学位論文要旨



No 216327
著者(漢字) 吉村,美保
著者(英字)
著者(カナ) ヨシムラ,ミホ
標題(和) 脆弱建物の耐震化対策へのインセンティブ導入方法に関する研究
標題(洋)
報告番号 216327
報告番号 乙16327
学位授与日 2005.09.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16327号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 目黒,公郎
 東京大学 教授 魚本,健人
 東京大学 教授 小澤,一雅
 東京大学 教授 小長井,一男
 東京大学 教授 坂本,功
 東京大学 教授 堀井,英之
 首都大学東京 教授 中林,一樹
内容要旨 要旨を表示する

本論文では,脆弱な住家の耐震化対策に対してインセンティブを導入し, 住宅所有者による自発的な耐震化対策の実施を促すための方法について検討を行った.まず初めに,耐震化対策に関する現状分析として,既存の脆弱建物の耐震補強推進策の体系化を行うとともに,戸建住宅の所有者に対する意識調査を行い,住宅の耐震補強工事に対する世帯・住宅の属性に応じた居住者の意識構造を分析した.地震前後での住まいに関わる自助(自助努力)・共助(互助)・公助(公的支援)の現状分析としては,兵庫県南部地震の住宅被災者に対する公助・共助の実績に基づき,住宅復興パターンに応じたモデルケースを作成した.次に,行政による事前の財源負担を必要とせずに脆弱建物の耐震補強を推進するための新しい公的戦略として,「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度」を提案し,本制度の運用による住民・行政に対する効果を分析し,実地域における制度の運用条件についても検討した.また,我が国の特徴をより深く理解するために,諸外国のうち我が国同様の地震多発地域を有する米国カリフォルニア州と,近未来に大都市圏を襲う巨大地震の発生が危惧されているトルコ共和国を対象に,既存の脆弱建物の耐震化を取り巻く環境を調査した.さらに我が国を対象とした研究成果から得られた知見を諸外国の耐震化対策の推進に活用するための第一歩として,同国の最大都市イスタンブールをケーススタディーエリアとして,現地の実情を踏まえた脆弱建物の耐震補強の推進方策を検討した.最後に,これら全ての結果を踏まえて,住まいに関わる自助・公助・共助の望ましいあり方について検討した.以下に,本論文の成果を要約する.

第1章「序論」では,本研究の背景と目的を述べ,既往の研究を概観することにより本研究の位置づけを示した.次に本研究の構成と内容を説明した.

第2章「脆弱建物の耐震補強推進策の体系化」では,民間住宅の耐震補強工事にインセンティブを与える環境に焦点を当て,まず初めに我が国における現行の推進制度と新たに提案されている政策案を整理した.次に,現行制度の枠組みにとどまらない新たな耐震補強推進策の開発を目的として,米国カリフォルニア州における現行の耐震化対策の推進制度の経緯や実績についての現地調査を行い,日米の建物特性や周辺制度の違いを考慮した上での耐震化推進環境の比較を行った.調査の結果,我が国のみで実践されている現行制度がいくつか確認された一方,カリフォルニア州ではハザードマップを用いた災害危険度の情報公開や,無補強組積造建物への強制力を持った条例の適用,補強の実施による地方税の優遇措置など,わが国よりは一歩進んだ積極的な施策がいくつか見られた.また,住宅の自力補強工事の奨励など,補強工事の認定に際しては融通の利いた対応を実践する一方で,建築許可制により一定の耐震性能は確保しており,今後我が国においても柔軟な耐震補強推進策を展開する必要性が示唆された.

第3章「住宅の耐震補強工事に対する居住者の意識構造に関する分析」では,関東地域の戸建て住宅の所有者を対象としたアンケート調査を実施し,住宅の安全性や継承に関する意識,耐震診断や耐震補強工事実施への意欲や判断理由に関する回答を得た.これらの結果を世帯や住宅の様々な状況を踏まえて分析し,耐震化対策に対して関心の高い層を把握するとともに,耐震補強工事の実施意欲に影響を与えるプラス要因とマイナス要因も明らかにした.また,耐震補強工事に関する不安要因や情報の入手プロセスも分析し,自発的な耐震補強の実施を誘導するための方法について検討を行った.

第4章「兵庫県南部地震での住宅被災者に対する公助の実態分析」では,住宅の耐震化対策における公助・共助・自助のバランスのあり方を考えるために,兵庫県南部地震後に住宅被災者に対して行われた公助と共助の実態を調査・分析した.まず,住宅の被害や復興状況などに応じて提供された各種の公助・共助プログラムの実績資料を収集し,支援内容を整理した.次に,これらを用いて兵庫県南部地震の被災者の住宅被害・被災後の住宅復興パターン・世帯主の収入に応じた公助・共助のモデルケースを作成した.この結果,仮設住宅の提供などの現物支給以外にも,住宅被災者一世帯あたりに対してかなり高額の公的支援がなされたことがわかった.地震後のこのような公的支出を回避するためにも,住宅の耐震化等の事前の地震被害軽減対策の推進が非常に重要であると考えられた.

第5章「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度の効果に関する基礎的分析」では,脆弱建物の耐震補強を推進するための新たな公的戦略として「事前に耐震補強を行い,『しかるべき耐震補強を済ませた』と判断された建物について,その建物が地震被害を受けた場合に,行政が再建・補修費用の一部を支援する制度」を提案した.現行の耐震診断や耐震補強への助成制度は事前に多額の財源を確保する必要があるのに対し,本提案制度では事前の財源負担を要しない.また,補強状況を審査した上で耐震性能を保証するため,手抜き工事や悪徳業者を排除することができ,定期的に補強後の建物強度をチェックする仕組みづくりにも寄与しうる.ここでは,制度導入による住民・行政側の費用負担の軽減効果と地域ごとに想定される地震動の関係を詳細に分析した.まず初めに,4章で整理した兵庫県南部地震後の被災者支援の実績およびその他の諸データに基づき,提案制度が適用された場合の住民側および行政側の地震前後での費用負担モデルを構築した.次に,地震動の異なる様々な地域に立地する持ち家木造住宅1万棟に対して提案制度を適用した場合の地震前後の住民・行政側の支出と保証制度に基づく被災建物に対する支援金支払いのバランスを検討し,保証に基づく妥当な支援額について分析した.これにより,条件によっては,補強したにも関わらず全壊した場合に耐震補強費用の5〜7倍といった多額の支援金を支給したとしても,制度の普及によって行政負担総額を軽減できることが明らかとなった.

第6章「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度の実地域での運用に関する分析」では,ケーススタディーエリアとして静岡県を取り上げ,「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度」の導入効果をシミュレーションした.東海地震の想定地震動分布と県内の建物分布データに基づき,地震前までに制度が普及した場合を想定して,制度の導入による住民や行政の地震前後の費用負担の軽減量を推計した.この結果,提案制度に基づき,補強したにも関わらず被災した建物へ支援金を支払ったとしても,本制度の普及により行政側・住民側の地震前後での費用負担の総額は大きく軽減されることがわかった.これは制度の普及に対する住民および行政への大きなメリットと言える.

第7章「耐震化対策へのインセンティブ付与に対する住民意識の分析」では,関東地域の戸建て住宅の所有者を対象としたアンケート調査結果より,耐震性能の低い木造戸建住宅の耐震補強工事の実施にインセンティブを付与するための諸制度に対する所有者の意向を分析した.世帯の家族構成・経済的状況等に応じて回答を分析した結果,「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度」は広い世代に支持されるとともに,特に60歳代の住宅所有者からの賛同が得やすいことがわかった.

第8章「トルコ共和国における耐震補強奨励制度の検討」では,ケーススタディーエリアとしてトルコ共和国イスタンブールを取り上げ,我が国における第7章までの研究成果を踏まえた上で,イスタンブールの実情に適した形で脆弱建物の耐震化対策を推進するための方策を検討した.まずはトルコ共和国における建物の耐震性能の問題点,および耐震補強対策が進まない理由を分析し,耐震化対策の推進のための公的戦略として「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度」の導入を提案した.シナリオ地震が発生した場合における住民及び行政にとっての制度導入の効果を分析した結果,現行の全壊住宅被害者への恒久住宅の供与を継続した場合,提案制度導入による地震前後での住民負担総額の軽減効果は一部の地震動の強い地域に限られた.しかし,耐震補強技術の開発・改良により低コストの補強技術が実現した場合には,イスタンブール全域の住民に対する負担総額を軽減することができた.提案制度の普及と耐震補強の低コスト化を同時に進めることにより,制度導入の効果を向上できることがわかった.また,行政側の負担額に着目した場合には,現行の恒久住宅供与制度の廃止と提案制度の導入を同時に進めることにより,更なる行政負担額の軽減が実現できることが明らかになった.我が国において得られた知見を現地の実情に即した形で応用することにより,脆弱建物の耐震化を効果的に推進できる可能性が示唆された.

第9章「住まいに関わる自助・共助・公助の望ましいあり方に関する検討」では,地震前後での住まいに関する自助・共助・公助の具体的な内容を整理し,今後の課題を検討した.自助努力を伴わない地震後の手厚い公助の提供は,イスタンブールの事例に見られるように,事前の自助努力へのインセンティブをなくさせ,財源の問題も生じる.地震前の公助としては耐震化対策への助成・融資があるが,耐震性が不十分な建物が全国に膨大な量存在していることを考えれば,財政負担がかからない形での自助努力へのインセンティブ導入に重点を置く必要がある.耐震補強工事などの事前の自助努力をした場合には,自助努力を行わなかった場合に比べて,事後の自助・共助・公助は大幅に軽減できる.今後はますます自助努力に対してインセンティブを与える社会的な仕組みづくりが重要であり,自助努力にインセンティブを与える効果を有する公助・共助の実践が求められる.

第10章「結論」では,本研究全体を通して得られた成果を総括し,今後の課題を示した

審査要旨 要旨を表示する

1995年の兵庫県南部地震では死者6,433人,負傷者43,792人,全壊住家104,906棟という甚大な被害が発生し,犠牲者の死因約8割は建物倒壊や家具の転倒・落下を原因するものであった.この事実は,新耐震設計基準(1981年施行)を満たさない「既存不適格建築物」と呼ばれている脆弱な建物群の存在を明らかにし,これらへの耐震化対策の実施が地震防災上の最重要課題であることを示した.現在,東海地震・東南海地震・南海地震・首都直下地震などの巨大地震の発生が懸念されているが,脆弱な建物に対して耐震補強や建て替えなどの対策を実施しない限り,これらの地震による犠牲者を減らすことはできない.今後はますます住民による自発的な住家の耐震化対策を促していく必要がある.本論文は,脆弱な住家の耐震化対策に対してインセンティブを導入し, 住宅所有者による自発的な耐震化対策の実施を促すための方法について検討を行っている.

第1章「序論」では,上記のような研究の背景と目的を述べ,研究の位置づけと構成を説明している.

第2章「脆弱建物の耐震補強推進策の体系化」では,民間住宅の耐震補強工事にインセンティブを与える環境に焦点をあて,まず初めに我が国における現行の推進制度と新たに提案されている政策案を整理した.次に,現行制度の枠組みにとどまらない新たな耐震補強推進策の開発を目的として,米国カリフォルニア州における現行の耐震化対策の推進制度についての現地調査を行い,日米の建物特性や周辺制度の違いを考慮した上での耐震化推進環境の比較を行った.

第3章「住宅の耐震補強工事に対する居住者の意識構造に関する分析」では,関東地域の戸建て住宅の所有者を対象としたアンケート調査を実施し,住宅の安全性や継承に関する意識,耐震補強工事の実施意欲に関する回答を得た.これらの結果を世帯や住宅の様々な状況を踏まえて分析し,耐震化対策に対して関心の高い層を把握するとともに,耐震補強工事の実施意欲に影響を与えるプラス要因とマイナス要因も明らかにした.また,耐震補強工事に関する不安要因や情報の入手プロセスも分析し,自発的な耐震補強の実施を誘導するための方法について検討を行った.

第4章「兵庫県南部地震での住宅被災者に対する公助の実態分析」では,住宅の耐震化対策における公助・共助・自助のバランスのあり方を考えるために,兵庫県南部地震後に住宅被災者に対して行われた公助と共助の実態を調査し,住宅被害・被災後の住宅復興パターン・世帯主の収入に応じた公助・共助のモデルケースを作成した.この結果,仮設住宅の提供などの現物支給以外にも,住宅被災者一世帯あたりに対してかなり高額の公的支援がなされたことがわかった.地震後のこのような公的支出を回避するためにも,住宅の耐震化等の事前の地震被害軽減対策の推進が非常に重要であることが示された.

第5章「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度の効果に関する基礎的分析」では,脆弱建物の耐震補強を推進するための新たな公的戦略として「事前に耐震補強を行い,『しかるべき耐震補強を済ませた』と判断された建物について,その建物が地震被害を受けた場合に,行政が再建・補修費用の一部を支援する制度」を提案した.現行の耐震診断や耐震補強への助成制度は事前に多額の財源を確保する必要があるのに対し,本提案制度では事前の財源負担を要しない.また,補強状況を審査した上で耐震性能を保証するため,手抜き工事や悪徳業者を排除することができ,定期的に補強後の建物強度をチェックする仕組みづくりにも寄与しうる.ここでは,地震動の異なる様々な地域に立地する持ち家木造住宅1万棟を対象として,制度の導入による住民・行政側の費用負担の軽減効果と地域ごとに想定される地震動の関係を詳細に分析し,補強したにも関わらず被災した建物への妥当な支援額について検討した.これにより,条件によっては,保証制度に基づき全壊時に耐震補強費用の5〜7倍といった多額の支援金を支給したとしても,制度の普及によって行政負担総額を軽減できることが明らかとなった.

第6章「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度の実地域での運用に関する分析」では,ケーススタディーエリアとして静岡県を取り上げ,「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度」の導入効果をシミュレーションした.東海地震の想定地震動分布と県内の建物分布データに基づき,地震前までに制度が普及した場合を想定して,制度の導入による住民や行政の地震前後の費用負担の軽減量を推計した.この結果,提案制度に基づき,補強したものの被災した建物へ支援金を支払ったとしても,本制度の普及により行政側・住民側の地震前後での費用負担の総額は大きく軽減されることがわかった.これは制度の普及に対する住民および行政への大きなメリットと言える.

第7章「耐震化対策へのインセンティブ付与に対する住民意識の分析」では,関東地域の戸建て住宅の所有者を対象としたアンケート調査結果より,耐震性能の低い木造戸建住宅の耐震補強工事の実施にインセンティブを付与するための諸制度に対する所有者の意向を分析した.世帯の属性に応じてより魅力的に捉えられるインセンティブの提供方法について検討した結果,「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度」は広い世代に支持されるとともに,特に60歳代の住宅所有者からの賛同が得やすいことがわかった.

第8章「トルコ共和国における耐震補強奨励制度の検討」では,ケーススタディーエリアとしてトルコ共和国イスタンブールを取り上げ,我が国における第7章までの研究成果を踏まえた上で,イスタンブールの実情に適した形で脆弱建物の耐震化対策を推進するための方策を検討した.まずはトルコ共和国において耐震補強対策が進まない理由を分析し,耐震化対策の推進のための公的戦略として「自治体による保証に基づく耐震補強奨励制度」の導入を提案した.シナリオ地震が発生した場合の制度導入の効果を分析した結果,現行の全壊住宅被害者への恒久住宅の供与を継続した場合,制度導入による地震前後での住民負担総額の軽減効果は一部の地震動の強い地域に限られた.しかし,提案制度の普及と耐震補強の低コスト化を同時に進めることにより,イスタンブール全域の住民に対する負担総額を軽減できることがわかった.また,行政側の負担額に着目した場合には,現行の恒久住宅供与制度の廃止と提案制度の導入を同時に進めることにより,更なる行政負担額の軽減が実現できることが明らかになった.我が国において得られた知見を現地の実情に即した形で応用することにより,脆弱建物の耐震化を効果的に推進できる可能性が示唆された.

第9章「住まいに関わる自助・共助・公助の望ましいあり方に関する検討」では,地震発生の前後での住まいに関する自助・共助・公助の具体的な内容を整理し,今後の課題を検討した.自助努力を伴わない地震後の手厚い公助の提供は,イスタンブールの事例に見られるように,事前の自助努力へのインセンティブをなくさせ,財源の問題も生じる.地震前の公助としては耐震化対策への助成・融資があるが,耐震性が不十分な建物が全国に膨大な量存在していることを考えれば,財政負担がかからない形での自助努力へのインセンティブ導入に重点を置く必要がある.耐震補強工事などの事前の自助努力をした場合には,自助努力を行わなかった場合に比べて,事後の自助・共助・公助は大幅に軽減できる.今後はますます自助努力にインセンティブを与える効果を有する公助・共助が必要であることが示された.

第10章「結論」では,本研究全体を通して得られた成果を総括し,今後の課題を示している.

以上のように本論文は,脆弱な住家の耐震化対策が進展しない現在の状況を多面的に調査分析するとともに,これを進展させるための新しい考え方を示し,それに対する住民の意識調査を行ったものである.その結果,本研究で提案する行政によるインセンティブ制度は,将来の地震被害を大幅に軽減できるだけでなく,住宅所有者と行政の両者の視点から経費を削減することが証明され,住宅所有者による自発的な耐震化対策の実施を促すための新しい制度になりうることが示された.わが国の地震防災上の重要課題の解決に向けた重要な研究成果と評価できる.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50136