学位論文要旨



No 216311
著者(漢字) 田中,修
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,オサム
標題(和) 中国経済政策史(1996-2004) : 財政・金融を中心に
標題(洋)
報告番号 216311
報告番号 乙16311
学位授与日 2005.07.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16311号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣松,毅
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 荒巻,健二
 東京大学 助教授 鍾,非
 帝京大学 教授 高橋,満
内容要旨 要旨を表示する

2002年、中国共産党第16回党大会が開催され、党総書記が江沢民から胡錦涛に交代した。また、2003年には国務院総理が朱鎔基から温家宝に交代し、中国指導部は江沢民−朱鎔基体制から胡錦涛−温家宝体制に移行した。本論文では、これまで体系的な先行研究が存在しなかった、(1)江沢民が権力基盤を強化した96年以降の経済政策がどのような特色を持ち、それが中国経済にどのような影響をもたらしたか、(2)98年に国務院総理に就任した朱鎔基が公約に掲げた経済政策・経済改革目標がその意図どおり達成されたか否かを総合的に検証する。また、(3)江沢民−朱鎔基体制との比較で、胡錦涛−温家宝体制は経済政策においてどのような独自性を打ち出しつつあるかを、現時点で可能な限り包括的に論ずる。

序論

本論文の執筆目的は、(1)江沢民−朱鎔基体制から胡錦涛−温家宝体制に至る経済政策の変化を概観し、両体制の経済政策の特色を明らかにするとともに、これが中国経済の構造に与えた影響を考察すること、(2)中国の財政・金融の改革の現状と残された課題について考察すること、(3)98年8月から採用されたケインズ流の拡張的財政政策が、景気回復後も容易にフェイド・アウトできなかった要因について、政府・国家シンクタンク関係者の発言及び主要会議の動向等をもとにその政治過程を考察すること、である。本論文の対象となる96年以降の中国の経済政策の変遷については、総合的・体系的に考察した先行研究が存在しない。

中国経済の諸課題

中国経済の最も深刻な問題は3つの格差問題(都市と農村の格差、東部と中西部の格差、都市における貧富の格差)である。この格差が拡大した要因としては、江沢民−朱鎔基体制が農業・農村・農民対策を軽視していたこと、中央から地方への財政移転支出制度が不完全であること、個人所得税の所得再配分機能がうまくはたらいていていないこと等が挙げられる。

そのほか、中国の経済成長には3つの格差以外にも(1)投資と消費のアンバランス、(2)産業構造のアンバランス(2次産業中心)、(3)経済成長とエネルギー・資源消費のアンバランス(中国の成長は資源・エネルギー多消費型)、(4)経済成長とマネー・サプライのアンバランス(銀行貸出しの急増等)、(5)経済成長と失業率のアンバランス(成長につれ失業率が上昇)が存在する。なかでも、投資と消費のアンバランスは、農村の収入低迷等によって消費が伸びない反面、周期的に投資過熱が発生することによって深刻化している。投資過熱の原因としては、計画経済以来の予算制約のソフト化、5年周期の政治人事サイクルとGDPや生産額中心の政治業績評価システムの存在によるところが大きい。また2003年において投資過熱が発生した特殊要因としては、WTO加盟による直接投資の急増、都市化・住宅建設の推進、銀行の積極的な貸出し行動、北京オリンピック・上海万博の決定等が挙げられる。

さらに中国の経済成長は、中長期的にも経済面、政治面、社会面の制約要因が存在する。そのなかでも、エネルギー・資源・電力不足、水不足、環境破壊は、既に中国の経済成長を制約する深刻な要因となっている。

江沢民体制の経済政策

李鵬が総理を担当し、朱鎔基は経済担当副総理としてこれを補佐していた95年9月−98年2月の時期には、経済指標が明らかに悪化していたにも関わらず、政府は何も有効な対策を打ち出すことがなかった。その要因としては、(1)5ヵ年計画のもつ政策の硬直性、(2)デフレに対する経験不足、(3)指導部交代による政策の空白、(4)96年の経済の減速を「軟着陸」に成功したと誤解し、97年7月にアジア通貨危機が発生した際も、その中国経済に与える影響を軽視していたことが挙げられる。

朱鎔基が総理に就任し、江沢民−朱錆基体制が確立した98年3月−2002年10月の時期の経済政策は、98年8月に財政政策が緊縮型から拡張型へ転換したことが最大の特徴である。中国経済は2000年には回復の傾向がはっきりしたため、財政の悪化を懸念する財政部は、2002年に積極的財政政策のフェイド・アウトを試みた。しかし国家発展計画委員会などの強い反対にあいこの試みは挫折し、積極的財政政策は転換のタイミングを失うことになった。また、朱鎔基も99年の訪米失敗、法輪功事件、在ベオグラード中国大使館「誤爆」事件により、その政治的影響力を大きく低下させ、以後の経済政策は江沢民の主導で行われるようになった。

江沢民−朱鎔基体制の経済政策を総括すると、まず朱鎔基は、総理就任時に3つの改革(国有企業改革・金融体制改革・行政改革)を公約した。その達成度を検証すると、国有企業はコーポレート・ガバナンスの確立に至らず、金融機関の不良債権問題は一向に解決されず、行政改革は末端行政機構が手付かずのままである等改革の全ては中途半端に終わっており、多くの課題が温家宝新総理に引き継がれることになった。また江沢民は95年9月の党中央委員会第5回全体会議において「12大関係論」を打ち出したが、そこで強調された発展重視の部分的修正・経済格差是正はいずれも達成されず、3つの格差はむしろ拡大することとなった。

胡錦涛体制の経済政策

胡錦涛が党総書記に就任したものの、総理は朱鎔基が担任していた2002年11月−2003年2月の時期においては、特に2002年に開催された第16回党大会の経済的意義が大きい。ここで提起された「小康(いくらかゆとりのある)社会の全面的建設」は、経済・政治・文化の全面的な発展目標であり、これまでの政策のように経済的に一定の水準を達成するだけでなく、社会全体を一定のレベルに引き上げることにあった。また、2020年のGDPを2000年の4倍とする目標が決定され、非公有制経済の発展を奨励としていくこと、合法な非労働収入の保護も確認された。この党大会決定を受け、2004年の憲法改正では「公民の合法な私有財産は不可侵である」との規定が盛り込まれた。

温家宝が総理に就任し、胡錦涛−温家宝体制が確立した2003年3月以降の時期においては、まず新型肺炎SARSが中国経済の抱える問題(農民収入の低さ、農村における衛生医療施設・社会保障制度の未整備、都市の貧困等)を表面化させた。また、SARS以前から既に進行していた不動産・鉄鋼・アルミ・セメント・自動車などの投資の過熱がSARS終息後深刻化し、多くのエコノミスト・政府関係者が参加して経済過熱論争が展開された。このSARSの教訓と経済の一層の過熱を防ぐ観点から、2003年の党中央委員会第3回全体会議において経済・社会・人の全面的発展という新たな発展観(後に「科学的発展観」と呼ばれるようになる)が提起されるに至ったのである。

2004年に入ると経済過熱は一層深刻化し、政府は経済引き締めを決断した。しかし、経済引締めは当初地方政府の抵抗にあい効果が上がらず、5月に至り伝統的な行政指導による締め付けを行わざるを得なくなった。また10月には人民銀行が金利を引き上げ、12月には積極的財政政策を穏健な財政政策に転換することが決定されるなど、2004年は財政・金融政策の大きな転換の年となった。

胡錦涛−温家宝体制の経済政策が江沢民−朱鎔基体制と異なる主要な特徴としては、(1)社会的弱者(農民、一時帰休・失業者等)の重視、(2)法治国家の建設、(3)経済発展至上主義から科学的発展観への転換、(4)民のための執政、(5)東北地方等旧工業基地の振興、(6)金融体制改革の推進が挙げられる。社会的弱者対策としては、2003年に2回中央農村工作会議が開催され、2004年は農民収入の増加を政策の最重点課題とする方針が決定された。また、長期にわたり改革が停滞していた金融分野は、2003年12月以降改革が加速し、建設銀行・中国銀行に公的資金が投入され、2004年には両行の不良債権の分離・劣後債の発行が行われるなど、上場に向けた準備が急展開することになった。だが、国有商業銀行に真のコーポレート・ガバナンスが確立するには、まだ多くの課題が残っており、金融機関の破綻時の法制・預金保険制度の整備も急務である。

中国財政の構造問題

中国の財政は、(1)中央財政から地方財政の移転支出のうち、地方の財政力補強のための支出の割合が依然低いこと、(2)個人所得税の所得分類が煩雑で、企業の生産設備購入に増値税が課税されるなど税制に多くの不備が存在すること、(3)国有商業銀行や地方政府の不良債権、年金の積み立て不足が財政の持続可能性を脅かしていることなど、多くの問題が未解決となっている。今後の財政構造改革の方向としては、(1)財政部の権限強化、(2)公共投資総合計画の立案、(3)地方財政の確立、(4)財政移転支出制度の改善、(5)金融のセーフティネットの確立、(6)総合的な保険制度の確立、(7)政策金融機関の再編成、(8)国債管理制度の確立、(9)租税法律主義の確立、(10)予算執行チェック体制の強化、(11)財政年度の変更、(12)財政の透明性の向上、(13)財政赤字・政府債務の正確な把握、(14)財政関連組織の統合、(15)税の執行体制の強化に取り組む必要がある。

補論:中国におけるケインズ的財政政策の政治過程

長期にわたる緊縮的財政・金融政策と97年7月に発生したアジア通貨危機の影響により、98年上半期の中国経済は急速に悪化していた。中国政府は景気の更なる悪化を防ぐため、98年8月に補正予算で建設国債を発行し、積極的財政政策への転換を決定した。その後中国経済は2000年には回復軌道に乗ったため、2002年に、財政の悪化を懸念する財政部が積極的財政政策のフェイド・アウト論争を提起したが、国家発展計画委員会等の反対にあい、成功しなかった。2003年には投資の過熱傾向が顕著となり、2004年に政府は経済引き締めを行ったが、その過程においても、国家発展・改革委員会はなお積極的財政の継続を主張していた。しかし、経済引き締めの継続が既定方針となったため、11月に至り国家発展・改革委員会はようやく態度を軟化させ、12月には穏健な財政政策への転換が正式に決定された。

2002年に財政部が積極的財政政策をフェイド・アウトできなかった原因としては、(1)米国の景気後退、(2)WTO加盟への不安、(3)第10次5カ年計画のプロジェクトのスタート、(4)消費の低迷、(5)地方政府の都市化戦略など多くの要素があるが、国家発展計画委員会と財政部の調整が難航したことが大きい。

このことは、中国のように大衆民主政治が発達せず、重要な経済政策の決定権が比較的少数の指導者に集中している政治体制であっても、いったん拡張的財政政策が採用されてしまうと、景気が回復しても国家発展・改革委員会や地方政府が既得権益を主張し、容易に財政赤字削減への政策転換ができないことを示すものである。この意味で、ケインズ的財政政策は大衆民主政治が発達した国家では非対称的に働くが、経済政策が民主統制からはずれ中央計画当局の支配下にある全体主義的政治体制では有効に機能するとする、ブキャナン・ワーグナーの仮説は説得的とは言い難い。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1990年代後半の江沢民―朱鎔基体制から現在の胡錦涛―温家宝体制に至る経済政策及びその指導思想の変化を考察し、その原因を明らかにすることを試みたものである。本論文の第一の特徴は、旧ソ連・東欧と異なる漸進主義的改革を採用し経済社会の大きな混乱を伴わず高成長を維持し続け、「体制改革の成功例」とも言われてきた中国の経済政策がもはや限界に達していることを明らかにしている点である。また、1996−2004年の中国の財政・金融政策の流れを詳細に追うとともに、財政・金融の制度改革の現状と残された課題について考察しているのが第二の特徴である。

本論文は,I.序論と本論5章及びVII.補論からなる。I.が問題意識の提示、II.が中国経済の諸課題、III.及びIV.が中国の経済政策の変遷を解説した本論部分である。そしてV.が中国財政の構造問題の分析、VI.が以上の分析を踏まえた1996年−2004年における中国の経済政策についての総括的考察、最後にVII.補論で中国におけるケインズ的財政政策の政治過程を考察している。巻末には、政府・党首脳の経済政策に関する主要発言をまとめた年表と主要経済指標が付けられている。全体のページ数は約430ページであり、本論部分は約390ページである。これは400字詰め原稿用紙に換算して,約1400ページに相当する。

I.序論では、本論文の問題意識が提示されている。ここでは、本論文の執筆目的が、(1)江沢民―朱鎔基体制から胡錦涛―温家宝体制に至る経済政策及びその指導思想の変化を考察し、その原因を明らかにすることにより、旧ソ連・東欧と異なる漸進主義的改革を採用し経済社会の大きな混乱を伴わず高成長を維持し、「体制移行の成功例」とも言われてきた中国の従来の経済政策がもはや限界に達していることを明らかにすること、(2)1996年−2004年の中国の財政・金融政策の流れを追うとともに、財政・金融の制度改革の現状と残された課題について考察すること、(3)98年8月から採用されたケインズ流の拡張的財政政策が、景気回復後も容易にフェイド・アウトできなかった要因について、政府・国家シンクタンク関係者の発言及び主要会議の動向等をもとにその政治過程を考察すること、であることが述べられている。また、96年以降の中国の経済政策及びその指導思想の変遷を総合的・体系的に考察した先行研究が存在しない点、さらに、この時期は中国の財政・金融政策が引締めから拡張、拡張から再引締めという初めてのサイクルを描いた期間であり、この間の財政・金融政策の動向を分析・解明する意義の大きさを指摘している。

II.では、中国経済の諸課題が考察されている。著者はI.序論において、改革開放政策が開始されて以来、中国の最大の経済問題は国民の生活水準及び総合国力の低さであったことを指摘しているが、ここではまずII−1.において、上海を政治基盤とする江沢民―朱鎔基体制が都市・東部の「先富」を優先し農業・農村・農民対策を軽視したこと、「共同富裕」実現のための中央から地方への財政移転支出制度や個人所得税の所得再分配機能の整備を怠ったこと等により、3つの格差問題(都市と農村の格差、東部と中西部の格差、都市における貧富の格差)が今や政治・社会の安定を揺るがす深刻な問題となっていることを指摘している。

II−2.では、3つの格差以外の中国経済のアンバランスについて考察を加えている。具体的には、中国の経済成長には(1)投資と消費のアンバランス、(2)産業構造のアンバランス、(3)経済成長とエネルギー・資源消費のアンバランス、(4)経済成長とマネー・サプライのアンバランス、(5)経済成長と失業率のアンバランスが存在することを指摘し、その要因を考察している。特に、投資と消費のアンバランスについては、中国で周期的に投資過熱が発生する原因として、予算制約のソフト化、5年周期の政治サイクルの存在を指摘し、更に2003年において投資過熱が発生した特殊要因を詳細に考察している。

II−3.では、中国の経済成長の中長期的制約要因を経済面、政治面、社会面から多角的に考察している。そのなかでも、エネルギー・資源・電力不足、水不足、環境破壊は、既に中国の経済成長を制約する深刻な要因となっていることを指摘している。

III.及びIV.は、上記の諸問題を深刻化させるに至った経済政策の変遷を江沢民体制と胡錦涛体制の時代に大きく2分して考察している。ここが、本論文の中心部分である。

III.は江沢民体制の経済政策に関する考察であり、III−1.では、李鵬が総理を担当し、朱鎔基が経済担当副総理としてこれを補佐していた95年9月−98年2月の時期が対象となっている。著者はこの時期には、経済指標が明らかに悪化していたにも関わらず、政府は何も有効な対策を打ち出すことがなかったとしている。その要因として(1)5ヵ年計画の硬直性、(2)デフレに対する経験不足、(3)指導部交代による空白、(4)96年の経済の減速を「軟着陸」に成功したと誤解し、97年にアジア通貨危機が発生した際も、その中国経済に与える影響を軽視していたことを指摘している。

III−2.では、朱鎔基が総理に就任し、江沢民―朱鎔基体制が確立した98年3月−2002年10月の時期が対象となっている。ここでは、98年8月に財政政策が緊縮型から拡張型へ転換した経緯、2002年に財政部が積極的財政政策のフェイド・アウトを試みながら、国家発展計画委員会などの強い反対にあって挫折した経緯が詳述されている。

III−3.では、江沢民体制の経済政策の総合的評価が展開されている。とくに著者は、朱鎔基が総理就任時に公約した3つの改革(国有企業改革・金融体制改革・行政改革)の達成度を分析し、その結論として改革の全てが中途半端に終わり、多くの課題が温家宝新総理に引き継がれることになったと指摘している。また、江沢民についても当初強調していた経済成長の質の重視・経済格差是正はいずれも達成されず、経済成長方式は粗放のままであり、3つの格差はむしろ拡大したとしている。

IV.は胡錦涛体制の経済政策に関する考察である。IV−1.では胡錦涛が党総書記に就任したものの、総理は朱鎔基が担任していた2002年11月−2003年2月の時期が対象となっている。ここでは、特に2002年に開催された党第16回全国代表大会の経済的意義が詳述されており、ここで提起された「小康(いくらかゆとりのある)社会の全面的建設」は、経済・政治・文化の全面的な発展目標であり、これまでの政策のように経済的に一定の水準を達成するだけではなくて、社会全体を一定のレベルに引き上げることにあると指摘している。

IV−2.では温家宝が総理に就任し、胡錦涛―温家宝体制が確立した2003年3月以降の時期が対象となっている。ここでは、著者は新型肺炎SARSが中国経済に与えた影響と、SARS終息後多くのエコノミスト・政府関係者が参加して展開された経済過熱論争について詳細に考察した上で、SARSと経済過熱の結果として、2003年の党中央委員会第3回全体会議において経済・社会・人の全面的発展という新たな「科学的発展観」が提起されるに至ったと指摘している。また2004年に開始された経済引き締めが、当初地方政府の抵抗にあって効果が上がらず、伝統的な行政指導による締め付けを行わざるを得なくなった過程を詳述している。そして10月には人民銀行が金利を引き上げ、12月には積極的財政政策を穏健な財政政策に転換することが決定されるなど、2004年は財政・金融政策の大きな転換の年になったことを指摘している。さらに著者は胡―温指導部が党中央委員会第4回全体会議において、従来の「全面的な小康社会」に加え、新たな経済政策の達成目標として「社会主義の調和のとれた社会」の構築を提起したことに注目している。

IV−3.では、IV−1.及びIV−2.の考察を踏まえて、胡錦涛―温家宝体制の経済政策の特徴が論じられている。著者は江沢民―朱鎔基体制と異なる主要な特徴として、(1)社会的弱者の重視、(2)法治国家の建設、(3)民のための執政、(4)東北地方等旧工業基地の振興、(5)「科学的発展観」と「社会主義の調和のとれた社会」構築の提唱、(6)金融体制改革の推進、を指摘し、それぞれについて詳述するとともに、(1)−(4)の個別施策は(5)の2つの新たな政策指導概念に包括されていることを指摘している。

V.では、中国財政の構造問題が論じられており、著者は中央財政と地方財政の関係(V−1.)、税制の諸課題(V−2.)、中国財政の持続可能性(V−3.)という角度から中国財政を多角的に論じ、最後にV−4.において中国財政への提言として、(1)財政部の権限強化、(2)公共投資総合計画の立案、(3)地方財政の確立、(4)財政の透明性の向上等12項目の具体的提案を行っている。

VI.では、中国ではこれまで経済政策の長期目標は、〓小平の「先富論」に基づき国民生活水準と総合国力の向上に主眼が置かれてきたが、江沢民時代に経済体制改革が十分に進まず、経済格差が拡大し、粗放型経済成長方式の転換も達成できなかったため、2003年のSARS流行と経済過熱を契機に中国経済の深層問題が顕在化したことを指摘している。そして、胡錦涛―温家宝体制は、この深層問題を解決するため経済体制改革を加速し、持続可能な高成長を実現することにより「共同富裕」を達成しようとしているとしている。さらに胡―温指導部は新たな目標として「社会主義の調和のとれた社会」の構築と、その戦略的指導思想である「科学的発展観」を提起することにより、江沢民―朱鎔基体制の発展戦略に時代の状況・課題に適応した実質的修正を加えつつあると指摘する。

VII.補論では、中国におけるケインズ的財政政策の政治過程が考察されており、98年の積極的財政政策の採用、2002年に財政部が提起した積極的財政政策フェイド・アウト論争、2004年の穏健な財政政策への転換の過程が詳述されている。そして著者は、中国のように大衆民主政治が発達していない政治体制であっても、いったん拡張的財政政策が採用されてしまうと、景気が回復しても国家発展改革委員会や地方政府が既得権益を主張し、容易に財政赤字削減への政策転換ができないことを論証している。その結果として、ケインズ的財政政策は経済政策が民主的統制からはずれ中央計画当局の支配下にある全体主義的政治体制では有効に機能するとする、ブキャナン・ワグナーの仮説に疑問を提起している。

以上の内容を持つ本論文には、次のような長所が認められる。

第一に、これまで必ずしも総合的な先行研究が存在しなかった1996年以降の中国のマクロ経済政策及びその指導思想の変遷について、政府・党の重要文書、政府・党首脳の発言、新聞・雑誌の社説・論説、国家シンクタンクや民間エコノミストの論文・発言、四半期毎に発表される統計諸データ等、収集可能な限りの資料を駆使して総合的・体系的に記述している点である。中国が社会主義市場経済の建設に向けて経済体制改革を本格化させて以後のマクロ経済政策及びその指導思想の変遷を詳細に分析したことは、現代中国経済史研究に対する重要な貢献であるといえる。

第二に、上記の分析を通じて、胡錦涛―温家宝体制と江沢民―朱鎔基体制の経済政策及びその指導思想の相違を明らかにしたことである。これまでも、胡錦涛体制については弱者重視、法治重視であるというような断片的な評価はなされてきたが、本論文では具体的に提起された政策を詳細に吟味するとともに、胡―温指導部が新たに提起した「科学的発展観」及び「社会主義の調和のとれた社会」という指導思想を分析することにより、胡錦涛―温家宝体制の経済政策及びその指導思想の主要な特徴を極めて説得的に論証している。

第三に、中国経済の諸問題や中国財政の構造問題を総合的・体系的に明らかにしたことである。中国経済が抱える問題は、それぞれの因果関係が複雑にからみあっており、その全体像を把握することは容易ではない。しかし本論文は構造問題の原因を詳細に考察することにより、この根本原因が中国のこれまでの漸進主義的な体制改革にあり、従来型の経済政策が限界に達したがゆえに胡―温指導部が新たな経済政策及びその指導思想を提起せざるを得なくなったことを明らかにしている。また、補論で展開されている中国財政政策の政治過程の考察とともに、本論文は今後の中国財政研究の貴重な基礎を提供するものである。

しかしながら、本論文にも不十分な点がないわけではない。第一に、著者が展開している中国経済の諸問題とその要因分析は、今後実証研究により、より一層精密な検証がなされる必要があろう。その意味で、著者の主張は現段階では、一つの仮説と言わざるを得ない。第二に、本論文を構成する諸テーマは、その一つ一つが独立した研究対象となり得るものである。本論文は中国経済が抱える諸問題の関係を鳥瞰図的に解説したものであるが、例えば中国の農業・資源・エネルギー・環境等の問題については、より専門的な研究により補われなければならない。第三に、補論で述べられた財政政策の政治過程に対する考察については、中国政治の専門的立場からより慎重な検討が必要と思われる。特に、中国における政策決定が特定少数の指導者に集中しているのか、逆に地方政府や各官庁に分散しているのかについては、中国政治の研究者の中でも議論の分かれるところであろう。

このような不十分な点は、本論文の基本的価値を損なうものではない。現代中国政治史研究に比べ現代中国の経済政策史研究がいまだ体系化されていないことを考慮すれば、これらの諸点はこの分野における問題点と今後の課題を如実に示したものであるといえる。

以上、本論文は若干の問題点をもつとはいえ、豊富な資料と総合的かつ体系的な分析枠組みによって、現代中国の経済政策史研究に十分貢献する成果であると評価できる。

よって、本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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