学位論文要旨



No 216251
著者(漢字) 石神,靖弘
著者(英字)
著者(カナ) イシガミ,ヤスヒロ
標題(和) プロセスモデルを使用した日本の自然植生に対する温暖化の影響予測
標題(洋)
報告番号 216251
報告番号 乙16251
学位授与日 2005.05.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16251号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大政,謙次
 東京大学 教授 横山,伸也
 東京大学 教授 蔵田,憲次
 東京大学 教授 宮崎,毅
 鳥取大学 教授 恒川,篤史
内容要旨 要旨を表示する

IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告によると,大気中の温室効果ガス濃度の増加によって,気候に対し正の放射強制力が生じ,地表が暖まって気候の変化が現れるようになっている。温室効果ガス濃度の増加の原因はほとんどが化石燃料の使用,土地利用の変化および農業といった人間活動に起因していると考えられる。こうした気候変動に関しては,地球規模での予測の信頼性は依然として低く,程度も不確かであるが,一部の地域における極端な高温現象,洪水,旱魃の頻度の増加,その結果としての火災,疫病の発生,さらに,生態系の構成,一次生産力などの機能に大きな変動が起きる可能性が指摘されている。陸上生態系を構成する植生は生存する動植物と環境の微妙なバランスのもとに成立しており,温暖化による気候条件の変化が,そのバランスを崩し,分布や構成に大きな影響を与えると考えられる。また,植生を構成する植物は,光合成によって地球上の炭素循環に多大な影響を与え,それと同時に,温暖化と大気中の二酸化炭素濃度の増加は,陸上の植物に影響を与える。気候変化は森林樹種が成長し,森林として更新,確立するよりも速い速度で進行すると考えられており,新しい生態系が確立し,山岳地域の植生では移動できる余地が減少するために,絶滅する種が現れる可能性もある。

植生に対する温暖化の影響のメカニズムに関しては,依然として不確かな部分が多いが,変化の様子や影響の規模を明らかにしていくことは重要な課題といえる。さらに,現存する自然植生のように,温暖化に対する対策を講じることが難しい対象については,今後,温暖化によってどのような影響が,どのように現れるかを注意深くモニタリングしていく必要がある。そのためにはどのような場所で影響が顕在化しやすいか,自然植生が消失または変化するリスクがあるのかを明らかにする必要がある。

温暖化が植生に与える影響を予測するために,さまざまな種類の植生モデルが開発されている。それらのモデルは対象と方法により分類されている。モデルの対象としては(1)森林などがつくり出す純一次生産力(NPP:Net Primary Productivity)や窒素・炭素などの物質循環の推定,(2)植生,植物群落や個体の地理分布の推定が挙げられる。方法としては,代表的なものとして,統計的手法を用いた経験的モデル,植物生理的なプロセスに基づいて構築されるプロセスモデルが挙げられる。近年,プロセスベースの植生地理モデルが注目されている。これらのモデルは,温度,水,光条件など植物種の生理学的条件および資源制約条件に基づき,異なる環境下においてどの植物種が潜在的に分布するかを推定するモデルであり,光合成などの植物の生産プロセスを含んだものなど,これまで多くの全球モデルが開発されている。しかしながら,これまで,わが国においては,植生の分布を推定する場合,統計的手法を用いる場合がほとんどであり,植物の内部の機構や,生産プロセスを含んだモデルは開発されていない。地球の温暖化は,大気中の二酸化炭素濃度の増加と平行して進行するため,植生のように温度だけでなく,水分状態や,二酸化炭素の濃度の変化などにも影響を受けるような対象について,影響評価を行うためには,より植物の生理的側面を考慮したモデルを用いる必要がある。

本研究では,温暖化の影響が顕在化しやすい地域を特定し,モニタリングしていく必要性を踏まえ,プロセスモデルを用いて,温暖化が日本の自然植生に与える影響を予測し,どのような地域で植生が変化するリスクがあるのかを明らかにすることを目的とした。

本研究ではプロセスモデルであるBIOME3をとりあげた。BIOME3はそれまでの植生分布予測モデルと比べ,より植物の生理学的側面に着目したモデルである。このモデルを日本付近で予測を行うために改良し,潜在的な自然植生の分布を推定し,精度の検証を行った。BIOME3のメッシュサイズは緯度経度0.5×0.5度(日本付近で約50×50km2)と非常に粗く,この解像度では,日本地域の詳細な予測に適用することは困難である。そこで,空間解像度を向上させて植生分布を推定するために,緯度30秒,経度45秒(約1×1km2,3次メッシュ)を計算を行う際のメッシュ単位とした。

また,BIOME3は,あらかじめいくつかの植物機能タイプ(PFT)を設定し,年間最低気温と最寒月気温の閾値によりある場所に分布できるPFTを選択する。次に光合成モデルによってそれぞれのPFTのNPPを計算し,NPPの競争により植生タイプを決定する。このとき,年間最低気温の3次メッシュデータが存在しないので,全国のアメダス観測地点のデータから最低気温と最寒月気温のデータを抽出し,年間最低気温を最寒月気温により近似させた。3次メッシュデータを入力し,日本における潜在的な植生分布の予測を行ったが,日本の潜在的な植生を示した図である潜在自然植生図と比較すると,植生の分布にずれが見られた。そこで,このずれを修正するために,PFTを選択する際に使用する最低気温の条件を変更し,最終的な植生分布を決定する際のNPPの閾値を変更した。また,分類を日本の植生分類にあわせるように変更した。

上に述べた改良を経て分布のずれは修正され,潜在自然植生図に見られる分布に近いものとなり,1kmメッシュでのプロセスモデルによる植生分布の予測が可能になった。

プロセスモデルを使用した植生分布の推定は,日本だけを対象にして詳細な推定は行われておらず,本章で行った研究により初めて得られた結果である。さらに,このモデルを用いて将来の気候条件の下での植生分布を予測することは非常に意義があることといえる。

次に,改良したモデルに複数の将来予測の結果を導入し,温暖化時のNPPと潜在的な自然植生分布の予測を行った。将来の気候変化の予測にはGCM (General Circulation Model)と呼ばれる気候モデルが用いられている。本研究では4種類のGCMデータをもちい2020,2050,2080年代の3時点の気候条件下における予測を行った。

結果として,NPPに関しては,いずれのGCMデータでも年代が進むにつれ増加した。現在の気候条件を示す平年値を入力して得られたNPPと比較すると,低緯度地域よりも高緯度地域において増加の割合が大きいことが予測された。これはCO2濃度の増加が光合成量を増加させたことと,より大きなNPPを獲得できる植生タイプに置き換わったことが主な原因であると考えられる。植生分布に関しては,特に北海道地域で大きな影響を受ける可能性が高いことが示唆された。またいずれの植生も,より暖かい地域に生息する植生に押し上げられる形で,境界域が北方に移動している。高山植生・亜高山帯針葉樹林は高緯度,高標高地域に生息しているために,温暖化によりさらにその分布域を狭める可能性が高いことが示された。

最後に,現存する自然植生の分布と,モデルによる温暖化時の植生分布の予測結果とを比較し,自然植生が変化する危険性が高いと考えられる地域を検討することにより温暖化に対するリスク評価を行った。3章において予測した将来における日本の潜在的な自然植生の分布と,現存している自然植生分布との違いを分析した。現存の自然植生と予測した潜在自然植生が異なるということは,その地域で現在もしくは温暖化時の気候条件下において,何らかの変化が生じる危険性の高い地域と判断される。

結果,北海道のアポイ岳など実際に植生の変化が確認されている場所において,植生調査データとモデルによる潜在自然植生データによる植生分布が異なっていることが明らかとなった。さらに,温暖化時の気候条件のもとで予測したモデルの結果と比較することにより,現況の植生タイプと温暖化時の潜在自然植生タイプが異なる地域が拡大していく可能性も示された。植生の分布は気候条件のみでなく,その他のさまざまな環境条件が複合的に関与した結果であるが,将来,気候条件が変化した場合,このような地域では,植生が変化する危険性がある。本研究で示した地域は温暖化の影響が顕在化しやすく,影響を検知するために継続的にモニタリングしていく必要がある。

本研究においてプロセスモデルであるBIOME3を改良し,日本における潜在的な自然植生分布の推定した。さらに,温暖化時の気候条件を入力することにより,将来における植生分布の変化を予測した。また,現存の自然植生と比較することにより自然植生が変化する危険性が高いと考えられる地域を検討することにより温暖化に対するリスク評価を行った。その結果,日本の自然植生は温暖化によって非常に大きな影響を受ける可能性が示され,リスクのある地域が明らかとなった。

審査要旨 要旨を表示する

気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告によると,人間活動に起因する大気中の温室効果ガス濃度の増加による地球温暖化が問題となっている。本論文では,温暖化の影響が顕在化しやすい地域を特定し,モニタリングしていく必要性を踏まえ,プロセスモデルを用いて,温暖化が日本の自然植生に与える影響を予測し,どのような地域で自然植生が変化するリスクがあるのかを明らかにすることを目的としたものであり,5章からなっている。

序論の1章に続く2章では,潜在的な自然植生分布を推定するためのプロセスモデルであるBIOME3をとりあげ,このモデルを日本付近で予測を行うために改良した。BIOME3のメッシュサイズは日本付近で約50×50km2と非常に粗く,この空間解像度では,日本の植生分布の予測に適用することは困難である。そこで,空間解像度を向上させ,3次メッシュ(約1×1km2)を計算の際のメッシュ単位とした。また,BIOME3では,あらかじめいくつかの植物機能タイプ(PFT)を設定し,年間最低気温と最寒月気温の閾値によりある場所に分布できるPFTを選択する。そして,光合成モデルによってそれぞれのPFTの純一次生産力(NPP)を計算し,獲得できるNPPの大小により植生タイプを決定する。このとき,年間最低気温の3次メッシュデータが存在しなかったため,全国のアメダス観測地点のデータから年間最低気温と最寒月気温のデータを抽出し,年間最低気温を最寒月気温により近似し、年間最低気温の3次メッシュデータを作成した。そして、日本における潜在的な植生分布の予測を3次メッシュ単位で行ったが,日本の潜在的な植生を示した図である潜在自然植生図と比較すると,植生の分布にずれが見られた。そこで,このずれを修正するために,PFTを選択する際に使用する年間最低気温の条件を変更し,最終的な植生分布を決定する際のNPPの閾値を変更した。これらの改良を経て分布のずれが修正され,潜在自然植生図に見られる分布に近いものとなり,3次メッシュでのプロセスモデルによる植生分布の予測が可能になった。

続く3章では,2章において改良したモデルと複数の大気大循環モデル(GCM)の予測結果を用いて,温暖化時のNPPと潜在的な自然植生分布の予測を行った。本論文では4種類のGCMデータを用い2020,2050,2080年代の3時点の気候条件下における予測を行った。結果として,NPPに関しては,いずれのGCMデータでも年代が進むにつれ増加した。現在の気候条件を示す平年値を用いて得られたNPPと比較すると,低緯度地域よりも高緯度地域においてNPPの増加の割合が大きいことが予測された。これはCO2濃度の増加が光合成量を増加させたことと,より大きなNPPを獲得できる植生タイプに置き換わったことが主な原因であると考えられる。植生分布に関しては,特に北海道地域で大きな影響を受ける可能性が高いことが示唆された。またいずれの植生も,より暖かい地域に分布する植生に押し上げられる形で,植生の境界域が北方に移動することが予測された。

4章では現存する自然植生の分布と,モデルにより予測された現在および温暖化時の潜在的な自然植生分布を比較した。現存の自然植生と予測された潜在自然植生が異なるということは,その地域で現在もしくは温暖化時の気候条件下において,何らかの変化が生じる危険性があることを示している。自然植生が変化する危険性がある地域を検討することにより,温暖化に対する自然植生のリスク評価を行った。その結果,現在の気候条件でも北海道のアポイ岳など実際に植生の変化が確認されている場所において,現存する自然植生の分布とモデルにより推定された潜在自然植生の分布が異なっていることが明らかとなった。さらに,温暖化時の気候条件のもとで予測したモデルの結果と比較することにより,現況の植生タイプと温暖化時の潜在自然植生タイプが異なる地域が拡大していく可能性も示された。植生の分布は気候条件のみでなく,その他のさまざまな環境条件が複合的に関与した結果であるが,将来,気候条件が変化した場合,このような地域では,植生が変化するリスクがあることが示された。続く5章では,本論文の総括がなされている。

以上,本論文では,プロセスモデルであるBIOME3を改良し,複数のGCMデータを用いて温暖化に伴う日本の自然植生への影響の違いを検討し,影響が顕在化しやすいと考えられる地域を明らかにしたという点で新たな知見を提示している。また,本論文に提示されている研究成果は,今後の温暖化影響モニタリングのための有用な知見を提供するという点で,学術上貢献するところが少なくないと考えられる。よって審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文としての価値があるものと認めた。

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