学位論文要旨



No 216272
著者(漢字) 星野,裕司
著者(英字)
著者(カナ) ホシノ,ユウジ
標題(和) 状況景観モデルの構築に関する研究 : 明治期沿岸要塞の分析に基づいて
標題(洋)
報告番号 216272
報告番号 乙16272
学位授与日 2005.06.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16272号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 篠原,修
 東京大学 教授 内藤,廣
 東京大学 教授 清水,英範
 東京大学 助教授 中井,祐
 東京工業大学 教授 斎藤,潮
内容要旨 要旨を表示する

近年、従来の構図的な捉え方(絵のような風景)とは異なる新しい風景論が求められはじめている。例えば、木陰に入れば涼しそうだというように、実生活で経験される空間は、人々の行動と結びついた操作的意味に満ちている。人は景観に対した時、そこで体験されるであろう出来事をイメージし、それを通じて景観の解釈・受容・操作を行うことが一般的であり、これらは仮想行動として知られる考え方である。この概念を創出した中村良夫は、山河から独立しそれを静観する客観の視点がつくり出す景観(「静観の美学(Aesthetics of detachment)」)とは別に、そこへ踏み込む私たちの身体の痕跡が刻まれた棲みごこちの風景(「参加の美学(Aesthetics of engagement)」)の重要性を説いている。本論の視点も同様であり、この「参加の美学」に基づくモデルを構築したい。そもそも景観論は、環境と人間の相互関係を前提とする現象学的な基盤を持っている。フッサールやハイデッガーによる現象学が、フランスに渡りサルトルによって実存主義として展開した哲学史の歩みがあるが、この歩みは景観論においても踏襲される必然性は高く、むしろ現在では、積極的に必要なことだと筆者は考えている。

この「参加の美学」に類する良く知られた考え方として、イギリスの地理学者アップルトンによる「眺望−隠れ家」理論やアメリカの認知心理学者ギブソンによる「アフォーダンス」理論がある。これらを参照した景観研究も多く、本論も同様に参照する。しかし、それら既存の研究は、景観の中の点景の役割やベンチなどのファニチャーのデザインなど、議論が小さくなりがちであり、本来的な意味で景観の研究とは言えない。本論では、このような考え方を地形空間全体に適用したい。筆者は、「参加の美学」が既存研究では定着していない原因として、他者という存在、あるいは視点が欠落しているからではないかと考える。このように、自己や他者、あるいはそれらを囲む地形が様々な関係を結ぶものが状況である。本研究で構築するモデルを状況景観モデルと名づける。それは、自己と他者との関係を通じて、地形の解釈としての景観を把握するモデルとなる。

そこで本研究では、まず状況景観モデルに必要な考え方や視点を整理した。本研究で展開する視点は、いままでの景観論の中にも内包されている。例えば、篠原の景観把握モデルや先に述べた仮想行動を景観体験の主体から考えた場合、主体の二重化という共通の機構が存在する。主体の二重化によって関係づけられるのは、主体と景観のみではなく、むしろ景観の「もの」的な体験と「こと」的な体験である。「もの」的とは、対象と距離をとる客観的な見方であり、「こと」的とは、対象と同じ空間を共有し主観的な体験であり、その両者が相関することで豊かな体験をすることができる。このような準備に基づき、既存の景観論でも良く参照される「眺望−隠れ家」理論や「アフォーダンス」理論、「プロクセミックス」理論を検討した。それらから明らかになったことは、状況景観モデルにおいて注意する必要のある項目は、自己の存在形式(移動あるいは遍在)、他者の属性(敵か友か)、自己と他者の関係、などである。しかしこれらの視点のみでは、もう一つ重要な地形という観点をすくうことができない。そこで軍事という視点が重要となる。

軍事的な環境把握において留意されるのは、敵がどの様に動き、それにどの様に対処すればよいかという点であり、軍事的な事象への観察者の想像力が鍵となる。クラウゼヴィッツは『戦争論』における「軍事的天才」を論じた章において、「地形感覚」という概念を提起している。「地形」を軍事的に見た場合、それは単なる物理的な土地の形状ではなく、見る・撃つ(視界・射界)、隠れる(隠蔽・掩蔽)、近づく(接近経路)という具体的な軍事行動や、目的(緊要地形)、条件(障害)が、「地形」の要素となる。つまり、軍事においてニュートラルで無意味な地形は存在せず、すべて具体的な軍事行動と密接に関連した意味、むしろ機能と呼べるようなものを有している。また、そのような地形の機能は、様々な視点からの考察を通じて発見され、この考察の能力が「地形感覚」ということになる。

そもそも、「地形感覚」の原語は、ドイツ語で「der Ortsinn」であり、英語では「a sense of locality」と訳される。この概念を、我が国にはじめて紹介したのは、森林太郎であり、彼は「地形観」と訳している。つまり、彼の邦訳によって「地形」という問題が、よりクリアに主題化されたのである。この「地形観」は、一般的には、「地形」を「観」ると解釈される訳語であるが、『孫子』の議論を参照すれば、軍事における形とは、静的なものではなくむしろ動的な状況であり、環境(「地」)に状況(「形」)を「観」るということであり、まさに状況景観的な概念である。

本研究では、軍事的な事象の中でも明治期に建設された沿岸要塞を分析対象とした。その有効性は、(1)軍事という視点によってアクティビティを限定できること、(2)沿岸という地形条件によって空間に展開されるアクティビティを海と陸という2つに整理して分析できること、(3)明治期に建設された砲台によって5kmから10km程度の範囲を検討できること、などである。対象を具体的に述べると、函館・東京湾・舞鶴・由良・鳴門・芸予・広島湾・下関・佐世保・長崎・対馬の11要塞、124砲台である。これらに対し、詳細な位置や標高、竣工年、備砲の種類や首線方向などのデータを既存文献から抽出し、分析データとしている。なお、対馬要塞以外の要塞については、すべて現地調査を行っている。また、歴史的な考察に関しては、国立図書館古典籍室に保管されている陸軍築城本部『現代本邦築城史』という資料にあたっている。これは陸軍築城部本部によって大正初期から編纂が始められたもので、沿岸要塞の既存研究である『日本築城史』や『明治期国土防衛史』の基礎資料であり、要塞建設に関する1次資料をまとめたものである。

沿岸要塞では、状況景観モデルをシンプルに捉えることができる。まずモデルの最小単位として、景観を中心とした地形・砲台・敵の3者の関係があり、そのユニットがいくつか組み合わさることによって要塞モデルが構築される。これらの3者の関係が、状況景観モデルの基礎的な理論とほぼ対応する。つまり、砲台と地形の関係においては、まず敵艦から砲台を眺めた場合の地形の中での位置づけ(例えば隠れ具合や目立ち具合など)が問題となる。それはまさに、アップルトンのいう眺望−隠れ家理論と同種のものである。同様に砲台と敵との関係は、両者の距離が問題となるためホールのプロセクミックスが働くと考えてよい。最後に、地形と敵の関係は、地形から敵の動きをどの様に予測するかということであり、ギブソン的には、地形に内在するアフォーダンスをどの程度探索できるかということが課題となる。

このような整理から、沿岸要塞を砲台の位置、性能、地形の中の他者認識といった視点から砲台のネットワークを分析した結果、状況景観モデルは「自己」「他者」「場(地形)」を構成要素として、並列相、融合相、距離相、包摂相の4つの位相を持ちものとして整理された。4つの位相は、自己領域および他者領域が関係を変えることによって遷移する。一つの極である並列相は、自己領域と他者領域が並列的に存在し、もう一つの極である包摂相は、他者領域を自己領域が包摂しているものである。これらは共に、「自己」「他者」「場」が組織化されている。「もの」と「こと」の相違から見ると、両者とも「状況」を「もの」的に把握できているものである。しかし、並列相においては、「場」を舞台に「他者」が演じる「状況」に「自己」が参加することはないが、包摂相においては「状況」に対して(間接的ながらも)参加することが可能であるという点が相違点である。わかりやすい例えとしては、映し出された出来事を、ただ眺めるだけである映画鑑賞的な並列相と、拍手や歓声など、演じられた出来事自体に観察者が参加する演劇鑑賞的な包摂相を挙げることもできるだろう。また、これらの全体を「他者」の点から整理すれば、「敵」はどの領域においても「敵」であるが、並列相、融合相における「友」は時間的な「代理自己」であり、包摂相、距離相における「友」は空間的な「分身自己」である。要塞の分析は主として融合相と包摂相の分析であった。しかし、要塞を構築し運用することは、状況景観モデル全体に関わるものである。結論から言えば、要塞を構築し運用することは、並列相を包摂相として再組織化し、かつ、敵を常に想定することで、組織化された「もの」的な関係を「こと」的に活性化していくことだと定式化できるだろう。

今後、状況景観モデルを発展させていくためには、野戦などその他の軍事的な事象、伝統風景や夜景などの一般的な眺望景観の解釈、オープンカフェなどのヒューマンスケールな事象の分析などを通じて、位相遷移の条件を策定することが必要になるだろう。

図-1 沿岸要塞モデル

図-2 状況景観モデル

審査要旨 要旨を表示する

近年、従来の構図的な捉え方(絵のような風景)とは異なる新しい風景論が求められはじめている。人は景観に対した時、そこで体験されるであろう出来事をイメージし、それを通じて景観の解釈・受容・操作を行うことが一般的であり、これらは仮想行動として知られる考え方である。この概念を創出した中村良夫は、そこへ踏み込む私たちの身体の痕跡が刻まれた棲みごこちの風景(「参加の美学(Aesthetics of engagement)」)の重要性を説いている。本論の視点も同様であり、この「参加の美学」に基づくモデルを「状況景観モデル」として構築したものである。状況とは、自己や他者、あるいはそれらを囲む地形が様々な関係を結ぶものであり、このモデルは自己と他者との関係を通じて、地形の解釈としての景観を把握するモデルとなる。第一章では、上記の内容を論文の背景として述べている。

第二章では、状況景観モデルに必要な考え方や視点を整理している。まず、このような視点が、既存の景観論の中にも内包されていることを示したことは、景観研究史という側面からも優れた成果である。そのような準備に基づき、既存の景観論でも良く参照される「眺望−隠れ家」理論や「アフォーダンス」理論、「プロクセミックス」理論を検討した。それらから明らかになったことは、状況景観モデルにおいて注意する必要のある項目は、自己の存在形式(移動あるいは遍在)、他者の属性(敵か友か)、自己と他者の関係、などである。このような視点から様々な理論を照査した研究は他になく、高く評価できるものである。

第三章では、軍事という視点から地形について考察している。軍事的な環境把握において留意されるのは、敵がどの様に動き、それにどの様に対処すればよいかという点であり、軍事的な事象への観察者の想像力が鍵となる。これは、クラウゼヴィッツが『戦争論』において提起した「地形感覚」という概念である。本論文ではこの概念について、森林太郎の「地形観」という最初の邦訳まで遡及し検討を行うことで、環境(「地」)に状況(「形」)を「観」るという、まさに状況景観的な概念であるということを明らかにしている。

本論文で分析対象とする沿岸要塞は、推奨土木遺産にも選ばれているように我が国の社会基盤整備において重要な施設である。しかし、要塞や砲台の設計思想まで踏み込んだ土木史研究はない。そこで第四章では、主に昭和18年までの資料を陸軍築城部本部が編纂した『現代本邦築城史』を資料として分析することで、当時の計画・設計思想を検討している。まず資料中の主要な言説を押さえ、次に要塞予定地の変遷を見ることで大局的な地形の解釈や政治的配慮を確認し、最後に幕末から砲台が多数設置されている下関要塞を対象として局地的な分析を試みている。ここで明らかにされた要塞・砲台の地形的条件や設計思想は、いままで知られていなかったものであり、土木史研究として価値の高い成果である。

第五章では、第二章で整理した状況景観モデルを沿岸要塞を通じて部分的に検証し、モデルの精緻化を行っている。対象は、函館・東京湾・舞鶴・由良・鳴門・芸予・広島湾・下関・佐世保・長崎・対馬の11要塞、124砲台である。沿岸要塞では、状況景観モデルをシンプルに捉えることができる。すなわち、まずモデルの最小単位として、景観を中心とした地形・砲台・敵の3者の関係があり、そのユニットがいくつか組み合わさることによって要塞モデルが構築される。このような整理から、沿岸要塞を砲台の位置、性能、地形の中の他者認識といった視点から砲台のネットワークを分析している。このように、一般的には複雑な機構を有する状況景観というものを、軍事要塞を経由することで単純に検証できたことは、本論文の特筆すべき成果であると言うことができる。

第六章では、前四章の成果に基づいて、状況景観モデルを構築している。要塞の分析を通じて理解できることは、状況景観モデルとは、「自己」が「地形」を「他者」や「状況」に基づいて、どのように組織化するかということではないかということである。この組織化とは、ニュートラルな地形あるいは他者の領域としての地形(他者領域)を、自己にとって意味のある(有利な)地形として領域化(自己領域化)するものである。そのような理解に基づき、状況景観モデルを、「自己」「他者」「地形」を構成要素として、静的な単位モデルと動的な遷移モデルとして記述されるものとしてまとめた。その遷移モデルは、並列相、融合相、包摂相、距離相の4つの位相を持ち、自己領域および他者領域が関係を変えることによってそれらは遷移する。この状況景観モデルは、要塞構築だけではなく、ピカソのキュビスムや第2章で検討した景観論や基礎理論を包含するものであるため、景観論の原論的知見を発展するものとして非常に有効なものである。

以上概観したようにしたように、本研究の最も評価すべき点は、状況景観という概念を提示し、いままで深く追求されてこなかった景観原論的課題を追求し、明治期の沿岸要塞という特異ではあるが本質的な素材を分析することによって困難な課題に新しい展望を開いた点にある。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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