学位論文要旨



No 216367
著者(漢字) 桑原,朝子
著者(英字)
著者(カナ) クワハラ,アサコ
標題(和) 平安朝の漢詩と「法」 : 文人貴族の貴族制構想の成立と挫折
標題(洋)
報告番号 216367
報告番号 乙16367
学位授与日 2005.10.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第16367号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西川,洋一
 東京大学 教授 新田,一郎
 東京大学 教授 蒲島,郁夫
 東京大学 教授 太田,勝造
 東京大学 助教授 苅部,直,
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、9世紀を中心とする平安前期の漢詩文学と「法」に表れた変化の分析を通じて、その双方に深く関わる文人貴族の意識構造とそれに支えられた支配体制構想を解明し、結局は挫折を余儀なくされた彼らの試みの中に、10世紀以降に現実に成立したいわゆる摂関体制とは異質な、しかしむしろ真の貴族制というべき体制へ、と発展する可能性が存在したことを論証することにある。

平安前期は長らく律令制の崩壊過程と片付けられてきたが、近年の日唐律令制比較研究は、この時代に、律令と並んで中国の国制を支えている礼の導入等を含む、広義の律令制の本格的な継受が行われたことを解明している。しかし、これらの先行研究が、一方で摂関期をも平安前期の律令制継受の延長線上に捉え、貴族制という概念を充分に吟味しないまま、「貴族制」的要素を持つとされる隋・唐の律令制と摂関期の「貴族制」とを一直線に結び付けていることには賛同できない。本論文は、貴族のメルクマールとして、血統よりも能力や精神の「貴さ」を重視する立場の存在に着目するが、その観点によると、同じく貴族制といっても、両者の間には、その内実において非常な差異があるからである。隋・唐の体制をモデルとし、そこに含まれる貴族制的要素、とりわけメリトクラシーへの指向を、社会構造の異なる日本において最大限活かす形で新体制を構築しようと試みたのは、摂関期の貴族ではなく、中国の歴史と詩文を知的基盤とする平安前期の文人貴族、なかんずく菅原道真だったのであり、彼の構想の実現可能性が潰えた時から、日本は中国とは決定的に異なる途を歩み始めたと考えるべきではなかろうか。

以上の見通しの下に、本論文は、菅原道真が目指した真の〈貴族制〉の成立を決めるメルクマールにも関わる漢詩と「法」について、両者の関係を意識しつつ、それぞれの変化を通時的に分析するという手法を採ることとし、まず、第一章では、文人貴族が政治の場において活躍を始める弘仁年間(810〜824)から貞観年間(859〜877)まで、すなわち菅原道真以前の漢詩文学を取り上げて受け手ごとに分析し、当時の宮廷社会の構造の解明を試みた。古代日本の貴族制の形成過程においては、貴族と在地社会との関係ではなく、貴族と君主との関係の構築、換言すれば宮廷社会の形成が先に目指され、そのために極めて重要な役割を果たしたのが漢詩であったからである。もっとも、詩といっても、弘仁・天長期の作品は、概して六朝・初唐詩の表面的な模倣に過ぎないものであったが、君主と貴族との個人的な関係の構築手段としての意味は持っており、それらによって君主権の強化が図られ、求心的な宮廷社会が成立する。

承和期(834〜848)に入ると、唐より白居易の詩が渡来し、文人貴族の詩の中に、これをモデルとした、自分自身の視点で自己と他者との亀裂を詠い上げる真の抒情詩が現れるようになる。彼らはこうした詩を通じて、君主との間に、従来の単なるパトロン─クライアント関係とは異なる、距離をとった関係を築きあげ、宮廷社会の構造を変化させてゆく。

また、当時、漢詩は、宮廷社会とその外部、例えば渤海等の他国や仏教界との関係の構築においても決定的な意義を持っていた。こうした外部との折衝を主に担当していた文人貴族は、それを通じて視野を広げ、宮廷社会を相対化する視点を得るとともに、そこで生じた文人としての個人的な感情と宮廷社会の構成員としての立場との間のギャップを自覚し始める。この自覚は上記のような詩の変化を促す大きな一因になったと思われる。

この漢詩文学の変化を念頭に置きつつ、第二章では、同時期の代表的な「法」で律令を補充・変改する役割を果たした「格」を取り上げて編年順に検討し、そこに表れた官人達の法意識の変化と、中央貴族と在地社会の関係の変化を分析した。その結果、承和後期、すなわち文人貴族の漢詩に劇的な変化が表れて間もない頃に、格の発議主体の中心が君主や上級貴族から文人貴族層と重なる地方官等に移行し、その文体も、弘仁・天長期によく見られた装飾過剰の四六駢儷体にかわって平易で明晰なものとなり、貞観期にはさらに厳密に選び抜かれた言葉で問題を定式化するようになることが明らかになった。このことは、「法」が、文化的威力を示して圧倒し受け手の批判を封じ込めるものから、受け手側の吟味・批判の可能性を開くものに変わったこと、そしてその変化が、承和期以降の文人貴族が詩作を通じて培っていった、言語を精密に使い分ける感覚や自分自身の視点で物事を見るという態度に支えられていたことを示していると考えられる。

このように文人貴族は「法」の分野でもその変化をリードしていたが、その存在は中央と在地社会との関係の構築においても特別の意義を持ったと考えられる。9世紀初頭には、天皇が国司を通じて一元的に全国を支配するという律令の方針に反して在地に直接進出する「王臣家」等が目立つようになり、中央の政治の場に彼らと在地社会との間の個人的な利害関係が流入する危険が高まるが、それを阻止するためにとられた対策が、儒教の民本主義や徳治主義の思想を身につけた文人貴族等を国司に登用し在地支配を一任するというものであった。しかし、9世紀半ば以降、「院宮王臣家」等が在地社会の内部の富豪層と個人的に結託し、税として中央に送られるべき利益を横奪するまでに事態が深刻化すると、在地社会の内部にまで入り込まないこうした「良吏」では、もはや対処できなくなる。彼らの下で徴税にあたる郡司の統制策もとられるが、当時の郡司は一定地域に排他的な支配力を及ぼせる存在ではなかったため、この政策も失敗し、9世紀末には、問題の根本的な解決は放棄し、在地支配を統轄する国司の長(受領)を通じてただ一定量の税を中央に確保することだけを目指す策がとられるようになる。

こうした状況下で、それまでの文人貴族の意識変化を受け継ぎながら新たな体制を構築し事態を打開しようと試みたのが、菅原道真(845〜903)と三善清行(847〜918)であり、第三章では、この両者の相違に着目しつつ各々の体制構想の再構成を行った。主としてその漢詩から窺える、道真の構想した新体制とは、支配層を、中央で政治に携わる〈貴族〉と在地支配に直接携わる受領とに截然と分けた上、前者に儒家かつ詩人であり高度な法解釈能力を持った者という厳しい要件を課す、二階層の貴族制であった。この構想の特徴は、〈貴族〉を詩人に限ることと二階層の切断にあるが、その背後には中央の政治が権力者の恣意や在地社会との間の個人的な利害関係に直接左右されることを防ごうとする意図があった。しかし、政治の場と在地社会とを一旦切断した以上、これを再び慎重に繋ぎ直さなければ、〈貴族〉が在地社会を統制することはできない。道真は切断に気を遣うあまり、その後在地社会との間に新たな関係を構築し直すことについては充分な案を示しえなかった。

これに対し、三善清行は、道真のような二階層制をとらず、また詩人の意義も重視しなかった。その散文からは、清行が、受領を中央の政治の場にも参加させその意見を聞くことによって、中央財政の再建を第一に図ろうとしたことが窺える。しかし、自ら摂関家に取り入って昇進した経歴を持つ彼は、受領の権限強化を試みる一方で、在地富豪層と中央貴族の結託のみならず、受領自身が血統貴族や在地富豪層との間に個人的な利害に基づく関係を持つことさえ黙認してしまった。その結果、受領の在地支配を血統貴族の介入から守ることができなくなり、血統貴族とは異なる視点を持つ受領を政治に参加させるというその構想の意味は空洞化することとなる。

結局、10世紀に成立したのは、両者の構想とはおよそ異なる、君主と姻戚関係が近い血統貴族が個人の能力にかかわらず高位高官を占めるという体制であり、この特異な貴族制とそれに結び付いた文化のあり方が、その後の日本を強く規定してゆく。第四章で検討した、摂関期の漢詩と「法」、貴族の日記や遺誡等からは、総じて当時の貴族達が、とりわけ詩作によって培われる、物事から距離をとり自分自身で判断するという能力を有しておらず、また身の回りのごく狭い範囲の事柄にしか関心を向けなくなっていることが読み取れる。彼らは、在地社会との間に個別的な利害関係を網目のごとく張り巡らせてゆく一方で、在地支配全体を統制することはできなくなり、中央の「政治」は、在地社会の「現実」との緊張関係を欠いたまま進められてゆくことになる。

かくして政治の場においてはもはや道真や清行の構想を受け継ぐ者はなくなったが、この体制下においても、彼らの構想を支えた意識構造が完全に消滅してしまったわけではなかった。政治とは一見かけ離れている仮名文学の『源氏物語』の中には、道真の詩に表れていた、創作された文学の中に非常な価値を認め、これこそが政治を支えるのに不可欠であるとする考え方が、はっきりと見て取れる。また、道真の怨霊を祀る天神信仰が未曾有の勢いで展開してゆくことも、その意識構造が潜在的に継承された証であると思われる。道真を頂点とする平安前期の文人貴族の意識構造は、摂関期の貴族制と結び付いた日本の「文化的伝統」の裏側に隠れた形ではあるが、これに対抗するもう一つの「伝統」として引き継がれていったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「平安朝の漢詩と『法』―文人貴族の貴族制構想の成立と挫折」は、9世紀を中心とする平安前期の漢詩文学と「法」に現われた変化の分析を通して、その両者に深く関わったいわゆる文人貴族の意識構造とそれに支えられた支配体制構想を解明することにより、平安前期から摂関期への国制発展のなかにおける多様な支配体制構想とそれらの意味を明らかにし、とりわけ菅原道真を代表者とする文人貴族の構想の中に、10世紀以降に現実に成立したいわゆる摂関体制とは異質な、しかしむしろ「真の貴族制」ともいうべき体制へと発展する可能性が存在したことを論証しようとするものである。全体は序章、本文4章及び終章から構成され、488頁から成る大作である。

平安時代は、日本史上における貴族制の時代として長く位置づけられてきたが、その際の分析概念としての「貴族」が、必ずしも十分な歴史的吟味を経たものではなかったために、有効性を欠いていた。また近年の日唐律令制比較研究も、平安前期に、律令と並んで中国の国制を支えている礼の導入等を含む、広義の律令制の本格的な継受が行なわれたことを明らかにしたが、その際摂関期をも平安前期の律令制継受の延長線上に捉え、「貴族制」的要素をもつとされる隋唐の律令制と摂関期の「貴族制」とを直接的に結びつける傾向があることに問題がある。本論文は、先行研究の抱える問題点をこのように把握した上で、文人貴族における貴族制と、国家におけるその位置・役割とに関する観念を分析することによって、平安期の国制発展の可能性を浮き彫りにしようとするものである。以下内容を要約する

まず序章で、著者の問題意識とその立場からの先行研究に対する簡潔な評価を行なった後、第1章「平安前期の漢詩文学と宮廷社会――道真以前」においては、文人貴族が政治の場において活躍を始める弘仁年間(810-824)から貞観年間(859-877)まで、すなわち道真以前の漢詩文学の分析により、当時の宮廷社会の構造の特質が解明される。漢詩文学を素材とするのは、古代日本の貴族制の形成過程においては、貴族と在地社会の関係ではなく、貴族と君主との関係の構築、すなわち宮廷社会の形成が先にめざされたが、そのためには漢詩が重要な役割を果たしたという認識にもとづく。

弘仁・天長(824-834)期の漢詩は、独創性は必ずしも高くはないものの、君主と貴族との間の関係を構築することによって君主を中心とする求心的な宮廷社会像を裏打ちしている。これに対して承和期(834-848)には、文人貴族の漢詩に変化が現われ、白居易の詩をモデルとして、自己の視点で自己と他者との間の亀裂を詠い上げる真の叙情詩が現われるようになる。また、宮廷と他国や仏教界との関係の構築にあたって重要な役割を果たしたことは、文人貴族をして宮廷社会を相対化して見ることを可能にした。著者は、文人貴族のこのような意識構造の変化の中で、家柄による固定的な秩序を批判し、文と才を備えた人間の登用を促す考え方が現われたことを重視する。

第2章「平安前期の『法』と社会」では、文人貴族の法意識を探るために、9世紀初頭から10世紀前期までの時期について、律令の補完・変改機能を果たした「格」を編年的に分析する。文人貴族の漢詩作風に変化が見られた承和期の後期に、格の発議主体の中心も、君主や上級貴族から、日常的に「法」の運用に携わっていた文人貴族や明法家へと移る。同時に法文の文体も変化を見せる。すなわち、弘仁・天長期の格は華麗な駢儷体を用いるものの、それは必ずしも現実の法生活との対応関係を持たず、むしろ受け手に対して天皇を中心とする中央の権威を見せつける機能を果たしていたと思われるのに対して、承和期後期には、無駄な文飾は減少し、その代わりに既存の関係法令の引用や立法趣旨についての説明が詳細になる。さらに貞観期(859-877)には、立法趣旨を丁寧に説明し、既存の「法」を厳密に解釈してそれとの関係を説明し、あるいは「法」と現実の間の関係に立ち入って、明晰に論理を進めるという点で、法意識の深化が見られる。しかもこのような発展には、中央の文人貴族のみならず、「法」の受け手であり、法制度の運用にあたる中下級官人をも巻き込んでいたと思われる。

これらの法令の中心的論点の一つが中央と在地社会との関係であった。律令制導入以来、天皇が中央官人である国司を通じて全国を一元的に支配する体制の構築がめざされたが、当初から王臣家の在地社会進出によってこの原則の実現が妨げられていることは認識されていたものの、初期の法令は問題把握に具体性を欠いていた。これに対して承和期末には、王臣家が、個別的な利害関係にもとづいて、在地社会に地盤を持つ郡司や富豪層と結びついて行なう山野の占拠などの行動が税収に影響を与え、さらに天皇を頂点とする一元的な国支配という原則を損なうことが認識されるようになる。

この問題に対し、弘仁中期から承和期にかけて、良吏を選出して彼らに「法」の柔軟な運用を認めつつ、いわば儒教的民本主義の立場から国司を統制する構想が提案された。しかしこれによっても問題を根本的に解決することはできないため、血統貴族を中心とする公卿側は、現実と妥協し、国司に対して中央に税収を上げることのみを求めるようになる。

第3章「文人貴族の支配体制構想――菅原道真と三善清行」では、前章で述べられた発展に対して、これら二人の文人貴族が展開した支配構想が比較検討される。

すでに早くから文人貴族が政治に参加すべきことを望んでいた菅原道真(845-903)は、とりわけその讃岐赴任以後、在地社会に対する関心を芽生えさせ、そこからの収奪によって成り立っている都の天皇や上級貴族を批判的に見直すようになる。彼はメリトクラシーの原理に基づき、「真の貴族」である文人貴族層が主体的に政治を主導すべきであるとするとともに、彼らを地方統治に直接携わる受領層から截然と分離し、支配層を二層に分化する構想を展開する。そして帰京後宇多天皇によって要職に抜擢されると、道真は、権勢に阿ねることなく詩作によって君主を補佐し、正す役割を演ずる文人貴族の登用を天皇に促すのである。

著者は、道真の構想した二階層制の構想の根拠として、一面では中国と異なり日本では真の詩人が少ないことに鑑み、それを君主の周辺に集中することが必要だったことも挙げるが、とりわけ文人貴族を在地社会から切り離すことによって、個人的利害関係から独立して政治を行なうことを可能にするという面を重視する。これに対して在地支配の統括は、儒教的な徳治思想を内面化し、社会の個別的条件に応じて適切な統治を行なう良吏たる受領が担当すべきものとされた。しかしこの受領層と中央の官人たちとの間を切断すればそれだけ、両者の間の関係を再編成することが在地支配の成功のために重要になるはずであるが、道真の構想にはこのためのメカニズムが欠落しており、そこに彼の構想の弱点も存したのである。

これに対して三善清行は、道真が主張したような貴族の二階層制をとらない。そして道真とは逆に、詩のパフォーマンスの場としての宮廷儀礼にはさほど関心を向けず、むしろ受領層を重視し、中下級官人も含めた幅広い階層から人材を集め、受領として在地支配の経験を積ませたうえで、その経験を生かして、中央の政治に広く参画させる体制を構想するのである。また、在地支配の優劣の評価においても、道真とは異なり、財政面への関心が高く、税の完済による中央財政への貢献を第一に置き、そのためには、受領が地方の有力者とある程度妥協し、彼らを懐柔することを辞さない。しかし清行は、それによって生じざるを得ない事態、すなわち受領と在地社会内部の間の利害関係がそのまま中央の政治に持ち込まれることを防ぐ仕組みを用意していなかった。彼は在地社会と中央の間の関係を構造的に把握することができず、その結果王臣家の在地社会への進出という、当時の政治における最大の問題点に対する根本的な対策を提示することがないのである。かくして、受領を血統貴族によるクライアント化から守ることを防ぐことのできない清行の構想は、内側から崩壊せざるを得なかった。

第4章「文学と『法』に見る摂関期の貴族制」では、道真と清行という二人の文人貴族の相異なる構想がともに挫折した後の摂関期における宮廷社会の変容を扱う。宮廷社会内における天皇の求心力が相対的に低下し、代わって摂関家の力が増したこの時代においては、政治的地位は出自によって決定されるようになる。これによって、学問・詩作によって秀でた文人貴族が政治を主導するという道真の構想の実現はおよそ不可能となった。それゆえ摂関期の文人たちの多くは、漢詩を作る場合であっても、もはや現実との緊張関係を失ない、権勢を賛美し風月を詠うにとどまるか、せいぜい体制批判にまで向かうことなく摂関家の専横支配に対する個人的批判を吐露するのみであった。宮廷の貴族たちは、理念的な規準を失って宮廷の儀式や儀礼の作法遵守に意識を集中するようになる。また宮廷の外側、例えば京及びその周辺の民衆や下級官人の間では検非違使庁の実務から発達した「庁例」、諸国では国司が行なってきた処分にもとづく「国例」というような、依然として律令格式と関連は保ちながらも、先例を規範性の根拠とし、合理性や体系性を欠く「法」が定着する。

これに対して、政治に対して、一定の距離感を持ち続けるという意味で、道真の詩を支えていた意識構造は、仮名文学である『源氏物語』の中に受け継がれることになる。その叙述の中には、権勢にある者の専横に対する批判と、権力者への追従により利益を得ようとする者に対する醒めた見方とが見られ、さらにその背後には、作者紫式部が光源氏をして語らしめている、中国の正史に代表される批判的学問とともに、創作された文学をも政治を支える不可欠な存在と見なす考え方があり、ここには道真の意識構造の中核にあったものとの共通性が生き続けるのである。

最後に終章において著者は、本書のこれまでの分析を総括したうえで、摂関体制の構造を、受領層と貴族層とを分離したという意味で三善清行の構想を否定したものである一方で、菅原道真の二階層の貴族制構想とは異なり、摂関や公卿が自己の利益のために在地豪族層や受領層とも個人的に結びつき、その限りでのみ在地社会と関係を結んだものとして理解する。そして、このような構造は日本の「文化的伝統」といわれるものを支えたものではあったが、同時にその裏面で、第4章で分析された仮名文学、さらには天神信仰や文学的な道真伝承の中に、菅原道真に見られた意識構造が、もう一つの「伝統」として生き続けたという見通しが示される。

次に、本論文の評価を述べる。

本論文の長所としてまず第一に上げられるべき点は、それが漢詩文の歴史史料としての利用と、国制ないし国制構想の理解を目的とする法テキストの文体の分析という両面において、日本の古代法制史学研究の素材及び方法を大きく拡大した点である。文学テキストを法的観点から解釈すること、法的テキストをひとつの「文学」作品とみてその文体を解釈すること、これはいずれも、例えばアメリカの「法と文学」運動(Law and Literature Movement)の中でも実践されているものではあるが、本論文は直接的にはこの運動に安易に依拠することなく、また既成の文学テキスト解釈理論を性急に取り入れることなしに、国文学研究者の解釈をふまえながら、同時に国制史的な発展に関する理論的な見通しと個々のテキストとを結びつけ、さらには「文学」の形式と「政治」、「法」をめぐる特定の思考様式との関連性をも視野に入れつつ、一貫した歴史学的方法にもとづき、独自のテキスト解釈をしている。その解釈態度はきわめて柔軟で、テキストの持つ多様なニュアンスに対して目配りのきいたものであり、著者の自立した強靱な思考力を示す。

第二に、かかる独創的な手法の結果として、古代日本の知識人の間における法意識についての理解を格段に推し進めた点である。古代日本において、律令は現実と法との関係に拘泥することなく表面的に継受されたものにすぎなかったという伝統的な理解に対し、本論文は、宮廷における貴族の重要な活動であった漢詩文、さらには「法」史料の文体を主たる分析の対象とすることによって、9世紀の文人貴族が、法と現実との間の緊張関係を十分に意識しつつ体制構想を作り上げたことを明らかにした。これにより、古代の文人貴族の精神的成熟が示されたのみならず、古代日本における国制発展の可能性について新しいパースペクティヴが開かれた。道真の構想が一定の脆弱性を伴っていたことは著者も認めるところであるが、それにもかかわらずそれが摂関家に脅威を与え、体制の組み替えを強いたことを明らかにしたことによって、本論文は、律令国家、律令貴族と、それらの歴史的発展とについての理解を格段に深化したというべきである。

第三に、高度なテキスト解釈と複雑な理論的な見通しが、全体に普遍性の高い論理と、達意平明で完成度の高い文体とによって語られていることである。それゆえ、問題設定の大きさと相まって、本論文は、日本法制史学を広く越えて、他の専門諸領域、あるいは外国の学界に属する読者にとっても、知的刺激を与える作品であると思われる。

しかし本論文にも疑問点がないわけではない。

まず第一に、菅原道真による貴族二階層制という構想は、著者の独創的な説であり、道真の文学的営為とその展開とに関する著者の多面的できめ細かい分析は、この構想に収斂するように緻密に構成されているが、この説の独創性と裏腹の関係にある問題として、確かに史料的な制約があるとはいえ、その構想がどの程度道真によって、全体として関連づけられた一つの構造として把握されていたかが必ずしも説得的に論証されていない憾みがある。また、この構想の核となる、メリトクラシーに立脚した「貴族制」の概念は明確ではあるものの、君主を中心として構成された宮廷的な社会における「貴族」の概念としては違和感を与える

第二に、著者の文学作品の扱い方にも、いくつかの問題を指摘することができる。著者は、自ら用いる「法」や「政治」、あるいは「貴族」の概念についてはその意味を慎重に限定し、その異なる意味連関を意識的に区別している。これに対して、文学については、「真の『文学』」という概念を個人の視点の表白された叙情詩という意味で用いているが、そのような理解には、著者の持ち込んだ視点としての性格が強い。そしてもし道真の作品に個人的な感慨が多く表現されているとすれば、それは伝統の立場からは異質なものであったと言わざるを得ない。また、本論文は主として叙情詩という文学類型に着目しているが、本来外国語である「漢文」という形式が用いられたことの意味と効果はもっと正面から論じられてもよいのではないか。そのためにも和歌との比較は有用であったはずであり、和歌の問題が外されたことは疑問が残る。今後の課題とされるべきであろう。

しかしこれらの疑問点は、本論文の価値を貶めるものではない。本論文は、日本古代法制史、国制史研究に新しい方向を拓いたのみならず、文学史や思想史に対しても大きな示唆を与える刺激的な著作であり、博士(法学)の学位を授与するのにふさわしいものと認められる。

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