学位論文要旨



No 216353
著者(漢字) 荘林,幹太郎
著者(英字)
著者(カナ) ショウバヤシ,ミキタロウ
標題(和) 農業の多面的機能に関する経済理論とその応用
標題(洋)
報告番号 216353
報告番号 乙16353
学位授与日 2005.10.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16353号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 山路,永司
 東京大学 助教授 小田切,徳美
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

農業生産活動がその過程において農産物以外の正の外部性を有することは我が国のみならず多くの国・地域において多年にわたって認識され、1998年のOECD農業大臣コミュニケにおいて農業には「多面的性質(multifunctional characters)」が存在することが述べられた。このことは、ピグーやコース以来、正または負の外部性への対処について議論を重ねてきたオーソドックスな新古典派経済学的観点に立てば、不自然なことではない。すなわち、他の生産活動と同様、農業生産においても正または負の外部性が発生すると仮定することに特段の異論が発生する余地はない。

1998年大臣コミュニケを受けて1999年からOECD農業委員会において多面的機能の分析作業が申請者を中心として開始されることとなり、そこでの焦点も、多面的機能の有無ではなく、多面的機能の存在が農業補助金を正当化しうるか、あるいはどのような形態の農業補助金を正当化しうるかという点に置かれることとなった。WTO農業交渉と密接に関連する政策事項であり、従って各国の政治的なポジションの影響を受けやすいことから、その議論に規律を持たせる必要があり、経済学的に厳密な概念分析を行うこととなった。そのような概念分析を通じて、政策議論の本質は、ピグー的補助金が正当化される前提条件、すなわち主生産物と外部性の定常的な結合性と外部性の公共財的性格、を農業の多面的機能が満たしているか否かであることが明らかになった。さらにこの点をいかに現実的な精度をもって定量的に吟味するかについての分析を、概念分析に続く政策分析として行った。本論文の1章、2章は、概念分析から政策分析に至る一連の分析の結果をまとめたものである。

1章において、概念分析に係わる基本的フレームとして、(1)農産物と多面的機能の供給サイドに係わる結合性の吟味、(2)結合性が存在する場合における開放経済下での市場の失敗の可能性の需要サイドからの吟味、さらに(3)結合性が存在し、かつ市場が失敗する場合における政策介入の実施主体を決定するための多面的機能の公共財的性格の吟味、を提示した。その上で、特に、(2)、(3)について政府による直接的な政策介入の必要性の有無という観点から詳細な概念整理を行った。加えて、政策立案における情報の不足が政策自体に与える影響や、政策が国際的な所得分配に与える影響についても詳細な議論を展開した。

2章においては、上記(1)の結合性の吟味に関連して、多面的機能を農産物生産から独立して供給(「切り離し供給」)する場合の費用を算出することによって、農産物との同時生産と農産物の輸入による供給と多面的機能の切り離し供給の比較を行い、範囲の経済の成立の有無を吟味することが、結合性をチェックする最も妥当な手法であることを示した。このことにより、多面的機能を理由とした農産物生産に対する何らかの政策介入の妥当性の判断が政策実務上はじめて可能となることを示した。また、結合の形態を詳細に吟味することによって、政策介入の最適な形態の選択が可能となることを示した。加えて、2章においては、1章で概念整理を行った事項について、政策立案を行うための具体的な手法を提案した。特に、情報の不足については、多面的機能の需要計測において不可避的に発生する不確実性に対応する方策として財政上の地方分権を提唱するとともに、その際に発生する地域間所得格差是正の問題への政策的対応についても具体的な提案を行った。さらに、政策の不安定性が政策選択に与える影響とその回避の方法についても具体的な提案を行った。

3章においては、1章,2章での多面的機能をめぐる議論が、基本的には多面的機能および農業環境負荷の存在を前提として農業生産の継続の適否を分析したのに対し、農業環境の改善に関する政策、いわゆる農業環境施策の立案、評価に関して、申請者による多面的機能の分析フレームと同程度の理論的厳密性や実証的応用可能性を有するフレームワークの確立を試みた。農業環境政策を評価するための基本的な考え方は、例えばOECDにおいて議論されているが、環境改善便益が費用を上回ること、営農改善が効率的であること、農家の所有権が明示的に定義されていること、等の限定的かつ一般的なガイドラインの提示にとどまっている。そこで本章では、農業の生産を継続することの妥当性と環境改善を一体化させたフレームの提示、環境改善便益の公共財的性質による最適政策実施者の決定、取引費用が政策決定に与える影響、情報の不足が政策決定に与える影響とそれへの対応方法、公平性等の効率性基準以外の観点への配慮等、多面的機能の分析枠組みにおいて提示されたような総合的な視点から、農業環境政策分析のための実務的な分析枠組みを提示した。

つぎに、4章においては、1章、2章において議論された概念分析のフレームおよび政策議論について、滋賀県湖北地域を事例として実際の応用を試みた。同地域における既存の統計データにより実際の政策立案を行える可能性が大きいこと、その際、分析の単位として市町村あるいは旧市町村では精度が低すぎることから実際の政策立案には不適切であること、集落単位であれば、政策立案を可能とするデータの収集が可能であること、国際価格の変動および経営規模が政策選択に最も大きな影響を与えること、特に経営規模が大きな影響を与えることについては、構造政策との整合性の確保が多面的機能政策立案上重要であること、を示した。

5章においては、3章で提示したフレームによって、我が国で最初に導入された環境支払いである滋賀県の環境直接支払いおよび流域型環境直接支払い制度の評価を行った。

本年3月に食料・農業・農村基本計画が改訂され、消費者負担型農政から納税者負担型農政への大転換が指向されることとなった。このような納税者負担型の農政の推進にあたって最も重要なことは、その負担が政策目的に照らして正当化されることを納税者に対して透明な方法によって説明することである。政策目的はなにか、その達成のために農業保護が最も合理的な選択か、全ての農業保護が必要か、政府による保護が最も効果的か、保護の方法は公平か?これらの質問に対して政策立案者や執行者は明確な説明責任を有する。

本論文においては、そのような納税者に対する説明責任を理論的な厳密性に依拠し、しかも実務的に可能な方法により果たすための方法論を演繹的に議論し、あわせて、その有効性を実証的に検証した。その過程において、農法と多面的機能の結合性という技術的観点、国際価格と国内政策の関連という国際経済学的観点、多面的機能の需要分析というミクロ経済学的観点、地方と国家の適切な役割分担という財政的観点、組織によって取引費用を減少させることによって非政府供給を促進するという制度論的観点等、広範な視点で総合的に分析・検討しなければ適切な政策選択は不可能であることを明らかにした。このことは、今後の農政を考える上で大変重要な視点を提供したものと考える。

また、本論文において情報不足への対処のための重要な方法として意思決定の地方分権化が有効であることを示した。消費者負担型農政においてはこのことは大きな意味を持たなかったが、納税者負担型農政においては極めて大きな政策的意味合いを有する。地方分権と農政のあり方についても本論文の貢献は小さくないと考える。

審査要旨 要旨を表示する

農業生産に景観形成や水源涵養などの多面的機能が伴っていることは、国際的にも共通認識となりつつある。一方、農業に環境に対する負荷という外部不経済が随伴する点についても、国際的なコンセンサスが得られている。しかしながら、こうした農業の外部性を根拠とする政策のありかたについては、理論・実践の両面で見解がさまざまに分かれている。とくに農業の多面的機能に関する政策のありかたは、農産物貿易をめぐる国際交渉の場においてもひとつの争点となっている。

本論文は、農業の多面的機能の特質をミクロ経済学の理論フレームによって厳密に定式化し、助成的政策が正当化されるケースを理論的に明らかにするとともに、日本の農村を対象とするケーススタディを通じて、この基準の適用可能性を検証したものである。あわせて、多面的機能とシンメトリックな問題構造を持つ開放経済下の農業環境政策のありかたについても、理論的基準の提示とその応用可能性について検証した。論文は、研究の背景を論じた序章と要約と展望を述べた終章を含む全7章から構成されている。

序章の背景の整理を受けて、第1章では農業の多面的機能の特質について3つの観点から分析することが提案される。すなわち第1に農産物と多面的機能の供給面における結合性の度合いであり、第2に農産物の輸入が多面的機能を含めた純便益の減少という意味において市場の失敗をもたらすか否かであり、第3に多面的機能に公共財の性質すなわち消費の共同性と排除不能性が伴っているか否かである。

多面的機能の存在は助成的政策発動の必要条件ではあるが、十分条件ではない。第2章では第1章で提示された分析視点を踏まえて、政策発動の十分条件を厳密かつオペレーショナルなかたちで定式化している。とくに第1の観点については、農産物と多面的機能をアウトプットとする多財費用関数のもとで、範囲の経済の有無を判定の基準とすることの妥当性が示される。この場合に農産物の単独供給は農産物の輸入を意味する。一方、基準の適用にあたっては、多面的機能の単独供給の費用を推定する必要がある。さらに第2の観点は、国内農業の費用から多面的機能の便益を差し引いた農業生産の社会的費用と、農産物の国際価格の比較の問題として定式化される。この基準の適用には多面的機能の便益評価が必要である。以上をまとめると、多面的機能が助成的政策を正当化するのは、範囲の経済・市場の失敗・公共財的性格の存在という3つの基準にパスする場合に限られる。

第3章では、開放経済下の農業環境政策の妥当性の判断について、同様に経済理論を厳密に適用したうえで3つの基準を導出している。基本的には多面的機能に関する基準とアナロガスであるが、農法の変更に伴う環境改善のネットの便益の評価と、農法変更後の国内農業生産と農産物輸入の比較という二段階の構造を含むことになる。また2章と3章においては、提示された基本原則に加えて、情報の不足や不確実性が政策決定に与える影響の評価や、政策実行に伴う取引費用の影響の評価、さらには所得分配上の公平性に対する配慮の方法などが、あわせて指摘されている。

4章と5章は、2章と3章で定式化された政策判定基準をそれぞれ日本の農業生産の現場でテストし、応用の可能性を検証している。4章では滋賀県湖北地域の水田農業を素材として、判定基準が十分適用できることを示し、あわせて情報精度の点で集落程度の範域が望ましいことを明らかにした。5章は同じく滋賀県の環境直接支払制度を素材とする検証であり、環境改善に対する需要計測をめぐる政府の失敗の回避という点で地方公共団体による制度設計に合理性があることなど、いくつかの重要な政策含意が導かれている。

以上を要するに、本論文は農業の多面的機能と環境負荷の両面について、開放経済下の政策導入の判断基準を、厳密な経済理論を用いて導出したものである。導出された基準は、情報不足や取引費用などへの対処法の提案によって補完され、実際の応用可能性の検証にも支えられている。本論文は、農業の外部性に関する政策理論の分野で学術上、応用上寄与するところが少なくないのみならず、国際的な政策論議に対する重要な貢献でもある。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた

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