学位論文要旨



No 216310
著者(漢字) 福井,裕之
著者(英字)
著者(カナ) フクイ,ヒロユキ
標題(和) 十七―十九世紀の日本思想・文化における神の観念の諸相 : 否定的なものへの感受性の変容をめぐって
標題(洋)
報告番号 216310
報告番号 乙16310
学位授与日 2005.07.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16310号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,政稔
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 松原,隆一郎
 東京大学 助教授 苅部,直
 東京外国語大学 助教授 米谷,匡史
内容要旨 要旨を表示する

近世思想史で神や天についての研究が行われる場合、古代を視野に入れた研究も存在する中世思想史研究とはちがって、全体的把握・包括的把握は後回しになりがちである。つまり、近世朱子学や徂徠学のみが比較の軸にとられ、「○○(思想家)における天の観念」、もしくは「○○における神の観念」といったかたちで研究が細分化されてしまっているとともに、隣接の個別科学との関係も断ち切られてしまっている。

もちろん、丸山真男、和辻哲郎、中村元など古代から近代までを広く研究した大家も存在する。しかし、彼らの思想史研究・比較思想は、民俗学・社会史などとちがって、日本が歴史のごく早い段階で稲作単一民俗の国であったという前提に立ち、〈守り神〉の観念や祖霊信仰の存在・影響力を非常に大きく見積もってきた。

また、研究事情自体からは視点を変えても、おそらく庶民・非研究者のレヴェルでは、近世儒教の神の観念「天」は経験合理主義的――近世儒教の観念は経験合理主義的であるがゆえに実は〈本覚思想〉として浸透していると考えられるが――すぎて、仏教や陰陽道ほどには意識的な興味をもたれていない。少なくとも私見では、近世思想史は、とくに現代日本での景気停滞のなかで強まる、心霊的なものを求める庶民感覚からはよくもわるくも遊離しているように思われる。すなわち、経験合理主義が霊感・占い商法に加担することはないことは「よい」が、それを求める心性にまったく冷淡なのは「わるい」だろうからである。

そこで、本稿の研究の目的は、古代からさかのぼって、そして民俗学・社会史などのいまやスタンダードとなった神についての観念の研究――おもに、〈祟り神〉、〈苦しむ神〉の観念についてのもの――の成果を取り入れながら、十七世紀から十九世紀にかけての日本思想・日本文化における神の観念の変化・変遷を追うこと、そして日本社会・文化における神の観念の研究を、心霊的なものを求める人々の心に対して啓蒙的でもあり、民衆的でもあるものにすること、である。

本稿の「序論」(第一章〜第三章)では、丸山真男、和辻哲郎、中村元などの研究の問題点をあきらかにし、桜井好朗氏、中村生雄氏、佐藤弘夫氏、黒田俊雄、平雅行氏などによる古代、中世の神の観念についての研究を参考にして、〈祟り神〉の観念、〈守り神〉の観念、〈苦しむ神〉の観念、〈罰する神〉の観念、〈心〉重視の平等主義的〈本覚思想〉、〈形〉重視の差別主義的〈本覚思想〉という基本概念を提出した。そして、神の観念の変化にまつわる古代から中世までの日本思想・文化の歴史的動向を、否定的なもの(祟り、他者性、恨み、罪など)への感受性の変容――おおむね否定的な意味での変容――と規定し、この感受性の変容は近世以降にも継続する歴史的動向であるという仮説を立てた。

「I」(第四章〜第九章)では、「天道」観念、「心だに」の句、鈴木正三、熊沢蕃山、西川如見、貝原益軒、伊藤仁斎などを対象とし、中世のあと、十七世紀では、「天道」という〈守り神〉への一元化がかなり進みはしたこと、そしてそうではあるものの、十八世紀に比べるとまだまだその一元化は完全ではなく、ひとつの思想のなかにも、〈祟り神〉の観念、〈守り神〉の観念、〈苦しむ神〉の観念、〈罰する神〉の観念、〈心〉重視の〈本覚思想〉、〈形〉重視の〈本覚思想〉への信仰、もしくはそれらへの理解が多様なかたちで存在していることを確認した。十七世紀においては、基本的には、「慈悲」から「仁」あるいは「正直」(家の自立、職分の励行)へ、個人的な愛から「家」への執着・崇拝へ、〈罰したり応じたりする神〉から〈守り神〉、〈本覚思想〉へ、前世の因縁論から現世の天分論へ、移動から定住へ、焼畑農耕や肉食文化も許容しえた文化から稲作中心文化へ、と移行していく。しかし、それらのあいだで揺れ動いているのが、十七世紀の思想の特徴である。

「II」(第十章〜第十三章)では、十八世紀において、荻生徂徠、安藤昌益、懐徳堂、後期水戸学などの儒教系知識人の思想では、「天道」観念に代わり、あるいは「天道」観念に加えて、不可知の「天」の観念が登場したこと、そしてアマテラスや「天道」に代表される〈守り神〉の観念や〈本覚思想〉とは異なる神の観念、否定的なものが淫祀・俗信として感受され、排撃されたことを確認した。別の言い方をすれば、十八世紀は、祖先崇拝の定着を意図した、近世権力による宗教統制・管理が効果をあげていく時期である。生の充溢・享楽、国や家の連続、通俗道徳の励行、稲作定着民の文化を支える〈守り神〉の観念が圧倒的なものとなっていくのである。

「III」(第十四章〜第十六章)では、〈守り神〉の一元論に終始しがちな儒教系の思想とちがって、増穂残口、本居宣長、平田篤胤などの国学の思想では、儒教系以上に日本の古道を探究した結果、〈守り神〉とそれ以外の悪神・心――〈祟り神〉・怨霊・天狗――との二元論によって世界が説明されること、つまり否定的なものへの鋭い感受性を示すこと、しかし、宗教的・文化的排外主義に傾倒することに加え、結局は悪神が〈守り神〉に馴致され、従属していくことを確認した。

「IV」(第十七章〜第十八章)では、石門心学――石田梅岩、手島堵庵、布施松翁、中沢道二――の思想と民衆宗教・運動――近世山岳信仰、黒住宗忠、なまず信仰、ぬけ参り、ええじゃないか、中山みき、赤沢文治、一尊如来きの、出口なお――の思想とを、〈本覚思想〉に関して対照的な関係にあるものとして把握した。つまり、前者は〈形〉重視の差別主義的〈本覚思想〉であり、後者は〈心〉重視の平等主義的〈本覚思想〉である。なお、民衆思想においても、〈守り神〉と〈祟り神〉のどちらを信じているかは一様ではなく、さまざまな事例が見られたこと、しかし、近世以降の大勢に反して、赤沢文治、一尊如来きの、出口なおなど、はっきりと〈祟り神〉を信仰している事例もあることを確認した。彼ら・彼女らの〈祟り神〉信仰は、知識人のものを含めて〈守り神〉信仰が大勢を占めているなかでは異彩を放っている。

「V」(第十九章)では、西周、加藤弘之、福沢諭吉、内村鑑三の思想は、肉食禁忌・性差別含めて俗信・迷信を否定するという点では、効果をあげたものの、しかし、〈本覚思想〉や〈守り神〉の観念と根本的に対立するものではなく、むしろそれらに対して保守的であること、そして十八世紀以来の歴史における支配的な展開である通俗道徳の励行論、祭政一致論、国家神道を批判することはなく、むしろ、それを自明の前提として黙認していったという観が強いことについて論じた。また、西洋を夢見て日本の未来にあかるい期待をいだくばかりで、否定的な過去や多様性について反省することはない。

以上で確認してきたのは、十七世紀以降の神観念と精神世界の変化の特徴が、まず、〈祟り神〉観念とその変成の系譜――〈怨霊〉、〈妖怪〉、〈応じたり罰したりする神〉、〈苦しむ神〉――を忘却し、〈守り神〉の観念や〈本覚思想〉を強めてきたことにある、ということである。その特徴の背景には、戸籍をもち墓に石碑を立て定住するがゆえに、人々は、「家」の存続意識や祖先崇拝イデオロギーを強め、水田稲作農耕を生活の中心に考える。近世、とくに十八世紀以降は、そういう意味で、定住・家・祖霊・米に重きを置く稲作定着民の時代であったということが存在していよう。

稲作定着民の時代が導いたと考えられる〈守り神〉の観念と〈本覚思想〉の浸透が招く(1)政治史・社会思想史な帰結・問題点、(2)倫理学的な帰結・問題点、(3)学術的な帰結・問題点は以下のとおりである。(1)近代に残った信仰は、天皇家と国家の〈守り神〉アマテラスを頂点とする国家神道・祭政一致論、祖霊信仰、生き神信仰、すなわち現実的支配関係に対する重視である点。(2)十八世紀以降の日本思想には、〈殺〉〈死〉という否定的な事象・事実に直面しても、それらを〈生〉によって一方的に粉飾する傾向、すなわち〈殺〉〈死〉という否定的な事象とのまじめな葛藤を回避する傾向が一般的だった点。(3)十八世紀の学問の展開を考えると、日本においては、今の自分自身にとって親和的な過去・起源だけを探して記述するという意味での現状肯定的な〈解釈学〉を離れること、すなわち〈考古学〉・〈系譜学〉的な自己批判を行うことが非常に困難である点。

本稿の見通しでは、日本思想・日本文化を掩う、否定的なものへの感受性の変容・弱体は、二十世紀、そして現代へと続いている。われわれにとって、否定的なものへの感受性を従来とは逆方向に変容させることが政治上、倫理上、学問上火急の課題である、と結論づけたい。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本思想史における神の観念の変遷を検討することを通して、否定的なもの、あるいは悪を抱えて生きることの意義が、どのように現われ、また排除されてきたかを考察する意欲的な論文である。著者によれば、否定的なものへの感受性を抑圧する契機は、18世紀以降主流となった稲作定住民の神の観念に親近的であり、またそれらの観念のなかに日本的なものを見出す解釈学的思考が、否定的なものの抑圧を強化してきた。本論文は中世以降の神観念を、<たたり神><守り神><応じたり罰したりする神><苦しむ神><本覚思想>の5つに分けて、その変容を跡付けている。なかでも本論文の特徴となっているのは、仏性の万物への内在と現世の絶対的肯定を説く中世「本覚思想」が主要な問題として取り出され、その本来の用法を超えて神道や儒教にも思考様式(これを本論文は<本覚思想>と表記している)として広まり、時代的にも近世および近代まで影響が及んだと立論されている点である。こうして本論文は、仏教、儒教、神道といった宗教の別を超え、またトップレベルの思想家から民衆の宗教意識や通俗道徳に至るまで広く共有された観念を批判の対象とし、またこれらをもとに稲作中心の日本文化の同一性を作り出そうとする解釈学的叙述を批判することを目的とするものである。

本論文は序論および五部から構成される。序論ではまず、現代の日本社会にもつながる、悪を抱えて生きる力を失わせてしまう在り様を、神の観念の変遷に求めようとする、本論文の問題設定が示される。そして、丸山真男、和辻哲郎、中村元などのこの領域における先行研究を示したあと、これらの研究がそれぞれ立場を異にしても、いずれも稲作を中心とする民俗の国として日本を捉えていることを問題とし、それらの解釈学的な態度に疑問を呈している。また著者は、桜井好朗、中村生雄、佐藤弘夫らの研究に依拠して、日本の神々についての観念を、<たたり神><守り神><罰する神><苦しむ神>などに分類する。本論文の整理によれば、<たたり神>は歴史を下るとともに周辺化され、中世にはまだ神観念の多様性が認められるものの、近世に至ると、<守り神>に一元化される傾向が強まる。この変遷は現世の肯定と、否定的なものの排除に結びついており、これに大きな役割を果たしたのが、<本覚思想>であった。本論文は、島地大等に始まり、田村芳郎や末木文美士らによって論じられている本覚思想の特徴を以下のように整理する。すなわち、人間の「一心」に仏が内在しており、さらに人間のみならず生きとし生けるものすべてが仏性を有して成仏できる存在であり、善悪、彼岸と此岸、理性と欲望といった対立をすべて無化し、現実を絶対的に肯定する思想である。そして、黒田俊雄による中世「顕密体制」論を、本覚思想の展開に深い関わりをもつものとして重視する。

第一部では、まず初期近世の武士によって奉じられた天道の観念が紹介される。天道論は個の実力による運命の開拓を勧める一方で、支配秩序を正当化し個人の分限を定めるなど両面的な性格をもっていたが、次第に<守り神>としての性格を強めることになる。続いて菅原道真が詠んだとされる「心だに」の句の、近世における解釈史をたどりつつ、この唯心論的な修法論が、通俗道徳の励行論として後の石門心学や仮名草子などに広汎に浸透していったことが示される。著者によれば、天道観念の転換と同様、この「心だに」の句に由来する心の哲学にも、天台仏教から神道へと流入した本覚思想との親近性が認められる。<本覚思想>的思考の摂取は、宿業的天道観念によって差別的な身分道徳を正当化する禅僧鈴木正三、また天台教学に批判的ながらも熊沢蕃山といった思想家に、宗教の別を超えて見い出される。また新井白石、貝原益軒から伊藤仁斎に至る近世思想の展開のなかに、さまざまな神の観念を残存させつつも、職分の励行、天分論など現世の肯定と、稲作中心の文化の正当化がみとめられる。

近世も18世紀になると、近世権力による宗教統制の深化とともに、思想の領域においても祖先崇拝の定着や否定的なものの排除などに特徴が見出される。第二部では荻生徂徠、安藤昌益、懐徳堂の諸思想家が扱われる。周知のように徂徠は丸山真男らによって作為の思想家として解釈されてきたが、本論文によれば、徂徠の説く礼楽刑政とは、官僚的なシャーマニズム(鬼神説と関連する)を伴った職能的身分制論であり、<心>よりも<形>を重視するタイプの<本覚思想>の系譜に属するとされる。また幕藩体制を批判した安藤昌益においては、その自然観において「草木国土悉皆成仏」との本覚思想的な現実絶対肯定の思想が継承されており、とりわけ米をもって諸価値の根源とする稲作中心主義が顕著であり、これらがアマテラス信仰へと結実することが示される。また近世中期に大坂で開設された懐徳堂では、富永仲基、中井竹山、山片蟠桃らの町人思想が展開するが、本論文によれば、しばしば画期的な学問論(富永)や無鬼論(山片)などで注目されるこの学派も、結局は祖先崇拝や通俗道徳の励行へと傾斜し、<本覚思想>的伝統を破ることはなかった。

第三部では、国学系の思想が論じられる。本居宣長にあっては、世界で生起する出来事の多くは人力の及ばない「幽事」であるとされ、<守り神>に尽きることのない、<たたり神><荒ぶる神>などの非合理的な要素が再来している。しかし、結局のところ宣長が目指すのは、このような否定的なものの復権ではなく、歌を通じて<荒ぶる神>を「あはれ」と思わせ、それを馴致すること以上ではなかった。宣長は<本覚思想>的伝統への批判者として評価されるケースもあるが、本論文によれば、宣長はすべての悪を黄泉の国に帰着させ、アマテラスを<守り神>として中心化してゆく。一方、平田篤胤の国学は、妖怪、怪異、仙境、幽明等を扱う不可解な神話学と見なされてきたが、このような彼の冥界への関心は、オオクニヌシおよびその親神であるスサノオの重視、また「山人天狗」論など、否定的なものと結びついている。しかし本論文によれば、平田においても<守り神>化の傾向が見られ、天狗信仰も現世利益的なものに置きかえられている。そして天皇家の御霊と仏教上の悪霊とは区別され、「神胤」による祖先崇拝としての天皇崇拝が位置付けられることになる。平田は<本覚思想>的な性格をもつ仏教の救済論を批判したが、本論文によれば、むしろ両者は近く、神国思想的に変容した<本覚思想>を確立したとされる。

第四部では、近世、近代の庶民信仰を中心に、本覚思想的伝統との関連が検討されている。まず石門心学について、禁欲的な経済倫理であるという説を退け、本論文は、「心」よりも「形」を重視する、保守的で現世に順応的な教説であるとし、また民衆的な石門心学者たち(布施松翁、中沢道二ら)は、流行のからくり人形に由来する着想から、天道概念を安楽に解釈する傾向を示し、結局<本覚思想>的側面を強めることになる。これらに対し、富士講、黒住教、なまず信仰、ぬけ参り、ええじゃないか、のような民衆信仰、また中山みき、出口なおら女性の宗教者が開いた信仰には、否定的なものの噴出や<たたり神>あるいは<苦しむ神>的なものの持続が見出され、これらが「形」よりも「心」を重視する異端の<本覚思想>的系譜を作り出したとされる。

最後の第五部では、明治の思想家における宗教論が取り扱われ、西周、福沢諭吉、加藤弘之、内村鑑三らが論じられる。本論文によれば、これらの思想家にはそれぞれの立場を超えて現実絶対肯定の<本覚思想>的側面が見出されるとされる。たとえば優勝劣敗を主張した加藤のみならず、因果応報的な天道論や「安心の法」論によって「新日本の文明富強」を正当化した福沢にもそれが見られる。一方、内村はキリスト教の神による因果応報を踏まえ、現世利益に傾く日本の多神教を批判するとともに、渡米後はアメリカ文明をも糾弾した。しかし、本論文によれば、そのような批判を可能にしたものは、内村による農耕を基本とする日本人の国民性の肯定であり、これはまたイスラエルと日本の同祖性の主張へと帰結している。

以上のように、本論文は「否定的なもの」をテーマとして、日本の中世以来の思想全体を再検討しようとする壮大な試みである。その意義はまず、思想史、歴史学、民俗学などの学問的境界を超えて、広大な領域に亘る文献や資料、研究文献を読み解き、広い意味での日本の思考様式について、ひとつの像を提示した点に求められる。また、本論文のもうひとつのテーマと言うべき肉食禁忌の思想を稲作中心主義との関連で批判的に辿ったことや、さまざまな民俗学的エピソードに立ち入ったことも、本論文をいっそう興味深いものにしている。思想史の対象について言えば、これまで多くは、仏教、儒教、神道、キリスト教のように宗教ごとに論じられてきたのに対し、本論文は宗教の別を横断した主題を設定して、各宗教に通底する特徴を見出している。こうして本論文は、日本思想において超越的なものが解消される態様を、歴史的また構造的に、雄大な視野で論じる成果を挙げたと言うことができる。さらに、論文冒頭で触れられていたように、否定的なものを抱えて生きる力の喪失という、現代の深刻な問題性を歴史的に明らかにしようとした点でも意義を認めることができる。

しかし同時に、このようなテーマ設定の壮大さが、いくつかの欠点を本論文にもたらしていることも否定できない。たとえば本論文は丸山真男の古層論を、日本的なものの解釈学的同一性を構成するものとして批判しているが、<本覚思想>の通底を指摘し、日本思想における否定的なものの排除を宗教の別を問わず、また通時的に見出す本論文は、著者の意図に反して、一層乗り越え困難な日本的なものの同一性、もうひとつの「古層」を発見することになってはいないか。また、このような批判の枠組みのために、各々の思想家に対する批判が、ともすれば単調な繰り返しに終わっていると思われる部分も散見される。そして肝心の(本義および拡張を含めて)本覚思想の内容が多義的であり、論文が展開するにつれてこの伝統が、「形」と「心」、また保守的なものと異端的なものに区別されるようになるのは、この思想伝統に多様性を取り込もうとする点で評価される面もあるが、逆に同一の思想伝統で括ってよいかとする疑問をも生じさせる。

しかし、以上のような欠点や疑問は、本論文が困難な課題に挑戦し、多方面に亘る問題提起とともに、独自の日本思想史像を構成したことの多大な価値と比較すれば、小さなものにすぎない。それゆえ、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしい業績として認めるものである。

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