学位論文要旨



No 216345
著者(漢字) 古内,博行
著者(英字)
著者(カナ) フルウチ,ヒロユキ
標題(和) ナチス期の農業政策研究1934-36 : 穀物調達措置の導入と食糧危機の発生
標題(洋)
報告番号 216345
報告番号 乙16345
学位授与日 2005.09.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第16345号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 教授 奥田,央
 東京大学 教授 森,健資
 東京大学 助教授 石原,俊時
内容要旨 要旨を表示する

本書は、1934年の前半にドイツを襲った干ばつによって1934/35穀物経済年度の穀物収穫の悪化が確実視されるにおよんで小麦、ライ麦のパン用穀物を安定的に確保するために導入された、7月14日の穀物経済秩序令(Verordnung zur Ordnung der Getreidewirtschaft)にもとづく穀物調達措置(=穀物供出義務の導入)を考察の出発点にし、それを始発的契機としてナチス政治体制を揺るがすことになる農業・農民問題の展開過程を論じることを基本的課題とする。

1934/35穀物経済年度の開始時に明瞭になった穀物供給事情の暗転は、そうした事態をそのまま放置しておけば必然的に招来されるであろうパン用穀物の大量の飼料用転用によりパン用穀物の商品化率が落ち込むことを未然に防いで、商品化率を安定的に維持し、しかもパン用穀物の年度一杯の十分な量を抑制的な価格水準で確保すべき措置を要請せざるをえないものとしてあった。賃金の低位釘付けからいって固定価格引き上げによる市場出回りの促進は到底許容されなかったからである。穀物調達措置はそのような難点を乗り越え、パン用穀物の権力的集荷を図るものとして発動された。それはまた、この当時にドイツ経済が直面していた金・外貨準備(=輸入資金)の枯渇といった困難からも促迫されていた。

このようなものとして穀物調達措置は、消費者に低価格のパンを安定的に供給するという意図の下に生産者に一方的に犠牲を強いる措置であり、パン供給の危機といった国民経済的な次元での食糧不安の発生を回避してその負担をもっぱら農業・農民に押しつけ、問題の現れを農業内部に限定する措置であった。というのは、それは調達価格が超小幅の引き上げに抑えられたということ以上に、ドイツ農業においては小農経済が圧倒的な比重を占め、しかも穀物・耨耕作物を自家飼料に用いて複合的な畜産経営を営むという生産の迂回性が農業経営の特徴になっている点からいって、自家飼料、とりわけ濃厚飼料の確保・調達問題を鋭く露呈させずにはおかなかったからである。そして、この問題は畜産農民の私的イニシアチヴに関わる意味においても深刻であった。

そこでこの難点は、穀物調達の対象となったライ麦をめぐる農民と政策当局との間の緊張となって現れていった。ライ麦は従来、農民的畜産経営にとって養豚飼料として重要な位置を占めていたが、1934/35穀物経済年度においては飼料用大麦、えん麦など飼料用穀物が軒並み不作であったために飼料用穀物の用途が家畜間での競合関係を深め、需給関係が逼迫するのは必至であったから、本来ならばライ麦はこれまで以上に飼料用穀物としての重要性を発揮するはずであった。とりわけてライ麦に養豚飼料としての需要が集中的に発動するのは明らかであった。飼料用穀物の市場出回りに予断を許さない状況があったからである。

したがって、穀物調達措置はこの措置の進捗を側面から補完すべき飼料政策を欠いては円滑に作動しないものであったが、ライ麦の調達実施が厳然としてあり、撤回されるべくもない以上、飼料用穀物の供給逼迫および不足の高進により過重された飼料供給の制約(=ホドルネック)は畜産農業の異常ともいうべき収縮(=畜産危機の発生)に帰着していくほかなかった。事実、1934年秋から翌35年春にかけて穀物調達措置が遅々として進まないといった沈滞基調を引きずっていったのとは対照的に大規模かつ無差別の家畜屠殺がおこなわれ、畜産危機はのちに至るまで計り知れない禍根を残すものとしてその拡大深化過程をたどっていったのである。

こうした事態の劇的帰結とは、畜産危機を媒介にして必然化した畜産・酪農品の生産基盤の収縮と脆弱化が食糧不足に転じ、とくに1935年秋から36年の初頭にかけて「消費者の危機」(consumer crisis)と表現されるほどの激しさを帯びた食糧危機であった。この危機は「食肉飢鯉」(a meat famine)とか「鶏卵飢饉」(an egg famine)と形容された。この点に、穀物調達措置といった政策措置により農業内部に限定されたかにみえた困難がその後の一連の展開過程において螺旋的な拡大をたどり、ついには食糧問題といった国民経済的な次元の問題へと質的変容を遂げてナチス政治体制にとって極めて深刻な隘路になるという、問題の連鎖性ないしは拡散性をみてとることができる。

食糧危機を考察する場合に本書が強調するのは、それが基本的に畜産生産基盤の収縮およびその持続といった供給面でのネックによって引き起こされたということである。1935年盛夏に顕在化してくる食糧品価格の上昇はボトルネック・インフレの性質を帯びている。通説では単純に失業の減少に伴う需要の増大が重視される傾向にあるが、この説明は農業・農民問題の内在的分析の欠如と表裏一体の関係にある。需要の拡大は供給面でのネックを過重し、増幅したにすぎない。この点は本書特有の論点をなす。

この間における農政上の対応はどのようなものであっただろうか。それは1934年11月に農民に呼びかけられた農業生産戦(Erzeugungsschlacht)に集約されるが、農業生産戦は外貨危機に直面して採られた新たな経済政策である「新計画」(der“Neue Plan”)に照応する路線であった。強力な為替管理と貿易統制を前提にした軍事化と経済的アウタルキー化を推進力とする恐慌からの本格的な経済的回復が「新計画」の責任者で経済相のシャハト(Hjalmar Schacht)の下で目指された。この経済政策の転換は、工業用原料の輸入優先を随伴するものであったから、外貨の効率的な消費のために農業部門には食糧自給の飛躍的な向上が高度の政治的な判断として要請された。農業生産戦はこうして農業内部の要請とは無縁のところで生産拡大至上主義に立って開始されることになったのである。穀物調達措置が農民的畜産経営に対して飼料確保の懸念を一挙に顕在化させることによって農民の緊張をいや増しに高めたにもかかわらず、本来ならばそうした事態に何らかの政策調整をおこなうべき農政は、農業生産戦へと路線転換がなされるなかで飼料供給問題に対する打開的措置を欠落させたままに推移してしまった。農業生産戦はドイツ農業の閉塞性をより強めるように作用したといってよい。

畜産危機から食糧危機への事態の推転は、政策的要因をも含みながら以上の絡み合いのなかで漸次相乗化し、累積的性格を帯びていった飼料・畜産問題の相互制約的、相互規定的な連関の一大帰結であった。第一次大戦中に悲惨な食糧飢饉を体験したドイツ民衆にとって1935年秋に現出した食糧危機は、ナチス政治体制に対する不信と不満を広範に醸成させることになり、民生安定の維持の観点からそれは容易ならざる政治的な問題となった。しかも、体制支持基盤の安定という点からみて、持続化する農業の逼塞状況が農民の体制離れを加速させつつあったことは、もうひとつ別の深刻な問題であった。

干ばつと穀物調達措置を始発的契機とするこの過程は、ドイツ農業がナチス政治体制のアキレス腱と化し、体制の命運を左右するような構造的ネックへと転じていく過程にほかならなかった。問題のこのような真に深刻な性質のために、食糧問題が農業の不振を端緒的契機としつつ、その打開をめぐって政治問題化するのは避けられなかった。その際、それは政治権力の自己保全衝動に駆られながら体制指導部内部の政治的対立を引き起こすような激烈な過程をたどった。食糧危機は体制指導部に恐ろしい重圧を与えたのである。

この政治過程は市場統制の是非と外貨割当をめぐる食糧・農業相ダレー(Richard Walther Dairre)とシャハトの政治的対立を前哨戦としながら、両者の確執の仲裁人として登場したゲーリング(Hermann Goring)がシャハトとの経済政策の総体的在り方をめぐって対峙し、遂には経済上の最高権力者にのし上がる過程である。本書はこの政治過程を農業・食糧問題を考察の対象に組み入れて明らかにする。これは従来の研究史において外貨危機や工業用の原料不足の経済的隘路が強調されすぎてきたことへの反省に立っている。その点でいえば、「経済上の独裁者」といわれたシャハトの急激な政治的凋落がダレーの政治的安泰を意味するものではなく、かえって彼がゲーリングにより鋭く行政官としての資質を問われ、事実上失脚していく事実もまた以上の分析視角により明確に位置づけられるのである。

およそ以上の概要から理解されるように、本書は1934年前半の干ばつとそれに続く穀物調達措置の導入に淵源を見出し、食糧危機をピークとする1935、36年の事態の展開に立ち入った検討を加え、その動態過程を明らかにしようとするものである。そのことはまた、この時期の農業・農民問題がナチス政治体制を揺さぶる危機因子として体制内部にビルト・インされていく過程をも説明するものとなろう。1936年秋の第二次四カ年計画以降により際立つことになる農業の不振と停滞はこの延長線上に位置する。考察対象の時期は穀物調達措置が導入される1934年7月前後から第二次四カ年計画の前夜のおよそ二年間である。その意味で本書は第二次四カ年計画の前史をなす「新計画」の時期を改めて重視し、その前史を農業・農民問題の動態的な展開過程のうちにみながら、そのうえでナチス政治体制の「深部」に接近しようとする史料的究明の試みである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1934年前半にドイツを襲った干ばつをきっかけとして同年7月に導入された穀物調達措置から1936年後半に至る時期における、ナチス期ドイツの農業・農民問題の特徴を、農業政策の展開過程の分析を通じて明らかにすることを課題としている。著者は、農業・農民問題がナチス経済体制に対してもった重要性が従来から認識されていながら、表層的な分析しか行われてこなかったという研究史批判の上に立って、『ベルリーナー・ターゲブラット』紙ほか3つの新聞を中心的資料としてこの問題を論じるとともに、ナチス経済全体の歴史像を再構成することをも企てている。以上のような課題を提示した「序章」を含む本論文の構成は、以下のとおりである。

序章   課題と構成

第1章  1934年前半の干ばつと穀物調達措置の導入

第2章  農業生産戦の開始と畜産危機の発生

第3章  第一次農業生産戦プロパガンダの展開

第4章  第二次穀物調達措置の開始

第5章  食糧危機の端緒的発生――1935年夏から初秋――

第6章  食糧危機の発生――1935年秋から1936年初め――

第7章  第二次農業生産戦と食糧危機

第8章  食糧危機と政治体制の動揺

終章   総括と展望

第1章では、1934年前半の干ばつにより穀物経済秩序法の成立が必然化され、穀物調達措置の導入に至る過程と導入直後の経緯が論じられる。干ばつは飼料不足を先鋭化させたため農民の間に緊張感が高まったが、ナチス農業指導層はパン価格の据え置きとパン供給の安定した維持の達成を重視した。6月27日の穀物経済秩序法と7月14日の穀物経済秩序令にもとづく穀物調達措置は、こうした農業指導部の立場を反映したものであり、生産者にパン用穀物(とくにライ麦)の供出を強制するものであった。その結果、農民はナチス政治体制への不信を募らせた。しかし、飼料不足の深刻化のなかで34年秋にかけて調達は停滞し、一過性の極限的現象とはいえ「パン供給危機」が懸念視されるようになった。

第2章では、1934年11月の第2回全国農民大会で採択された農業生産戦とその帰結が取り上げられる。大会の席で食糧・農業相ダレーは、外貨危機を背景とする食糧自給率の向上のために農業生産戦を打ち出し、10箇条大綱を基本方針として生産拡大至上主義を浸透させるための農村プロパガンダを展開した。しかし、それは現実と乖離した総花的なものであり、農民的畜産経営の困難を助長する役割を果たした。34年11月以降飼料不足はさらに昂進し、見返り取引のような取引形態が登場した。こうして家畜の越冬はますます困難になり、育成種にまで及ぶ無差別的な大量屠殺が始まった。飼料不足は畜産の縮小均衡によって35年3月には沈静化したが、畜産農業の発展基盤を著しく狭隘化させることになった。

第3章では、1935年4月以降に展開された第一次農業生産戦プロパガンダの特徴と内容が検討される。これは農業生産戦を政策の基本に据えようとする農業指導層の強い意図が働いたものであり、5月の第2回全国食糧職分団展が中心舞台となった。しかし、これも10箇条大綱をベースとするものであり、農業生産戦が当時直面していた畜産農民の困難に応えるものではなかった。また、こうした国家介入の強化は私的イニシアティヴの喪失に対する農民の危惧を強めた。このため農業指導部は、ソヴェト農政との違いを強調しつつ、私的イニシアティヴの容認を明言することを余儀なくされた。

第4章では、1935年に始まった第二次穀物調達措置の前提となる制約条件、措置の内容と特徴およびそれに伴う飼料政策の転換が論じられる。穀物調達措置による農民のナチス政治体制への反発に配慮し、農民の自家飼料基盤を拡充させる必要から、新たな穀物調達措置はパン用穀物の飼料への転用を容認し、前年度の高圧的措置を棚上げして農民との合意形成を志向するものでなければならず、その基本的特徴は農民の私的イニシアティヴを承認するものであった。しかし、それは穀物経済中央会による穀物流通の直接統制の強化を伴っており、「農民への譲歩」は限定的なものであった。また、これに連動する形で飼料政策の転換がはかられ、35年7月に「全国食糧職分団直轄連合飼料局」が設置されて、統一的な飼料の流通管理が実施された。

第5章では、1935年夏に畜産の収縮と2年続きの天候不順によって食糧不足が発生したことがまず確認される。とりわけ豚肉の不足は深刻で、正規の流通経路を回避した農村での直接取引・闇取引が増大した。その背景には飼料不足と価格統制による農民の経済的窮状と飼養意欲の減退があった。他方、食肉価格の高騰傾向は賃金の実質的な引下げを意味したから、消費者の利害を損なうものであり、ヒトラーら体制指導部の民生安定重視の立場に抵触するものであった。実際、食肉不足を引き金にして都市において社会的不安と民衆の動揺が目立ってきた。このため科罰規定を随伴する最高価格制が適用されたが、これは農民の反発と投機的取引を一段と激化させるとともに、農民と消費者の潜在的対立を生み出した。

第6章では、1935年秋以降食糧危機が全面化し、体制指導部の統制が強化される過程が検討される。9月に入ると豚肉に続きバターの不足が顕在化したが、構造的な供給ネックに景気回復に伴う需要拡大が重なって危機はさらに増幅した。11〜12月には鶏卵・チーズ不足が顕在化し、食糧不足は畜産・酪農品全般に及んだ。このため投機的取引や売り惜しみ・買い占めがますます横行した。それに対する市場統制も強権的になって価格統制から流通統制に移行するとともに、違反者は予防拘禁の対象になるなど治安維持的な性格を帯びはじめた。配給制も、体制指導部は公式の導入に否定的であったとはいえ、10月に事実上導入された。平時に深刻な食糧危機が発生したことは、外貨危機、工業用原料の供給危機とともにナチス政治体制の限界を告知するものであった。

第7章では、1935年11月の第3回全国農民大会を機に開始された第二次農業生産戦の特徴が考察される。組織政策では、ゲマインデ農業会およびゲマインデ農民指導者の指導による生産責任制的方式が前面に出されたが、それと並んで「村落一体化政策」が展開された。これらの政策は、表裏一体となって安定した農村統治と生産責任的な課題の実現を目指すものであったが、さらに「農村流出」に歯止めをかけるために農業労働者をも取り込んで共同体的自治運動(「村落美化運動」)が36年初夏まで推進された。生産政策では畜産の維持・拡大および飼料基盤の拡大が最優先の課題となったが、栽培植物の栽培拡大も重要な戦略目標となった。生産者だけでなく都市における消費者(とくに主婦層)対策、具体的には消費節約運動を含んでいたことも第二次農業生産戦の特徴であった。しかし、こうした政策は、初期ナチス農政の中心的理念であった世襲農場制と矛盾するものであり、農業労働者の地位引き上げによって、コルポラツィオーンとしての農村を解体するものでもあった。

第8章では、これまでの分析を前提としてナチス政治体制の政治権力の中枢における政治的動揺と権力抗争が明らかにされる。食糧不足をきっかけとして、経済相シャハトはダレーと激しく対立するようになった。このため、シャハトはダレーによる油糧種子などの輸入のための外貨の緊急割当てを拒否したが、ダレーはゲーリングの政治力を借りて割当てを獲得した。ダレーの失政は明らかであったが、体制指導部の一体性を守るために、党勢拡大の功労者であった彼の政治的失脚は忌避されねばならなかった。逆にもともと異端者であったシャハトは、世界経済への復帰と輸出促進を目指して、軍事化・アウタルキー化と矛盾する農業行政再編の構想を打ち出したため、次第にゲーリングと対立するようになった。その後ナチス体制指導部は拡張的な国家主義に傾斜し、1936年4月にゲーリングが「原料・為替委員」に任命されて経済の主導権を急速に掌握した。それに伴い、シャハトの政治的凋落が決定的なものとなった。

終章では、穀物調達措置の導入を起点とする農業・農民問題が国民経済的な次元での食糧問題へと発展し、そのことがナチス政治体制にとって重大な岐路になったと本論を総括した上で、第二次四カ年計画と並行して開始された第三次農業生産戦による統制強化も成功せず、ここに示されたナチス経済の構造的制約から、ナチスが総力戦体制による長期持久戦ではなく、短期決戦の「電撃戦戦略」以外の選択肢をもたなかったことが展望されている。

以上のような内容をもつ本論文の貢献として第一に挙げるべきは、1934年7月の第一次穀物調達危機―→飼料不足―→畜産危機―→第一次農業生産戦―→農民の私的イニシアティブ喪失―→第二次穀物調達措置―→食糧不足の深刻化―→第二次農業生産戦という経路で農業・農民問題がナチス政治体制を揺るがす問題にまで発展していく過程が、詳細かつダイナミックに描かれていることである。この結果、従来一般的に指摘されていたにとどまったこの問題がどのようにして起こり、深刻化したのかが、これまでと比較にならないほど鮮明に理解できるようになった。

第二に、1934〜36年の時期にはニューディール体制下のアメリカ経済と比較して順調に景気を回復させ失業率を低下させたとこれまで理解されてきたナチス経済が、その裏側で農業・農民問題というアキレス腱を生み出しつつあり、それが民生の安定、外貨不足、軍事化・アウタルキー化といった問題と結びついて体制指導部に強い危機感を抱かせていたことを明らかにした点が指摘できる。この結果、第二次四カ年計画以前の時期のナチス経済の歴史像が、すでにこの時期から深刻な脆弱性・不安定性を抱えていたものへと大きく変貌することになった。

第三に、「新計画」を打ち出してナチス政権初期の経済政策の中心にいたシャハトが1936年に政治的に失脚し、ゲーリングに経済の主導権が移っていく過程の背後に、農政に関するダレーとシャハトの対立があり、シャハトが農業・農民問題への対応として軍事化・アウタルキー化と矛盾する方向を打ち出したことが体制指導部との対立につながったという認識を打ち出した点が挙げられる。詳細な農政分析を基礎としているだけに説得的な見方であり、ナチス政治体制内部の権力抗争の理解に対しても一石を投じたものとして注目に値する。

他方、本論文に対しては以下のような問題点を指摘することができる。

第一に、新聞を主たる資料としたことによる限界を挙げることができる。新聞の体系的利用によって畜産危機・食糧不足が当時問題視されていたことを明らかにしたのは大きな貢献であるが、歴史研究としてはそのうえで実態を他の文献・資料とも付き合わせて確認する必要があろう。もちろん本論文においてもこうした配慮がないわけではないが、農民的畜産経営や食糧流通の実態分析は十分ではなく、危機が本当にあったのか、あるいはいかなる性格のどの程度の危機だったのかという疑問を完全に払拭することができない。その意味で、本論文は、言説分析としては優れていても、実態分析としては隔靴掻痒の感が残ると言わなければならない。

第二に、この点とも関連するが、全国紙に依拠しているため、全国の事例が紹介されているとはいえ、これまでのドイツ農業史研究が重視してきた地帯構造や地域差の問題がほとんど考慮されておらず、実態の全体像が平板でいまひとつ具体的に浮かび上がってこないことを指摘できる。生産者だけでなく消費者の動向や両者の利害対立が取り上げられている点も重要な問題提起ではあるが、同じ理由から断片的なものにとどまっている。本論文に対しては望蜀であろうが、地域差の問題への配慮も必要だったのではないかと思われる。

第三に、ナチス体制が初期においてすでに脆弱性を露呈していたことや、そこでの農業・農民問題の重要性を強調するあまり、他の産業や社会層あるいは他の政策課題との関連づけの仕方がややバランスを欠くものとなっていることが指摘される。たとえば、食糧問題をナチス体制が抱えていたことを根拠に「電撃戦戦略」の選択を展望するテーゼは刺激的ではあるがあまりに大胆であり、1934〜36年についての堅実な分析との落差も大きい。こうした展望を打ち出すためには、本論文の分析結果を全体の動向のなかに適切かつ慎重に位置づけることが必要であろう。

以上のような問題点をもつとはいえ、ナチス政権初期の農業政策分析をつうじて農民・農業問題の所在を包括的に抉り出し、それをナチス体制論に結びつけた本論文が、ドイツ経済史・農業史、さらにナチス研究などの領域に対する大きな学問的貢献となっていることは間違いない。審査委員会は全員一致で古内博行氏が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論に達した。

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