学位論文要旨



No 216262
著者(漢字) 白井,芳樹
著者(英字)
著者(カナ) シライ,ヨシキ
標題(和) 昭和初期の富山都市圏における土木事業と三人の土木技師
標題(洋)
報告番号 216262
報告番号 乙16262
学位授与日 2005.05.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16262号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 篠原,修
 東京大学 教授 小池,俊雄
 東京大学 教授 清水,英範
 東京大学 助教授 中井,祐
 日本大学 教授 岸井,隆幸
内容要旨 要旨を表示する

研究の目的

昭和初期に富山県富山市を中心とする地域(富山都市圏)において、複数の大規模な土木事業〜神通川第三次改修事業、東岩瀬港修築事業、富山大橋等橋梁改築事業、富山都市計画及び同都市計画事業による運河、街路、土地区画整理の各事業がほぼ同時に行われた。これら土木事業により富山都市圏の骨格が形成され、今日に至っている。

これら土木事業の各々について、また土木事業全体について、さらに各土木事業を担った土木技術者についてなされた既往の研究はほとんど皆無である。

以上のことを踏まえ、本研究は、次の3点を目的として行うものである。

(1)昭和初期の富山都市圏において行われた、これら治水、交通、都市計画という3つの分野の、河川、港湾、橋梁、都市計画事業という4つの部門の、6つの土木事業と1つの計画を採り上げ、各土木事業の背景と経緯、内容と特徴、計画立案の過程、関与した土木技術者について明らかにすること

(2)これら土木事業の中心となった三人の土木技師〜内務技師高橋嘉一郎、富山県土木技師小池啓吉、都市計画富山地方委員会技師赤司貫一を対象に、その経歴と仕事を明らかにすると共に、彼らが富山で従事した土木事業において果たした役割を明らかにすること

(3)各土木事業に共通する特徴及び事業相互の関係を明らかにすると共にこれら土木事業の意義について考察を行うこと

研究の成果

本研究において得られた独自の成果は次のとおりである。

(1)神通川第三次改修事業及び東岩瀬港修築事業と高橋嘉一郎について

大正9年時点で内務省が作成した東岩瀬港修築計画原案三案が存在していた事実を発見し、同11年の東岩瀬港修築計画(神通川河口部の低水路を港湾に提供する案)は、内務省原案第三案を基に第二案の一部を取り入れて策定されたものであることを明らかにした。

大正14年に変更された東岩瀬港修築計画(河口部の河道全部を港湾に提供する案)は、内務省新潟土木出張所神通川改修事務所主任の高橋嘉一郎が、北上川河口港のまま修築された石巻港や瀬割堤により最上川から分離する計画の酒田港等の事例を参考としながら、独自に計画したものであることを明らかにすると共に、河口港修築において河道全部を港湾に提供した例は他にみられないことを指摘した。

高橋嘉一郎(1892〜1968)は、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業、内務省に入り、北上川改修事務所において新北上川たる追派川改修工事に現場責任者として従事、これをほぼ竣工させた後、神通川改修事務所主任に転じ、同河川改修計画及び東岩瀬港修築計画を変更し、両事業の工事を概成または竣工させたことを明らかにした。

高橋嘉一郎は、北上川及び神通川という緩流・急流のわが国の代表的な大河川の改修事業に通算18年間従事し、さらに内務省土木局において河水統制事業の創設・推進に携わった、戦前の河川技術者であることを指摘した。

(2)富山大橋等橋梁改築事業と小池啓吉について

昭和初期の富山県による橋梁改良事業を代表する富山大橋改築事業は、13径間・橋長472.4mのゲルバー式鋼鈑桁橋であり、同種橋梁のうち径間長、吊桁長が最大級のものであることを指摘すると共に、右岸部に橋詰広場が計画・整備されたことを明らかにした。

富山大橋の構造形式は、当初下路式トラス橋であった可能性を指摘すると共に、ゲルバー式鋼鈑桁橋として実施設計がなされた後、工事発注過程で鋼材価格高騰のため急遽実施設計が変更され、主桁本数が減ぜられて施工されたことを明らかにした。

小池啓吉(1895〜1972)は、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、東京市に入り、橋梁課において昌平橋、御茶の水橋等の設計を担当し、特に震災復興橋梁事業に当初から最後まで中心技師として従事した後、富山県土木課技師に転じ、富山大橋の設計・施工を担当したのをはじめ県の橋梁改良事業の中心技師としてこれを推進したことを明らかにした。

富山大橋が橋詰広場をもつゲルバー式鋼鈑桁橋として設計されたこと、同時期にRC連続桁、RCゲルバー桁等様々な構造形式の橋梁群が改築されたことは、中心となった小池啓吉の東京市における市街橋、震災復興橋梁事業の経験が反映されていることを指摘した。

小池啓吉は、東京市及び富山県において市街橋・郊外橋、木橋・鋼橋・RC橋、桁・トラス・ラーメン橋等様々なタイプの橋梁の設計・施工に通算18年間従事し、また『小池橋梁工学』を著すなど理論と実践を重んじた戦前の橋梁技術者であることを指摘した。

(3)富山都市計画及び都市計画事業と赤司貫一について

昭和3年決定の富山都市計画は、運河、街路、公園、土地区画整理を同時に定めた総合性において、東京等他都市における街路中心の都市計画を凌ぐものであったことを明らかにすると共に、運河と廃川地の埋立・区画整理を組合せたユニークさを指摘した。

神通川廃川地処分を巡って明治43年〜昭和2年までの17年間に富山市、富山県、民間等から様々な構想・計画が提案され、それらが都市計画案に収斂していく過程を明らかにした。すなわち、明治36年の神通川馳越線工事竣工から7年後に既に廃川地処分問題が提起されていたこと、廃川地処分の考え方は、明治43年〜大正15年までは廃川地に運河(神通運河)を開削し、残余地を埋立利用するという、廃川地単独処分案が中心であったことを明らかにした。さらに廃川地下流に運河を新設し、運河掘削土砂で廃川地を埋立てる廃川地処分・運河新設一体案は、大正15年10月に富山県が提案したものであること、この計画は、都市計画富山地方委員会技師赤司貫一が立案した可能性が高いことを明らかにした。

赤司貫一(1890〜1954)は、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業、三井鉱山を経て熊本県に入り、埋築技師として海面埋築事務所に勤務し、県営新地の干拓事業に従事した後、都市計画富山地方委員会技師に転じ、神通川廃川地処分を運河新設と同時に行う計画を立案、これを基に昭和3年の富山都市計画を立案したこと、さらに県都市計画課技師を兼務して富山都市計画事業の施行に従事、運河、土地区画整理、関連街路事業を竣工させるなど、富山県の都市計画草創期を担ったことを明らかにした。

昭和3年決定の富山都市計画の原案となった運河新設及び廃川地埋立ての案は、赤司貫一が前職で携わった海面埋築事業の経験を活かして発想し、取りまとめた可能性が高いことを指摘した。

赤司貫一は、都市計画富山・愛知両地方委員会技師かつ富山・愛知両県都市計画課技師として、富山市・名古屋市等地方都市と大都市の都市計画の立案及び都市計画事業の実施に通算21年間従事し、草創期の富山都市計画及び石川栄耀の後、第二期の名古屋都市計画を担った、戦前の都市計画技術者であることを指摘した。

(4)各土木事業の相互の関係と意義

昭和初期の富山都市圏における土木事業は、相互に密接に関連しながらそれぞれの計画が策定され、工事が施工されたこと、この関係は神通川を共通の背景として読み解くことができることを明らかにすると共に、土木事業全体のマスタープランは存在しなかったが、洪水対策としての神通川改修事業がもたらした廃川地処分、舟運回復等の問題が富山都市計画及び都市計画事業により解決されたものであることを指摘した。

昭和初期の富山都市圏における土木事業は、神通川、東岩瀬港、富山大橋、富山市内街路等富山都市圏のインフラストラクチャを近代的なものに改修し、遅れていた富山都市圏の人々の生活と産業の近代化に貢献したものであることを指摘した。

研究の新しさ

本研究は次の4点において既往の研究にみられない新しさと独自性を有するものである。

(1)神通川第三次改修事業等昭和初期の富山都市圏における土木事業及びこれを担った土木技師高橋嘉一郎等を対象とする研究は本論文が初めてである(研究対象の新しさ)。

(2)同時代・同地域における異なる分野・部門の複数の土木事業を対象とし、各事業の計画立案プロセスと共に事業相互の関係を明らかにしようとする地域土木史の研究は本論文が初めてである(研究方法の新しさ)。

(3)同時代・同地域において、異なる分野・部門の土木事業に従事した、河川、橋梁、都市計画を専門とする複数の土木技術者を対象とする人物土木史の研究は他に例がない。この人物土木史を上記地域土木史に重ねることにより、より総合的な土木史の可能性を示すことができたと考える(研究方法の新しさ)。

(4)公式史料では窺えない土木事業の背景や経緯、さらに事業相互の関係を明らかにする上で当時の新聞や商業会議所月報等、二次的史料の読解が有効であることを示すことができたが、こうした方法を中心に据える土木史研究は他に余り例がない(研究方法の新しさ)。

審査要旨 要旨を表示する

我が国が近代化を遂げる過程で、大都市、地方都市を問わず土木の仕事が一定の貢献を為したことは容易に想像できることである。しかしながら、かかる観点から、特に地方都市における土木史を捉える試みはほとんど皆無であると言ってよい現状である。本論文は、北陸の地方都市である富山市を中心とする地域で、昭和初期に行われた複数の土木事業及びその計画・事業の中心となった土木技術者を採り上げ、各土木事業の特徴、計画立案の過程、土木技師の経歴と仕事を明らかにし、さらにこれら土木事業相互の関係及び土木事業全体の意義を論考したものである。このような、一定の地域で同時期に行われた、治水、交通、都市計画という分野の異なる複数の土木事業及びこれらの事業に携わった、河川、橋梁、都市計画という専門の異なる複数の土木技師に着目して地域の土木史を読み解く試みは、既往の研究に見ることはできず、独自性の高い着眼点であるということができる。第一章では、上記の内容を研究の背景として述べている。

第二章では、第三章以下の前史として、明治〜大正期の富山県及び富山市における土木事業について、治水・利水・砂防、交通基盤、都市整備の分野ごとにその概要を紹介し、昭和初期の富山市における課題を述べている。

第三章では、神通川第三次改修事業(大正7年〜昭和13年)及び東岩瀬港修築事業(大正11年〜昭和11年)について、計画・事業の特徴、計画立案の過程ならびに内務省神通川改修事務所主任高橋嘉一郎(1892−1968)の経歴と仕事を明らかにしている。特に、神通川改修事業着手後二度にわたって河口部の計画が変更され、東岩瀬港の修築計画が立案される過程に着目し、第一回変更に際しては内務省作成の原案(第一〜第三案)が存在していたこと、第二回変更により河道全部を港湾に提供する計画は高橋が前職で従事した北上川改修事業での経験等を基に独自に計画したものであることを明らかにしたことは、重要な成果であると言える。

第四章では、富山県による橋梁改良事業を採り上げ、分けても代表的橋梁である富山大橋(昭和11年竣工)の改築について、計画・事業の特徴、計画立案の過程ならびに富山県土木課技師小池啓吉(1895−1972)の経歴と仕事を明らかにしている。特に、富山大橋が当初下路式トラス橋として計画されていた可能性、ゲルバー式鋼鈑桁橋として当時最大級の規模を有し、また郊外橋には珍しく橋詰広場を備える等の特徴を指摘したこと、また、富山大橋の設計施工を担当した小池が、前職東京市橋梁課設計、工事掛長として、両国橋等震災復興橋梁事業の中心的技師であったことを明らかにしたことにより、富山大橋の構造形式選定や橋詰広場等の技術的背景を明らかにし得たこと、さらに県内で同時期に行われた、多彩な構造形式の、かつ全国的に大規模な橋梁改築事業も小池の存在をもって説明しうることを示したことは注目すべき成果である。また、関東大震災後の復興橋梁事業に従事した土木技術者がその後地方に転じ、各地の橋梁事業に腕を振るったと言われているが、本論文はそのことを具体的に明らかにしたものであり、土木史研究として有意義なものと言える。

第五章では、富山都市計画(昭和3年決定)及び同都市計画事業運河、街路、土地区画整理(昭和3〜11年)について、計画・事業の特徴、計画立案の過程ならびに都市計画富山地方委員会技師兼富山県都市計画課技師赤司貫一(1890−1954)の経歴と仕事を明らかにしている。特に、富山市が単独で都市計画法の指定を受けた経緯を明らかにしたこと、さらに富山都市計画の眼目とされる、運河と神通川廃川地の埋立・区画整理を一体的に行う都市計画が策定されるに至る経緯を、廃川地処分問題が浮上した明治末期に遡って丹念に追求し、当初の十数年間は廃川地単独処分案であったこと、運河・廃川地組合せ案は大正15年に富山県から提案されたものであることを明らかにし、かつ、この計画案は、前職において熊本県埋築技師として海面埋立事業に従事していた赤司がその経験を活かして立案した可能性が極めて高いことを指摘したことは、研究成果として高く評価できるものである。また、赤司が草創期の富山都市計画を担い、都市計画愛知地方委員会技師に転じた後は、石川栄耀の実質的後任技師として名古屋都市計画の第二期を担ったことを明らかにしたことは、戦前の多くの都市計画が、赤司のように都市計画地方委員会を渡り歩く土木技術者により担われたものであることを具体的に示したもので、有意義な成果である。

第六章では、前三章の成果を総合する形で、昭和初期の富山都市圏における土木事業の共通の特徴及び相互の関係ならびに事業全体としての意義を考察している。特に、治水、交通、都市計画の複数の土木事業が計画・実施の各段階で密接に関係しながら行われたこと、その関係は同地域を貫流する神通川を共通の背景として読み解き得ることを明らかにし、さらに全体を統べるマスタープランは存在しなかったが都市計画が中心的役割を担ったことを指摘し、かつ富山都市圏の近代化に決定的な役割を果たしたことを論じている。

以上概観したように、本研究の最も評価すべき点は、各土木事業・土木技師についての新しい事実を発掘するという歴史研究としての成果と、それらの知見を基に、治水、交通、都市計画に関する地域土木史とそれら事業の中心となった三人の土木技師に関する人物土木史を重ね合わせ、昭和初期という時代に、富山都市圏という地方都市において行われた土木事業の特徴、関係、意義を総合的に論じている点である。地域土木史・人物土木史に対するこのようなアプローチは既往の研究に見ることのできない、独自性の高い方法論であると結論づけることができる。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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