学位論文要旨



No 216370
著者(漢字) 林,淳
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,マコト
標題(和) 近世陰陽道組織の研究
標題(洋)
報告番号 216370
報告番号 乙16370
学位授与日 2005.11.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16370号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 末木,文美士
 大谷大学 教授 木場,明志
 筑波大学 教授 真野,俊和
 学習院大学 教授 高埜,利彦
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、近世の土御門家による陰陽師支配を対象にして、その配下の多様な職分と地域的多様性を記述し、分析しようとするものである。以下、論文の内容の要旨を、四点に整理して述べる。

第一に、筆者は、近世陰陽道の歴史的な像を、中世、近代の宗教史の関連のなかで描くよう努めた。近年の古代、中世の陰陽道研究の進展は著しいものがあるが、そうした成果に対応する近世陰陽道の像を、筆者は描こうとした。そのため鎌倉幕府、室町幕府の陰陽道対策との比較を通じて、江戸幕府の陰陽道対策の特徴を考察しようとした。鎌倉幕府、室町幕府は、宮廷陰陽道をそのまま導入し、異変や将軍の病に際して密教僧侶による修法とともに陰陽師に陰陽道祭祀をセットで行わせた。また鎌倉幕府、室町幕府は、陰陽師に日時勘申を行わせ、天変を報告させた。ところが江戸幕府は、土御門家に対して陰陽道祭祀、日時勘申、天文密奏を行わせることはなかった(第二章第二節)。将軍就任に際して、土御門家が私邸において天曹地府祭を行っていたことであるが、これは土御門家の自ら進んで行っていたことであり、江戸幕府はそれを追認していたに過ぎない。巳の日祓い、名越の祓いに際して、土御門家は江戸城に使者を派遣し、撫物を献上したが、これも幕府の黙認のもとで行われていた。では近世において陰陽道は、江戸幕府にとっては無用の長物になりはてたのであろうか。陰陽道祭祀、日時勘申、天文密奏という点で見るならば、江戸幕府にとって陰陽道の必要性はさほどなかった。しかし江戸幕府は、陰陽道の家としての土御門家の職掌を利用しようとした。第一に、貞享暦改暦に際して江戸幕府は、改暦作業を渋川春海に任せたが、元来、改暦は朝廷の権限に属していたので、陰陽頭であった土御門家を利用しようとした(第七章第一節)。第二に、天和三年の将軍綱吉朱印状によって江戸幕府が、土御門家に陰陽師支配を許可したことである。さまざまな宗教者、芸能者が土御門家の配下になることによって陰陽師の身分・職分を得ることができるようになった。この点に、陰陽道史における中世から近世への転換点があった。近世の土御門家は、主観的には朝廷、幕府に対して祈祷をもって奉仕していると主張していたが、幕府側にはその意識は希薄であった。他方、近世陰陽道の終焉は、明治三年の天社神道廃止令によってもたらされた。これは、明治国家による諸宗教者廃止の一環として実施されたものである。従来、諸宗教者廃止は、淫祠邪教撲滅を意図していたと説かれてきたが、実際には旧来の身分にまつわる特権の廃止が第一義的に重要であり、僧侶身分の廃止などともに戸籍制度との関連で理解されるべき事柄であった(第九章第一節)。陰陽師の身分・職分が江戸幕府によって公認された時点で、近世陰陽道は成立し、明治国家が、幕府の公認した陰陽師の身分的特権を廃止したところで、終末を迎えたことになる。近世の陰陽道の歴史的な画期性とは、土御門家が、江戸幕府による許可を得て配下支配を行い、それによって陰陽師の身分・職分が創りだされた点にあった。天和三年の将軍朱印状、それに続く寺社奉行による改めが、近世陰陽道の始点となり、明治三年の天社神道廃止令が、その終着点となった。

第二に、近世陰陽道史の時期区分、段階論について、高埜利彦の説を批判的に検討した。高埜によれば、綸旨、朱印状の出された天和三年と、諸国触れの出された寛政三年が二つの画期的な段階である。天和三年から寛政三年までの間は綸旨の権威によって土御門家が配下支配を実施して、寛政三年以降は、幕府の権威をよって配下支配を拡大した。本論文では、高埜説を継承して、天和三年、寛政三年の画期を認めながらも、筆者は「綸旨の権威から幕府の権威へ」という高埜の説を批判した。天和三年以降、綸旨よりも朱印状が政治的な効力をもち、寺社奉行が作動するかたちで土御門家の配下支配が開始されたことを筆者は明らかにした(第二章第三節)。寛政三年の触れによって土御門家は藩権力に協力を求めながら、広く地方の配下獲得に邁進し、支配の拡大につとめたことをも、筆者は第八章第一節で論じた。

第三に、土御門家の陰陽師支配を論じるにあたって、筆者は、土御門家の江戸役所の機能に注目し、土御門家と江戸役所の二元的な体制があったことを指摘した。従来、土御門家の配下支配は、一元的に統率された一枚岩的なものと考えられてきた。しかし現実には、貞享元年に江戸役所が設置されて、江戸役所が寺社奉行に行政指導のもので職札を作成し、神事舞太夫と家職争論を闘い、配下獲得に勤めた。寺社奉行により職札を公認され、江戸役所は、職札を配下に付与することによって組織拡大を図ってきた。明和年間に江戸役所は、都市の占い師、易者を取り込むために占考に絞って職札を作り変え、修験、神職などの他系列の宗教者を取り込むために売卜組を設置して、修験、神職の身分のままでも土御門家の免許を受けるように要求した(第三章第二節)。こうした江戸役所の組織改革は、土御門家にも採用されて、それ以降の土御門家全体の配下支配の方針になった。土御門家は、それまでは畿内の歴代組や尾張・備中などの配下に官名・装束の許状を付与していたが、組織的な配下支配には熱心ではなかった。土御門家は、江戸役所の方式を模倣し、寛政三年以降本格的に諸国配下支配に乗りだしたというのが実情であった。筆者は、土御門家の配下支配を、土御門家と江戸役所との二元的な体制で営まれたと考えており、本論文でもそのことを強調した。配下支配という点では、江戸役所が先行しており、土御門泰邦の代になるまでは、土御門家は配下支配を地方触頭に委ねていた。寛政三年以降、土御門家は取締出役を派遣して、直支配の配下を増やそうとし、触頭制度では吸引できない天文暦学者などを積極的に取り込もうとした(第五章第二節)。京都の土御門家が配下支配の中心になり、二元的な体制は一元的なものへと変化した。即ち、地方の触頭を媒介にした体制は弱体化していき、土御門家を頂点とする組織に変化したのであった。とくに幕末が近づくにつれて、土御門家の権威は上昇し、土御門家の直門下を希望した人々は、陰陽師としての家職を保証されたかったわけではなく、土御門家の門下であるという標章を欲しがったのである(第八章第一節)。

第四には、土御門家、江戸役所による配下支配の個別事例をとりあげ、関係史料を用いて事例を分析した(第三章、第四章、第五章、第六章)。個々の事例によって配下の陰陽師の活動は多様で、一般化は困難であるが、各事例を検討するにあたっては、筆者は、天和三年・貞享年間と寛政三年の二つの段階を念頭におき、配下の組織の歴史的展開を跡付けた。具体的には三河・尾張の万歳師、相模の神事舞太夫、但馬・丹後の陰陽師、武蔵の陰陽師の指田藤詮、武蔵・相模の神楽師、伊勢・大和の暦師を取り上げて、筆者は、土御門家、あるいは江戸役所の配下に加入することによってネットワークを形成し、他の系列の宗教者と競合しながら活動の場を確保していく経緯を描いた。

審査要旨 要旨を表示する

日本の宗教史において陰陽道がどのような歴史的変遷をたどったかについては、学問的な共通理解が形成されるに至っていない。陰陽道研究は平安時代を中心に進められ、中世以降の研究は乏しく、長期にわたる展開を通覧するような業績はなかった。林淳氏の「近世陰陽道組織の研究」はこの研究状況を踏まえ(一章)、16世紀から19世紀、すなわち近世の陰陽道の全体について、主として組織の面から明快な見通しを与えようとした業績である。室町幕府と異なり江戸幕府による陰陽道政策の特徴は、幕府自身が陰陽道の知識、儀礼、実践を採用するというのではなく、土御門家を通してある種の宗教者に「陰陽師」の身分・職分を付与し、宗教者・芸能者等の統制の一助とするところにあった。林氏はまず、陰陽道を司る家が土御門家に集約されていく過程をたどり、土御門家に陰陽師の配下支配を認めた天和3年(1683年)の将軍綱吉の朱印状が画期となることを示す。近世陰陽道の成立は、従来霊元天皇の綸旨の権威に基づくとされてきたが、本論文は朱印状の権威と寺社奉行の諸宗教者改めを重視している。これによって土御門家は、江戸幕府の権威を後ろ盾に配下に免許を付与することとなり、陰陽師の身分・職分が確立した(二章)。

その後土御門家による宗教者・芸能者等の組織化がどのように進められていったのかを林氏は丁寧に描き出す。先行研究を踏まえつつ新たな資料を掘り起こしながら、氏は土御門家配下の陰陽師集団の拡充を跡づけていく。吉田家の神職支配の展開を背景として押さえながら、神事舞太夫組織や修験との争論、三河・尾張の万歳師の配下への組み込み、武蔵・相模・但馬などの土御門家配下の陰陽師の相互連携などを資料に即して描き出し、林氏は江戸時代の土御門家配下の陰陽師集団の輪郭の描出を進める。とりわけ、土御門家は占考を陰陽師の特権と主張し、他の宗教者に対しても土御門家の免許を受けるべきだという兼職の論理を強制しようとしたことが強調されている。林氏は、従来の個別研究で示されてきた仮説を逐一検証し、それらに修正を加えていく。(三〜五、八章)。

土御門家は暦の編纂の権限をもち、暦師の統制も行っていたが、この機能がどのように変化していったかについても、林氏は独自の見通しを提示しようとしている。17世紀末に貞享暦が編纂されて以降、暦注の陰陽道的要素が強められていく。林氏は渋川春海と保科正之との間に親交があったことを示し、儒家神道の潮流が近世陰陽道の形成に寄与したことを傍証している。陰陽道の日常的実践については、武蔵中藤村の陰陽師、指田藤詮の日記の検討によって精細に描き出されている。近世陰陽道の解体についても林氏は独自の理解を提示する。明治3年の天社神道廃止の指令によって陰陽師身分は廃棄されるが、従来それは文明開化に伴う「淫祠邪教」排斥の思潮によるものとして説明されてきた。しかし、林氏はむしろ身分制廃止による権威の消滅が主要な要因だという。天社神道廃止後の陰陽師のゆくえについても、独自の展望が示されている(五章三節、六〜九章)。

本論文は近世陰陽道の形成から解体に至る過程の全体を見渡そうとした研究であり、近世陰陽道の宗教史的叙述として、これまでの研究の水準を大きく超えている。地域の資料の精密な検討を基礎として陰陽師の実像に迫ることに成功しているとともに、それを幕府の宗教者・芸能者統制政策や地域に根ざした神道的な潮流の興隆という長期的な宗教史的文脈に関連づけようとしており、近世宗教史の解明に対する大きな貢献である。しかし、林氏は氏の研究成果がはらんでいる宗教史解釈の広い理論的意義を十分に論じてはいない。このため、個々の論点の宗教史的意義が必ずしも明確に示されておらず、読者に委ねられてしまっている箇所が残されている。とはいえ、近世陰陽道研究は今後、この林氏の論文を基礎として展開することとなるであろうし、今後の近世宗教史研究は近世陰陽道研究の成果を組み込むことを避けることはできなくなるだろう。以上の理由により、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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