学位論文要旨



No 216406
著者(漢字) 山下,一仁
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,カズヒト
標題(和) 国際農産物貿易規律の形成と農政の政治経済分析
標題(洋)
報告番号 216406
報告番号 乙16406
学位授与日 2005.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16406号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 助教授 小田切,徳美
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

第I部 農業問題の特色

国際農産物市場は、国内市場の限界供給市場と政治がらみの市場という性格を持つ不安定な市場である。今後の食料事情については、需要面では途上国を中心として、人口、所得の増加という増加要因がある一方、供給面では、単収の伸びの鈍化が指摘され、供給曲線は以前ほど右方へシフトしなくなっている。また、生産を集中させているアメリカ、オーストラリアなどの新大陸の諸国では、農業に不可欠かつ代替不能な生産要素である水、土について、地下水枯渇、土壌流出、塩類集積など大規模畑作地域等において生産の持続が懸念されるようになっている。

農業生産活動について、輸入国で多面的機能という外部経済効果があり、輸出国で地下水枯渇等の外部不経済効果がある場合は、貿易自由化は地球規模で環境負荷を増大させる。我が国が米、麦等の農産物の輸入を増加すれば、アメリカ等の農業生産、環境負荷を拡大させるのみならず、日本農業の環境便益を減少させる。

第II部 国際農産物貿易規律の形成

各国の農業政策が農産物貿易交渉にいかなる影響を与えてきたかを概観する。

ガットの原則に対し、50年代価格支持に依存していたアメリカの要求により、農業分野では、輸入数量制限を認めるガット第11条第2項、1次産品については輸出補助金を認めるガット第16条という例外が設けられた。

ウルグァイ・ラウンドは、WTO(世界貿易機関)にサービス貿易や知的財産権の保護等も取り込んだが、農業分野でも、数次のラウンドを経てやっとアメリカが70年代以降世界貿易を歪め続けたECの共通農業政策を捕まえたこと、市場アクセス、輸出補助金のみならず、国内の農業政策までWTOが規制することとなったという点で、画期的な交渉だった。交渉中の1992年、ECは、穀物や牛肉の支持価格を大幅に引き下げ、農家に対する直接支払いによって補うという改革を行い、過剰生産を減少させることにより補助金付き輸出量の削減を可能とした。

EUは92年、00年の穀物等の改革に続き、03年乳製品の支持価格を引き下げるとともに、作物ごとの直接支払いの相当部分を生産とデカップルされた緑の政策へと変更した。今では、EUの穀物支持価格は、小麦シカゴ相場を下回り、EUはアメリカ産小麦に関税ゼロでも輸出補助金なしでも対抗できる。しかも、交渉に先んじて農政改革を行い、これをもって関税引下げ、輸出補助金撤廃を提案するなど今次WTO交渉に積極的に対応している。

EUがアメリカと同じ納税者負担型農政に転換したため、アメリカ・EU対日本という農政の構図になっている。直接支払いによって関税依存度を低めているアメリカやEUと異なり、米、麦、乳製品等に突出した高関税を持つ日本にとって、関税水準の維持は最重要交渉課題である。以上の観点から、今次WTO交渉の現状と展望を概観する。

法的に見ると、WTOの中でも農業協定は補助金のバインドを規定するなど特殊な協定である。WTOの司法化がいわれる中で、農業関係で二つの重要なパネル・上級委員会の判断が行われたが、それは、農業協定の特殊性を踏まえたものではなく、またウルグァイ・ラウンドの交渉当事者の理解とも大きく異なっている。EUの砂糖のケースは交渉経緯とは異なるが、経済学的には妥当な判断が下された。しかし、アメリカの綿花のケースでの国産優先補助金、輸出信用等についての判断は、交渉経緯のみならず、法律学・実体経済の点からみても、妥当ではない。ウルグァイ・ラウンドの交渉参加者として、WTO農業協定の解説を行なうとともに、最近のパネル・上級委員会の判断を批判的に検討する。

第III部 WTO・FTA交渉の経済分析

ガット・WTOの非経済学

貿易の利益は輸入・消費の利益であるが、輸出はいいことだという重商主義の論理が世界の通商交渉を支配している。このような観点から、輸出補助金、輸出税、自由貿易協定に関するガット・WTOの諸規定が国際経済理論を反映したものではないことを示す。

また、消費者負担による関税と納税者負担による直接支払いは農業保護の手段の違いである。これまで財政当局と折衝するより抵抗が少ないため、関税という手段を採ってきた。しかし、直接支払いは、消費や貿易への歪みをなくし国民経済全体の厚生水準を高め諸外国との貿易摩擦を避けるとともに、受益の対象を真に政策支援が必要な農業や農業者に限定できる。

食料安全保障と多面的機能

土地という生産要素については、いったん農地が工業用地や宅地に転用されればもとの農地には容易には戻らないという特徴がある。貿易による農業生産の縮小に伴い、農業から工業へ土地が移動する。しかし、その後、工業製品と農産物の国際価格比が貿易前の国内価格比に戻ったとしても、土地は農業に復帰しないため、我が国の農業生産は貿易前の水準を回復できない。その結果、以前の自給自足経済の価格比率の下でも、日本は食料を輸入し続けなくてはならなくなる。つまり、日本経済は交易条件の悪化により、通常考えられる以上に窮乏化する。

農家所得と並ぶ農政の目的である多面的機能は、多くの場合生産要素とはリンクするが生産量や生産物とはリンクしない。したがって、多面的機能と直接関連する生産要素に対する支払いのように対象を絞った支払いが最も効率的である。WTOは農家所得維持の観点から生産とデカップルされた政策を緑の政策としてきたが、多面的機能のために緑の政策の追加が必要となる。

第IV部 我が国農政の展開過程

我が国農業の衰退の要因を、土地の賦存量が相対的に少ないことによる比較優位のなさに加え、高米価政策やゾーニングの欠如という政策の失敗により農業生産が生産可能性曲線上に位置しなくなっていることを挙げる。特に、米価の上昇により農工間の所得格差を是正しようとした政治メカニズムを国際経済学の特殊要素モデルによって説明するとともに、その政策効果をBC過程とM過程に分けて分析し、国際競争力低下と食料自給率低下という大きな副作用をもたらしたことを明らかにする。

第V部 新国際貿易規律の下での農政理論

近年における農地のかい廃要因は耕作放棄が転用を上回っている。耕作放棄の原因が米価の低下にあることを、派生需要の理論を用いて明らかにする。そのうえで耕作放棄防止の対応策として、規制、税、補助金(直接支払い)について検討し、耕作放棄防止のみならず農業の構造改革(規模拡大、コストダウン)、食料自給率の向上のためには、直接支払いが最も優れた政策であることを示す。特に、構造改革の遅れた稲作については、生産調整を廃止して米価を需給均衡価格9.5千円程度まで下げ、所得を大きくマイナスにすれば副業農家は耕作を中止し、農地は貸し出される。一方、一定規模以上の主業農家に耕作面積に応じた直接支払いを交付し、地代支払能力を補強してやれば、農地は主業農家に集まる。農地の集積による規模拡大・生産性の向上により農産物価格をさらに引き下げ、国際価格へ接近させることが可能となる。

このような農政改革を実施してこそ、米の生産調整廃止による米生産の拡大及び米と他作物の相対収益性の是正を通じた他作物の生産拡大による食料自給率の向上、国民・消費者への安価な食料の安定的供給、消費者価格低下による国民負担の軽減、安い原料農産物供給を受けられる食品産業の発展、担い手農家の所得向上、規模の大きい農家ほど農薬・化学肥料の投入を抑制することによる環境にやさしい農業の推進という目的を達成できる。

しかし、農政の研究のためには経済分析のみでは不十分である。農業のみならず、現実の政策は経済学者の示す規範的な政策からかけ離れており、政治過程を探求する必要がある。

農業基本法作成後の農政においては、貧困な小作人や消費者というグループが消滅し、農協=自民党=農林省の農政トライアングルが定着した。農協組織の維持のためには、高い農薬・肥料・農機具等を農家に売る必要があったし、需要が非弾力的な下では米価引上げは販売手数料の拡大につながる。米価引上げ、生産調整による価格維持が、農家よりも農協組織の維持のために必要となった。これにより、構造改革は失敗した。日本の農地改革、国鉄改革、金融ビッグバン、ニュージーランドやEUの農業改革等成功した構造改革には、(1)強い政治的リーダーシィップ、(2)改革の必要性、重要性、緊急性についての国民の理解と支持、(3)改革される部門の中に改革支持グループが存在するという共通の特徴がある。これを踏まえ、農政改革実現のための政治プロセスを展望する。

(表)各国の政策比較(2002年以降)

(図)生産調整廃止と直接支払いの効果

審査要旨 要旨を表示する

今日の農業政策のありかたは、農産物貿易をめぐる国際規律の動向に強く規定されている。したがって逆に国際規律の形成に影響力を行使することが、各国の農政当局の重要な戦略課題となっている。一方、農業政策の策定プロセスに政治的な介入による歪みが生じることも、各国に共通して観察される現象である。社会全体の厚生水準を改善する合理的な政策も、しばしば特定の利益集団による政治力の行使によって実現に至ることなく終わる。

本論文は、わが国農政の根幹をなす農産物市場政策、食料安全保障政策、農地政策、中山間地域政策を取り上げて、ミクロ経済学の部分均衡分析を厳密に適用することで効率性と所得分配の両面から評価するとともに、合理的な農業政策を設計する観点から、WTO体制下の国際規律の特質を批判的に吟味し、あわせて戦後の農政展開をめぐる政治過程に分析を加えたものである。論文は5部構成の全12章からなる。

第I部は第II部以下の分析の前提条件を論じたパートであり、農業の有する正負両面の外部性と国際的な農産物市場の特性について、政策的なインプリケーションの観点から整理される。すなわち、供給スケジュールの右方シフトの鈍化と不安定要因の表面化によって特徴づけられる国際市場と、輸入国における外部経済と輸出国における外部不経済という対称性が、本論文の分析の前提認識として強調される。

第II部では、1993年に実質合意されたWTO農業協定を素材として、国際規律の形成と実行のプロセスを批判的に吟味している。具体的にはWTOパネル上級委員会で審決の下されたEUの砂糖補助のケースとアメリカの綿花補助のケースについて、ウルグアイラウンド交渉の実務者レベルのドキュメントに及ぶ詳細な検証作業の結果、審決が交渉当事者の意図とは異なるバイアスを有していることが明らかにされた。このファインディングスは、WTOの司法化の流れのもとでの警鐘として、国際的にも価値ある成果である。

第III部は、自由貿易の優位性を説くオーソドックスな貿易理論に対して、農業の特質を組み込んだ部分均衡分析を通じて、いくつかの限定を加えるべきことを明らかにしたパートであり、経済理論面における本論文の重要な貢献を含んでいる。とくに食料の安全保障の見地から、農地・非農用地間の転換の非可逆性と国際的な食料自給の不安定性を考慮するとき、自由貿易が経済厚生の最大化に必ずしも結びつかないことが論証される。分析に用いたモデルは2要素のボックスダイアグラムと生産フロンティアから構築されたシンプルなものであるが、技術進歩と要素転用の非可逆性を明示的に組み込み、一種の窮乏化成長の可能性を示した点に理論面での独自性が認められた。

第IV部と第V部では、政治過程を含めて国内における農業政策形成のプロセスを分析するとともに、合理的な政策設計の観点からいくつかの具体的な提案を行っている。戦後の農業政策形成のプロセスについては、政府・政権党・農業団体からなる主要なプレーヤーとともに、財政当局・経済界・消費者団体などの対抗勢力の果した役割を、農地改革以前と改革以後に大別してトレースするとともに、中山間地域等直接支払制度をケーススタディの素材として、いわゆる農政トライアングルの構造と機能を具体的に明らかにした。

本論文の農業政策のありかたに関する提案は、ターゲットを絞った多面的機能の増進策、価格支持政策に代わる直接支払い、農地に関する厳格なゾーニングなど、多岐にわたっている。いずれの提案もミクロ経済学の分析に裏打ちされたものであり、なかでも農地の転用と耕作放棄の発生メカニズムを解明するためのツールは、農地市場の部分均衡モデルを取引に逆有償を要請するバッズの領域に拡張した点で、理論モデルとしても優れた特徴を備えている。

以上を要するに、本論文は国際的な貿易規律の動向と国内の政治環境の特質を視野におさめて、農業政策のありかたについて経済学の観点から分析を加えたものである。分析に用いられた理論モデルには高い独自性が認められ、導出された結論は現下の農業政策の問題点を的確に捉えている。このように本論文は、農政の経済分析の分野において、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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