学位論文要旨



No 216373
著者(漢字) 及川,規
著者(英字)
著者(カナ) オイカワ,タダシ
標題(和) 博物館の収蔵庫に多用される木材の揮発成分とその文化財材質への影響
標題(洋)
報告番号 216373
報告番号 乙16373
学位授与日 2005.11.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16373号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷田貝,光克
 東京大学 助教授 佐藤,雅俊
 東京大学 助教授 山川,隆
 東京大学 助教授 信田,聡
 東京大学 連携併任教授 大原,誠資
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

文化財の安全な保管は博物館や美術館の最も重要な責務であることから,これらの施設では適切な保存環境の維持管理が強く求められる.保存環境要素の一つが空気環境である.

ところで,博物館の収蔵庫内装材として木材,特にベイスギが推奨され,多用されている.東北歴史博物館(東歴博)でも一部収蔵庫でベイスギを用いていた(ベイスギ庫).しかし新設時,ベイスギ庫の空気環境だけが著しい酸性傾向を示し,長期間改善されなかった.

実は,このような問題は東歴博だけでなく,他の多くの施設でも古くから問題となっていた.それにもかかわらず,その原因や,木材揮発成分が文化財に与える影響についてはほとんど検討が行われていなかった.

全国の博物館が抱えるこのような問題を背景に,本論題を設定し,以下の検討を行った.

新設博物館収蔵庫の空気環境

東歴博を対象に,新設博物館の空気環境を調査し,ベイスギ庫の酸性化が何に起因するかを検討した.内装材など仕様が異なる複数の収蔵庫の空気成分測定結果や使用材料の比較から,内装主材のベイスギが原因である可能性が高いと推定した.同時に,空気環境の改善処置(換気,空気清浄フィルターなど)とその効果も並行して検討した.また,酸性化の原因物質として,酢酸とギ酸に着目し,超純水捕集-イオンクロマト法による定量分析を行った.しかし意外なことに,酸性を示すベイスギ庫と,ほぼ中性の良好な状態の収蔵庫との間で,これらの濃度に大きな差は認められず,酸性化原因物質はこれら以外の成分の可能性もあることが示唆された.

ベイスギ揮発成分の性質とその文化財材質への影響

ベイスギ自体を対象に,揮発成分の特性とその文化財材質への影響について,GC-MS分析や文化財材質変質促進試験などにより検討した.その結果,ベイスギ揮発成分は酸性を示し,金属(鉄,銅),顔料(密陀僧,鉛白,緑青)などを著しく変質させることを確認した.また,特徴的な成分としてヒノキチオールを検出した.

収蔵庫材料として多用されているスプルース,キリ,スギの各揮発成分の性質とその文化財材質への影響

収蔵庫内装材に多用されているスプルース,キリ,スギを対象に,3と同様の検討を行った(表1・2,図1).さらにベイスギを含めた4樹種を比較し,文化財材質への影響の樹種依存性や収蔵庫・展示ケース材料としての適性について考察した.その結果,1)文化財材質に与える影響は樹種によって大きく異なり,ベイスギ > スプルース >> キリ > スギ の順で大きい,2)影響の度合いは,総揮発成分よりも,酢酸やヒノキチオールなど特定成分の量や割合に依存する可能性が高い,3) ベイスギでのみ鉛白と緑青が変色するなどの知見を得,ベイスギは4樹種の中では最も収蔵庫内装材料に適さない木材であると結論された.

ベイスギ・スプルース各揮発成分中の文化財材質の変質原因物質

文化財材質への影響が大きかったベイスギとスプルースを対象に,変質原因物質について検討した.木材揮発成分の中からいくつかの変質原因候補物質を選定し,それらをそれぞれ単独で文化財材質に作用させた場合(特揮試験,表3)と,木材揮発成分を作用させた場合(木揮試験)とで,レーザーラマンスペクトル(図2-4)などを比較することで,変質原因物質の推定を試みた.その結果,1)ベイスギ揮発成分中では,密陀僧の場合は酢酸,密陀僧以外の文化財材質(鉄,銅,鉛白,緑青)の場合はヒノキチオールが変質原因物質である可能性が高い,2)スプルース揮発成分中では,密陀僧の変質原因物質は酢酸であるが,鉄や銅を変質させるのは,本研究で対象とした候補物質以外の成分である可能性が高いなどの知見を得た(表4).

まとめ

本研究の結果,これまで収蔵庫材料として推奨されてきたベイスギが,本実験条件下では最も文化財材質への影響が大きく,また変質原因物質も,樹種や文化財材質によっては,木質系収蔵庫の汚染因子としてこれまで着目されていた酢酸やギ酸以外の成分の影響が大きい可能性があるなど,文化財の保存・空気環境対策を考える上で重要な知見を得た.今後は,変質発現条件(濃度,温度)や汚染因子の低減化や除去方法等について検討する予定である.

表1 ベイスギ,スプルース,キリ,スギの各揮発成分による文化財材質の変質

表2 ベイスギ,スプルース,キリ,スギの各揮発成分の特徴と文化財材質の変質の関係

表3 特揮試験による文化財材質の変質

図1 ベイスギ,スプルース,キリ,スギのGC-MSスペクトル

図2 鉄のLRスペクトル.I: 標準,I-WR: べイスギ作用系,I-Spb: スプルース作用系,I-Hn: ヒノキチオール作用系,I-Ac: 酢酸作用系

表4 ベイスギおよびスプルース揮発成分中の変質原因物質

図3 銅のLRスペクトル.C: 標準,C-WR: べイスギ作用系,C-Spb: スプルース作用系,C-Hn: ヒノキチオール作用系,C-Ac: 酢酸作用系

図4 緑青のLRスペクトル.R: 標準,R-WR: べイスギ作用系,R-Sp: スプルース作用系,R-Hn: ヒノキチオール作用系,R-Ac: 酢酸作用系

審査要旨 要旨を表示する

博物館や美術館では文化財の安全な保管のため、適切な保存環境の維持管理が強く求められる。その保存環境の要素の一つとして重用視されているのが空気環境である。

わが国では、博物館の収蔵庫内装材として木材,特にベイスギが戦後推奨され,多用されてきた経緯がある。東北歴史博物館(東歴博)でも一部収蔵庫でベイスギが用いられたが、新設時,ベイスギ庫の空気環境だけが著しい酸性傾向を示し,長期間改善されなかった.

このような問題は東歴博だけでなく,他の多くの施設でも古くから問題となっていた.それにもかかわらず,その原因や,木材揮発成分が文化財に与える影響についてはほとんど検討が行われていなかった。木材から大気中に放出される極微量の揮発性成分の捕集、分析等を行う十分な技術が存在しなかったことも未検討のまま、見過ごされてきた理由の一つである。

本論文は、全国の博物館が抱える収蔵庫から放出される揮発成分による文化財への影響についての問題を背景に、木材から放出される揮発性成分とその文化財材料への影響を検討、変質原因物質を明らかにしたものである。

本論文は6章で構成されている。 第1章では研究の背景と本論文の研究目的が述べられている。

第2章では、新設博物館収蔵庫の空気環境について、東歴博を対象に,新設博物館の空気環境を調査し,ベイスギ庫の酸性化が何に起因するかが検討された。その結果、内装材など仕様が異なる複数の収蔵庫の空気成分測定結果や使用材料の比較から,内装主材のベイスギが原因である可能性が高いことが推定された。同時に,空気環境の改善処置(換気,空気清浄フィルターなど)とその効果が検討された。

また,酸性化の原因物質として,酢酸とギ酸に着目し,超純水捕集-イオンクロマト法による定量分析が行われたが、意外なことに,酸性を示すベイスギ庫と,ほぼ中性の良好な状態の収蔵庫との間で,これらの濃度に大きな差は認められず,酸性化原因物質はこれら以外の成分の可能性もあることが示唆された.

第3章では、ベイスギ揮発成分の性質とその文化財材質に対する影響が検討された。 ベイスギ自体を対象に,揮発成分の特性とその文化財材質への影響が、GC-MS分析や文化財材質変質促進試験などにより検討された。その結果,ベイスギ揮発成分は酸性を示し,金属(鉄,銅),顔料(密陀僧,鉛白,緑青)などを著しく変質させることが確認された。さらに、特徴的な成分としてヒノキチオールが検出された。

第4章では、収蔵庫材料として多用されているスプルース、キリ、スギの各揮発成分の性質とその文化財材質への影響が検討された。

スプルース,キリ,スギを対象に,第3章と同様の検討が行われ、さらにベイスギを含めた4樹種を比較し,文化財材質への影響の樹種依存性や収蔵庫・展示ケース材料としての適性が考察された。その結果,

1)文化財材質に与える影響は樹種によって大きく異なり,ベイスギ > スプルース >> キリ > スギ の順で大きい。

2)影響の度合いは,総揮発成分よりも,酢酸やヒノキチオールなど特定成分の量や割合に依存する可能性が高い。

3) ベイスギでのみ鉛白と緑青が変色するなどの知見を得,ベイスギは4樹種の中では最も収蔵庫内装材料に適さない木材である。

と結論された.

第5章では、文化財材質への影響が大きかったベイスギ、スプルースを対象に、各揮発成分中の文化財材質の変質原因物質が検討された。

木材揮発成分の中からいくつかの変質原因候補物質を選定し,それらをそれぞれ単独で文化財材質に作用させた場合(特揮試験)と,木材揮発成分を作用させた場合(木揮試験)とで,レーザーラマンスペクトルなどを比較することで,変質原因物質の推定が試みられた。その結果,

1)ベイスギ揮発成分中では,密陀僧の場合は酢酸,密陀僧以外の文化財材質(鉄,銅,鉛白,緑青)の場合はヒノキチオールが変質原因物質である可能性が高い。

2)スプルース揮発成分中では,密陀僧の変質原因物質は酢酸であるが,鉄や銅を変質させるのは,本研究で対象とした候補物質以外の成分である可能性が高い。

などの知見を得た。

以上、本論文では揮発性で不安定、さらに極微量のため分析が難しい木材から放出される揮発性物質を対象に,新たな分析手法で文化財材料の変質原因物質を明らかにした。また、これまで収蔵庫材料として推奨されてきたベイスギが,本実験条件下では最も文化財材質への影響が大きく,また変質原因物質も,樹種や文化財材質によっては,木質系収蔵庫の汚染因子としてこれまで着目されていた酢酸やギ酸以外の成分の影響が大きい可能性があるなど,文化財の保存・空気環境対策を考える上で重要な知見を得たもので、文化財保護上の問題を解決するものであり、学術上、応用上貢献するところが大きい。

よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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