学位論文要旨



No 216285
著者(漢字) 小栁,春一郎
著者(英字)
著者(カナ) コヤナギ,シュンイチロウ
標題(和) 震災と借地借家 : 都市災害における賃借人の地位
標題(洋)
報告番号 216285
報告番号 乙16285
学位授与日 2005.06.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第16285号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新田,一郎
 東京大学 教授 田端,博邦
 東京大学 教授 太田,勝造
 東京大学 教授 交告,尚史
 東京大学 教授 大村,敦志
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,阪神・淡路大震災の後に議論を呼んだ罹災都市借地借家臨時処理法(昭和21年法律第13号,以下「罹災法」という。)の歴史的展開を論ずる。罹災法は,大規模都市災害に政令により適用される法律であり,三つの特徴がある。第一に,災害により建物が滅失した借地権の保護であり,罹災借地人は,借地権の登記及び建物の登記がなくても,罹災法適用により,借地権を,土地について権利を取得した第三者に対抗しうる(10条)。第二に,災害により滅失した建物の借主の保護であり,罹災建物借主は,再築建物を優先的に賃借する権利(14条,優先借家権)だけでなく,建物所有目的で土地を優先して賃借する権利(2条,優先借地権)を有する。土地に借地権が設定されているときには,建物所有の目的でその借地権を優先的に譲り受けることができる(3条,借地権優先譲受権)。第三に,罹災非訟の制度を設け,優先借地権,優先借家権の賃料等の紛争のみならず,借地権等の設定に関する争いもこれによる(15〜18条,25条,なお,後に,裁判例は,借地権等の設定に関する争いについて訴訟手続による審理も認めた。)。

罹災法に関する従来の文献は,昭和20年代は法律の内容解説,昭和30年代は判例法理の分析,阪神・淡路大震災後は,適用・解釈を中心にしてきた。本論文は,未開拓の資料(罹災法の源流につき帝国経済会議速記録,罹災法につき司法省作成帝国議会想定問答集,罹災法適用につき多数の裁判例,罹災法再検討につき我妻文書・法務省所蔵資料,阪神・淡路大震災につき非訟事件決定例集)を検討し,罹災法の源流・立法過程・適用・再検討の動きなどを包括的に明らかにし,都市災害を手がかりに近代日本の法学史を検討した点,及び都市災害と賃借人について検討する際に罹災地の迅速な復興といういわば公的側面と罹災前の権利の復興といういわば私的側面との区別の必要性を指摘した点で特徴を有する。

本論文第1章は,関東大震災後に制定された借地借家臨時処理法(大正13年法律第16号,以下「旧臨時処理法」という。)をとりあげ,第1節でその社会的及び法学的背景,第2節でその成立及び適用を論じた。本論文第2章は罹災法をとりあげ,第1節でその成立及び判例による展開,第2節で戦後社会が安定してから法改正が提案されたこと及び阪神・淡路大震災においてその法理に疑問が提示されたことを論じた。

大正12年9月1日の関東大震災後に多数の旧借家人が権原なく地主の土地上にバラックを建築したという震災バラック問題が罹災法の発端であった。地主のバラック撤去請求を簡単に許容する法律家(岩田宙造弁護士)もいたが,多数の法律家が,焼け残り動産管理権(今村恭太郎東京地裁所長),生存権(牧野英一東京帝大教授),事務管理(布施辰治弁護士),権利濫用又は信義則(鳩山秀夫東京帝大教授)などを根拠にバラック存続のため議論を展開し,また特別立法を求めた(鈴木喜三郎検事総長,穂積重遠東京帝大教授)。末弘厳太郎東京帝大教授は,震災前の借地権・借家権が震災後も復興されるべきことを主張した。大正10年に借地法,借家法が制定され,利用権保護の思想が有力になってきたことが背景にあった(以上第1章第1節)。

当時の山本権兵衛内閣は,後藤新平内相,平沼騏一郎司法相を含め,特別立法に消極的であったが,これが思いがけず大正12年12月27日の虎ノ門事件(摂政狙撃事件)で倒れ,清浦奎吾内閣が成立し,鈴木喜三郎が司法相に任命された。新設された帝国経済会議に,末弘,福田徳三(経済学者),賀川豊彦(社会運動家)など震災救援経験者が参加し,新法制定に向かった。旧臨時処理法は,(1)優先借家権を創設し,(2)建物滅失により対抗力を失った罹災借地権に対抗力を付与し,(3)不当契約条件変更を規定したが,(4)震災バラックの保護では十分でなく,優先借地権の創設はなかった。末弘は,震災復興土地区画整理のため,借家人がバラックを撤去し,優先借家で新建物に入居することを期待した(以上第1章第2節)。

第二次世界大戦後も,多数の被災借家人の保護が問題になった。農地改革・財産税などにより土地秩序変革があったことも背景になった。空襲対策として制定された戦時罹災土地物件令(昭和20年勅令第411号)は,建物滅失後に建物居住者等がバラックを建築しうることを規定し,バラック等の建物が戦後多数建築された。奥野健一司法省民事局長は,物件令廃止対策として罹災法を制定すると議会で述べた。罹災法は,資材,住宅不足の状況下で貴重な建物の所有者に優先借地権及び借地権優先譲受権を与え,その存続を図った。当時の建物の寿命を考慮したため,優先借地権の期間は10年であったが,更新については一般の借地権と同様に可能とした。また,罹災借地権に対抗力を与えた。さらに,迅速な紛争処理を目的に,罹災非訟制度が導入された。なお,地代家賃統制令があった当時では優先借家権が大きな役割を果たすことはないと予想されていた。

罹災法は,その性格上,戦災対策立法であったが,都市大火が当時において頻発していたため,昭和22年改正で大規模災害に法律により適用されることになった。この改正では,布施事務所で弁護士として借家人運動の経験を有した武藤運十郎議員が役割を果たした。適用基準は,戦災都市指定基準にあわせ約1000戸被災であったが,昭和31年改正から政令による適用になり,少戸数被災の災害まで適用をみた。

罹災法の判例として,使用貸借による借主も各種優先権の主体になりうることにつき,最判昭和32年11月1日民集11巻12号1842頁があった。罹災法では,罹災建物借主から土地賃借申出があっても地主が3週間以内に正当事由を備えて拒絶すれば,優先借地権は成立しない。(1)正当事由の判断基準について,最判昭和29年4月30日民集8巻4号873頁が地主優位説ではなく双方必要度比較説を採用し,(2)正当事由の判断時期について,最判昭和41年4月1日裁判集民事83号1頁は「賃借申出の時(したがって右拒絶の意思表示の時)を標準として決すべきであって,所論のように事実審の口頭弁論終結時を標準とすべきものではない」と判示した(借主に有利な解釈)。公刊裁判例をみると,銀座,京橋,御堂筋など高価の土地で争われたものが多い。罹災借地権の対抗力について,最判昭和28年12月18日民集7巻12号1515頁は,土地の賃借権がその土地につき権利を取得した第三者に対抗できる場合には賃借権は「いわゆる物権的効力を有し,……爾後その土地につき賃借権を取得しこれにより地上に建物を建てて土地を使用する第三者に対し直接にその建物の収去,土地の明渡しを請求することができる」と判示し,(占有訴権,債権者代位権転用のほかに)賃借権に基づく妨害排除請求を認める重要判決になった。

また,借地権等の成立を巡る正当事由紛争について,最大判昭和33年3月5日民集12巻3号381頁は,罹災非訟(非公開,職権主義)による決定に「既判力を認めたからといつて,憲法の保障する裁判所の裁判を受ける権利を奪うことにならない」と判示した。もっとも,同判決の少数意見は,「借地権の存否自体の争い即ち本来訴訟事件たる性質を有する権利関係の重大な紛争までも,非訟事件にとり入れて憲法上の裁判を受くる権利を奪う如き,応急立法をしたとは考えられない。」と批判した(以上第2章第1節)。

終戦後の社会的混乱が収まると,罹災法の再検討が始まった。昭和30年代の借地法,借家法改正作業は,都市近代化への対応が重要課題であった。都市不燃化のため非堅固建物から堅固建物への借地条件変更制度の導入が建設省から要望されていた。我妻榮博士は,土地賃借権を物権とする構想を骨子とした改正案要綱を昭和34年に発表し,罹災法改正も予定した。我妻構想では,罹災法が罹災地の迅速な復興といういわば公的側面を重視したのに対し,(1)今後は罹災前の権利の復興といういわば私的側面を中心に考えるべきだとして使用貸借による借主に各種優先権を認めず,優先借地権よりも優先借家権中心の体系を試み,優先借地権成立を営業継続などの特別の理由がある場合に限った。(2)優先借地権は,非訟手続により裁判所が設定することとしたが,裁判所から負担であるとの批判を受けた。土地賃借権物権化自体にも抵抗があり,改正作業は大幅に縮小され,借地条件変更などは昭和41年借地法等改正として結実したが,罹災法改正はなされずに終わった。

阪神・淡路大震災後では,罹災法適用批判論が,敗戦直後とは社会状況が異なること,優先借地権は借主保護として過大でマンションに適合しないことを指摘した。升田純法務省参事官は,罹災前の権利のあり方とのバランスを重視し,優先借地権成立を制限するために(1)地主の正当事由を幅広く認める,(2)判断時期を審理終結時とする新解釈を提唱し,裁判例に影響を与えた。なお,土地建物共同抵当での建物再築では原則として「新建物のために法定地上権は成立しない」とする最判平成9年2月14日民集51巻2号375頁があり,この場合罹災建物借主が建物を建築する意味がなくなった。しかし,罹災借地権の対抗力及びその譲受については,罹災法適用に意味が認められる(以上第2章第2節)。

最後に,本論文は,罹災法を現在の都市災害に適用しやすい形にするため,定期借地権導入や罹災非訟見直しを含めた罹災法改正が必要であると指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、大規模な都市災害によって建物が滅失した場合に建物や土地に関する賃貸借関係をめぐって生じる諸問題を処理することを目的とした罹災都市借地借家臨時処理法(昭和21(1946)年法律第13号、以下「罹災法」という)について、制定の過程、背景をなす社会状況等々を精細に分析し、その歴史的展開を論ずるものである。

著者によれば、罹災法には次の三つの特徴がある。第一に、災害によって建物が滅失した借地権の保護であり、罹災借地人は、借地権の登記及び建物の登記がなくとも、罹災法適用によって、土地について権利を取得した第三者に対抗しうる(10条)。第二に、災害によって滅失した建物の借主の保護であり、罹災建物借主は、再建築物を優先的に賃借する優先借家権(14条)、及び、建物所有目的で土地を優先して賃借する優先借地権(2条)を有し、土地に既に借地権が設定されている場合には建物所有の目的でその借地権を優先的に譲り受ける借地権優先譲受権を有する(3条)。第三に、罹災非訟の制度を設け、優先借地権・優先借家権の賃料等をめぐる紛争の他、借地権等の設定に関する争いもこれによることとしている(15〜18条、25条)。こうした諸特徴をもった罹災法は、平成7(1995)年に発生した阪神・淡路大震災の際に、その解釈・適用をめぐってあらためて種々の議論を呼んだが、罹災法はそもそも、戦災処理を念頭において第二次大戦直後に制定されたものであり、これについて論ずるには、成立の事情に遡った歴史学的な分析検討が不可欠である。そうした認識を出発点として、本論文は、さらに遠く罹災法制定の前史にまでいったん遡り、関東大震災後の問題処理のために制定された借地借家臨時処理法(大正13(1924)年法律第16号、以下「旧臨時処理法」という)の制定過程を分析し、ついで罹災法の制定過程やその後の運用についての分析に進む、という方法を選択する。

かくして本論文は、「はしがき」「はじめに」のあと本論を二つの章に分かち、第1章で旧臨時処理法、第2章で罹災法の成立過程とその後の議論を詳細に論じ、「おわりに」で結論を述べた後、「あとがき」と「参考資料」を以て一巻の書を閉じる。以下常例に則り、本論文の内容を要約紹介し、ついで本論文の評価について述べることにする。

本論文成立の経緯を述べた「はしがき」につづいて、「はじめに」では本論文の視点と特徴が語られる。大規模な都市災害に際して滅失した建物に関わる賃貸借関係をめぐる紛争の処理を目的とする罹災法は、阪神・淡路大震災において適用されたことによって、俄然プラクティカルな意味を持ったが、それとともに法の内容が現代の社会事情と乖離するところが指摘されるに至った。現在とは大きく異なる社会状況のもとでいわば緊急措置として制定された罹災法を現代社会においてそのまま運用することは必ずしも適切ではないと考えられるが、ではこの間の社会に生じたどのような変化がどのような問題を生み出したのか。戦後の特殊事情のもとで制定された緊急措置的法令の多くが廃止されたのに、罹災法は生き残ったわけだが、そこにどのような事情があったのか。ここに、罹災法の成立事情に遡った歴史学的研究の必要性が見出だされることになり、本論文の方法・視点として次の二点が自覚的に選択される。すなわち、第一に、罹災法及びその源流となる旧臨時処理法の立法過程に関する、また戦後の罹災法改正論議に関する各種資料を精査して、この間の議論の実態を細部に至るまで明らかにし、罹災法の存立の歴史性を析出すること。第二には、都市災害後の賃借人の権利のありかたをめぐって、「災害前権利の復興」を重視する視点と「罹災地の迅速な復興」を重視する視点という二つの視点を析出し、この対立する二つの視点を、「私的視点」と「公的視点」として対比し、その間の緊張関係を軸として罹災法をめぐる議論を整理しようとすることである。

第1章「旧臨時処理法」は、大正12(1923)年9月1日に南関東を襲った関東大震災の後に制定された旧臨時処理法を取り上げる。まず第1節で社会的及び法学的背景を論じる。

おりしも、大正8(1919)年から11(1922)年にかけて、借地法・借家法・借地借家調停法・都市計画法・市街地建築物法などといった立法が相次ぎ、土地法制の整備が急速に進んでいたが、関東大震災のような大規模な都市災害はそうした平時を想定した土地関係法規の想定外の非常事態であり、これらによっては処理できない問題が簇生することになった。大震災で焼失した建物の跡地に、多数の旧借家人がバラックを建築して当座の生活の場としたが、焼失した家屋の旧借家人は焼跡に建物を設営し居住すべき権原をもたず、地主の撤去請求に対して法の保護を受けることができない。この「バラック問題」が、震災の事後処理・復興事業において大きな問題となった。法の額面通りに地主のバラック撤去請求を容認する立場をとる法律家もあったものの、多くの法律家はバラックの存続を認容する立場から、焼け残り動産管理権、生存権、事務管理、地主の権利濫用や信義則など種々の議論を展開し、また特別立法による救済を求める論陣を張った。

ついで第2節では、旧臨時処理法の制定に至る具体的な過程を各種史料に基づいて精細に跡づけ、また運用実態及び評価の問題について検討する。

震災直後に成立した山本権兵衛内閣は特別立法には消極的であったが、年末に生じた虎の門事件の責めを負って辞職し、代わって成立した清浦奎吾内閣のもとで特別立法への道がひらかれた。新設された帝国経済会議社会部に対する政府の諮詢の主眼は住宅問題一般におかれ、その一環として震災対策を求めるものであり、この方針は、立法の前提となる要綱作成作業の中心的な役割を果たした末弘厳太郎が、かねてより借地法・借家法の問題点を指摘していたこととも符合する。しかし、その後、立法方面を検討する特別委員会に提出され旧臨時処理法要綱の基礎となった末弘の文書では、政府の諮詢事項に沿いながらも震災地対策に重点が置かれており、この点について著者は、末弘は全国の住宅政策についての構想を持ちながら、それをただちに全国規模で実施するのは困難、との認識から、従来の見解をまず震災地において具体化しようとしたのであろう、と推測している。

この間の議論で取り上げられた問題は、(1)震災後の権利金・地代・家賃・敷金等の高騰、(2)借地権の対抗力の問題、(3)バラック建築への対応、(4)罹災借家人の保護、(5)借地借家調停の実効性の確保、(6)賃貸人の賃料債権の確保、等であり、これらについて、末弘が中心となって作成した要綱案は、(1)著しく不当な借地借家条件については裁判所が変更命令、(2)建物について登記がなくとも対抗力を付与、(3)借地人の同意を得て旧借家人が建築したバラックの保護、(4)優先借家権の創設、(5)職権調停制度の導入、(6)不正な明け渡し妨害の排除、を主な内容としていた。その後、議論・修正を経て答申案が可決され、それを基として帝国議会に法案が提出され、種々議論があったものの原案通り可決され、大正13(1924)年7月22日公布、勅令をもって8月15日より東京府及び神奈川県の借地法借家法施行地区に施行された。当初はバラック建築の存続期間を考慮して大正18(1929)年4月30日までの適用を予定されていたが、その後、借地上バラックの撤去期限の延長にともない適用を延長され、最終的には昭和23(1948)年4月30日までその適用を延長された。

こうして成立した旧臨時処理法は、そもそもの出発点が「バラック問題」にあったにも拘らず、結果として、焼跡バラックを建築した者に対して直接の保護を与えておらず、借地人の同意を得て旧借家人がバラックを建築した場合の土地所有者の借地契約解除権を制限するにとどまっている。ここには、被災借家人がバラックを撤去して優先借家権で新建物に入居することを容易にし、バラックから本建築への移行を促すことによって都市復興を促進しようとの意図が、作用していたとみられる。

ついで本論文は、旧臨時処理法制定後の運用と評価について述べる。まず旧臨時処理法の解釈学説については、この法の適用を「最後の手段」として謙抑的に捉える司法省参事官長島毅に代表される説と、この法を前提として更に借家人保護へ踏み込むことを主張する弁護士布施辰治に代表される説という、借家人保護をめぐり対照的な説が存在した、とする。また、判決・決定にみられる旧臨時処理法の運用実態については、契約条件変更に関する紛争が多かったこと、賃料改定をめぐる紛争は多くの場合調停によって処理されたことなどが指摘されている。

第2章「罹災法」は、本論文の中心的な部分である。第1節では罹災法の成立過程を、第2節では昭和30年代以降の罹災法の再検討過程を、それぞれ扱う。

第二次世界大戦中に発生した多数の被災借家人の保護は、戦後、農地改革・財産税などによって土地秩序に大きな変革があったことをも背景として大きな問題となった。罹災法立法時点で用いられていた戦時罹災土地物件令(昭和20(1945)年7月12日勅令第411号、以下「物件令」という)は、継続的な空襲下、本建築による建物再建が適切でない状況のもとで、罹災借地権の保護を図るために制定されたもので、罹災借地について地代支払義務を免除するとともに、建物滅失後に居住者等がバラックを建築して居住することを認めていた。この規定を利用して、戦後も引き続きバラック等の簡易な建築物が多数建築されていたが、戦争の終結によって状況に変化が生じ、またこの物件令の根拠法令であった戦時緊急措置法が廃止されたことに伴い、存立の根拠を喪ったバラックを当面は存続させつつも本建築への移行を視野に罹災地の迅速な復興を促し平時へと移行させるための措置、いわば物件令の後始末が必要となったのである。

そうした問題に対処すべく制定された罹災法は、仮設建物所有者に優先借地権・借地権優先譲受権を付与して仮設建物を保護するとともに、登記を欠いた罹災借地権に対抗力を付与する保護規定をおき、また罹災非訟の制度を設けて紛争の迅速処理を図った。かような内容をもつ罹災法は、罹災前の権利の復興という「私的側面」よりも、罹災地の迅速な復興という「公的側面」を重視した法律である、と著者は指摘する。

こうして、戦時の後始末、戦後の状況への対策として立法された罹災法だが、戦後大規模な都市大火が頻発する状況下で、その災害適用への転用を求める議論が生じた。戦後処理立法である罹災法を他の災害に適用することに慎重な意見もあったが、昭和22(1947)年改正において大規模災害への法律による適用が認められる。当初は約1000戸規模の被災を想定していたが、昭和31(1956)年改正によって政令による迅速な適用が可能とされると、より小規模な被災についても適用されるようになり、その機能は戦時から平時へと延長されるに至った。こうして恒久的な災害法となった罹災法は、戦後の都市災害の多くに適用されている。

ついで本論文は罹災法に関する裁判例の集積と分析に移る。主として罹災建物借主の保護、罹災借地権の保護、紛争解決に関する特則、の三点について判例法理の検討を行った結果、罹災法の特徴的な制度である罹災借地権の対抗力や優先借地権の優先性など、従来の民法の一般的な法理とは相当に異なる部分があったにもかかわらず、罹災法の立法趣旨が斟酌されて判例法理として認められ定着していったこと、優先借地権申出に対する土地所有者の拒絶の正当事由の判断については、罹災建物借主と土地所有者の双方の必要度を比較し、さらにその他の事情を考慮して判断することが最高裁による判例法理となったこと、紛争処理規定については、優先借地権の存否をめぐる紛争の迅速処理を目指した非訟手続が、必ずしも想定通りには機能せず、とくに決定の既判力を認める立法趣旨について「憲法違反」との批判を招いたこと、などを指摘する。

第2節では、「戦後」からの状況変化に伴う、罹災法の再検討の過程を扱う。昭和30年代の借地法・借家法の改正作業においては、都市近代化への対応が重要課題であり、例えば不燃化のために非堅固建物から堅固建物への借地条件変更制度の導入が建設省サイドから要望されていた。

我妻栄は、土地賃借権の物権化を柱とした改正案要綱を昭和34(1959)年に発表しているが、そこでは罹災法改正も予定されていた。我妻構想においては、罹災法が罹災地の迅速な復興という「公的側面」を重視していたのに対し、今後は罹災前の権利の復興という「私的側面」を中心において考えるべき、との観点に立ち、使用貸借による借主に各種優先権を認めず、優先借地権ではなく優先借家権を中心とする体系の構築を試み、優先借地権成立を営業継続などの特別の理由がある場合に限定する構想を示している。罹災法が比較的小規模な災害へも適用されるようになっていたこともあり、いわゆる「一軒焼け」への適用も提唱され、罹災法の機能を借地借家法の中に回収する構想が示されている。また、優先借地権は、非訟手続によって裁判所が設定することとしているが、この点については裁判所サイドから負担過重との批判を受けている。土地賃貸借権の物権化という構想自体にも抵抗があり、借地借家法の改正作業はその規模を大幅に縮小され、借地条件変更などは昭和41(1966)年借地法改正として結実したものの、罹災法改正は見送られた。

その後、都市建物の不燃化が進行したことなどから、罹災法の適用事例は減少し、昭和45(1970)年の適用例を最後に事実上の休眠状態に入る。この間に平成3(1991)年の借地法・借家法改正に伴う検討作業において罹災法改正も論議されたが、まとまらずに断念された。

平成7(1995)年の阪神・淡路大震災に25年ぶりに罹災法が適用されたわけだが、その後、敗戦直後とは社会状況が大きく異なる現況では総じて都市計画と適合的でないこと、例えば優先借地権の規定は借主保護として過大なところがあり、特にマンションには適合しないこと、優先借家権も家主の建築意欲を削ぎ借家供給の阻害要因となること、などから、罹災法の適用をめぐって批判が噴出した。罹災者救済のために適用を可とする論者や、適用を決定した法務省関係者にしても、罹災法がそのままでは現代の状況に適合しない点があり慎重な運用が必要であることを認めている。阪神・淡路大震災後の判例等の分析からも、優先借地申出拒絶の正当事由について土地所有者に有利な解釈がなされるなど、状況の変化に対応した新しい解釈を打ち出そうとする努力が窺われるという。

「おわりに」では、本論文の結論が述べられる。第1章・第2章の検討結果を要約した後、本論文全体を通じて析出された罹災法の「歴史的制約」に鑑み、現代の事情に応じた罹災法自体の改正が必要である、との主張が示される。そして、本論文の検討結果を踏まえつつ、今後の罹災法改正作業について、(1)罹災借地権の対抗力の期間短縮が必要、(2)優先借地権との関わりでは土地所有者の選択権や正当事由による拒絶権を認めるなど、土地所有者の負担を軽減する措置が必要、(3)優先借地の成立について裁判所の関与を認める制度とすることが必要、とする提言をもって本論文の結びとする。

以上が本論文の概要である。続いて本論文の評価について述べる。

本論文は、阪神・淡路大震災についての現地調査を契機とするアクテュアルな問題関心に支えられて展開された法制史研究の成果である。アクテュアルな問題関心と歴史学的手法を接合した点に、罹災法に言及した従来の著作に対して本論文の主張しうる特色があり、その長所として挙げられるべき第一の点も、このことに関わる。

すなわち本論文は、関連史料の網羅的収集と分析に基づく堅実な歴史学的な方法をとり、従来必ずしも十分に利用されてこなかった各種会議の記録などを精査し、旧臨時処理法と罹災法の制定過程を具体的かつ精細に跡づけた。両法の成立と運用をめぐる経緯の全貌は、本論文によって初めて詳細に明らかにされたといってよい。また、その過程でさまざまな主題をめぐって展開された議論や関連の判例を集大成した点、旧臨時処理法・罹災法に関する資料的価値は絶大であり、そのことだけをとっても、この主題をめぐる研究の基本的文献となるとともに、他の法の成立過程を実証的に研究しようとする際にモデルとして参照されるべきものとなることは間違いない。本報告書は常例に則り本論文の「要約」と称するものを掲げたが、本論文の真骨頂は容易に要約を許さないディテイルを復元した細部の作業にこそあり、そもそも「要約」という作業によっては本論文の真価を伝えることは不可能に近いのである。なお、索引(事項索引・判例索引など)と文献目録が完備しておれば、本論文の利便性は更に向上したであろう。科研費受給による刊行スケジュールの制約があったゆえとのことであるが、この点は惜しまれる。

第二に、本論文は、大規模都市災害時における借地借家問題という、従来必ずしも十分に論議されてこなかった問題に多面的に光を当て、新しい研究分野を開拓した。大規模都市災害という非日常的な状況下において発生する問題の処理に際しては、通常の民法の原則と抵触する措置が必要とされ、そこにはいわば法の限界状況が現出する。著者自身「あとがき」において「罹災法は実定法学と基礎法学のはざまにある法律である」とその「印象」を述べているが、この主題は、社会状況と法との応答についての法社会学的研究の、恰好のモデルケースともなりうるであろう、興味深い事例を提示している。また、本論文が戦後の借地法・借家法改正作業について罹災法との関わりという側面から光を当てたことによって、この主題をめぐる民法・民事訴訟法研究にも、新しい視点・素材が提供されるであろう。こうした、法学の諸分野から乗り入れ可能な新しい分野を開拓し今後の議論の基盤を据えたものとして、本論文は高く評価される。

第三に、そうした新分野の研究が、法制史学者によって提起されたことの意味も小さくない。旧臨時処理法にせよ罹災法にせよ、関東大震災直後・戦災時という、それぞれ特定の歴史的条件を背景として制定され、その後の経緯もまた具体的な歴史過程の中にあった。制定時の歴史的条件に根本的な変化が生じれば、それまでに堆積した歴史性と、その都度の社会的要請との間に緊張関係が生じうる。長期にわたりいわば「眠っていた」罹災法が、阪神・淡路大震災によって休眠状態から覚め、異なる環境条件で作動を再開したときに、制定時に想定されたのと同じように機能するというわけではない。そうした緊張関係をいかにして緩和ないし解消するか、という課題を負って実定法学が歴史と向かい合うところに、法制史研究との連接の可能性が具体化される。そもそも「日本法制史」という分野は、近代以前を近代法の前史として扱う、あるいは近代と対照させるという営みから出発したが、日本における近代法は、いまや一世紀をこえるそれ自身の歴史を持ち、この間に堆積されてきた法学・法実務、変遷を重ねてきた社会状況との相互作用の帰結としての歴史性を有しており、近代法固有の歴史が研究対象とされるべきときが既にきている。本論文は、実定法解釈学をきちんと踏まえた上で「法」と「歴史」との緊張関係に正面から向かい合い、今後の日本近代法制史研究が負うべき課題を例示したものということができる。

しかし他面、本論文のいくつかの欠点も指摘しなければならない。

第一に、旧臨時処理法が罹災法の源流をなしたということは、少なくとも直観的には容易に了解可能だが、その間の具体的な関係、とりわけ後者の制定過程において前者がどのように参照されどのような意味を持ったのかについて、本論文では必ずしも十分に明らかにされてはいない。また、罹災法の直接の前提となった物件令など戦時諸法令の成立過程についての叙述はやや簡略であり、源流から罹災法へと至る流れの全体が詳細に解明されたとはいいがたい部分を残す。この点は、現時点で利用可能な史料から得られる情報の制約にもよろうが、もしも罹災法制定過程の議論において先行法令への直接の言及が少ないとすればそのことがどのような意味を持つのか、一考の余地があったようにも思われる。

第二に、都市復興という「公的側面」と罹災前の権利の復興という「私的側面」、という対立軸が用いられているが、この対立軸は、罹災法改正をめぐる我妻栄らの議論から析出されたものであり、この局面の議論の整理・分析には威力を発揮しているものの、遡って旧臨時処理法をめぐる議論や、また具体的な事件処理過程の分析への応用可能性など、理論装置としての有効性についてはなお検討と彫琢の余地を残すように思われる。そもそも罹災法は民と民との権利義務関係という「私的」な問題領域に関与するのであって、大規模な都市計画などの「公的」な問題に直接に関係するものではない。「公的」「私的」という対立軸を設定するのであれば、大規模災害後の都市計画や区画整理事業といった問題領域を含むより広い視野の中に、旧臨時処理法と罹災法を位置づけることが望まれよう。本論文では、法の作用を論ずるための素材として主として判例等の裁判資料が用いられているが、他の資料も用いて法廷外の当事者間関係の具体的な局面における議論ないし交渉の構造を参照し、あるいは「公的」な問題との関わりの局面を検証するなど、この対立軸の作用を検証するためには種々工夫の余地もありえたのではないか。

第三に、叙述の方法になお工夫の余地を残す。史料に密着した本論文の叙述には、あたかもコンメンタールを読むような平板さが感じられなくもない。論文の要部をなす個々の史料の分析には安定感があるものの、読み進めるに際し、論文全体の構想がどこへ向かっているのかを予め展望しがたいことがままある。もとより、このこと自体は必ずしも欠点というわけではない。先入見を極力排して関連史料を網羅し具体的過程の細部を復元するという本論文の構造上、結論となる命題へと向かって議論が組み立てられるものではないのは当然であり、このことが、本論文の第一のメリットとしてあげた点とも関わり、今後の借地借家をテーマとする諸分野の研究に使いやすく信頼できる出発点を提供する史料的価値を、さらに高めている、と肯定的に評価することもできる。だが、結論部分で述べられている今後の立法への提言は、本論文の研究を踏まえた説得力を持つものの、歴史学研究の結果として示されるにはやや飛躍を伴った感がなくもない。禁欲的な歴史学の手法によって首尾一貫させるならば、結論の示し方についても一考の余地があったであろう。

しかしこうしたことがらはいわば「ないものねだり」であり、本論文がそうした「ないものねだり」を起こさせるほどに、罹災法という主題の周辺を丹念に掘り起こし、法制史学と実定法学とにまたがる広大な問題領域を開拓したことの帰結である。本論文は、日本近代法制史研究にひとつのモデルを提示すると同時に、法制史学と実定法学との間に協働研究あるいは批判的応答の可能性を開いた、学界の発展に大きく貢献する優れた論文であり、その著者は博士(法学)の学位を授与されるに相応しいと結論づけることができる。

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