学位論文要旨



No 216361
著者(漢字) 植田,浩史
著者(英字)
著者(カナ) ウエダ,ヒロフミ
標題(和) 戦時期日本の下請工業
標題(洋)
報告番号 216361
報告番号 乙16361
学位授与日 2005.10.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第16361号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 橘川,武郎
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 助教授 中村,尚史
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、戦前における機械金属工業生産が極致に達した時期であり、多くの中小工業が政策的に下請・協力工場として動員された時期でもあった、1937年7月虚構橋事件(「日華事変」)以降の戦時経済体制における機械金属工業を中心にした下請・協力工業の実態を、発注側、受注側の動きと下請・協力工業の統制を進めた政策的対応の二つの側面から検討し、戦時期の下請工業の歴史的位置付けを明確にすることを課題としている。

本論文の構成は次のとおりである。第1章から第3章までは、1930年代の機械金属工業の展開とそのもとでの下請工業を分析した。第1章では昭和恐慌からの回復過程で重工業化と中小工業の増加がどのように進んだのか、その中での下請関係の実態を商工省『工業統計(工場統計表)』『機械器具外注状況調』等を使いながら描いた。さらに、虚構橋事件直後における民間大工場の下請関係についても検討した。第2章では、大阪市の中小工業や下請関係を取り上げ、重工業化と中小工業の増加がどういった形で進み、慮溝橋事件以降の条件変化がそうした中小工業に対してどのような影響を与えたのかを検討した。第3章では、日中戦争期以降の下請=協力工業政策の一つの源である地方統制工業、地方工業化について各地の地方工業化委員会や工業組合に関する資料を使いながら、政策と実態を考察した。

第4章、第5章では、虚構橋事件以降の戦時統制経済下で下請工業がどのように位置づけられ、下請=協力工業政策が形成され、展開していくのかを詳細に分析した。第4章では、虚構橋事件以降経済統制が強化される中で、中小工業統制、下請工業統制が展開し、戦時期の下請=協力工業政策の本格的な起点となる1940年12月の機械鉄鋼製品工業整備要綱へと発展していく過程を追う。第5章では、機械鉄鋼製品工業整備要綱でモデル化された戦時期の下請=協力工業整備が現実にはなかなか進展せず、修正され、柔軟化していく過程と、1943年以降の戦局悪化と航空機生産の重点化に対応して新たに「企業系列化」という名のもとに下請=協力工業整備が進められていく姿を描いた。戦時期には、下請・協力工業の再編成が何度か繰り返されたが、そのたびに結局再び錯綜した関係が繰り返され、より複雑化した関係が形成されていった問題を指摘している。

第6章から第8章は、実際の下請・協力関係や政策的に進められた下請=協力工業整備がどのように展開していったのかを、様々な史料を使いながら検討した。第6章では、大阪の下請=協力工業整備の実態を1942年、43年、45年の3時点の『協力工場名簿』を使い、短期間に何度も大きく変えられていた下請=協力工業整備の実態を明らかにした。第7章では、愛知県の『協力工場台帳』を使い、航空機メーカーを中心にした1次、2次までの関係や下請=協力工業整備が発注工場ごとにどのような影響を与えることになったのか、発注工場ごとの違いはどのようなものだったのかなどを具体的に分析した。第8章では、民間大工場の下請・協力関係の事例として、戦時中には協力工場の多い発注工場として知られていた東京芝浦電気(東芝)と住友通信工業(日本電気)を取り上げた。

補章では、今日下請・サプライヤシステムの代表的存在として取り上げられることの多い自動車産業を取り上げ、戦前から戦時にかけての動きを見た。ここでは、日本のような後発国では特に部品工業の形成と下請関係の形成に時間的ズレがあったこと、さらに日本の戦時経済では自動車産業や自動車メーカーの位置づけが弱く、自動車産業は航空機の部品産業化され、部品メーカーも航空機産業と結びつけられ、自動車生産の分業構造は戦時期には崩れていったことを示した。最後に終章では、以上の見解から明らかになったことをまとめるとともに、戦後に対する展望を叙述した。

以上本論文では、1930年代前半から戦時の終盤に至るまでの下請・協力工業を対象に検討を加えてきた。その結果、戦時期の下請・協力工業について以下の点が明らかになった。

第1に、1937年の虚溝橋事件以降、潜在的生産能力不足にあった日本にとって1930年代前半に拡大していた中小工業の生産能力を動員することは不可欠の課題であった。こうした中小工業を活用する方策として、軍需関連部門の下請工業化が考えられた。その前提の一つが、1934年から展開していた地方統制工業と1935年から商工省で進められた地方工業化であった。

しかしながら、第2に、1937年下請工業助成計画要綱に見られるような地方工業化で展開した下請工業政策と、1940年末から展開していく本格的な戦時下請=協力工業政策は、中小工業の軍需下請工業への動員やブローカー排除という点では連続していたが、中小工業が多数存在していた都市部を対象にしたこと、工業組合を通すのではなく直接発注側と下請(協力)工場との関係が問題にされたことなど大きく変化した面もあった。地方工業化下請工業政策は、統制工業という形で1940年代にも残るがその役割は限定的であった。

第3に、1940年12月の機械工業鉄鋼製品工業整備要綱以降の下請=協力工業政策は、械工業生産の効率化、高度化という課題を実現するために発注工場と下請工場との間に指定制度によって有機的関係を生じさせ、信頼関係に基づく固定的な関係、すなわち協力関係を形成させようとした点で、1930年代以来の下請問題の解決も図ろうとしたのであった。しかし、もともと統制対象が広範すぎたことに加え、混乱した軍需生産のもとで発注側も下請(協力)工場側も機会主義的な対応をとることが多く、政策も現実を容認する方向で修正が加えられた。戦時体制下で現実に要請される課題や個別工場の経営という面から見ても決して専属的安定的な関係が効果的とはいえなかったのである。

第4に、1943年7月戦力増強企業基本整備要綱以降、航空機産業中心の工業動員が展開し、下請・協力工業もそうした方向に動いていく(企業系列整備)。愛知県の事例にあるように、企業系列整備では重点化された航空機メーカーの企業系列にどれだけ協力工場を動員させていくのかが課題であった。もっとも中小工場数は限られているので、実際は協力工場化されていない工場の協力工場化や航空機分野以外の発注工場の協力工場を航空機メーカーの協力工場化していくことが進められた。しかし、強引ともいえる企業系列整備は逆に分業関係を錯綜させるなど、企業系列整備で想定されていたような分業関係を築いていたとは到底考えられない。戦時下請・協力工業は想定されていたモデルが実現することなく終わったのであり、戦時期に戦後の下請・サプライヤシステムの原型を求めるのは無理がある。

第5に、こうした戦時期の下請・協力工業のプランには1930年代半ばに展開した藤田・小宮山論争など日本の中小工業をめぐる研究が大きく影響していた。日本の中小工業の後進性という点を問題にしていたこの時期の研究から、戦時期の下請・協力工業のプランには当然日本の中小工業の近代化(現代化)という要素が含まれていた。中小工業の近代化は、小宮山が主張したような下請工業化(=協力工業化)によって達成されると考えられており、機械鉄鋼製品工業整備要綱に規定された下請関係は近代的な発注工場と下請工場の関係のモデルであった。総力戦体制下で日本中小工業の「二重の隔絶性」が克服されると小宮山は考えており、総力戦と近代化の関係を非常に強く意識していた。しかし、結果は意図していたような変化を生み出すことはできなかった。

第6に、戦時期下請・協力工業の展開は関連する分野の中小工業を軍需部門に強制的に動員しようとしたものであり、それは1930年代前半に展開された民需中心の延長線上にあった発展の可能性を抑制した側面を持っていた。戦後復興期における中小企業の展開は、戦時期との連続性よりも、1930年代前半の民需関連部門での展開との連続で捉えるべきであると考える。

第7に、それでは戦後との関係をどのように捉えるべきなのかという点である。実際の企業間関係においては、戦時期に取引関係や資本関係が形成された事例はあるものの、多くは戦後軍需生産の停止によって下請関係から離脱した。また、高度成長期以降展開する下請・サプライヤシステムに包摂された下請企業やサプライヤの多くは戦後に取引関係を開始したものである。戦時に形成された関係を過大評価することはできないし、戦後の下請・サプライヤシステムを特徴づけるのであれば、高度成長期以降の経済環境と発注側、受注側双方の経営から検討していかなければならない。

一方、機械鉄鋼製品工業整備要綱等でモデル化された下請・協力工業は、少なくとも政策レベルでは戦後にも引き継がれた。その典型的な事例が系列診断に使用された中小企業庁『機械器具工業系列診断要領』(1952年)である。但し、戦後の系列診断は、一概に戦後の下請・サプライヤシステムにとって有効であったとすることはできず、それが具体的に効果を発揮するのは高度成長期を待たなければならない。いずれにしても、戦時と戦後を直接結びつけることはできない。

以上に示してきたように、中小工場を大量に動員した戦時期下請・協力工業は、日本の中小工業発展の一つの道を閉ざし、強制的に軍需生産に動員することで中小工業の近代化を図ろうとしたプランに基づき作り上げられようとされたが、そのプランは実現することなく、戦時生産の崩壊とともに消滅していった。但し、1930年代前半に増大した中小工業の存在、またこうした大量の中小工業を支える仕組みは戦後においても持続し、1950年代から高度成長期にかけての時期に再び日本の機械工業の中軸と結びついていった。しかし、それは戦時期と異なる条件によるものであり、1980年代以降特徴づけられる日本的な下請・サプライヤシステムとは高度成長期以降の条件の中で形成されたものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1930年代から戦時経済体制期にかけて、日本の機械金属工業における下請・協力工業の展開を実証的に分析している。本書全体の構成は以下の通り。

序章 課題と問題意識

第1章 1930年代の機械工業の展開と下請工業

第2章 1930年代大都市の中小工業の展開と下請工業

−−大阪市の事例を中心に−−

第3章 地方統制工業・地方工業化と下請工業

第4章 下請=協力工業政策の形成(1940-41年)

−−下請工業の統制と機械鉄鋼製品工業整備要綱−−

第5章 下請=協力工業政策の展開と挫折(1941-45年)

−−「企業系列」整備−−

第6章 下請=協力工業整備の実態(1)

−−大阪・近畿地区『協力工場名簿』の分析−−

第7章 下請=協力工業整備の実態(2)

−−愛知県『協力工場台帳』の分析−−

第8章 民間大企業における下請関係

−−東京芝浦電気と住友通信工業−−

補章 戦間期の自動車部品工業と下請工業

終章 戦時下請・協力工業とは何だったのか

まず、序章では、「戦前における機械金属工業生産が極致に達した時期であり、多くの中小工業が政策的に下請・協力工場として動員された時期でもあった」との位置づけに基づき、「1937年7月盧溝橋事件(「日華事変」)以降の戦時経済体制における機械金属工業を中心にした下請・協力工業の実態を、発注側、受注側の動きと下請・協力工業の統制を進めた政策的対応の二つの側面から検討し、戦時期の下請工業の歴史的位置付けを明確にすることを課題としている」こと、その課題設定を支える問題意識として、「第1に、戦前から戦後、さらに今日までに通じる下請・協力工業問題、中小工業(中小企業)問題を展望すること、第2に、日本の戦時経済システムの特質、さらにはそこから戦前から戦後の日本経済システムを展望することが可能になる」との考え方があることが示されている。

第1章から第3章までは、1930年代の機械金属工業の展開とそのもとでの下請工業の分析にあてられる。「戦時期」と題する本論文が1930年代から分析を始める意味について著者は、下請工業の役割が実態面でも政策面でも重視されるようになったのは1930年代半ばであり、それが先行する下請問題への対応であった点で、戦時期と1930年代前半期との連続面を重視すると説明している。

第1章は、昭和恐慌からの回復過程で進展する重工業化のもとで中小工業の増加がどのように進んだのかを明らかにし、その中で展開する下請関係の実態を商工省『工業統計(工場統計表)』『機械器具外注状況調』等を使いながら描いている。また、盧溝橋事件直後における民間大工場の下請関係について『小宮山琢二文書』を用いて検討している。第2章では、大阪市の中小工業や下請関係を取り上げ、重工業化と中小工業の増加がどういった形で進み、盧溝橋事件以降の条件変化がそうした中小工業に対してどのような影響を与えたのか、第3章では、日中戦争期以降の下請=協力工業政策の一つの源である地方統制工業、地方工業化について各地の地方工業化委員会や工業組合に関する資料を使いながら、政策と実態が考察される。

以上の考察から、1930年代前半期に重工業化が進展するなかで中小工業としての機械金属工業が量的に拡大していたこと、その中に下請関係が見出されるものの、その内実は発注工場との取引関係が直接的で、階層的な分業関係に乏しく、かつその場限りの取引であること、発注者側から見れば専属と非専属の下請関係が併存し、組合を介した組織化が進んでいないなど、下請制としては未成熟な部分を残していたことが明らかにされる。小宮山のいう「範疇としての下請工業」は未成立であったというのが著者の主張である。このような関係は、日中戦争期になると政策的にも問題視され、地方工業化の推進の中で下請工業へと組織化が進むなど、解決の方向が模索されることになる。

続く、第4章、第5章では、盧溝橋事件以降の戦時統制経済下で下請工業がどのように位置づけられ、下請=協力工業政策が形成され、展開していくのかが詳細に分析される。このうち第4章では、経済統制が強化される中で、中小工業統制、下請工業統制が展開し、戦時期の下請=協力工業政策の本格的な起点となる1940年12月の機械鉄鋼製品工業整備要綱へと発展していく過程が追求される。これを受けて第5章では、機械鉄鋼製品工業整備要綱でモデル化された戦時期の下請=協力工業整備が現実にはなかなか進展せず、修正され、柔軟化していく過程が明らかにされるとともに、1943年以降の戦局悪化と航空機生産の重点化に対応して新たに「企業系列化」という名のもとに下請=協力工業整備が進められていくことが明らかにされた。

以上が主として戦局に対応した政策目的の変化を前提とした政策サイドからの検討であるのに対して、第6章から第8章は、実際の下請・協力関係や政策的に進められた下請=協力工業整備の実態に迫ろうとしている。そのため、第6章では、大阪の下請=協力工業整備の実態を『協力工場名簿』から検討し、短期間に大幅な変更を余儀なくされていったことを明らかにした。第7章では、愛知県の『協力工場台帳』を素材として、航空機メーカーを中心にした1次、2次などの階層的な下請=協力工業整備が発注工場に与えた影響などが具体的に分析され、第8章では、民間大工場の下請協力関係の事例として、東京芝浦電気(東芝)と住友通信工業(日本電気)の下請関係が検討されている。

なお、補章は、第二次大戦後の下請・サプライヤシステムの代表的存在として取り上げられることの多い自動車産業を素材に、戦時にかけての変容を検討し、日本のような後発国では特に部品工業の形成と下請関係の形成に時間的ズレがあったこと、さらに戦時期には航空機との関係が重視されたために、自動車生産の分業構造は崩れていったことを明らかにしている。

以上の戦時期に関する検討の結果を要約し、戦後に関する展望を叙述したのが、終章であるが、そこで著者自らが指摘している本論文が明らかにした主要な論点は次のようなものである。

すなわち、第1に、潜在的生産能力不足にあった戦時動員にとって1930年代前半に拡大していた中小工業の生産能力を動員することは不可欠であった。こうした中小工業を活用する方策として、軍需関連部門の下請工業化が考えられたが、その前提の一つが、1934年から展開していた地方統制工業と1935年から商工省で進められた地方工業化であった。

第2に、1937年の下請工業助成計画要綱に見られるような地方工業化で展開した下請工業政策と、1940年末から展開していく本格的な戦時下請=協力工業政策は、中小工業の軍需下請工業への動員やブローカー排除という点では連続していた。しかし、都市部を対象とし、工業組合を通すのではなく直接発注側と下請(協力)工場との関係が問題にされたことなどの点で不連続であり、地方工業化下請工業政策が、統制工業という形で1940年代に継承されるものの、その役割は限定的であった。

第3に、1940年12月の機械工業鉄鋼製品工業整備要綱以降になると、機械工業生産の効率化、高度化という政策課題を実現するために指定制度による協力関係を目指した点では、1930年代前半からの下請問題の解決も図ろうとしたものであった。しかし、混乱した軍需生産のもとで発注側も下請(協力)工場側も機会主義的な対応をとることが多く、この現実を政策も受け入れるほかなかった。この時期には専属的安定的な関係が効果的とはいえなかったからである。

第4に、1943年7月の戦力増強企業基本整備要綱以降になると、航空機産業中心の工業動員が展開し、企業系列整備が目指されることになる。しかし、強引な企業系列整備は逆に分業関係を錯綜させるなど、想定された戦時下請・協力工業のモデルが実現することなく終わった。このような変遷を伴った戦時期の下請工業政策は、その実態とは乖離があったが、加えて、それが1930年代はじめに民需中心に形成され始めた下請関係の発展の可能性を抑制したことが重視されるべきである。その可能性こそが戦後との連続面で検討すべき課題であり、戦時期に戦後の下請・サプライヤシステムの原型を求めるのは無理がある。

以上の内容を持つ本論文の研究史上での貢献は、次のように整理することができる。

第1に、実証的な面では、第二次世界大戦前の下請工業に関する政策展開と、そのもとで展開する中小工業の実態を明らかにした点で、この論文はこれまでの研究を大きく書き換える成果をあげた。すでに著者自身の言葉によって要約のうちに示したことと重なるが、本論文は、政策面では、地方統制工業・地方工業化政策に起点を持つ下請工業政策が、戦時経済の進展に伴って政策の重点を大都市の中小工業に移しながら展開する過程を、政策構想・理念が現実的な問題解決に直面して変容する過程として描いた。また、実態面では、機械金属工業に対象を絞り込み、協力工場に関する名簿等を用いて対象に密着し、下請関係の変容を取引の継続性や専属性、安定性などに即して明らかにした。これらの成果は、すでにふれたように、この時期の中小工業のあり方をかなり具体的に示すことに成功しているということができよう。

第2に、これらの実証を通して、いわゆる「戦時源流説」に対して、下請制・サプライヤシステムという限定された問題領域に関してではあるが、戦時期との不連続面を強調することで研究史に一石を投じたことが指摘できる。著者自身のこれまでの研究は、この点についての考え方が必ずしも明快ではなかったが、本書ではその点について「戦時に形成された関係を過大評価することはできないし、戦後の下請・サプライヤシステムを特徴づけるのであれば、高度成長期以降の経済環境と発注側、受注側双方の経営から検討していかなければならない」、「中小工場を大量に動員した戦時期下請・協力工業は、日本の中小工業発展の一つの道を閉ざし、強制的に軍需生産に動員することで中小工業の近代化を図ろうとしたプランに基づき作り上げられようとされたが、そのプランは実現することなく、戦時生産の崩壊とともに消滅していった」と、著者の見解が明確化されるとともに、1930年代から高度成長期にかけての連続面と、不連続面に関わる捉え方について、著者なりの構想が示されたということができる。

しかし、このような貢献を認めたうえで、なお、本論文にも今後の課題として残されている点がある。具体的には、戦時経済期の下請制の実態についての検討は、主として親会社との下請関係を中心としており、そうした関係のもとでどのように生産が組織され、どの程度統制経済下の生産拡大が実現したのかどうかなど実証的な検討が必要であり、そのためにはケース・スタディなどによっても補われる必要があろう。その際、著者自身が研究史を踏まえて注目していながら実証的には十分な検討が果たされていない、中小工業の発展過程に関わる商業資本の役割などの実証的な解明も必要となろう。また、構想として示された戦後との関連についても、部分的には参考論文として提出された『現代日本の中小企業』によって果たされているとはいっても、経済復興期、高度成長期など歴史的な展開に即して具体的な分析が行われてはじめて積極的な意義をもつことになろう。

以上、なお課題を残すとはいえ、本論文が戦時期の下請工業の歴史的分析を通して、これまでの研究を越える新たな知見をもたらし、日本経済史研究の発展に貢献したことは、疑問の余地がない。従って、審査委員会は、全員一致で、植田浩史氏が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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