによって、帝国主義的拡大と手を携えて非ヨーロッパ世界にもたらされた「音楽学」という営為そのものを社会的文脈のなかで捉え直し、その営為が大英帝国最大の植民地であったインドでいかに展開したのかを考察する。第二部では、このようなインド音楽観と文化政策が実際の芸能に及ぼす影響を、南インド、タンジャーヴールの二つの芸能、ティヤーガラージャ・アーラーダナーとバーガヴァタ・メーラを取り上げて考察する。これらは、タミル語話者多住地域であるタンジャーヴールで、16世紀以降、テルグ語・マラーティー語を母語とする外来の政権の支配下、宮廷の庇護を受けたバラモンたちによって育まれたテルグ語による芸能であるという共通点をもつが、前者が今日南インド最大の音楽祭として定着する一方、後者は存続の危機にある。したがって、両者の比較検証は、芸能の衰勢を決定する要因を明らかにするために有効である。

ヨーロッパ人によるインド音楽の学術的研究は18世紀末に東洋学者によって開始され、19世紀末には比較音楽学者に受け継がれていった。それは、インド音楽が西洋音楽にとっての「他者」として構築されていく過程であった。ヨーロッパの変動を退廃と捉える者は、過去の姿を保持しているインドに憧憬のまなざしを向け、ヨーロッパの変動を進歩と捉える者はインドが停滞していると考えた。これは、インドの高等教育への英語導入をめぐる「オリエンタリスト」と「アングリシスト」の対立とパラレルである。北インドでは、音楽に対する「オリエンタリスト」的まなざしは、インド人知識人によるヒンドゥー音楽復興運動へとつながったが、南インドでは「正統性」の保存あるいは「正統」な音楽の普及に関心が向けられた。

東洋学も比較音楽学も西洋音楽とインド音楽を「比較する」という意味では変わらないが、その方法は変化した。東洋学者は音楽研究に比較言語学を応用したが、比較音楽学者は、セント法のような、西洋古典音楽を基準として生み出された「科学的」かつ「合理的」な研究方法を採用し、「憧憬のまなざし」を排除した。また、録音技術の進歩は、芸能が上演される文脈から鳴り響く音楽のみを取り出して分析することを容易にし、音楽学の領域が確定されていった。これによって、かつて東洋学者が重視した詩的・宗教的・哲学的側面や、身体性を伴う包括的な芸能理解の側面は音楽学の領域ではなくなった。「芸術」としての自律性を獲得した芸能は、従来の宗教的な文脈から切り離され、世俗的な「ステージ・パフォーマンス」として上演されるようになった。以降、芸能の上演をめぐる宗教的・政治的対立を調停する方便として、「芸術至上主義」的な見解が頻繁に使われるようになる。

この頃から、「芸術」の保護育成をめざして音楽会議が開催され、音楽協会が相次いで設立されるようになる。科学的方法を導入したインド音楽研究は、その重要な目的の一つであり、特に音組織や記譜法などが議題にのぼった。統一的な理論体系を構築することは、インド音楽の普及と学校教育への導入に不可欠なものとみなされた。さらに、サンスクリット語の文献は「科学的なるもの」として再発見され、その記述と現実の音楽との継続性を記述したインド音楽史が構築されていった。こうして、多様な芸能が一つの源に還元され、インドの伝統遺産としての「芸術」という地位を獲得し、中央の文化政策の根幹をなす「多様性のなかの統一」という国家理念を象徴するようになる。一方、国家レベルにとっての「多様性」の側にあるタミルナードゥ州では、タミル至上主義的な文化政策が強化された。インドの現実は多様であって「統一」が不在なのである。

では、このように形成された音楽観とそれに基づく文化政策は、実際の芸能にどのような影響を及ぼしているのか。ティヤーガラージャ・アーラーダナーとは、タンジャーヴールのマラーター支配末期に活躍した音楽家ティヤーガラージャ(1767-1847)の命日に行われる儀礼的芸能である。当初、アーラーダナーは単なる祖霊祭であったが、20世紀に入ってから音楽が導入され、南インドを代表する音楽祭へと発展した。その要因は、伝承と享受のシステムが「民主化」されたことに求められる。「民主化」とは、師弟伝承やカースト、宗教などの枠を超え、誰でも望めば自由に芸能を学んで専門家になれること、芸能の保護育成が、特定のパトロンの手を離れ、多数の人間が集まって設立された組織などによって行われることを意味する。その過程で、ティヤーガラージャは音楽の聖者として崇拝の対象となり、アーラーダナーはタンジャーヴールという一地方都市の儀礼に留まることをやめた。このことは、「芸術」を重視する者と「バクティ(神に対する帰依)」を重視する者の間の論争を招くことになる。両者は、ティヤーガラージャ作品の芸術性の高さを認める点では一致する。一方で、アーラーダナーの挙行をめぐる派閥対立は深刻化した。「芸術」の側面すなわち音楽祭の挙行に関しては派閥間で合意が成立したが、「バクティ」の側面すなわち儀礼の司祭権に関しては今日まで裁判が続いている。儀礼的芸能が「芸術」と「バクティ」という二つの側面から捉えられるようになったことは、「芸術至上主義」のみでは調停できない側面をかえって顕在化させているといえよう。

バーガヴァタ・メーラは、タンジャーヴール近郊の村のヴィシュヌ寺院で、ナラシンハ(人獅子の姿のヴィシュヌ神)生誕祭に上演される儀礼的芸能である。今日も上演を継続している村は3村にすぎず、マラーター政権の崩壊に伴って著しく衰退した。その最大の要因は、バラモン男性のみを担い手とし、特定の寺院で上演されるテルグ語舞踊劇であるという特殊性を維持し、「民主化」されていないため、パトロンの不在が上演停止に直結してしまうことである。メラットゥール村の上演団体の場合、バーガヴァタ・メーラを寺院儀礼の文脈から切り離して村外で上演し、上演技術の向上に努めることによって「芸術」としての自律性の獲得を試みているが、主要演目の『プラフラーダ物語』は門外不出で、担い手はバラモン男性のみに限定され、彼らの間に「民主化」の意志は希薄である。彼らは「芸術」と「バクティ」との狭間で上演の継続に苦慮しているといえよう。また、バラモンによるテルグ語の舞踊劇であるという特徴は、タミルナードゥ州の、反バラモン的傾向をもつタミル至上主義的な文化政策と相容れない。そのため、州政府からの補助がほとんど受けられず、上演費用の多くは担い手自身の負担となっている。

担い手たちは、上演し続けることによって伝承の正統性を証明し、その「歴史」を文字として定着させるという試みにも着手した。このことは、ヨーロッパの「他者」として描かれてきたヒンドゥー音楽の復興運動を推進したインド人知識人たちによる「偉大な過去の物語」の構築の試みや、ティヤーガラージャ・アーラーダナーにおいて、音楽祭が統一されても儀礼の司祭権をめぐる対立が解消しないことともパラレルである。バーガヴァタ・メーラの担い手たちは、正統な伝承者であることを自らの存在証明としているからこそ、社会的に不利な状況をあえて引き受けるのであろう。そこに、「芸術」をめざすことによって現実的な資金などの問題を解決したいと考えながら、寺院儀礼との結びつきを維持し「民主化」を拒否するという矛盾した行動様式が生じている。さらに、このことは、国家レベルでは、独立インドが「不在」としての「統一」をめざし、現に存在する「多様性」に対して十分な配慮に欠けていることにも対応する。州レベルでは、タミルナードゥ州のめざす「統一」は州内の「多様性」に対して抑圧的である。

以上の考察から、芸能が文化・社会・政治・宗教などの文脈から切り離され「芸術」としての自律性を獲得すること、担い手がカーストや宗教、性別などを問わず「民主化」されることが、英領期以後のインドの社会変動のなかで、芸能の衰勢を左右する最大の要因となってきたといえよう。芸能が自律的な存在として「美的価値」をもち、その価値はそれ以外の何物にも左右されるものではないという認識を証明する手段が、ヨーロッパの音楽学のもたらした「科学的方法」であり、それに基づいて再解釈されたサンスクリット語文献の記述を応用して構築されたのがインドの音楽学であった。その結果、芸能は「科学的研究」の対象として自律的な領域を獲得したようにみえるが、儀礼的側面が「芸術」という枠組みから切り離されたために、むしろ上演をめぐる対立が顕在化することになった。「芸術至上主義」は文化・社会・政治・宗教などの対立を調停するための方便としてしばしば用いられる。「芸術」は保護育成されるべきものであるという理念に反対する者はいないが、芸能が上演される現実には、対立の原因となりうる様々な文脈が付着し、芸能の衰勢はそれらの文脈に左右されている。このことは、「科学的研究」が「芸術」というイデオロギーを強化するのに加担していること、「芸術」というカテゴリーが「神話」にすぎないことを表すといえよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、イギリス領インドにおいてヨーロッパの音楽学がインドの音楽研究に適用されていく過程と、そのなかで培われたインド音楽観が芸能の衰勢に及ぼした影響を考察するものである。本論文は主に二つの課題を扱っている。第一に、帝国支配下のインドの社会的文脈のなかで、当時のイギリス人及びインド人知識人によるインド音楽研究を文献資料から捉え直すことである。第二に、このように形成されたインド音楽観やそれに基づく文化政策が、独立後のインドにおける芸能の存続や衰退を決定づけたことを文献資料や現地調査をもとに実証し、近現代のインドにおける芸能のあり方を明らかにすることである。

本論文は序論、第一部「英領インドの音楽学」(第一章〜第四章)、第二部「タンジャーヴールのテルグ語芸能」(第五章〜第七章)、結論、参考文献、付録(地図・資料・写真)から構成されている。目次などを含めて総計528頁、本文のみで400字詰め原稿用紙約1500枚の分量に相当する。以下、それぞれの部分の概要を紹介する。

第一章「東洋学の時代」は、18世紀末から19世紀末までを扱い、イギリス人のインド音楽観や、S.M.タゴールやチンナスワーミ・ムダリヤールをはじめとするインド人知識人による初期の音楽研究を取り上げている。第二章「比較音楽学の時代」は、比較音楽学の方法を採用した19世紀末から20世紀中葉までのインド音楽研究を分析している。ここでは、比較音楽学者が、セント法のような、西洋古典音楽を基準として生み出された「科学的」かつ「合理的」な研究方法を採用したことや、当時の録音技術の進歩によって、芸能が上演される文脈から音楽のみを取り出して分析することが容易になり、音楽学の領域が確定されていったことが指摘されている。第三章「南インドの音楽学ーー民族音楽学の時代へ」では、1930年代から50年代にかけての南インドに焦点が当てられ、全インド、南インド、タミル地方というように様々なレベルにおいて独自の音楽学の構築を求める動きが展開していたことが論じられている。また、この章の末尾ではイギリス領インドにおける音楽学の特質がまとめられ、「科学」としての音楽学の確立をめざす動きや、「芸術至上主義」が強化されていく過程が明らかにされている。第四章「独立後の文化政策」では、中央政府とタミルナードゥ州政府の文化政策が、音楽学や「芸術至上主義」との関係を中心に論じられている。

第二部では、まず第五章「タンジャーヴールの芸能史」でタミル語文化の中心地であったタンジャーヴールにおける芸能の担い手とパトロンとの関係、芸能を取り巻く社会状況がまとめられている。第六章「ティヤーガラージャ・アーラーダナー」は、マラーター支配末期に活躍した音楽家ティヤーガラージャの命日に行われる儀礼的芸能に焦点を当て、これが20世紀に入ってから南インドを代表する音楽祭へと発展した過程を明らかにしている。第七章「バーガヴァタ・メーラ」は、前章とは対照的に、今日までに大きく衰退した儀礼的芸能の事例として、テルグ語舞踊劇のバーガヴァタ・メーラの変遷を論じている。これらの分析を通じて、インドの社会変動のなかで芸能の存続を決定づける重要な要因としては、芸能が「芸術」としての自律性を獲得することや、担い手がカーストや宗教、性別などを問わず「民主化」されることがあると指摘されている。

以上のような内容の本論文は、近現代のインド音楽・芸能の変遷という先行研究の少ないテーマを扱った画期的な研究成果である。植民地期以降のインドの音楽研究の時系列的な変化を豊富な文献から明らかにすると同時に、現地調査で収集した芸能の実際のあり方に関する様々な形態の資料をもとに、その特徴を詳細に表したことは、本論文の重要な功績である。

また、本論文はヨーロッパで成立した音楽学が非ヨーロッパ世界に与えた影響を分析したものであり、広く「音楽学」そのものを問い直している点でも意義をもつ。植民地期以降のインドにおける「芸術至上主義」台頭の過程を明示したことは、音楽・芸能をめぐる認識そのものを再検討するための重要な示唆を与えている。

さらに本論文の意義として、インドのなかでも南インドに注目し、従来の北インドを中心としたインド音楽に関する記述とは異なる新たな視点を提示した点があげられる。全インド、南インド、タミル地方という様々なレベルにおける独自の動きが明らかにされると同時に、国家に対しては「多様性」の側にある地方レベルにおいて、地方内部の「多様性」を抑圧する動きのあることを指摘し、インドにおける「統一」と「多様性」の概念を問い直すものとなっている。

むろん欠陥がないわけではない。そのひとつは、「芸術の自律性」「芸術至上主義」の概念がややあいまいである点である。審査員からは、芸術の自律性には多様なあり方が存在するとの指摘や、知識人層の音楽観や芸術至上主義の影響をいかに評価すべきかについて、具体的な質問がよせられた。また、「芸能」という概念枠組み自体を歴史的に捉え直すべきであるとの指摘もよせられた。さらに、インド、あるいは南インドにおける音楽・芸能の変遷の特徴を、他地域との比較を視野に入れながら議論することや、芸能の経済的側面を考察することも今後の課題として挙げられた。しかしながら、これらの問題点は、本論文が博士学位論文としてきわめて水準の高いものであることを否定するような性格のものではない。したがって、本審査委員会は全員の一致で本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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