学位論文要旨



No 216316
著者(漢字) 水藤,勝喜
著者(英字)
著者(カナ) スイトウ,カツヨシ
標題(和) 天然の親クルマエビを用いた採卵の効率化に関する研究
標題(洋)
報告番号 216316
報告番号 乙16316
学位授与日 2005.09.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16316号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 會田,勝美
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 長澤,寛道
 水産総合研究センター 養殖研究グループチーム長 奥村,卓二
 水産総合研究センター 助教授 金子,豊二
内容要旨 要旨を表示する

我が国の重要な漁業対象であるクルマエビ資源の維持・増大を目的とした栽培漁業は,1960年代より全国各地で実施されている。この放流用種苗の幼生飼育技術は,他の栽培漁業対象種と比較して高位な水準にあるが,親エビの養成技術は確立されていないため,採卵は全て天然個体に依存している。しかし,天然個体からの採卵技術には依然として多くの課題が残され,種苗の生産性や放流効果に大きな影響を及ぼしている。そこで天然の親クルマエビを用いた採卵の効率化を目的として,本研究を行った。

第1章の緒言に続き,第2章では親エビの入手に関わる問題点を明らかにするために遠州灘沿岸域を対象とした繁殖生態調査と市場調査を実施した。遠州灘沿岸域に生息するクルマエビの成体は,産卵期において伊勢・三河湾口から三重県安乗沖までの海域に蝟集する傾向が認められ,親エビにはこの資源を利用していた。親エビの選別基準となる,卵影から推定したGSI が7%以上の個体は,1月を除く全ての月に水揚げされたが,産卵盛期の5月から8月においてもその出現率は15%前後と低く,さらに成体エビ全体の水揚げ量は1998年以降に減少傾向となった。この様に出現率の低い成熟した親エビを大量に収集するためには,現行の仲買業者を介した入手システムが不可欠であった。この現状で採卵を効率化するためには,市場での選別精度を向上する他に,生息域における雌エビの成熟状況を把握することが必要であると考えられた。

第3章では,上記生息域における卵形成過程を把握するために,天然クルマエビの卵巣を連続的に組織観察した結果,以下の点が判明した。未熟な卵巣では,まず卵巣膜等から好酸性の繊維状組織が伸長し,卵黄形成の開始要因となる濾胞細胞の成層を促すとが推測された。この伸長現象は第1卵群(卵巣内で最も発育が進んだ卵母細胞群)が卵黄球前期(GSI3%程度)に達すると減速し,ついで卵群の分離が始まった。卵群の完全な分離すなわち産卵数の決定は,第1卵群が卵黄球後期(GSI 6%程度)に達した頃に起きるが,この後に起きる表層胞形成の直前で卵黄球後期卵母細胞の発育が同期することから,卵黄蓄積の完了に呼応して表層胞を形成する内部変化が起きていると推測された。また,親エビの保有する第1卵群卵母細胞数(Y)と親エビの体重(x)との関係は,産卵早期の個体ではY=30.292e0.0094x(r=0.8606, N=78, P<0.001), 盛期ではY=20.189e0.0109x(r=0.8104,N=57,P<0.001)で示された。両関係式には有意な平行性が認められ,産卵早期の産卵数は盛期よりも多いことが明らかとなった。

さらに排卵,産卵の前後における卵巣および卵の観察からは,以下の点が明らかとなった。通常,本種のGVBD(胚胞崩壊)は排卵直前に起きていたが,一部の個体では排卵中の卵巣腔にGVBDを完了していない卵も観察されたことから,この直後の産卵では正常な卵に混ざって受精能を獲得していない異常卵が放出されている可能性が示唆された。産卵個体には完全産卵個体の他に,第1卵群が概ね排卵されていながら第9分葉に産み残しのあるタイプ(TypeA)と卵形成が非同期的なために一部の卵のみが排卵される異常排卵(TypeB)の2タイプの一部産卵個体が観察された。また,同一個体から放出された一部あるいは全ての卵に受精能のない異常卵が観察された。そして最終成熟を経て正常に放出された卵であっても受精が成立して囲卵腔が形成されるまでの発生段階では,物理的刺激に極めて脆弱であった。このステージの卵と前述の異常卵は,何れも僅かな衝撃で崩壊して粘液物質となり,回収が不可能なため,実際の採卵において回収できる受精卵数と産卵数との関係は,異常卵の発生状況や採卵時の環境により異なると考えられた。

第4章では,親エビの選別・入手や採卵試験に有効な卵巣の観察方法を検討した。卵影観察では,GSIの推定は可能であるがGSIと成熟段階には関係が認められないため,成熟段階は正確に判別できなかった。表層胞の形成や卵巣の変性に伴い変化する卵巣の色調を第1腹節と頭胸甲の間隙から観察する方法は,親エビを入手する市場での選別作業に有効であると考えられた。第1腹節と頭胸甲の間隙から注射器で卵母細胞を採取する生検法は,親エビの産卵に影響することなく高い精度で成熟段階が判別できた。この生検法を利用した成熟状況調査では,遠州灘沿岸域の産卵期は3月から10月であり,入手した親エビの中に前成熟期および成熟期個体の含まれる割合は,水揚げされた成体エビ全体の成熟状況を反映していることが明らかとなった。

前述の検討で開発された生検法と第1卵群卵母細胞保有数の関係式により,卵巣の状態を詳細に把握した親エビを用いて採卵試験を行い,採卵効率の変動要因を検討した。成熟期および前成熟期の親エビは,何れの産卵時期にも1晩のうちに80%程度の高い産卵率を示したが,卵黄球後期個体は産卵早期には殆ど産卵せず,盛期には約35%の何れも低い産卵率を示した。ただし,卵黄球後期の未産卵個体における卵巣の変性率については,産卵早期は低く盛期は高かった。

産卵個体の放出率は産卵時期や親エビの成熟段階によって大きな差はなかったが,正常な受精卵が得られた割合を示す卵回収率とふ化率は,親エビの成熟度が低いほど有意に低下した。また,卵回収率とふ化率は産卵時の放出型によっても異なり,完全産卵,一部産卵(TypeA) 一部産卵(TypeB)の順で有意に低下した。この様に産卵時期を問わず親エビの成熟段階が低いほど,産卵率が低いばかりでなく卵回収率やふ化率が劣るため,結果的に成熟期と卵黄球後期個体の採卵効率には,産卵早期で約50倍,盛期で約8倍もの大きな差が生じ,採卵効率の主な変動要因は親エビの成熟段階であることが判明した。

第5章では前章までの研究成果を基に採卵の効率化を検討した。先ず,栽培漁業上重要な産卵早期における採卵を効率化するために,遠州灘沿岸域の外部環境から表層胞形成個体出現の予測を検討した。この調査は気象衛星NOAAを利用して当該海域の水温環境を連続的に測定する方法で実施し,冬季に停止していたクルマエビの成熟は,水温が本種の生物零度である12℃に達していれば2月上旬頃の日長10時間30分が引き金となって卵形成を再開すると考えられた。その後の成熟進行速度は水温に左右され,表層胞形成個体は2月1日から起算した成熟有効積算水温が,80℃・日を越えた頃から出現すると考えられた。

次に前章において,産出直後の卵が大量に崩壊する本種特有の現象が観察されたことから,良質卵が効率的に得られる採卵条件を検討した。産卵数および卵回収率を向上するには,採卵環境水を撹拌せずに流水によって水質を維持し,産出された卵は沈下して静置された状態が望ましいと考えられた。また,採卵環境で発生する非解離NH3-Nは直接ふ化率を低下させる要因ではなく,物理的刺激や沈下して大量に堆積することで卵に環境水の流れが途絶えることが,ふ化率低下の原因であると考えられた。これらの結果をふまえて考案した生け簀網による採卵では高い採卵効率が得られた。

採卵効率の最も低い卵黄球後期個体の有効利用に際しては,産卵時期に応じた対策が必要であると考えられた。卵巣の変性率が低い産卵早期には,採卵期間を4日間に延長し,未だ産卵する成熟段階に達していない最初の2日間を比較的低水温の18℃とし,採卵3日目に急激に24℃まで昇温する水温操作によって,採卵3,4日目の両日に卵黄球後期個体のみから全国の平均値に相当する採卵効率が得られた。

産卵盛期の卵黄球後期個体については,卵巣の変性防止と産卵誘発を同時に検討する必要があると考え,ここでは人工養成した親エビに効果の認められた眼柄処理法の有効性を検討した。この結果,天然個体は漁獲や輸送などにより人工養成個体よりも強いストレスを受けるため,親エビの健康状態に負担の大きい眼柄処理により産卵誘発効果を得るためには,ストレスを軽減する措置を講じる必要があると考えられた。ストレスの軽減には低水温による輸送と短期的な畜養により親エビの生理的活性を抑制する方法に効果が認められた。

以上の研究成果に基づく対策を実施することで,本種の成熟・産卵を制御する内分泌機構が殆ど未解明な現状においても,天然親エビを用いた採卵は効率化されると考えられた。今後は表層胞の形成に関わる内分泌機構や表層胞形成期における卵母細胞の生化学的変化についての研究が必要であり,この成果により比較的入手の容易な卵黄球後期個体の産卵率と卵質が向上されれば,天然親エビを用いた本種の採卵は飛躍的に効率化されるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

我が国の重要な漁業対象であるクルマエビ資源の維持・増大を目的とした栽培漁業は,1970年代より全国各地で実施されている。この放流用種苗の生産技術は他の栽培漁業対象種と比較して高位な水準にあるが,親エビの養成技術は確立されていないため,採卵は全て天然個体に依存している。しかし,天然個体からの採卵技術には依然として多くの課題が残され,種苗の生産性や放流効果に大きな影響を及ぼしている。本研究は,そのような状況を踏まえ,遠州灘沿岸の天然クルマエビを対象として,良質卵採取の効率化を目指したものである。

第1章の緒言に続き,第2章では親エビの入手に関わる問題点を明らかにするために繁殖生態調査と市場調査を実施した。親エビの選別基準となる成熟個体(推定GSI 7%以上)は,1月を除く全ての月に水揚げされたが,産卵盛期の5月から8月においてもその出現率は20%程度と低いことが判明した。従って成熟親エビを大量に収集するためには,現行の仲買業者を介した入手システムが不可欠であるが,採卵を効率化するためには市場での選別精度の向上と生息域における成熟状況の把握が必要と判断された。

第3章では,天然クルマエビにおける卵形成過程を調べた。その結果,産卵数の決定は,第1卵群が卵黄球後期(GSI 6%程度)に達した頃になされるが,この後の表層胞形成直前で卵黄球後期卵母細胞の発育が同期することから,卵黄蓄積の完了に呼応して表層胞を形成する内部変化が起きていると推測された。また産卵早期の産卵数は盛期よりも多いことも明らかとなった。

さらに排卵・産卵の前後における卵巣および卵の観察からは以下の点が明らかとなった。産卵個体には,完全産卵個体の他に,第1卵群が概ね排卵されていながら第9分葉に産み残しが観察されるタイプと,卵形成が非同期的なために一部の卵のみが排卵される異常排卵タイプの3つの放出型が観察された。また同一個体から放出された一部あるいは全ての卵に受精能のない異常卵が観察された。正常に放出された卵であっても受精後に囲卵腔が形成されるまでの発生段階では,物理的刺激に極めて脆弱であった。このため実際の採卵において回収できる受精卵数と産卵数との関係は,異常卵の発生状況や採卵時の環境により異なると考えられた。

第4章では,親エビの選別・入手や採卵試験に有効な卵巣の観察方法を検討した。従来用いられてきた卵影観察では,成熟段階は正確に判別できなかったが,卵巣の色調を第1腹節と頭胸甲の間隙から観察する方法は,親エビを入手する市場での選別作業に有効であった。上記の間隙から注射器で卵母細胞を採取する生検法は,親エビの産卵に影響することなく高い精度で成熟段階が判別できた。

生検法により卵巣の状態を詳細に把握した親エビを用いて採卵試験を行ったところ,成熟期および前成熟期の卵母細胞を持った親エビは産卵早期,盛期の何れでも80%程度の高い産卵率を示したが,卵黄球後期個体は産卵早期には殆ど産卵せず,盛期にも約35%と低い産卵率を示した。また正常な受精卵が得られた割合を示す卵回収率とふ化率も,親エビの成熟度が低いほど有意に低かった。従って成熟期と卵黄球後期個体の採卵効率には産卵早期で約50倍,盛期で約8倍もの大きな差が生じた。

以上の結果と気象衛星NOAAを利用した遠州灘沿岸域の水温環境の連続的測定により,表層胞形成個体の出現は2月1日から起算した成熟有効積算水温(表面水温−12℃の差の積算値)が,80℃を越えた頃と推定できることが判明した。

第5章では,何れの産卵時期においても良質卵が効率的に得られる条件を明らかにした。まず産卵数および卵回収率を向上させるには,採卵環境水を撹拌せずに流水によって水質を維持し,産出された卵は沈下して静置された状態が望ましいことを明らかにした。また採卵環境で発生する非解離NH3-Nは直接ふ化率を低下させる要因ではなく,物理的刺激や沈下して大量に堆積することで卵に環境水の流れが途絶えることがふ化率低下の原因であった。これらの結果をふまえて考案した生け簀網による採卵法により高い採卵効率が得られた。

前章において採卵効率を上げるには卵黄球後期個体の有効利用が緊要であることがわかったが,これには産卵時期に応じた対策が必要であった。卵巣の変性率が低い産卵早期には採卵期間を4日間に延長し,最初の2日間を比較的低水温の18℃とし,3日目に急激に24℃まで昇温する水温操作によって3,4日目の両日に卵黄球後期個体の高い採卵率が得られることがわかった。産卵盛期の卵黄球後期個体については,卵巣の変性防止と産卵誘発を同時に行うる必要があると考え,低温処理と眼柄切除の併用を検討した。この結果,漁獲後直ちに眼柄を切除し18℃に2日間保ってストレスを軽減させるとともに眼柄を切除し成熟を促進した後,水温を24℃に上昇させて産卵を誘発する方法により高い採卵効率が得られることを明らかにした。

以上,本研究は,クルマエビの成熟・産卵を制御する内分泌機構が殆ど未解明な現状においても,天然親エビを用いた採卵を効率化しうることを明らかにしたものである。とくに卵黄球後期個体の効率的な成熟促進・産卵誘発法を明らかにしたことは学術上,応用上寄与するところが少なくない。よって審査委員一同は,本論文が博士(農学)として価値あるものと認めた。

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