学位論文要旨



No 216344
著者(漢字) 清水,睦美
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,ムツミ
標題(和) ニューカマーの子ども達のエスノグラフィー : 学校と家族の間(はざま)の日常世界
標題(洋)
報告番号 216344
報告番号 乙16344
学位授与日 2005.09.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第16344号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 助教授 西平,直
 東京大学 教授 廣田,照幸
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
内容要旨 要旨を表示する

「ニューカマー」と称される外国人が、多数、日本でも生活するようになった今日的状況において、その子ども達の多くは、日本の学校に通うようになっている。かれらは、言葉がよくわからないままに、母国とは異なるムードをもつ日本の学校に通うことになる。そして、一方には家族との生活の場がある。そこには、それぞれ異なる事情を抱えつつも、日本での生活を安定に導こうとするかれらの親の格闘がある。このように、ニューカマーの子ども達の日常世界は、学校と家族の間で構成されているのである。本研究では、かれらの主観的な意味づけに寄り添いながら、その日常世界を描き出している。

ニューカマーの子ども達の学校の日常を検討すると、そこに浮かび上がるのは、日本の学校の支配的なコンテキストに位置づけられ、それを内面化していくかれらの姿である。日本の学校の教師は、「特別扱いしない」という制度的制約と、それを「平等」とする認識枠組みによって、ニューカマーの子ども達の対するまなざしを、「やれている」か、「手厚い支援」か、という判断基準で二分化している。ただし、ここでの手厚い支援は、「特別扱いしないように扱おうとしても、日本語がわからないからそのようには扱えない」という状況を教師が認識することによってなされるものであるから、可能な限り短期間であることが望ましいとされている。

このような日本の学校の支配的なコンテキストに位置づけられるニューカマーの子ども達の学校での日常は、やれている状態に覆い隠された不安な毎日を伴うものとなっている。また、かれらはそうした学校の支配的なコンテキストに位置づくように、ふりに向かう態度を形成したり、自分に対する他者イメージと自身のイメージのギャップを大きく伴うような振る舞いを身につけていく。ただし、そのような振る舞いを、かれらがやりきれなくなったり、その振る舞いにかれらが意味を見いだせなくなれば、ニューカマーの子ども達は、不登校傾向を示し始めるようになる。

また、ニューカマーの子ども達の学校での日常は、日本人の子ども達との関係によっても構成されている。かれらの多くにいじめ経験はあるが、それが明かされることは希であり、多くの場合、語られないものとして、かれら個々人の胸の奥底にしまい込まれている。また、語るいじめ経験を持たないニューカマーの子ども達も若干いるものの、それは、半ば無意識的に、教室や学校の周辺に自ら位置づくことで、いじめを回避してきた結果である。いじめ経験が語られないものとしてある場合も、いじめの回避の結果として周辺に位置づく場合も、いずれにしても、ニューカマーの子ども達の学校での日常は、「周辺化」の過程を伴っているのである。

続いて検討を加えたのは、家族の日常である。ただし、筆者が、ニューカマーの人々との関係において、「日本人」というマジョリティに属しているという制約により、学校での日常と同様に明らかにすることは不可能であった。そうした条件のもとで明らかになったことは、特に、本研究の主な対象となったインドシナ系ニューカマーに焦点化すれば、次のように要約される。インドシナ系ニューカマーの子どもの教育に対する関わりは、母国的なやり方で子どもの教育に積極的に関わるか(ベトナム家族)、あるいは、日本の教育システムに依存するか(カンボジア家族)、日本での子どもの有り様を追認するか(ラオス家族)になっている。そして、こうした関わりは、日本の教育に対する批判的な観点をもちにくいものであるがゆえに、インドシナ系ニューカマーは、自分自身の子どもの学校での様子を、家族の場で「問題」として立てることが阻まれている。そして、そのことは逆に、家族との日常において、日本の学校や教育は周辺に位置づけられていることにもなっているのである。

ニューカマーの子ども達の日常世界の主要な場となる、学校と家族を検討することによって明らかになったことは、ニューカマーの子ども達が、いずれの場においても、周辺に位置づけられているということであった。しかしながら、それぞれの場において、ニューカマーの子ども達が周辺的であろうとも、かれらがかれら自身として生き抜く日常世界において、かれらがその意味世界の中心にいることにかわりはない。こうした状況を捉えることで見出されるのが、学校と家族の間である。

学校と家族の間という日常世界は、学校という場、家族という場と密接な関連をもっていて、ニューカマーの子ども達は、それぞれの場における自らの意味づけられ方を内面化しつつも、一方で状況に応じてその意味づけを異化し、新たな意味づけを生み出すことで、それまでとは異なる学校と家族の間の日常世界を構成してもいく。そこに見出されるのは、意味づけ、意味づけられることが繰り返される終わりのない過程である。そして、その終わりのない過程の切り取られたある部分について、その意味世界の構成を紐解いて描き出そうと試みたのが「コンテキスト」である。

フィールドワークを通して、本研究で描き出したニューカマーの子ども達の学校と家族の間の日常世界には、【図表1】に示すような6つのコンテキストが確認できる。さらに、それらのコンテキストの間の移行には、一定の規則性をもった3つのパターンを確認することができ、それを図表では矢印で示している。

ところで、【図表1】を再度検討すれば、理念上は8つのコンテキストが想定できるわけであるが、実際に確認できるものは6つである。この失われたコンテキストの再生の可能性を探るために試みたのが、地域へのアプローチである。そこで明らかになったことは、ニューカマーの子ども達の中には、学校や家族との日常で「周辺化」される状況におかれつつも、「エスニシティなるもの」への顕在化の程度を弱める力に対して、「抵抗」する「資源」を獲得しているものがいて、そこには、「文化的生産」の可能性が見出されたということである。具体的に「抵抗の資源」として明らかになったのは、エスニシティへの肯定感というアイデンティティ、在日外国人モデルという情報、エスニック的背景を伴う過去と具体的な将来像を伴う未来という時間である。

ここまでに明らかにしてきたようなエスノグラフィーによって導き出されたインプリケーションをベースとして、それらの研究成果の「再埋め込み」によって、本研究の後半の臨床的アプローチは展開していくこととなる。「再埋め込み」の過程は、現場の事象を捉える従来の認識枠組みの相対化を促し、現場に新たなコンテキストの生成を促すようになる。本研究の臨床的アプローチでは、学校の支配的なコンテキストの変化による学校文化変革の試みと、地域での新たなニューカマーの子ども達の支援の試みを描き出している。

まず、学校での試みは、S中学校における「外国人生徒のための授業づくり」という実践の場をベースとして進められていくこととなった。その結果、【図表2】のような新たなコンテキストの生成が促されたのである。それは、第1に、ニューカマーの子ども達に対する「特別扱いしない」という制度的制約や、それを「平等」とする学校の教師の認識枠組みが変化し、学校での裁量の範囲で可能な限り制度的制約を取り払うことで「外国人生徒支援」という認識枠組みを前面に押し出したことである(矢印(1))。第2の変化は、ニューカマーの子ども達の適応の差異の処遇に伴う「問題の個人化」という認識枠組みと、その原因を「エスニシティなるもの」に求める認識枠組みの変更によって生じている。それによって、「外国人生徒のための授業づくり」の内容と方法の選択原理は「つなげる」ことに収斂していったのである。それは、学校の支配的なコンテキストのもとで、II・I'・II'という異なるコンテキストに、ニューカマーの子ども達を分断し序列化してきた結果を真正面に受けとめて、「外国人生徒支援」を前面に押し出すことで、Iのコンテキストに向けてつなげるという再統合の試みとも言えよう(矢印(2))。

地域における試みは、研究者のエスノグラフィーに対して、その対象であるニューカマーの子ども達自身がオーディエンスとして立ち上がったことに始まっている。かれらの反応は、「学校と家族の間には間があり、ニューカマーの子ども達は、その間で日常を構成せざるを得ない状況にある」という認識枠組みの獲得、そのただ一点に集中していると言ってよい。そうした認識枠組みを共有するニューカマーの子ども達が、自治的運営組織「すたんどばいみー」の核となり、かれらはかれら自身の社会的意味を生み出す活動を行っているのである。そうした活動を通して、かれらは「抵抗の資源」を獲得して「文化的生産」を可能とし、その結果、在日外国人志向型のアイデンティティ形成を志向していくことになっているのである。その志向は、学校からも家族からも離脱せずに、間を間として真正面に捉えて、日常世界を構成していこうとするものに他ならないのである。

図表1 ニューカマーの子ども達の「学校」と「家族」の〈間〉の日常世界のコンテキスト

図表2 S中学校におけるニューカマーの子ども達を意味づける新たなコンテキストの生成

審査要旨 要旨を表示する

2003年9月現在、「ニューカマー」と呼ばれる外国人児童・生徒のおよそ1万9千人が日本の学校に就学している。これらニューカマーの子どもたちの日常生活は、どのように構成され、そこにはどのような問題が孕まれているか。そうした問題に、日本の学校はどのように対応しているのか。そこには、日本の学校のどのような特徴が埋め込まれているのか。ニューカマーの教育や生活をめぐるさまざまな問題は、この10年ほどの間に急速に顕在化するようになったものの、教育研究においてはいまだ十分な実証分析に基づく学問的検討が行われていない。

そうしたなかで、本論文は、フィールドワークの手法を用い、7年間にわたりある学校と地域に密接に関与しながら、ニューカマーの子どもたちをめぐる諸問題(学校への不適応やいじめ、不登校、家族からの離脱など)を、学校と家族の<間>に焦点づけ、実証的・理論的に明らかにしたものである。

本論文は、2部構成をとる。第1部(5章構成)では、問題設定のあと、フィールドワーク調査によって得られたニューカマーの子どもたちの学校での日常、家族の過去及び学校や教育への関わり方、地域との関わりについて、丹念なエスノグラフィーを積み上げていく。そこでは、日本の学校文化が生徒たちを「特別扱いしない」という平等観をベースにできていることから、エスニシティに基づく差異が目立たなくされ、結果的にニューカマーの子どもたちを周辺へと追いやってく様が克明に記述・分析される。そして、その背後にある日本の学校文化の特徴と、家族の過去と教育戦略の影響を明らかにしつつ、学校と家族との関わりの中で、彼らの日常生活を意味づける文脈生成の仕組みを明らかにする。

続く第2部(3つの章と総括)では、第1部の分析を踏まえ、著者自身がフィールドに直接的に関わり合いをもつことで明らかとなる学校臨床学的アプローチによる分析が行われる。そこでは、学校文化の変革の可能性とその変化のメカニズムの解明、地域社会を基盤にニューカマーの子ども達自身が運営する自治組織による問題解決の特徴とその変化の解明を通じて、彼らの日常を意味づける文脈がどのように変化していくのかが分析される。そして、これらの分析を踏まえ、結論にあたる「総括」の章では、ニューカマーの子どもをめぐる問題構成のあり方を理論的に再構成しつつ、問題を固定的にとらえてしまいがちな本質主義に陥らずに、戦略的本質主義の視点から、問題理解を行うための新たな理論的視座が提示される。

以上のように、本論文は フィールドワークを通じて、ニューカマーの子どもをめぐる問題の諸相とそうした問題の変容のメカニズムを実証的、理論的に解明し、問題理解の仕方に新たな視点を付け加えた点で、今後の教育研究に貢献するものと考えられる。このような点から、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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