学位論文要旨



No 216322
著者(漢字) 尾崎,裕一
著者(英字) Ozaki, Yu-ici
著者(カナ) オザキ,ユウイチ
標題(和) 一過性及び持続性ERK活性化ダイナミクスの予測と実証
標題(洋) Prediction and Validation of the distinct dynamics of transient and sustained ERK activation
報告番号 216322
報告番号 乙16322
学位授与日 2005.09.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 第16322号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,利久
 東京大学 教授 伊藤,隆司
 東京大学 教授 森下,真一
 東京大学 助教授 内藤,幹彦
 東京大学 特任助教授 黒田,真也
内容要旨 要旨を表示する

[目的]

ERK(extracellular signal-regulated kinase)は、外界のシグナルに依存してさまざまな活性化パターンを示し、細胞の増殖や分化などを特異的に制御する。例えば、ラット副腎褐色細胞腫由来細胞(PC12細胞)においては、上皮増殖因子(EGF)と神経成長因子(NGF)によりそれぞれERKが一過性と持続性に活性化されて細胞の増殖と分化を制御している。PC12細胞におけるこの一過性と持続性のERK活性化はそれぞれRasとRap1に依存することが分かっているが、いかにしてこの違いを生み出すかについては、システムレベルでの定量的な説明がなされていない。本研究はEGFとNGFによる刺激からERKの応答までを再現する生化学反応シミュレーションモデル(in silicoモデル)の構築と解析を通じて、一過性及び持続性のERK活性化を生み出すメカニズムを解明することを目的とする。

[In silicoモデルの構築]

先行研究に基づき、PC12細胞におけるERKシグナル伝達経路のブロック線図(図1)を作成した。このブロック線図を生化学反応で記述し、in silicoモデルを構築した。実際のPC12細胞を用いてEGFとNGFの刺激濃度に応じたERK経路の主要な分子(図1、四角)の活性化の時間波形を計測し、これを再現するようにin silicoモデルの反応パラメータを調節することにより精度の高いシミュレーションモデルを作成した。このモデルは、1)EGFR(EGF receptor)の活性化パターンとERKの活性化パターンが特に低濃度において異なること、2)NGFによるERKの継続相の高さは刺激の強さを反映すること、さらに3)EGFとNGFによる一過性のERK活性化は主にRasにより、またNGFによる持続性のERK活性化は主にRap1によること、をよく説明する。

[一過性及び持続性ERK活性化の異なる特性の予測と実証]

生理的な条件では成長因子などの濃度は徐々に増加すると考えられる。そこでin silicoモデルを用いてこのような徐々に増加する刺激(図2、上段)に対するERKの応答を予測した(図2、中段)。この結果、EGFとNGFのいずれに対しても刺激の増加速度に依存して一過性のERK活性化が生じることを予測した。一方、NGF刺激に対する持続性のERK活性化は刺激の増加速度によらず、刺激の終濃度に依存することを予測した。これらの予測をin vivoで検証したところ、in silicoによる予測と非常によく一致した(図2、下段)。以上の結果から、一過性のERK活性化は刺激の増加速度依存的に生じ、持続性のERK活性化は刺激の終濃度依存的であることを示した。

[RasとRap1の異なるダイナミクス]

一過性及び持続性ERK活性化は、ERKの活性化因子であるRasとRap1の一過性及び持続性の活性化にそれぞれ依存していると考えられる。そこでこの違いが生じるメカニズムを明らかにするために、in silicoモデルを用いて経路阻害実験を行った。この結果、EGFRの分解経路及びERKを介したネガティブフィードバックによるSOS不活性化経路の阻害はRasの一過性の活性化に大きく影響しないが、RasGAPの活性化はRasの一過性の活性化に不可欠であることを見出した。一方、持続性のRap1活性化は持続性のTrkA活性化と刺激非依存的なRap1GAPによることを見出した。Ras経路においてはレセプターからのシグナルはアダプタータンパク質を介してSOSとRasGAPに伝えられ、Ras活性化の時間波形はSOSによる活性化とRasGAPによる不活性化のバランスによって決まる。活性化シグナルが不活性化シグナルよりも速く伝わるならば、Rasは初め活性化の作用のみを受けて強く活性化し、遅い不活性化シグナルによって不活性化の作用を受けて一過性の活性化を示すと考えられる。そこで、in silicoモデルの生化学反応定数に対して感受性解析を行い、SOSの活性化の時定数は主にShcとEGFRの結合の時定数によること、RasGAPの活性化の時定数は主にDokのリン酸化-脱リン酸化反応の時定数によることを明らかにした。

[Ras及びRap1の制御機構]

Ras及びRap1の制御機構に内在する特性を明らかにするために、insilicoモデルに基づいた単純化モデルを作製した(図3)。単純化モデルはin silicoモデルに比べて変数とパラメータの数を大幅に減ら・しながらin silicoモデルの振る舞いをよく再現した(図4、赤線)。この単純化モデルの解析から、一過性のRas活性化にはGAP活性化の速度定数がGEF活性化の速度定数よりも小さいことが必要であることを示した。さらに、単純化モデルの解析から、Rasは定常状態において刺激の濃度によらず比較的一定の活性化を示し、一方Rap1は定常状態において刺激の濃度に比例した活性化を示すことが明らかとなった。この定常状態における刺激濃度に対する感受性の違いは、in vivoではEGFRとTrkAの活性化レベルに対するERK活性化のみかけの反応次数の違いとして観測されることが予想された(図5a)。これは、EGFRの活性化はRap1経路をあまり活性化しないのに対して、TrkAはRap1経路を強く活性化するため、定常状態におけるEGFRに対するERKの反応次数は主にRasに対する反応次数を反映し、TrkAの活性化に対するERKの活性化は主にRap1に対する反応次数を反映するためである。この予測をin vivoで検証したところ、EGFRの活性化に対するERKの活性化の反応次数はTrkAに対する反応次数よりも小さくなることを確認することができた(図5b)。TrkAの活性化がRap1経路を活性化するのに対し、EGFRの活性化がほとんどRap1経路を活性化しない理由は、Rap1経路の上流に位置するアダプタータンパク質であるFRS2の各レセプターに対する親和性の違いによると考えられる。実際にin silicoでTrkAに対するFRS2の親和性を減少させ、Rap1の持続性の活性化が減少することを示した。

[総括]

PC12細胞における一過性と持続性のERK活性化はそれぞれRasとRap1の不活性化機構の違い、すなわち刺激依存的で比較的遅いRasGAPの活性化と刺激非依存的なRap1GAPの活性により説明可能であることを示した。また、一過性と持続性のERK活性化は単に刺激の違いだけでなく刺激の増加速度と濃度という異なる情報をそれぞれ利用していることが明らかとなった。

図1 ERK経路のブロック線図

図2 一過性と持続性ERKのダイナミクス

(a)EGF刺激(b)NGF刺激

図3 Ras(a)とRap1(b)の単純化モデル

図4 GAPの速度定数qに対する一過性Ras活性化の変化

Rasの単純化モデル(a)in silicoモデル(b)

図5 定常状態におけるレセプターの活性化に対するERKの活性化

(a) in silico, (b) in vivo

審査要旨 要旨を表示する

ERK(extracellular signal-regulated kinase)経路を初めとするいくつかのシグナル伝達経路は多彩な生命現象を制御することが知られている。例えばPC12細胞においては同じERK経路が一過性または持続性に活性化されることでそれぞれ細胞の増殖と分化という異なる細胞運命を制御する。このように情報を特定のシグナル伝達経路の時間波形にエンコードすることによって同じ分子ネットワークを用いて異なる作用を制御する点がシグナル伝達機構の本質的な特徴のひとつである。しかし、細胞外刺激の情報をシグナル伝達経路の時間波形へエンコードする仕組みは未だ不明である。本論文ではPC12細胞を用いた細胞内シグナル伝達の観測と数理モデルによる解析を用いて、刺激の異なる情報がどのようにERKの活性化の時間波形へエンコードされるかを解析している。

本論文は3章からなる。第1章は研究の背景と目的について述べた後、本研究の中心をなすin silicoモデルの構築法について述べている。シグナル伝達ネットワークのin vivoのダイナミクスは、分子の発現レベルなどのクリティカルなパラメータの違いのために細胞株の間で異なるので、in silicoダイナミクスは単一細胞株のin vivoのダイナミクスで補正されるべきである。またERK経路にはいくつかの上流または下流の分子によって協調的に制御されるいくつかのクロストークポイントとなる分子があり、ダイナミクスがERK経路全体のダイナミクスを決定するので、増殖因子の濃度依存的なこれらのクロストークポイントの活性化ダイナミクスを測定するのは重要である。これらの点が既存の研究にはない新しい特徴である。

第2章はまずin silicoとin vivoダイナミクスのフィードバックによるモデルの構築を行っている。In silicoモデルの構築にあたって、これまでの多数の文献に基づいてERK経路のブロックダイアグラムを構築した。既報の実験観測といくつかの仮定に基づいてin silicoモデルのパラメータを決定した。次いでPC12細胞の単一細胞株におけるin vivoのダイナミクスの計測に基づいてさらにパラメータを制限した。この過程において適宜ブロックダイアグラムを修正した。この結果、増殖因子からERKにいたるin vivoの計測結果に対して高い再現性を持つin silicoモデルを構築した。

次にin silicoモデルを用い、時間とともに徐々に増加する刺激に対するERK経路のダイナミクスの予測を行い、結果をin vivoで検証した。これらの結果、一過性のERK活性化が増殖因子の最終的な濃度ではなく増殖因子の急速な増加速度に依存するのに対し、持続性のERK活性化はNGFの増加速度あるいは減少速度に関わらず、NGFの最終的な濃度に依存することを示した。

さらに、in silicoモデルを用た阻害実験と定常状態の解析から、増殖因子の増加速度に依存する速いSOSと、遅いRasGAP活性化が一過性のRas活性化を制御し、増殖因子の濃度に依存するC3G活性化と刺激非依存的で一定のRap1GAP活性が持続性のRap1活性化を制御することを示した。そしてこの結論から予測される定常状態におけるERKの刺激に対する反応次数の違いをin vivoの計測により実証し、一過性と持続性のERK活性化の本質的なメカニズムはこのRasとRap1の不活性化機構の違いであることを明らかにした。

第3章はEGFとNGFによるERK活性化の違いはアダプタータンパク質より上流の異なるダイナミクスのためであることを論じている。最も大きな違いの1つはリン酸化したレセプターに対するFRS2の異なる親和性から来ている。また、速度に依存する一過性のERK活性化の生理的意義として、拡散によって伝播するEGFファミリーの空間的な勾配が、細胞の空間的な位置に依存して一過性と持続性のERK活性化の異なるダイナミクスを使い分けている可能性について議論している。

本論文では増殖因子の増加速度と最終的な濃度がそれぞれRas経路とRap1経路によって明確に捕捉され、一過性のRas活性化と持続性のRap1活性化を通して一過性と持続性のERK活性化に変換されることを示した。さらにこのRas経路とRap1経路の特性の違いは、それぞれ刺激依存的なRasGAP活性化と刺激非依存的なRap1GAPという異なる不活化機構によって説明されると結論した。

なお、本論文の第1章から3章は、笹川覚氏

藤田一広氏、黒田真也氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/37415