学位論文要旨



No 216411
著者(漢字) 中村,文
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,アヤ
標題(和) 後白河院時代歌人伝の研究
標題(洋)
報告番号 216411
報告番号 乙16411
学位授与日 2006.01.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16411号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 群馬県立女子大学 教授 石川,泰水
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、保元から建久に至る時期(西暦1156〜1199)、すなわち後白河院が院政を敷いていた平安末〜鎌倉初頭に和歌活動を行った人物を対象として、公卿日記を初めとする記録・文書類や撰集・家集等残る事績に基づいた伝記考証を行い、各人の生涯を政治・文雅の両面から明らかにした。また、雅会形成の実態とその原拠となる歌人相互の結びつきの契機を探って、歌壇の動向と当代文化の特質について考察を加えた。新古今時代の前夜にあたる当該期歌界の検証を通して、和歌史における後白河院時代の位相を明確にすると同時に、中世和歌世界が前代とどう連接あるいは断絶しているかの解明を目指した。問題意識・方法を同じくする十八篇の論考を収めるが、対象人物の階層や詠歌の場によってI〜Vに分かち、五部構成とした。

I(第一章〜第五章)では、後白河院と政治的に密接であった上中流貴族、藤原隆信・同実定・同実家・平親宗、及び信西(藤原通憲)の子息藤原成範・脩範と僧澄憲・静賢を取り上げた。これらの人物は保元の乱や後白河院と二条天皇・平清盛の対立・確執等の政治情勢の影響を受けて、若年時に不遇を経験したが、その時期に参加した歌林苑など地下・隠遁者による歌筵が歌人としての始発点となり、階層を異にする人々と共通する秀歌詠出への執着や同座者と共に詠歌を楽しみ合おうとする風雅の姿勢を生涯にわたって持ち続けた。また、彼らは上西門院・建春門院らの女院御所で催された雅会に参じ、その女房と花・紅葉観覧の逍遙を行ったが、その行動は当事者以外の反響を呼び、和歌を介して風流な体験が共有された。「艶で優雅」と評される当代文化は、階層や出仕先等の社会的な枠組みを越え風雅心において共振し合ういくつもの〈場〉の総体の上に成立していたと考えられる。後白河院に近侍する廷臣や院女房に詠歌の事績や雅事への関心が認められることは、従来、「正統的な文化」と無関係であったとされてきた後白河院の当代文化への関与を示唆していよう。

II(第六章〜第八章)では二条天皇周辺の人物を扱った。第六章では二条天皇内裏百首に参加した源雅重・藤原定隆・源通能の伝記考証を通して、同歌壇が白河・鳥羽両院政下で政治権力から疎外された源有仁・崇徳院らの雅会の系譜に連なることを示した。登極に至る特異な事情や父後白河院との確執、後援者美福門院の死など、王権の基盤を揺るがす諸条件に囲繞される二条天皇にとって、和歌・管絃への傾倒は単に風雅愛好心の発露に留まらず、文化を統べる帝王たることを表明し自らの正統性を確認する手段としての意味を持つ。雅重・定隆らは天皇の立場を深く理解し、近臣としてその文雅の場を支えていたのである。第七章では二条天皇内裏歌会に出詠した源有房を取り上げ、後白河院近臣の親宗・親盛らに催して有房が結構したと推定される高松宮歌合や治承二年廿二番歌合など、石清水社の文化サークルと連携しての雅会を考察して、従来の和歌史が注目しなかった歌壇の傍流的な和歌の〈場〉を明らかにした。第八章で取り上げた藤原長方も二条天皇歌会の参加者である。有能な実務官僚としての生涯を辿るとともに、場に即した柔軟な政治姿勢を晩年期に院近臣と共に囲んだ歌筵の性格と関わらせて論じ、俊成の甥でありながら必ずしも御子左的ではない歌風の背景を探った。

III(第九章〜第十一章)では嘉応二年(1170)に建春門院御所北面で催された歌合の出詠者を取り上げた。第九章では、まず当時の政治状況が後白河院に主導されていたことを検証し、作者の大半に院との政治的な密接さが認められることを述べて、当歌合が親平家貴族による正統的宮廷文化の復権を目指した催しであるとする従来の把握に反証を示した。次いで、出詠者の藤原公通・源通親・藤原実房らの歌歴を検討し、当歌合以前に人々を誘った逍遙行を企画し、地下・出家者を招いた歌合を主催したことを確認した。当歌合の背景には歌林苑などとも共通する、風雅な空間を共に享受しようとする心性が存したのであり、高倉天皇・建春門院を軸に成立していたとされてきた当代文化についても、階層を越えて人々を結びつける風雅指向の姿勢の総体として把握する必要があると考える。第十章では源季広を扱い、摂関家家司としての生涯を辿り、その詠作契機を明らかにするとともに、代を重ねて次第に「和歌の家」へと変容していく過程を追った。第十一章では藤原盛方を取り上げた。参加した数多くの雅会を検討して、その主催者が階層や家筋によって限定されないことを示し、当代歌壇を歌会開催の場や御子左家・六条家の対立によって理解してきた従来の方法が無効であることを論じた。また、詠作の分析を通して、当該期に新たに開拓された表現が新古今時代に継承されていく様相を明らかにした。

IV(第十二章〜第十四章)では興福寺・東大寺僧の和歌活動を考察した。第十二章では後白河院と密接な関係を保ち興福寺別当に至った範玄を取り上げ、院権力を背景に寺内勢力を統率して政治的に活動した僧の生涯を通して、戦乱による荒廃からの復興期にあった南都の様相を示した。また、範玄が親盛・親宗らの後白河院近臣や隠遁者層と繰り返し歌筵を囲むことから、共通する顔ぶれによって支えられる雅的空間の存在を〈歌圏〉と名付けて想定した。〈歌圏〉はメンバーの公的活動の場や縁戚関係を通して拡大し、個々人の繋がりによって相互にゆるやかに結びつき合っていたことを推測し、当該期に催行された院近臣や地下・隠遁者を作者に含む歌合は、これらの〈歌圏〉が統合的に流入した結果、成立したとの仮説を提示した。第十三章では興福寺僧の和歌活動を取り上げた。南都で成立した私撰集『楢葉集』を主な資料として歌合・歌会を復元し、主催者・出詠者の位相を検証した結果、興福寺における雅会が、臈次を積んで寺内の地位を確立し、院家・自房等の自由に裁量できる空間を確保しえた僧の許に、若年の僧が所属する院家や法脈に拘わることなく集まることで成立していたことを明らかにした。また、「菊苑僧正庚申講会」について主催者や成立時期を推定した。第十四章では東大寺東南院で行われた歌会を取り上げ、主催者定範と出詠者宴信・聖玄・頼覚について伝記考証を行い、興福寺の雅会と同様の成立事情であることを明らかにした。

V(第十五章〜第十八章)では実務官人や地下・隠遁者層の和歌活動について考察した。第十五章では地下・隠遁者による文芸サークルと位置づけられてきた歌林苑を取り上げた。まず、歌林苑での詠作を確認しうる人々について、他の雅会への同時並行的な出詠状況を示して、同一の文芸観で結びついた集団の活動としてきた従来の把握への反証とし、かつ歌会開催の場によって歌壇を分節する方法が適切ではないことを述べた。次に、家集詞書の検討から、歌林苑とは詠歌したいと願う者が自由に出入りできる開放的な〈場〉に名付けられた名称であり、風雅心を共有する人々の集い合いを契機に詠歌空間が立ち上がる点において、他の歌会と通有の性格を持つことを明らかにした。当代歌壇はこうした〈場〉の集合として捉える必要があり、非文芸的な〈場〉から歌会が生じる例を見ても、歌林苑を文芸性追究の姿勢で統合された特異な〈場〉と把握することは妥当ではないだろう。第十六章では後白河院に近侍した地下官人を取り上げた。まず、源仲頼・中原清重ら九名の伝記考証と、彼らが催した雅会の検討を行った。当該期には承安二年東山歌合など作者に院近臣の地下を多く含む歌合があり、これに他の和歌事績が殆ど残らない地下官人が加わるが、院北面への祗候や衛府官人等の職務を通して歌筵を共にしたことで生じた地下層の和歌ネット・ワークが、この現象の背景に存したと推定される。また、院近臣の貴族とも結びついて、多く賀茂・新日吉・若宮社など所縁の神社社頭で歌合を開催しており、地下層の和歌の〈場〉が歌林苑に限定されなかったことは明らかである。さらに、その詠作に見られる当意即妙の表現で座を沸かそうとする傾向を、芸能を担う検非違使・衛府官人の職掌と関わらせて論じた。第十七章では、詠作が数首しか残らない実務官人層を取り上げた。中原久盛・藤原敦経・同敦仲らの伝を辿りつつ、彼らが歌合に参加する契機が、血縁関係や公的活動を通して得た人脈、私的に仕えた主家との関係などにあったことを検証して、雅会での同座が歌観の一致を意味しないことを論じた。また、「きね(巫覡)」の語を用いた詠作を検討して、官人層の庶幾した人の動きを髣髴とさせる歌風が俊成歌観と一致しないことを述べた。第十八章では文治二年(1186)に藤原経房が催した歌合を取り上げた。経房及び出詠者の伝記考証を行い、当歌合では縁戚関係や職掌を通した人脈によって作者が選定されていることを指摘した。また、当歌合に出詠した院近臣の地下層が、建久二年(1191)若宮社歌合や正治二年(1199)石清水若宮歌合に多く参じ、このうち大江公景や静賢は後鳥羽院歌壇でも活動していることから、地下層による〈歌圏〉は長く継続し、一部は新古今時代にまで流入してその成立を支えたと推測されることを述べた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、平安時代最末期から鎌倉時代初頭にわたる時期、すなわち後白河院が院政を敷いていた時期に作歌活動を行った者たちの動向を精緻に解き明かしたものである。

従来、当該時期は和歌を愛好し歌会を繰返した前代の堀河・崇徳両院の時代と、後鳥羽院を中心とする新古今歌壇との狭間にあって、王朝的文化は平家の権勢と経済力とを背景とする建春門院や高倉天皇の宮廷が担っていたとみなされてきた。また、この時期の歌壇を領導した藤原俊成の歌観が後進に多大な影響を与え、新古今時代の新風を招来するのに大きく貢献したために、俊成的な歌観に沿った詠作を創出しなかった和歌行事や歌人が見過ごされてきた観がある。しかし、本論文は、この時代の文化状況の全体像を偏らない視座から過不足なく把握するためには、当代歌壇を支えた後白河院近臣や地下歌人たちの和歌活動を広く視野に収めなければならないという問題意識のもとに、以下の諸論によって構成されている。

I「後白河院周辺の廷臣たち」では、後白河院と政治的に密接な関係を持ち続けた、藤原隆信、藤原実定・同実家、平親宗、信西の子息たちの伝記が論じられ、彼らが地下・隠遁者との交流を持っていたこと、建春門院ら女院御所での歌会・逍遥などの風雅な催しに深く関与していたことを述べ、後白河院を当代文化から排除して考えるべきでないことを明らかにする。

II「二条天皇とその周辺」では、従来、和歌史的な評価がほとんどなされてこなかった二条天皇内裏における和歌活動を採り上げる。父後白河院との確執がもたらした政治的な必然性から伝統的な雅事全般を主宰しようとした天皇の意図を捉えている。第七章「源有房」においては従来の和歌史では掬い上げられなかった傍流的な歌会の企画者としての重要性を指摘し、第八章「藤原長方」においては、有能な実務官僚として生きた人物の和歌活動を明らかにしている。

III「建春門院北面歌合の詠者たち」では、<高倉朝文化圏>を代表する催しとして捉えられてきた当該歌会の出席者を検討し、歌林苑参加との相関性が認められることを指摘し、源季広をめぐって摂関家の家司層の和歌活動の実態の解明を通して、その家が代を重ねることで<歌の家>へ変容すること等を明らかにする。

IV「南都歌壇」では、当該時期の東大寺・興福寺の僧の和歌活動を考察し、後白河院と密接な関係を持ち、京都の政界・歌界でも活躍した範玄を始めとする南都の僧侶による歌会の有り様を明らかにする。

V「歌壇群像」では、地下官人や出家隠遁者層の和歌活動を採り上げている。とりわけ第十五章「歌が詠み出される場所」では、歌林苑を従来、文芸的な結社活動として捉えてきたが、その実態は、血縁や姻戚関係、あるいは職掌などを通してゆるやかに繋がりあう人々が、歌筵での同座を希求し、歌稿や典籍を貸借しあうなど、階層を超えて様々な形で結びつこうとしていた中から自然発生的に生じたものであり、必ずしも純粋に文芸的な空間として存在したわけではないこと、人々が集いあっての詠歌の場は和歌が特権的に先行して存在したのではなく、連歌や今様、蹴鞠などと同列のレベルで混在する空間から、参会者の共通意志に促されて発生することもあったということを明らかにしている。こうした趨勢は他の場にも通有の性格であったことを論じている。

以上の観点から、新古今時代前夜の当該時期における歌壇の動向と個々の歌人の生涯とそれらの連関を跡付けることによって、当代の文化的状況を精緻に解明している。

なお、詠歌自体のより深い検討が要請されるであろうし、論者の提出した歌圏という用語が適切であるかどうか、さらに検討する余地があると思われるが、従来、曖昧に扱われることが多かった後白河院政期の和歌活動の実態を詳細に解明した点は高く評価される。本審査委員会は上記のような研究史的意義を認め、本論文が博士(文学)に十分値するとの結論に至った。

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