学位論文要旨



No 216309
著者(漢字) 辻,英史
著者(英字)
著者(カナ) ツジ,ヒデタカ
標題(和) 貧困と名誉 : 19世紀ドイツ都市の公的救貧事業
標題(洋)
報告番号 216309
報告番号 乙16309
学位授与日 2005.07.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16309号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 相澤,隆
 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 石田,勇治
 東京大学 助教授 森井,裕一
 大学評価学位授与機構 教授 木村,靖二
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀のドイツ諸都市において展開された公的救貧事業を、近代市民社会との関わりにおいて考察するものである。

本研究の特徴は、ひとつは救貧事業の再評価にある。これまで救貧は社会政策の一分野として理解されてきたが、古代や中世にさかのぼる古い歴史を有するがゆえに前近代的・非合理的な性格を有するものであり、したがって近代においては歴史的使命を終え、新しい社会福祉の諸制度に次第に取って代わられたとされるのが通例である。また、その社会的弱者に対する差別的・恩恵的性格を指摘されることも多い。しかし本研究は、この救貧事業のなかに近代市民社会の重要な原理のひとつである規律化と統合の側面を見て取り、それが19世紀を通じていかに形成され、機能していたかを考察しようとするものである。

またこの研究のもう一つの特徴は、地方自治における名誉職行政をその対象とするところにある。市民が名誉職によって行政の実務に参画するという制度は19世紀初頭のドイツにおいて近代的都市自治が成立した際にはじめて大々的に導入され、世紀転換期に至るまで重要な役割を果たし続けた。この名誉職制度は専門職官吏に比して実務上の合理性と正確性に関して劣るものであり、都市における行政課題の複雑化と拡大にともなって次第に重要性を失ったとされ、近代都市研究の対象として取り上げられることはこれまできわめて稀であった。しかしドイツにおける名誉職制度はその後も決して消滅することなく、独裁政権や戦時における消長と波乱をあいだにはさみつつも、現代に至るまで維持されているのである。本研究はこの都市における名誉職行政制度を、最も大規模に活用された救貧事業の領域に関心を集中して検討し、市民社会におけるその役割と限界を探ろうとするものである。

本論文は大きく分けて2つの部分からなる。はじめの2つの章では、理念史的な手法を用いて都市における自治制度および名誉職行政、救貧事業という3つの領域の相互関連と発展を跡づける。まず19世紀初頭の各領邦における都市自治の発展を概観したのち、1830年以降旧来の伝統的な都市エリート層に代わって市政を担うようになった経済・教養市民層のもとで、名誉職制度が都市自治において果たした役割を検討する(第1章)。これら自由主義的な市民層は、自らのメルクマールとして経済的・精神的な自立性Selbstandigkeitに依拠し、また都市自治体は各人が私利私欲を捨てて全体の発展のために尽くすべき共同体であるとする「古典的共和主義」の態度を取った。彼らは19世紀前半の国政をめぐる状況では困難であった「公共の福利Gemeinwohl」を実現していく可能性を自治体のなかに見いだしたのである。その際名誉職制度は彼らにその理念を現実に実践する機会を提供するものであり、それゆえ19世紀半ばから後半にかけてドイツ全土にわたって自由主義市民層は都市自治に積極的に参加していくことになった。19世紀末葉になるとこうした市民層の勢力はさまざまな集団の挑戦を受けることになるが、都市政治においては非党派的な「公共の福利」が追求されるべきだという考えは、女性運動、社会民主党、専門職官僚、社会改革運動などの新興勢力のあいだにおいてもなおも担われ続けたのであった。

ついで本論においては、都市自治体による公的救貧事業を分析の対象とする(第2章)。まず19世紀半ばに自由主義的市民層によって考案された、いわゆるエルバーフェルト制度と市民層の理念との関係を考察する。エルバーフェルト制度は市民の名誉職救貧委員に自らの受け持ち地区を与え、その内部での大幅な裁量権を認め、地区内に住む貧民を在宅訪問によって救助にあたらせる制度である。この制度には2つの重要な特徴が看取できる。まず、エルバーフェルト制度が考案された19世紀半ば当時では最も合理的な貧民救済のシステムであり、実際に貧困を根絶することが可能であると考えられていたことである。つまり名誉職救貧制度は、貧困を防止し都市社会を安定化するという目的に奉仕する「目的としての救貧」の側面をもっていた。もうひとつは、貧民たちという都市社会の秩序を脅かす可能性をもった集団と、救貧委員としてこの制度に参加する市民たちとが救助を通じて直接向かいあうことにより、前者を規律化して市民社会に統合するのみならず、さらに市民たち自身が市民社会の規範を実践しそれを内面化することができるという、社会の全面的規律化のための「手段としての救貧」の側面である。この目標と手段との、二重の機能をバランスよく兼ね備えたエルバーフェルト制度は、それゆえ多くの都市市民の関心を集めた。世紀末にはドイツの諸都市がめざましい発達を遂げ、その裏面で貧困の問題が深刻化するなか、ドイツのほとんどの大・中都市にこの制度が普及したのであった。

後半のふたつの章では、バイエルンの首都ミュンヘンを事例として選び、公的救貧事業の制度的展開とそこに携わった市民たち、およびそのクライアントとなった貧民たちについて、社会史=日常史的分析を試みる。1870年代に自由主義的な市民層を中心にした再編をもって始まったミュンヘンの公的救貧事業は、第3章において検討したように、商人・手工業者・工場主・金利生活者など市民層の広範な集団を動員し、急速な都市化による都市社会の変質に対応して活発な活動をおこなった。他のドイツの同時期の大都市と比べると、この時代によく見られた「社会都市」と呼ばれるような都市当局のイニシアティヴによるさまざまな社会扶助のネットワークの形成ではなく、ミュンヘンにおいてはむしろ当局による公的救貧事業と民間のさまざまな福祉団体とが、ある時は連携しあるときは距離を保ちつつ活動をおこなうという「福祉の混合経済」的状況が特徴的である。しかしミュンヘンにおけるエルバーフェルト制度に基づく公的救貧事業は、その後19世紀末になると救貧予算の増大に苦しめられ、また貧民の社会的な統合にも決して成功を収めたとは言えなかった。こうした「目的」と「手段」の2つの機能がともに失われていくことに応じて、市民たちの名誉職救貧委員に対する熱意も次第に低下しくことになった。

こうした状況に対応して、世紀転換期以降、ミュンヘンという局地においては新しい救貧局長グリーザーを中心に、バイエルン王国全体においてはバイエルン政府や中央党を中心に、古いエルバーフェルト型の公的救貧事業を改革して時代に適応させようとする「救貧事業の社会的形成」を目指す動きが生まれる。本研究の第4章は、こうした世紀転換期における公的救貧事業の再編という問題を扱っている。ミュンヘン市では女性の名誉職救貧委員への登用の問題が重要である。貧民の市民社会的規範による規律化というそれまでの目標に代わって、貧困という社会的リスクの軽減という防貧の観点が前面に出てくるに従って、これまでの名誉職救貧事業を独占していた市民男性は質量ともに十分な働きができなくなっていた。女性の参加は、それまでの男性市民による家父長的・差別的な救助のあり方ものに代わって、公的救貧事業に都市共同体に属する者同士の互助という性格を新たに与えることになった。また、バイエルン王国レベルでは、これまで公的救貧事業の対象をその都市に定住している人間に限定していた故郷権法の規定が廃止されることになり、またこれに付随して行われた救貧制度の再編により、国家という共同体に属する者ならいつでもどこでも、その住所において救助が受けられるようになったのである。

世紀転換期以後の改革は、名誉職による市民から貧民への救助というその本質はそのまま維持しつつ、公的救貧事業の性格を大きく変えるものであり、そうした改革の試みのなかから、その後第一次世界大戦の試練を経てワイマール期において社会国家として結実する要素が萌芽的に作り出されていった。その最たるものが大戦期に公的救貧事業を基盤として構築された戦時福祉事業(家族扶助)である。本研究は総力戦のもとドイツ市民社会が大きく変化することになったこの第一次世界大戦におけるミュンヘンの戦時福祉事業の検討を持って区切りとしている。

以上、本研究はドイツ市民社会が、それまでの階級的な「ブルジョワ=市民社会burgerliche Gesellschaft」から離脱して、開かれた「公民=市民社会Zivilgesellschaft」へと移行しようとする転換期を扱っている。では、本論で検討したような19世紀の公的救貧事業に特徴的な諸要素は、どの程度現代にまで受け継がれているのであろうか。その答えのひとつが上に挙げたミュンヘン市救貧局長グリーザーである。彼はその後ワイマール時代にはライヒ労働省に入り社会保険制度のエキスパートとして活躍し、戦後西ドイツの分権型社会保険制度の構築においても大きな役割を果たしている。彼が一貫して主張したのは、社会福祉制度によって互助と互恵の精神を社会に根づかせることの重要性であった。またこのほかにも、現在ドイツにおいても我が国と同じように注目されている地方分権の問題――そこにおいても「社会都市」の呼称が用いられている――、および近年盛んになりつつあるボランティアとしての市民参加の問題を考える際にも、19世紀ドイツ市民社会における名誉職の経験は、貴重な材料を提供してくれるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「貧困と名誉−19世紀のドイツ都市の公的救貧事業」は、ドイツの都市を対象として、19世紀から20世紀初頭までの市民社会の発展の中で、公的救貧事業がいかに展開し、都市と市民がこれにいかに関わっていったのかを考察したものである。

論文は4章から構成され、大きく二つの部分に区別される。はじめの二つの章は都市における自治制度の発展と、名誉職行政および救貧事業という領域との相互連関をドイツ帝国全体を視野に収めつつ跡づけている。第1章では1830年以降新たに市政の主導権を握った経済・教養市民層の下で、名誉職行政が大きな役割を担っていった課程を丹念に追っている。これらの市民層は自由主義的な思想をもち、都市は市民が私利私欲を捨てて都市全体のために尽くすべき共同体であるとする「古典的共和主義」の立場をとった。その際に名誉職制度が、この立場を具体化し、「公共の福祉」という理念を実践に移すための重要な装置として活用され、19世紀後半にはドイツ全土に渡って、この制度をつうじて自由主義的市民層が都市自治に積極的に関わったことが述べられている。

第2章は都市自治体の公的救貧事業を分析の対象とし、その際19世紀半ばに自由主義的市民によって考案されたエーベルフェルト制度という救貧システムが、ドイツのほとんどの大都市・中都市で取り入れられたことに注目している。この制度は都市の各地区に名誉職救貧委員を配置し、彼らに地区内に住む貧民を訪問して自らの裁量において救貧に当たらせるものであった。この制度は、貧困を防止して都市社会を安定化するという「目的としての救貧」と、市民の救貧事業への関与を通じて市民社会の規範が実践され内面化されるという「手段としての救貧」とを同時に実現しうるものとして都市の関心を呼び、それがこの制度の普及につながったと論じる。

後半の3章、4章はバイエルンの首都ミュンヘンを例にとって、ここでの公的救貧事業の発展とその事業に関係した市民および貧民の社会史的分析をおこなっている。第3章では急速な都市化の中で、都市当局だけではなく、民間のさまざまな福祉団体も救貧事業に関わり、両者が並行しつつときには協力して事業に当たる体制をとったことが、ミュンヘン市の特色として引き出される。しかし公的な救貧事業は19世紀末には社会の安定化や貧民の統合に失敗し、名誉職救貧委員として活動する市民の情熱も低下することとなる。

第4章ではこうした事態を受けて、世紀転換期にミュンヘン市が公的救貧事業をどのように再編したかを扱っている。ここでは女性の名誉職救貧への登用が重要な特色として指摘され、また長期の定住者だけを救貧の対象とする法律が廃止されて、バイエルン王国に属する者ならばいつでもどこでも救貧を受けられるようになった事情が解明される。最後に第1次世界大戦の時にミュンヘンでは戦時福祉事業が以前の救貧事業を基盤として構築され、それがワイマール期の社会国家を導く先駆的な改革であったことが明かされる。

本論文は19世紀から20世紀初頭にかけての都市の救貧事業の展開を、ドイツ全体とミュンヘンという個別都市の両者に関して多くの資料や統計を用いて綿密に跡づけている点がまず重要である。またそれを、近年の社会史研究の傾向に照らして同時代の政治・経済・社会・文化・思想などさまざまな領域における発展の傾向と関わらせながら論じている点にも注目すべきである。個別の都市の救貧事業を対象とする、今まで出されてきた多くのモノグラフィーが、詳細かつ緻密な研究である一方、この事業を近年の社会史研究の諸傾向や他の歴史的諸要因と関連づけることには十分に配慮していない現状において、目配りの利いた、総合的な本論文の論述は研究上の重要な貢献と言うに値する。

さらに、現代における社会政策や福祉事業との連関にも十分な配慮がなされていることも指摘できる。19世紀に展開したヴォランティア的な名誉職救貧の理念や女性の救貧活動への参加などは本論文の重要な論点として社会史研究に大きく寄与しうるものであるが、同時に現代のドイツをはじめとする諸地域のこの分野の制度や理念にも多大な影響を残していることが説得的に論じられている。

ただ審査においては次のような欠点も指摘された。

前半の総論部分とミュンヘンを扱った後半部分の関連が十分説得的に論じられていない。市民の自立性や名誉の理念を日常史的な分析から析出するという論文の意図が十分達成されていない。「目的としての救貧」と「手段としての救貧」という、それ自体は分析概念として工夫されている救貧機能の二側面が必ずしも明確に区別されずに使われている部分がある。経済学上の概念の用法や地名の表記にあいまいさや誤りが散見される。「規律化」という概念をこれ以前の絶対主義時代の「規律化」概念と同じ意味で使っているが、19世紀的な意味での「規律化」の特色をはっきり打ち出すべきである。救貧における教会の役割についてもより細かい分析が必要である、などである。

しかしこれらを指摘した各審査員は、これらの瑕疵が本論文の研究上の貢献とくらべれば大きな意味はもたず、本論文が博士論文としての水準を十分超えているという判断で一致した。したがって審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した

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