学位論文要旨



No 216342
著者(漢字) 細川,道久
著者(英字)
著者(カナ) ホソカワ,ミチヒサ
標題(和) 19世紀末〜20世紀後半のカナダ社会におけるイギリス帝国のプレゼンスの意味とその変容 : 帝国記念日の分析を手がかりとして
標題(洋)
報告番号 216342
報告番号 乙16342
学位授与日 2005.09.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16342号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,和彦
 東京大学 教授 深沢,克己
 東京大学 教授 木畑,洋一
 大学評価学位授与機構 教授 木村,靖二
 筑波大学 教授 木村,和男
内容要旨 要旨を表示する

1867年7月、カナダ自治領が成立したが、当時のカナダは、外交権などがイギリス本国に掌握されており、国民国家としての基本的要件を欠いていた。加えて、自治領成立当初のカナダは、植民地の寄せ集めの連邦であると同時に、隣国アメリカ合衆国の外圧をうけていた。かかる内憂外患の状況下で、カナダはいかにして国民統合を図り、かつまた、国家としての自立をめざしたのであろうか。その際、イギリス帝国のプレゼンスはいかなる重要性をもっていたのであろうか。かかる点の解明は、英米の利害が交錯する大西洋世界におけるカナダの国民統合の特異性を析出することになる。

また、 20世紀に入ってカナダは、第1次大戦における貢献などをとおしてイギリス帝国内でのオートノミーを強め、1926年のバルフォア宣言と1931年のウェストミンスター憲章によって、イギリスとは王冠で結ばれながらも対等な地位を獲得し、第2次大戦後には、カナダ市民権法を制定するなど、カナダの独自性を主張していった。このようにカナダのイギリス帝国離れが加速する一方で、アメリカ合衆国の影響はますます強まっていった。第1次大戦前後にカナダはアメリカ経済の支配下に入り、政治・防衛面や社会・文化面においても、アメリカ合衆国の影響を強くうけるようになった。加えて、非イギリス系移民の増加によって、イギリス帝国離れは加速した。こうしたことから、従来、20世紀のカナダ社会の歩みは「アメリカ化と多民族化の進展=イギリス帝国離れ」として描かれてきた。しかしながら、かかる図式はあまりにも単純化されすぎてはいないだろうか。政治・経済史においては、対米協調か対英協調かという二項対立的な見方にとらわれすぎている傾向があるが、実際には、イギリス帝国との繋がりはたやすく断たれたわけではなく、対米重視や孤立主義の外交政策が求めたのは、イギリス帝国の分権化であり、イギリス帝国離れではけっしてなかった。また、社会・文化面でもイギリス帝国との粋やイギリス的文化様式がいぜん根強かった。しかも、北米にあってカナダは、アメリカ合衆国とは異なる社会を維持してきたのであり、カナダ社会のイギリス帝国のプレゼンスは容易に消滅したわけではなかった。もとより、そのプレゼンスのカナダ社会における意味合いや重要性は、時代をへるにつれて変容していったのであり、この変容を子細に追う必要がある。

上記2つの問題意識をうけて、本論文は、 19世紀末から20世紀後半までのカナダ社会におけるイギリス帝国のプレゼンスの意味とその変容を、地域や民族にも注意を払いながら、帝国記念日Empire Dayを手がかりとして考察した。

本論文は本文5章と補論3章からなる。第1章では上記の問題提起をおこなうとともに、カナダ史およびイギリス帝国史の研究史を整理し、本論文の意義を論じた。近年、カナダ史研究においては、イギリス帝国史の文脈からの研究が希薄であり(カナダ思想史研究においても、イギリス帝国主義とカナダ・ナショナリズムの関係について、いわゆる帝国主義の時代の研究にとどまる)、また、イギリス帝国史研究は隆盛になりつつあるが、カナダなど旧自治領地域については軽視の傾向がある。また、帝国記念日については、民衆帝国主義研究において若干の言及がみられるが、帝国記念日がカナダというイギリス帝国の「半周縁」で創始されたことや、カナダとイギリス本国のそれぞれの住民の帝国認識の差異などが十分分析されていないなど問題点がある。また、カナダの帝国記念日についてのモノグラフは、オンタリオ州とマニトバ州についてそれぞれ1点あるが、前者は「イギリス帝国圏からアメリカ圏へ」という図式を所与の前提としており、後者は20世紀中葉を扱うにとどまり、いずれも包括的分析ではない。かかる状況をふまえた上で、本論文がカナダ史研究におけるイギリス帝国史の復権、カナダ史とイギリス帝国史の接合をめざすものであることを主張した。

第2章では、カナダで帝国記念日が創始された事情につき、帝国記念日の創始にかかわったクレメンタイン・フェセンデンClementine Fessenden (1844-1918)とG・W・ロス George W.Ross (1841-1914)を中心に、フェセンデン文書、ロスの著作、オンタリオ州教育省文書を用い、当時の社会状況をふまえながら帝国記念日が実現にいたるまでの過程を考察した。帝国記念日がイギリス帝国との粋を維持した形でのカナダの社会統合を説く場として創始されたこと、そして、それは学校祝典ではあったが、青少年のみならず一般に向けても「二重の忠誠」を訴える場であり、そこでは北米にあってアメリカ合衆国とは異なる「イギリス的アメリカ」を築く思想的基盤としての「ロイヤリストの伝統」をカナダ国民が広く共有することがめざされた点を析出した。

第2章を補完する形で、補論1では、 1860年代〜1870年代中葉における国民統合をめざす運動としてのカナダ第一運動Canada First Movementを、補論2では、 1884年のユナイテッド・エンパイア・ロイヤリストUnited Empire Loyalistsの入植百年祭をとりあげ、英米両大国のはざまで国民統合を図らねばならなかったカナダ・ナショナリズムの特異性や、国民統合の基盤としての「ロイヤリストの伝統」の存在を明らかにした。さらにまた、カナダ第一運動がひと握りのエリートによる運動であること、また、入植百年祭が特権的エリートの祭典であることから、帝国記念日研究の射程の広さとその意義につき補完的に論じた。

ついで第3章では、 1899年に挙行された最初の帝国記念日の実際をオンタリオ、ケベックの2州について、新聞史料を主に用いて考察した。イギリス系が多数を占めるオンタリオ州のみならず、異質な白人ともいうべきフランス系カナダ人が多数を占めるケベック州の反応を検討することで、帝国記念日の内容はもとより、その地域的拡がり、地域あるいは民族による祝典の意味合いや反応の違いを考察し、教育を通しての国民統合を図る試みとしての帝国記念日の限界を析出した。そして、カナダ社会におけるイギリス帝国のプレゼンスの地域的、民族的偏差を明らかにした。

補論3では、帝国記念日に対するイギリス本国側の反応、および、カナダとイギリス本国の認識ギャップに触れることで、帝国記念日研究がイギリス帝国全域にわたってなされるべき必要性と意義につき論じた。

先の第3章の考察が、カナダ社会を1899年の時点で輪切りにする共時的分析であるのに対し、第4章では、 20世紀初めから後半までオンタリオ州に焦点をあてて帝国記念日を定点観測する通時的分析を試みた。主史料は、同州教育省が教師に対して実施方針や教授内容などを示したブックレット類であり、教育省が帝国記念日をいかなる日とすることを望んでいたのか、国民の理想像や国家の青写真がどのように描かれていたのか、イギリス帝国への貢献や帰属意識の重要性がどのように説かれていたのかについて具体的に分析し、時代をへるにつれてその内容にいかなる変化がみられたのかを、当時のカナダ内外の情勢を考慮に入れながら検討した。以上の考察から、イギリス帝国への帰属意識は、平時、戦時を問わず呼び覚まされていたことや、アメリカ合衆国もまたイギリス帝国ないしは英語圏の範疇に加えられており、「イギリス帝国圏からアメリカ合衆国圏へ」の図式には留保が必要であると指摘した。また、カナダ社会における多民族化の進行がカナダのイギリス帝国離れを加速したとはいえない点についても指摘した。すなわち、帝国記念日では、イギリス帝国が多民族、多宗教の統合体であること、そして、カナダ社会がかかるイギリス帝国のミクロコスモスであることが説かれており、このレトリックは、カナダに居住する非イギリス系をブリティッシュとしてとりこみ、多民族社会の統合を図る際にますます重要度をもっていた。かかる点は、イギリス系を頂点とした社会構造を維持しながらも、同時に多民族社会の統合を進めることを可能にした。換言すれば、複数のハイブリッドなアイデンティティをコントロールしてきたイギリス帝国の統治論理がカナダ社会の統治に適用されていたのである。さらにまた帝国記念日は、国際社会の市民としてふさわしい意識の涵養を説く場でもあった。つまり、国際社会はイギリス帝国の延長にあると説かれ、イギリス帝国は、カナダに住まう人びとを世界に向けさせそこで活躍するためのステップとしての役割を失わなかった。

以上の考察結果をふまえ、第5章では、カナダ社会にとってイギリス帝国は、カナダの国民統合、自立・発展の礎であったばかりか、一般にアメリカ合衆国の影響が強まったとされる戦間期以降、多民族社会の統合を進める上で、以前よりまして重要性をもっていたと結論づけた。多民族・多宗教の統合体であるイギリス帝国にカナダが属しているとする見方は、非イギリス系の増加によるカナダ社会の多民族化の事態に対して柔軟な対応を可能にし、かつまた、イギリス系を頂点とする垂直的社会構造を温存するものとして活用されたのである。このように、19世紀末〜20世紀中葉はもとより、20世紀後半になっても、イギリス帝国はカナダ人にとって別個の存在ではなく、彼らが属していると意識する「想像の共同体」でありつづけたといえる。

審査要旨 要旨を表示する

この論文は、北アメリカの大陸国家・カナダ連邦が、19〜20世紀の困難な歴史のなかで、どのような国民意識に支えられて存立し、なおまた多文化・多民族の現代国家として独自の生命力をみせるにいたったかを考察するものである。そのさいに当然ながら、カナダという国家のおかれた、イギリス帝国の自治領という歴史的な位置、アメリカ合衆国との近接といった問題が正面からあつかわれ、1867年、カナダ自治領の成立いらいのナショナリズムとイギリス帝国のプレゼンスが、多面的に考察される。

第1章は、問題の所在とこの論文の方法を明らかにする。とりわけ問題になるのは、カナダ史におけるイギリスのプレゼンスの継続、イギリス帝国研究におけるカナダ、といった観点である。現状では、こうした観点からの研究は皆無に近い。本論文では、カナダ史における対米か対英かといった二項対立でなく、イギリス帝国を離れることなく帝国の分権化を求めた動きに注目する。とくに帝国記念日に絞る理由、そして利用する史料についての批判的討論もおこなわれる。第2章は、19世紀後半のカナダ・ナショナリズムを考察する。まずは「ロイヤリストの伝統」の創出が分析されたうえで、カナダにおける教育改革と歴史教育に尽力したジョージ・W・ロスとクレメンタイン・フェセンデンに注目し、それぞれの残した文書および著作、そしてオンタリオ州教育省の史料が分析される。カナダと帝国の両者にたいする「二重の忠誠」を訴え、「ロイヤリストの伝統」を広めるにあたって、ロスとフェセンデンのはたした役割が解析される。第3章は、1899年に創設された帝国記念日の最初の年の催しを、オンタリオ州とケベック州について、おもに新聞史料を用いて明らかにする。2つの州は英語圏とフランス語圏の中心をなすが、対照的な2州における式典の意味合いおよび反応の違いが考察される。第2章とともに、この論文のもっとも充実した部分といえる。第4章は、考察を地理的にオンタリオ州に絞ったうえで、時間的に1899年から1971年まで延伸して、オンタリオ州教育省が帝国記念日の教育指針について教員にむけて指示したブックレット類を検討する。これによって、カナダ社会はイギリス帝国のミクロコスモスとみなされ、多民族・多宗教の統合体と考えられていたこと、イギリス帝国の延長上に国際社会が表象されていたことが明らかになる。

この論文の独自性は、カナダ史における学校教育と帝国記念日をめぐるイシューに絞った分析と立論にある。従来の研究史の隘路に正面から取り組み、おもに教育および地域史をめぐる史料を踏査し、その史料群の分析によってカナダ史を再構築しようとする細川氏の情熱は特筆に値する。氏の既発表論文類はすでに少なくないが、本論文はそれらの集積ではなく、オリジナルで緊密な構成をとる一つの作品として提出されている。あえて欠点を挙げるなら、第4章は時系列にそった整理に傾き、議論がやや見えにくくなっている。また英語、フランス語、先住民の言語の交じるカナダの固有名詞およびカナダ史特有の用語については、この論文で現在配慮されている以上になおさら慎重な注意が必要であろう。文体のやや生硬な箇所、繰りかえしも無いではない。このように留保すべき点はあるが、本論文が細川氏の20年にわたる堅実な探求の結実であり、学界に大きく貢献する仕事であることは明らかである。

以上により、審査委員会は一致して、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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