学位論文要旨



No 216354
著者(漢字) 木下,幸雄
著者(英字)
著者(カナ) キノシタ,ユキオ
標題(和) オーストラリアにおける水利改革と農業水利制度に関する研究
標題(洋)
報告番号 216354
報告番号 乙16354
学位授与日 2005.10.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16354号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 助教授 小田切,徳美
 東京大学 助教授 木南,章
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,オーストラリア,特にその中でも,ニュー・サウス・ウェールズ州(以下,NSW州と略記)を中心として農業水利および農業水利制度の構造を明らかにするとともに,オーストラリアで進む水利改革の現状と課題も明らかにし,農業水利との関連を確認することを目的としている.

日本における研究,ならびに日本人による研究では,オーストラリアの農業水利制度に本格的に取り組んだ研究はこれまでないといえる.また,オーストラリアの国内においても,実態をもとに水利改革進展下の農業水利問題研究の蓄積は少ない.オーストラリアは,世界諸国の中でも,水利ないしは水資源に関する制度改革が最も先進的に取り組まれている国の1つであり,制度による水資源の利用と管理を目指した壮大な実験場であるといえよう.1990年代半ば以降,そのようなオーストラリアの水利改革に関して紹介的な資料や政策担当者による水利政策の方向性に関する文献が蓄積されつつある.しかしながら,それらは,理論的な検討やアピール性が強い性格であるものが多いために,客観的な分析や実態における問題点が十分に明らかにされているとはいえない.そこで,本研究では,オーストラリアにおける水利改革を巡って,農業水利の観点から,同国の水利改革の実態と問題点を明らかにすることを特徴としている.

論文構成については,次の通りである.まず,第2章「農業水利の基本的性格」で,オーストラリア,アメリカ,日本の農業水利を比較し,オーストラリアの農業水利の基本的性格を明らかにすることによって,論文における後の論理展開に必要な前段的作業を行っている.第3章「水利改革と農業水利制度の基本構造」では,オーストラリアにおける水利改革の展開を整理することによって水利改革の目的と方向性を明らかにし,また,NSW州の農業水利制度として,農業用水管理機構,水利権について詳細に検討している.続いて,第4章「灌漑組織の現状と経営問題」では,全国の灌漑組織の現状に関する統計分析によって,灌漑組織の全体的動向と経営問題の所在を明らかにした上で,代表的な灌漑組織を取り上げ,実態分析を行っている.さらに,第5章「灌漑用水市場化の現状と課題」では,市場による水利取引が顕著に見られるNSW州を例として,灌漑用水市場化の現状と課題を明らかにしている.最後に第6章「水利改革をめぐる課題」では,農業水利および農業水利制度の構造の分析を通して,オーストラリアで進む水利改革の現状と課題を導いている.

本論文の主要な章における要旨は以下の通りである.

第2章「農業水利の基本的性格」:農地と水管理については,アメリカ(カリフォルニア州)やNSW州と日本とでは,大きく異なっていることは明白である.それは,農地と水利施設の結合形態の違いが決定的に影響して,日本では水利用方式が集団的共同利用であるがゆえに経営単位での水管理が難しい状況にあるのに対して,カリフォルニアでは個別的水利用方式のもとで大圃場単位の水管理が確立し,また,NSW州では個別的水利用方式のもと経営単位での水管理が確立しているとみられる.水利権の性質については,三国間でそれぞれ異なるようである.日本では水利権は農地の権利に付随していると見るのが普通である.カリフォリニアでは水利権の種類によって,農地権利とは無関係な水利権もあれば農地の権利に付随している水利権もある.それらに対してNSW州では,水利権と農地はほとんど完全に分離しているとみてよい.それは,水利取引を本格的に推進するために必要な制度的条件として,水資源管理当局がそのような制度改正を進めてきたことが大きな理由である.また,農業用水の料金体系原則についても,三国間でそれぞれ異なる.日本では面積割りが原則である一方で,カリフォルニアでは作物別に差別化されてはいるがやはり面積割りが原則である.これらに対して,NSW州では,水量割りを基本とする農業用水料金体系が支配的であり,日本やカリフォルニアとは大きく異なる.こうした料金体系の違いは,水料金収入に依存する灌漑組織の財務構造の安定性に影響を与える可能性がある.

灌漑組織の種類については,三国間でそれぞれ異なる事情が見られる.灌漑組織が依拠する制度が影響して,その形態や性格に違いをもたらしているようである.形態上は,日本とカリフォルニアの灌漑組織は公共的組織である一方で,NSW州では主に会社組織である.ただし,灌漑組織の所有形態や管理の構造をみると,いずれの国の灌漑組織も水利用者をめぐる公共的な性格を帯びたものであるといえよう.灌漑組織と水利用者との関係についても,今触れた灌漑組織の種類とも関連しながら,三国間でそれぞれ異なる事情が見られる.日本では,土地改良区と水利組織という重層的組織体系のもとで,灌漑組織と水利用者との関係は,水利組織と構成員という関係もあり,また同時に地縁的関係もあるというように,複雑である.それに対して,カリフォルニアやNSW州では,日本のような灌漑組織の重層的組織体系は見られないので灌漑組織と水利用者との関係は比較的単純である.灌漑組織の種類を反映して,カリフォルニアでは水利組織と構成員という関係,またNSW州では,農業用水供給会社と顧客という関係にある.ただし,NSW州では灌漑組織の所有や管理をめぐって,灌漑組織と水利用者との間にはいくつかの関係があるように思われる.

第3章「水利改革と農業水利制度の基本構造」:水利改革の具体的な進展は,1994年のオーストラリア政府評議会(COAG)による水利政策協定(Water Policy Agreement)の締結以降に見られる.同協定が立脚する基本認識には2つがある.1つは水利に起因する環境問題への対応,もう1つは経済面,環境面,社会面からの水利改革の推進である.そして同協定では,次に掲げる事項を軸として効率的で持続的な水利事業のあり方へと誘導する戦略を立案・実行することが決定された.すなわち,水のプライシングの検討,水配分・水利権制度の見直し,水利取引の検討,水利関連組織の改革,諮問組織・啓蒙普及プログラムの検討,環境への配慮などである.これらの検討軸の対象範囲は都市,農村に加え,これまで水利の直接的な対象とはされてこなかった(自然)環境にも及ぶが,水利の大宗を占める農業部門が中心的な領域となっている.

今日のNSW州における灌漑用水の管理機構の全体像を模式的に表現すると,管理機構はいくつかの主体で構成されており,それらが階層的な配置を見せている.階層はおよそ三重ないしは四重となっている.そうした灌漑用水の階層的管理機構において,集水域レベルでは共有資源,州政府レベルでは州資源,集団レベルでは共有資源,個別レベルでは私的資源として,制度階層レベルによって,水管理主体と財の性質を変えながら,水が配分されている.州政府レベルで州資源となっている水については,水利権制度に基づきながら高度に管理されている.水利権の種類は多種多様であるが,主に「沿岸水利権」,「個別水利権」,「集団的水利権」という3つのカテゴリーに分類され,それぞれに特徴点を有している.

第4章「灌漑組織の現状と経営問題」:,灌漑組織の経営問題の領域として,4つの領域,すなわち,灌漑システム運営,環境マネジメント,財務管理,顧客管理を設定した上で,各領域の経営問題を明らかにしている.環境マネジメントでは,土地資源・水資源の持続的な管理における灌漑組織の役割,取水と配水の把握,正確な水収支と配水効率の水準,排水と塩類排出の管理,節水技術ないし関連環境問題に対する投資活動について,経営上の問題が発生しているとみられる.財務管理では,持続性の確保に向けた財務管理計画,資金調達のあり方,運営費用・維持管理費用・更新費用といった目的別費用構造について,経営上の問題が発生しているとみられる.また,顧客管理としては,経営管理における顧客の関与,納得できるサービス水準の提供,顧客満足および苦情処理,史跡・自然遺産の保全における灌漑組織の役割,レクリエーション的施設の提供などが,経営上の重要な課題であることが浮き彫りとなっている.

また,オーストラリア最大の民営化された灌漑組織であるマレー灌漑会社での事例分析を通して,以上で触れた灌漑組織の経営問題の典型的な実態を詳細に明らかにしている.

第5章「灌漑用水市場化の現状と課題」:NSW州を中心として,灌漑用水市場化の現状と課題を明らかにしようとする試みである.課題に向けて,実態の観察を通して知見を得ていくアプローチをとっている.用水市場化の背景を検討した結果,政策的要因,自然的要因,制度的要因があることが明らかとなっている.分析対象地域としたマレー地域などの観察を通して,灌漑用水取引を巡る市場構造について検討したところ,水融通の特徴や水利権売買の停滞性など用水市場の特性が明らかにされる.また,用水市場の成立条件,水利権資産リスクの増大要因,用水市場化政策との整合性についても考察を加え,用水市場化を巡る新たな論点を提示している.

第6章「水利改革をめぐる課題」:第3章,第4章,第5章を通して,オーストラリアにおける水利改革をめぐる課題を明らかにする.特に,水利権制度を中心とした水資源配分システムから市場メカニズム基づく水資源配分制度の転換には,多大な社会的費用が生じていることが大きな課題となっている.また,用水市場そのものについても,水資源配分システムとして最も適切であるか疑問が残るところである.

審査要旨 要旨を表示する

近年、水資源をめぐる国際的取り組みや議論が高まっているが、これは世界の各地で過剰開発や資源の偏在、環境への影響が顕在化し、水資源の稀少性や適正配分に対する関心が高まっていることによる。半乾燥地帯に属するオーストラリアでも、1990年代以降、政府評議会による水利政策協定をきっかけとして、水利改革(Water Reform)が積極的に推進されている。その背景には、農業水利開発に伴って発生する土壌塩類化や水質悪化などに対応する環境政策的な課題ととともに、公営事業の経済合理化を目的とした一連の競争政策を推し進める経済政策的な課題への対応がある。本論文は、世界の中でも農業用水の水量に基づく価格形成や市場化が進んでいるオーストラリアにおける最近の動向を踏まえ、現地での綿密な実証研究を通じて、水資源の適正配分と費用負担、市場メカニズムの在り方について解明したものである。

まず第1章では、これまでの既存研究のレビューを行うとともに、オーストラリアで進められている水利改革の現状を概観し、その中から水利改革が推進しようとする灌漑組織の法人化・民営化の程度と経営問題、水の費用負担および水料金体系の適正な在り方、水資源の再配分システムとして期待が高まっている水の市場化の進展とその効果、などに焦点をあてた分析の枠組みが提示されている。

第2章では、本研究の中心的対象地域であるニュー・サウス・ウェールズ(NSW)州の農業水利の特質を、カリフォリニア州(アメリカ)や日本のそれと比較しながら検討し、その中で、公共団体から法人へと農業水利組織の民営化の動きが見られること、水資源開発の限界と節水・再配分の必要性が高まる中で水量に基づく価格設定が行われていること、そして従来の水配分システムに加えて市場メカニズムを使った水再配分の取り組みが活発化していることなどを明らかにしている。

第3章では、NSW州における農業水利制度の歴史と全体構造について明らかにするとともに、同州では柔軟性・排他性・強固性・移転性・分割性・継続性など権利属性の違いによって、水利権が「沿岸水利権」、「個別水利権」、「集団的水利権」という3つのカテゴリーに大きく分類されていること、また「個別水利権」と「集団的水利権」は水の供給量が豊水年、渇水年などの気象変動に応じた変動的な比率配分となっていることから、「安定水利権」という他の国には見られない優先度の高い水利権が別に設定され、需要に応じた水配分の努力がなされていることを明らかにしている。

第4章では、水利組織再編の課題ならびに費用負担・料金体系について、NSW州で展開する代表的な灌漑組織の現状分析に基づく解明が行われている。その中で、灌漑組織が法人化・民営化されることによって、灌漑用水利用者を主体とする自律的な組織への転換が行われるが、その一方で、灌漑事業の収支をみると、むしろ収益変動が激しくなっており、経営が気象変動に基づく水文的変化と水料金体系に大きく依存する構造となっている点を指摘している。水料金体系の基本料(固定)部分を大きくすると、収支は改善されて経営は安定するが、それは用水利用者の負担を増大させる結果となる。民営化は灌漑組織の経営安定と用水利用者の負担という二つのベクトルのせめぎ合いという問題を顕在化させることになり、両者のバランスをとった水料金体系の見直しが必要条件となる。

第5章では、用水市場化の背景や制度などを概観した上で、活発に行われている用水取引の実態分析を通じて、IT技術を活用した用水取引所が市場として機能している点を評価している。しかし、「安定水利権」を有する園芸経営が売り手で、「普通水利権」を有する稲作経営や混合経営などが買い手であるという一方向的な水売買の状況がみられ、しかも豊水年には水料金をベースとした価格形成が行われているものの、渇水年には限界収益をも超えるような価格形成がなされている点など、適正な価格から乖離した取引価格の形成や水利権売買の停滞も見られる点などを明らかにしている。効率的な用水取引市場の成立のためには、需要と供給のミスマッチの是正や、その制度的基礎としての水利権と土地の権利とのさらなる分離が図られることが重要であると提起している。

以上、本論文は、世界でも農業用水の量水制や市場化が進んでいるオーストラリアの農業水利制度と水利改革の実証研究を通じて、今や稀少で天候に左右される財としての水の市場化と価格形成をめぐる固有の性格と課題について解明したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42872