学位論文要旨



No 216356
著者(漢字) 湯浅,正彦
著者(英字)
著者(カナ) ユアサ,マサヒコ
標題(和) カントの超越論的自我論 : 超越論的哲学の基礎に関する一考察
標題(洋)
報告番号 216356
報告番号 乙16356
学位授与日 2005.10.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16356号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 助教授 榊原,哲也
 九州大学 教授 円谷,裕二
 上智大学 教授 大橋,容一郎
内容要旨 要旨を表示する

カントは、1781年に『純粋理性批判』を公刊し、彼の「超越論的哲学」を世に問うた。その超越論的哲学の主要テーゼが「超越論的観念論」であり、それを根拠づけ正当化する議論が「超越論的演繹」である。本論文で著者が試みたのは、超越論的観念論のテーゼの内実がいかなるものであり、演繹論がいかなる根本特徴をもっているかをカントの当該の諸テクストから探り出すことであった。その作業を遂行するうちで著者は、カントの超越論的哲学にとって基礎の役割をはたすものとして或る種の自我論を看取するにいたり、これを「超越論的自我論」と呼ぶことにした。それは終章において、超越論的哲学の営みのうちで達成される自己認識として解明される。

本論文の第一章では、「超越論的弁証論」のうちの「純粋理性のアンチノミー」章の第六節の論述を考察して、超越論的観念論のテーゼの含意を展開した。その含意の内実として、世界における物の「現実存在」とは、とりわけ「可能な知覚」を構想する「自我」の「表象」の活動によって意味的に構成されたものであるという主張があることを明らかにした。またそうした意味的構成の活動の主体としての「自我」とは、四次元の時間空間的枠組みを具える「可能な経験の全体」という領野のうちを、縦横無尽かつ自由自在に進み行く者であることを明らかにした。

「超越論的弁証論」のうちの「純粋理性のイデアール」章には、「存在に関するカントのテーゼ」と言われるものが登場する。第二章においてはこのテーゼについて考察し、それが超越論的観念論のテーゼと一致することを示した。そのためには、神の存在証明というきわめて厄介な論題に対するカントの取り組みを考察する必要があった。その成果として、超越論的観念論とは、「カテゴリー」の「純粋思考」によって諸物に「経験の対象」というあり方を得させ「総体的な経験」の領野を創始する、われわれ人間の根源的な「定立」の活動を指示すること、またこうした根源的な「定立」こそは、われわれがその都度真なる存在認識を遂行しうることを原理的かつ一般的に保証してくれることが明らかとなった。

カントはバークリやデカルトに帰される「観念論」の論駁を執拗に企てたことが知られている。第三章においては、まず「バークリの観念論」の論駁を考察した。それによって、「バークリの観念論」を論駁するカントの論述がその意図を達成しそこなっている所以を明らかにしつつ、その意図を実現しうるような論述をカントのテクストから探り出した。それは、超越論的観念論における「現象」ならびに「表象」の概念が(さらにはあの「物自体そのもの」の概念が)精確に言ってどのような内実のものであるかを、第二章での議論の延長上で示すことであった。それをつうじて、超越論的観念論の根本的な志向が、「一つの可能な経験」という領野を対象的な「存在」と「真理」が開示される唯一の場として確保することであるということが明らかになった。

第四章においては、『批判』第二版の「観念論論駁」の叙述を徹底的に考察することによって、「観念論論駁」の議論の根底には超越論的観念論の見解がやはり存続していることを示した。その際とくに、「意識」というカントの用語には、対象を主題として定立して規定するような知り方を意味するほかに、非主題的で非定立的な、すなわち非対象的な知り方を意味する用法があることを明らかにした。

かくして超越論的観念論のテーゼとは、「われわれに可能な経験の対象」としての諸物が、われわれ「自我」の根源的な「表象」の活動によってその基本的なあり方を定められて「現象する」ことにおいてのみ「存在する」――しかも超越論的観念論は「経験的実在論」と相即一致するがゆえに、それ「自体そのもの」という仕方で「存在する」――という、「存在」と「自我」とのまさに根源的な連関を指示するものであることが、第I部の四つの章によって示された。

演繹論には『批判』の二つの版のそれぞれに異なるテクストが見出されるが、第II部冒頭の第五章においては、『批判』第二版の演繹論を取り上げた。そこでは、経験一般とその対象とはいかなるものであり、またそれらが「自我(わたし)」といかなるかかわりにあるか、さらにそもそも「自我」とはいかなるものか、に関して根本的な洞察を獲得することが、<経験一般とその対象および「自我」と、カテゴリーとの連関>を解明することと一体となって進行していると思われる。そこで著者は、そうした連関におけるカテゴリーの具体的なあり方としての「超越論的な総合」にかかわるテクストのいくつかの箇所を取り上げて集中的かつ徹底的に考察した。

それによって、カントの根本洞察である以下のような諸点を見極めることができた。すなわち、第一に、「総合」とは意味的な統一体を形成し看取する理解の働きであること、「経験の対象」とはこうして形成された意味的な統一体にほかならないこと。――第二に、「超越論的な総合」において「悟性」が「内的感官」を規定するという事態が何を意味するかということ。すなわち、時間のアプリオリな構造の形成であり、継起や同時に対応するその構造的な諸規定を形成して、それによって客観的な時間規定が可能なものとしての「一つの対象」を形成するということである。――第三に、<自己触発>と言われる事態の内実。すなわち、<自己触発>と表現される事態には二つあり、一つは、自己直観に際して「われわれが自己を、われわれが内的に触発されるとおりにしか直観しない」という幾分パラドクシカルに思われる事態、いま一つは、同じ「主観」に具わる「悟性」によって「内的感官」が規定されるという意味で「内的感官」が「触発される」ことである。それぞれの内実を確定しつつ両者の連関を明らかにする作業の成果として、「自我」が三つの側面の動的かつ構造的な連関において存立することが明らかになった。すなわち、「超越論的な総合」において、「自我」は「自己意識」の主観として自己を産出し、さらに「経験的認識」ないしは「経験」の「受動的な主観」として自己を定立するのであり、しかもまさにそれによって、自己をも「経験の対象」として形成するということである。

以上に続けて著者は、「超越論的な総合」が「空間を描くこと」という「主観の働きとしての運動」として具体化されることを考察し、意味的統一体を形成する働きとしての「超越論的な総合」という論点がそこに一貫しているのを示したが、そのうちで、第I部で解明した超越論的観念論のテーゼの根拠づけが成就されていることを見届けた。可能な無限の多様を孕むことによって、個々の主観によるその都度の現実の知覚や経験からは独立に、それ「自体そのもの」として存在する「経験の対象」としての物は、そうした無限の多様を律する規則性を理解するというわれわれ「主観」の根源的な「表象する」働き――すなわち、「超越論的な総合」の活動――によって限定されることによってのみ、まさにそれ「自体そのもの」で存在する物として「現象する」のであり、その意味で「現象」、すなわち「表象」であるというのが、その要点である。

第六章では、超越論的自我論を一層立ち入って、その基底へといたるまで究明するべく、第二版演繹論における「統覚」に関する論述を集中的かつ徹底的に考察した。それによって「経験的な統覚」と「純粋な統覚」との動的な連関から成る「自我」の全体的な機構が明らかになったが、その文脈であの<自己触発>の問題をもう一度取り上げた。その際の新たな論点として、「純粋な統覚」という「自発性」の核心に、われわれのそれぞれ、すなわち自我(わたし)を個体として存立させ、それによって個体として自己を限定しようとする、それ自身はもはや根拠を見抜くことができず理解を絶した盲目の欲望があるという見解に達したのであり、それを著者は「妄執」と呼ぶことにした。

第II部の残りの二つの章において著者は、演繹論の根本洞察に適合した仕方で演繹論を具体的に構築する方途を、D.ヘンリッヒが『同一性と客観性』において展開した演繹論解釈のうちに探り、それを手がかりにして演繹論を構成する二大問題系、すなわち「客観性」と「自己意識」を考察した。その結果、演繹論を構築するための礎石となるべき論点として、「実体」としての「客観」と「所与」としての「感覚表象」とは次元を異にし、しかも前者の「客観」の次元こそは一次的であること、主観が自己の諸思想からなる体系において移行するに際して自己の「同一性」を保持できるようにする諸規則として諸カテゴリーが把握されるべきこと、などが明らかとなった。

終章の課題は、超越論的自我論が超越論的哲学の基礎としての地位を占めることを示すことである。そこでは、超越論的哲学の営みとは、「自我」=「自己」の根源的なあり方を哲学的に認識すること、すなわち超越論的な自己認識であること、その遂行において生じる自覚のうちで、超越論的自我論の基礎としての地位も保証されていくことが、伝統的な形而上学の一部門たる「合理的心理学」とのカントの対決を考察することによって示される。すなわち、超越論的自我論が基礎であるとは、それが、「超越論的」な仕方で「哲学する」という活動を現実に遂行することのうちでのみはじめて生じる自覚であって、しかもその活動、探究そのものを可能にする基本的な概念としての「統覚」や「自己意識」を与えるということである。根源的な活動とは、それそのものを可能にする条件となるものを生じさせつつ、それと一体であるようなものなのである。われわれ「自我」とは、根底においてこうした根源的な活動なのであって、超越論的哲学の営みとはその自覚的な遂行にほかならないのである。

審査要旨 要旨を表示する

『カントの超越論的自我論−−超越論的哲学の基礎に関する一考察−−』と題された湯浅正彦氏の博士号申請論文は、カントの第一の主著『純粋理性批判』を正面から取り上げ、カントの提起した超越論的哲学の成立基盤を精査し、それを、錯綜して展開されるカントの自我論にあることを、徹底して追求し、明らかにするものである。

第一部(「超越論的観念論との連関において」)、第一章においては、「自我」つまり「私」なるものは、有意味に構成された世界であれば、どんなに隔たった時間であれ、空間であれ、それを自在に行き来することのできる特異な存在であるということ、換言すれば、意味的な世界の統一(「すべての現象の総合的な統一」)と「自我(私)」の統一(「統覚の必然的な統一」)とは、同一の事柄の両側面であることが、導入的に論じられる。第二章では、現代述語論理を先取りするとされるカントの存在概念が、伝統的な神との関係を断ち切って、人間、とりわけ「統覚(自我)」との関連におかれるということが、明らかにされる。そして、第三章においては、バークリの「観念論」が、また、第四章では、デカルトの「観念論」が取り上げられ、これらに対して、カント自身が展開した論駁論が明確な形で再提示される。これらの議論の核心は、「自我(私)」の存在は、「自我(私)の外の物」の存在を前提する、ということである。

第二部(「超越論的演繹との関連において」)の冒頭、第五章においては、「自我(私)」の自己同一性の内実が精査され、その際、目下のカント解釈上の重要課題である「自己触発」の問題が、「想起」という観点から解明される。また、第六章において、その都度成立する経験的な「自我(私)」を一貫して貫く同一的な「自我(私)」−−「純粋統覚」−−の存在が、際だったものとして切り出される。さらに、第七章、第八章においては、D.ヘンリッヒの諸議論が取り上げられ、「純粋統覚」の存在の根源性が確認され、また、その「単純性」と「同一性」という二つの根本的なあり方が区別されて、多様な諸存在との関連性が明確にされる。そして、終章において、これまでの議論をふまえつつ、第一章で準備的に提示された「自我(私)」の統一と世界の統一との一体性の議論へと立ち返り、しかも、この一体である両統一の根底には、「純粋統覚」としての「自我(私)」が存すると結論づけられる。

以上の論議は、徹底してカント哲学に即し、これに内在的に展開されており、専門性が高く、充実したものである反面、ときに、カントの表現や論述に取り込まれ、晦渋になる面がなくはない。しかし、本論文は、いわゆる超越論的哲学の基盤とされる「自我」をめぐり、重要文献を渉猟しつつ、カントに基づいて徹底した精査を行っており、その点で、カント研究および自我研究という観点から、高く評価しうる。

よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判定する次第である。

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