学位論文要旨



No 216357
著者(漢字) 上山,和雄
著者(英字)
著者(カナ) ウエヤマ,カズオ
標題(和) 北米における総合商社の活動 : 1896〜1941年の三井物産
標題(洋)
報告番号 216357
報告番号 乙16357
学位授与日 2005.10.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16357号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 鈴木,淳
 東京大学 助教授 野島,陽子
 東京大学 助教授 粕谷,誠
 東京大学 教授 橘川,武郎
 横浜市歴史博物館 館長 高村,直助
内容要旨 要旨を表示する

三井物産は、日本企業の中で最も多くの研究が行われてきた企業のひとつであり、それを踏まえた総合商社史研究も多くの成果を生み、世界の中で比較的特異な業態である総合商社が、後発国日本の経済発展を牽引する大きな役割を果たしたことを明らかにしてきた。しかし総合商社が世界各地域でどのような活動を展開してきたのかを正面から取り上げ、具体的な歴史的イメージを提示した研究は少ない。その原因は、加工が重ねられた資料により、三井物産・総合商社研究をなさねばならなかったところに求められる。

本論文はこうした限界を克服するものとして、米国国立公文書館所蔵の日系企業押収文書に着目し、三井物産在米支店の資料により、ニューヨーク支店が再置されてから閉鎖されるまで(1896〜1941年)の三井物産在米支店の活動を具体的に検討しようとするものである。

同資料の検討により、第1に、物産と同業他社が太平洋をはさんだ両岸においてどのような活動を展開したのか、第2に在米店・関係店の組織や仕組み、営業方法や関連業務などを明らかにすることにより、総合商社の具体像を提示することを直接的な課題としつつ、さらに第3には、20世紀前半の太平洋両岸の開発と発展がどのように進んでいったのかを明らかにする。

本論文の構成は以下の通りである。三井物産が政商・輸入商社的な色彩を克服する日清戦争後から第一次世界大戦開戦までの、各店舗の特色と開設された在米店がどのような活動を展開したか(第1章)、大きなビジネスチャンスをもたらした第一次大戦に際して、在米各店がどのように対応したかを検討した後(第2章)、1920年代、30年代の物産本社の経営方針、全体の動向を明らかにした(第3章)。続いて戦間期サンフランシスコ店の取扱高・損益・組織・金融のあり方(第4章)、シアトル店の損益・金融などの店舗経営と主要取扱品である米材・小麦・小麦粉の取扱い(第5章)、ニューヨーク店の動向と資金繰り、主要商品である機械・金物、中南米市場への進出を検討した(第6章)。

第1から3章までは在米店の分析を主にしながら時代順に物産全体の動向を検討し、第4章から6章までは、残存資料の制約のために対象・方法は異なるが、戦間期物産在米店の主要店舗である桑港・沙都・紐育の実態・活動を具体的に明らかにした。

第7章から13章までは商品・商品群や付帯業務、特色ある営業・地域を取り上げている。第7章では物産を総合商社たらしめた重要な営業形態である外国売買とその主要商品であるゴム・錫・麻類の仕入と販売、第8章は外国売買も広範に行われた植物性油脂・種実の仕入と販売、第9章では日本からの輸出品である缶詰の仕入と販売、第10章では世界恐慌後、生糸に代わる重要輸出品となった綿製品について、第11章では桑港店が交渉担当者となった石油輸入について、第12章では新市場であるメキシコへの進出をどのように実現したのか、第13章では最大の付帯業務である船舶業務と各支店の関係を明らかにした。終章では日中戦争開始から日米開戦まで、日米関係が険悪化する中で、在米店がどのような活動を展開したかを明らかにした。

14章に亙り、在米店の活動を詳細に明らかにした。三井物産が太平洋の両岸において展開した活動の中心は、第1に日本と南北米間の貿易、第2に中国・インド・南洋特産物の米国・世界市場への投入と米国産品のそれら地域への投入という外国間貿易である。これらは時期によって取扱う商品も方法も大きく異なり、それに応じて取扱店の営業内容が変わり、そのために物産内部における各店舗の位置付けも変化した。

日露戦後までの時期、物産の営業は比較的単純であった。日本から米国にむけ硫黄や北海道材なども輸出したが、大部分は生糸であり、米国からは機械・綿花・米材・小麦・小麦粉などを輸入した。米国とアジア・豪州との間では石炭・油脂・錫、米材・小麦・小麦粉など両地域特産物の交易が行われていた。在米店は日露戦後に、この外国貿易への進出を開始する。

第一次大戦の勃発により、アジアから欧州系商社が撤退し、米大陸・欧州へのアジア産品の輸送ルートとしての太平洋の地位が高まった。日清戦後からアジア・北米に支店網を築き、輸送・交易を行っていた物産に大きなチャンスが訪れ、各店は一挙に事業を拡大した。しかし在米店は大戦末期に大きな損失を蒙り、営業を縮小する。そのため、1920年恐慌の打撃は比較的軽微であった。

在米店の営業は20年代中期以降回復していく。日米貿易では機械・金物の輸入が減少する一方石油輸入が増加し、輸出では生糸の地位が一層高まった。アジアからはゴム・麻・錫・油脂が、北米からは米材・小麦・綿花に加え、機械・金属などの工業製品がアジア向けに輸出された。

アジア産品によって米国・日本の工業が発展し、その輸出によってアジア地域の開発が進み、開発がアジアの消費需要の増大をもたらし、北米・豪州の小麦増産を誘引するという状況が生まれたのである。物産は太平洋岸の要地に支店を設け、外国商社・邦商と競合しつつこの交易を担い、促進していった。

この動きを一時的に止め、方向を転換させたのは世界恐慌であった。生糸輸出の激減に対し、全体としては新市場への新商品の輸出によって対応し、日米貿易についても繊維製品・缶詰輸出の増加を図った。物産紐育店は南洋・中国特産物の社外販売によって仕入と販売の均衡を保っていく。日中戦争が長期化していくと、在米商社は採算を度外視しつつ外貨を調達し、軍需物資と戦争経済建設のための資材輸入に全力を注ぐことを求められ、それに応じていった。

在米店は、アジア・日本と米国の開発と工業化の進展に応じて自らを変えていった。開発と工業化は取扱品目だけでなく、輸送・金融手段の革新や支店立地の変化も伴った。言うまでもなくこうした革新・変化は、物産の「反対商」によっても同様に担われたのであり、このような活動が開発と工業化、世界経済の変貌をもたらしたのである。

在米店の支店経営についても具体的に明らかにした。物産の海外店は輸出・輸入・外国間、仕入れ・社外販売の組み合わせによっていくつかのパターンに分類される。貿易商社は単一支店のみで仕入れ・販売が完結することはなく、加えて物産は支店独立採算の度合が強かったため、取扱いに関する支店間の取決めが不可欠であった。商品ごとに経費負担・利益配分を詳細に定め、また他店のモチベーションを引出す仕組みも不可欠であった。

独立採算制のもとでは、取扱高と利益の多寡が、支店長や担当者の評価に直結することは言うまでもない。支店は新規事業開拓のため、あるいはリスクに備えるために多額の簿外リザーブを蓄積した。各店は、仕入店・販売店という特色は持つが、支店経営の安定のために仕入と販売をある程度均衡させることが必要であった。店舗設置に際しては特定の業務を主に担当することが期待されるが、次第に多様な業務に進出していく。取扱商品の多角化は人材のフル稼働だけからでなく、支店経営の安定のためにも必要だったのである。

在米店は米国から多様な商品を仕入れて日本・アジアに輸出した。輸出品の販売をめぐっては、綿花などの例外的な商品を除くと、邦商だけでなく米国系商社・華商と激しい競争を展開していた。販売店からは反対商の動向が常に報じられ、仕入れ店である在米店は販売店の求める価格・品質を確保することに努め、反対商と対抗しつつ地盤を確保していった。

在米店が販売したのは日本産品と外国貿易品であった。日本からの輸出品は第一次大戦前まで生糸以外に木材・硫黄・石炭などの原料品もあったが、大戦後は食料品・雑貨・綿製品など、半製品・最終消費品が増加する。生糸は物産が輸入商・ディーラーを兼ね、社員・セールスマンが実需筋に販売し、米国市場において最有力の商社であった。

缶詰に見たように、消費者に近い商品の販売は難しかった。ブランド名を浸透させ、卸商・チェーンストア・デパートへの売込みを主とするが、社員が販売ルートを開拓することは難しく、ブローカー・セールスマンに頼らざるを得なかった。

外国貿易品の米国への売込みも困難な仕事であった。多くの場合、既に形成されている市場に外国商社としてのハンディを背負って参入するのである。ディーラー向け販売から、次第に実需筋へと販路を拡大するが、その場合もセールスマン・ブローカーを活用せねばならなかった。

以上、物産が太平洋両岸において、どのような組織と仕組みにより、どのような活動を展開してきたのかを明らかにした。従来の物産研究は、(1)順調な、予定調和的な発展として描き、(2)支店の分析を等閑視してきたことを指摘したが、本論文を通じて、そうした従来の欠陥を克服する実証分析を提示した。加えて、物産を先頭とする内外商社の活動が太平洋両岸のダイナミックな開発と工業化をもたらしたことを指摘し、その両地域の変貌、すなわち地域の経済や政治・社会の変貌に対応して物産各店は自らの業容を変えていったことを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、主に第一次、第二次両世界大戦間期の北米における三井物産の活動を、アメリカ合衆国国立公文書館が所蔵する三井物産在米支店からの押収文書を用いて明らかにしたA5判560頁の大著である。

序章では総合商社史の研究を概観し、従来の、三井物産の発展を前提としてその由来を探る予定調和的な研究や、取扱商品に即した研究では三井物産の全体像が見えにくいことを指摘する。そして、三井物産が太平洋をはさんだ日本・アジアと南北米においてどのような商品を、いかなる組織によって、どのようにして集貨・輸送・販売したのかを在米支店の活動を中心として具体的に明らかにすることを課題として設定する。第1、2章では1896年のニューヨーク支店再開から第一次大戦期までの活動、第3章で戦間期三井物産全体の営業政策を概観した後、3つの支店・出張所、外国間貿易、4つの主要貿易商品、メキシコ市場、海運、について章が立てられ、終章では戦前期における日米貿易の終焉が扱われる。

本論文の最大の特色は、日米開戦による接収という偶発的な要因で合衆国政府によって保存されてきた日系企業史料のうちでも最大の、2千ボックスにおよぶ史料群を精査し、海外支店の一次史料であるというその性格を生かした形で歴史叙述を行ったことにある。この史料を用いた先行研究は三井物産の機械取引や海運などに問題を絞って、史料を部分的に活用したものにとどまる。依拠した史料のうち最も基本的な部分は申請者が1997年に編集した『横浜市史II 資料編6』として翻刻刊行されているが、本書はそれ以外の部分も広く活用し、各商品については、取扱商品となった背景や他の業者も含めた取り扱いの変化も当該史料群にとらわれない広範な調査によって書き込まれている。これにより、めまぐるしく変化する天然資源の存在状況、為替、不買運動を含めた市場などの条件を背景に、常に新たな取扱商品や市場を開拓し、活動の重点を変えながら営業を続けた三井物産在米支店・出張所のありようや、それを支える社内・社外の勘定制度や海運の意味が生き生きと描き出され、申請者が課題とした史実の具体的描写の意図はよく果たされている。

一方で、この研究により、先行研究ないし社史で提示されて来たこの時期の三井物産のありようをどのように修正し、さらには総合商社の成り立ちや活動についてどのような議論を提示するのかは明示されていない。しかし、申請者は序章で「「総合商社論」を正面から論じようとするものではない」としており、意識的に発見の性急な意義付けを回避することで、具体的事実の描写と、その範囲内での事実相互の因果関係の提示の正確さを得ようとしており、これは実証史学の学問的伝統からして許容されるべき選択であろう。

上記のような成果に鑑み、本委員会としては本論文が博士(文学)の学位に十分相当するものと判断した。

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