学位論文要旨



No 216298
著者(漢字) 中島,久男
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,ヒサオ
標題(和) 明治期における海軍省営繕事業の歴史的研究
標題(洋)
報告番号 216298
報告番号 乙16298
学位授与日 2005.07.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16298号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、海軍軍備拡張計画とともに進展した明治期の海軍省営繕事業の具体的な様相を実証的に検討し、その歴史的な特質を明らかにすることにある。

海軍省建設組織は、明治5(1872)年から昭和20(1945)年まで設置され、多数の技術者を擁して全国各地の海軍施設を建設した有数の中央官庁建設組織として看過しえない存在であるが、当組織が管掌した営繕事業については、軍事機密による史料の欠如等から十分に研究がなされていない現状にある。しかしながら、防衛庁防衛研究所図書館には、明治期の各鎮守府における建築物の設計図書、海軍建設組織に在籍した建築技術者の履歴書、経歴書等の一次史料が残されており、これらを基本史料として海軍省営繕事業の実態を検討することが可能である。

本論文の考察においては、以上の基本史料による海軍省営繕事業における建築物等の基本的な事実の解明と同時に、以下の点に留意して検討する。第一に、海軍省営繕事業における技術形成の過程を、履歴書、経歴書等を基本史料として、技術を体現する建築技術者の組織化の分析に力点をおいて検討する。第二に、海軍省営繕事業の展開と一体のものであった海軍軍備拡張計画に対応した政治的、軍事的、財政的要請との関連の把握に着目して当事業を検討する。第三に、海軍省営繕事業における技術移転を、日仏の交流史、日米英の製鋼会社における経営史等の多方面の研究成果による学際的な研究方法を踏まえて検討する。なお、本論文で考察の対象とした期間は、海軍省の創設された明治5年2月28日から、明治期の海軍省建設組織を統括する中央機構であった臨時海軍建築部が廃止された大正9(1920)年9月30日までとする。

本論文は、序章、本論6章、結語から構成される。なお、本論は、第1章の海軍省建設組織の沿革と建築技術者の構成、第2章から第5章の明治前期、明治中期、明治後期・大正前期の各期における営繕事業の各論、第6章の海軍工廠における鉄骨造建築の導入過程の大きく3部から構成されている。以下、本論文の概要を記す。

序章では、研究の課題と既往研究、研究の方法と問題の限定、本研究の構成について述べ、本論文の目的と意義を明らかにし、これまで海軍省営繕事業の系統的な研究がなされていないことを指摘した。

本論の第1部の第1章では、海軍省営繕事業の研究の緒として、海軍省建設組織の沿革と、当組織に在籍した219名の建築技術者の氏名・前歴・在任期間を明らかにし、さらに建築技術者の構成から当組織の特徴を総論的に考察した。これによって、海軍省建設組織の沿革は海軍軍備拡張計画によって、明治前期、明治中期、明治後期・大正前期の3期に区分でき、各期毎に以下のような建築技術者の構成の特徴を有することを明らかにした。

第1期の海軍省創設時における建築技術者の構成は小規模なものであったが、明治16年から朝倉清一、森川範一等の工部省出身技術者や工部大学校出身の学卒技術者の動員が開始され、建築設計組織としての萌芽をみたこと。第2期に動員された建築技術者は、廃省となった工部省から技師に曾禰達蔵等の工部大学校出身の学卒技術者、技手に林忠恕等の工事経験の豊富な中堅技術者によって占められたこと。第3期に動員された建築技術者は、技師に東京帝国大学出身の学卒技術者、技手に他の官庁営繕組織の経験技術者が過半を占め、海軍省建設組織の技術水準を支えていたことを指摘した。

本論の第2部の第2章から第5章までの海軍省営繕事業の各論では、第1章を踏まえて、各期における当営繕事業を、海軍軍備拡張計画と建設事業費の動向、各海軍建設組織における建築技術者の構成、営繕活動の具体的な様態等を各側面から検討した。

第2章では、明治5年の海軍省の設置から、同19年に艦政局建築課が設置されるまでの第1期の明治前期における海軍省営繕事業について扱った。この期は、中央官庁の営繕事務が大蔵省土木寮、工部省営繕局(寮・局・課)によって管掌され、所属した御雇外国人により歴史主義建築が移植された時代として知られているが、海軍省でも工部省と別個に営繕事務が管掌されていた。そこで、この期における大蔵省・工部省以外の中央官庁営繕機構の具体像を知る一助として、前史として海軍省設置以前の横須賀造船所(製鉄所)、兵部省の営繕活動を概観し、それを踏まえて創設期の海軍省営繕事業を考察した。この期の営繕事業については、主に本省及び横須賀の本省出先機関、横須賀造船所の建設組織によって営繕事務が管掌され、東京・横須賀・浦賀等の海軍の建築物が建設されたこと、当初の海軍の建築物は海軍省創設時から在籍する建築技術者の西郷時貞等によって擬洋風建築で建設されたこと、明治16年から工部大学校出身の学卒技術者である佐立七次郎、森川範一、工部省出身の工事経験の豊富な中堅技術者である朝倉清一等が動員されて煉瓦造建築や歴史主義建築の建設が開始されたことを明らかにした。

第3章では、特別費(第1期海軍拡張計画)にともなう営繕事務を統括する艦政局建築課が明治19年に設置されてから、同29年に臨時海軍建築部が設置されるまでの第2期の明治中期における海軍省営繕事業について扱った。この期の起点の明治19年は、工部省の廃省(明治18年12月22日)により、各中央官庁の営繕機構の拡充がはかられた画期として知られている。海軍省においても艦政局建築課が設置(明治19年2月17日)され、呉及び佐世保鎮守府、江田島海軍兵学校等の建設で多数の建築技術者が動員されて建設組織が拡充された。この期の営繕事業については、主に特別費の営繕事業で動員された建築技術者が工部省の出身技術者で占められて建築設計組織としての成立をみたこと、これら建築技術者によって煉瓦造の歴史主義建築が導入されたこと、その後に各鎮守府の官衙建築等で煉瓦造の歴史主義建築の建設が常態化したことを明らかにした。

第4章では、日清戦争後の海軍拡張費(第1期・第2期海軍拡張)にともなう営繕事務を統括する臨時海軍建築部が明治29年に設置されてから、同44年に水陸設備費が設定されるまでの第3期・前期の明治後期における海軍省営繕事業について扱った。この期は、海軍軍備拡張計画によって海軍拡張費の設定期と軍艦製造及建築費(第3期海軍拡張)、整備費の設定期の2期に区分できる。前期の営繕事業については、主に舞鶴鎮守府の建設を端緒として官衙建築、教育施設等で木造の歴史主義建築の建設が主流になったこと、各鎮守府で大量に建設された兵舎、病院、常設望楼等の建築物が、ほぼ同一の平面形状による定型で設計されたこと、技師の桜井小太郎、宗兵蔵等によって習熟した歴史主義建築が建設されたことを明らかにした。また、後期の営繕事業については、主に火薬庫で標準設計が導入されこと、海軍工廠で鉄筋コンクリート造等の新構造技術が導入されたことを明らかにした。

第5章では、日露戦争後の水陸設備費が公布された明治44年から臨時海軍建築部が大正9年に廃止されるまでの第3期・後期における大正前期における海軍省営繕事業について扱った。この期の営繕事業については、主に歴史主義建築の細部意匠に様式の簡略化が進行したこと、鉄筋コンクリート造が普及して官衙建築等で鉄筋コンクリート造に適した様式の模索が促され、フラット・ルーフや細部意匠の簡略化、ゼツェッシォンを基調とした新様式が採用されるようになったことを明らかにした。

本論の第3部の第6章では、第2章から第5章で考察の対象としなかった明治期における海軍工廠の工場建築について、幕末に建設された横須賀製鉄所の木骨煉瓦造から、鉄造、鉄骨造と変遷する鉄骨造技術の導入過程を考察した。考察に当たっては海軍工廠の鉄骨造工場の具体的な様態や設計者、海軍省建設組織の担当建築技術者、工場建設に関連した海軍軍備拡張計画、建築鋼材を輸入した英米の製鋼会社の動向等を各側面から検討した。

これによって、海軍工廠の鉄骨造建築の導入は、まず鋳鉄柱と鍛鉄の小屋組の鉄造建築による鋳鉄時代が明治24年に竣工した横須賀海軍工廠機械工場を嚆矢として明治36年まであったこと、鉄骨造建築が建設された鋼鉄時代は明治35年に竣工した呉造兵廠砲熕製造場を嚆矢とし、海軍省による軍艦の国産化政策の進展とともにアメリカン橋梁会社(American Bridge Co.)、ドーマン・ロング社(Dorman,Long & CO.,Ltd.)等の米国及び英国の製鋼会社による外国技術の直接的な導入で開始されたこと、さらに海軍省建設組織の建築技術者によって鉄骨造技術が明治40年代に国産技術として定着したことを明らかにした。また、近代化遺産の工場建築における鉄骨造技術の導入過程を研究するうえで指標になると考えられる海軍工廠における鉄骨造工場の竣工推移を示した。

結語では、各期の海軍省営繕事業の展開を要約し、各章で得られた知見と考察の結論をまとめた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は明治期の海軍省営繕事業について、海軍省の一次史料および現存遺構を通して実証的に明らかにしたものである。海軍省建設組織は、明治5(1872)年から昭和20(1945)年まで設置され、多数の技術者を擁して全国各地の海軍施設を建設した有数の中央官庁営繕機構として看過しえない存在であるが、当組織が管掌した営繕事業については、軍事機密による史料の欠如等からほとんど研究がなされていない現状にある。本研究は、こうした近代の中央官庁営繕機構の研究史で空白となっていた海軍省営繕事業の全貌を明らかにすることを試みる。

本論文は、第1章の海軍省建設組織の沿革と建築技術者の構成、第2章から第5章の明治前期、明治中期、明治後期・大正前期の各期における営繕事業の各論、第6章の海軍工廠における鉄骨造建築の導入過程の大きく3部から構成される。

本論の第1部の第1章では、海軍省建設組織の沿革と在籍した建築技術者の前歴・在任期間とうを明らかにし、当組織がどのような建築技術者によって構成されたかを履歴書、経歴書などから解明する。海軍省建設組織は、明治中期に廃省となった工部省から、技師に工部大学校出身の学卒技術者、技手に工事経験の豊富な中堅技術者と、西洋建築技術を有する技術者が動員されて建築設計組織として成立したことが明らかになる。また、明治後期・大正前期に動員された建築技術者は、技師に東京帝国大学出身の学卒技術者、技手に他の官庁営繕組織の経験技術者が過半を占め、海軍省建設組織の技術水準を支えていたことが指摘されている。

本論の第2部の第2章から第5章では、第1章の成果を踏まえて、明治期における海軍省営繕事業を、海軍軍備拡張計画と建設事業費の動向、各海軍建設組織における建築技術者の構成、営繕活動の具体的な様態を設計図書と現存遺構などから検討し、当営繕事業の全貌を編年的に把握しようと試みる。まず意匠面からは、特別費(第1期海軍拡張計画)で動員された工部省の出身技術者によって明治20年代に各鎮守府の官衙建築等で煉瓦造の歴史主義建築が導入されたこと、明治30年代に舞鶴鎮守府の建設を端緒として官衙建築、教育施設等で木造の歴史主義建築の建設が主流になったこと、大正前期に歴史主義建築の細部意匠に様式の簡略化が進行してフラット・ルーフや細部意匠の簡略化、ゼツェッシォンを基調とした新様式が採用されるようになったことが明らかになる。また、平面計画上からは、日清戦争後の海軍拡張費(第1期・第2期海軍拡張)や軍艦製造及建築費(第3期海軍拡張)によって、各鎮守府で大量に建設された兵舎、病院、常設望楼、火薬庫などの建築物で、明治30年代に「定型」が形成されたことが明らかになる。この内、火薬庫は明治40年代に標準設計が制定される。さらに、海軍工廠での鉄筋コンクリート造などの新構造技術が導入され定着した過程が明らかにされ、官衙建築等で鉄筋コンクリート造に適した新様式の模索が促されことを指摘する。

本論の第3部の第6章は、海軍工廠の工場建築について、鉄骨造建築の具体的な様態や設計者、海軍省建設組織の担当建築技術者、工場建設に関連した海軍軍備拡張計画、建築鋼材を輸入した英米の製鋼会社の動向などを各側面から検討し、幕末に建設された横須賀製鉄所の木骨煉瓦造から、鉄造、鉄骨造と変遷する明治期における鉄骨造技術の導入過程が解明される。海軍工廠の鉄骨造建築の導入は、明治20年代に鋳鉄柱と鍛鉄の小屋組による鉄造建築の鋳鉄時代があり、同30年代に海軍省による軍艦の国産化政策の進展とともに米国及び英国の製鋼会社による外国技術の直接的な導入で鋼鉄時代が開始され、さらに海軍省建設組織の建築技術者によって鉄骨造技術が明治40年代に国産技術として定着した導入過程が明らかになる。

以上の内容からなる本論文は、従来の建築史学における近代建築生産史分野のなかで、ほとんど先行研究のなかった海軍省の建設組織と技術体系について、はじめて実証的に事実を解明した基礎的な研究となる。特に海軍工廠における鉄骨造技術の導入過程の解明は、近代化遺産における鉄骨造建築の評価に有益な情報を与えるものであり、近代生産技術史分野における新構造技術の研究に対して資するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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