学位論文要旨



No 216418
著者(漢字) 坂野,徹
著者(英字)
著者(カナ) サカノ,トオル
標題(和) 日本人類学の軌跡‐1884‐1952年
標題(洋)
報告番号 216418
報告番号 乙16418
学位授与日 2006.01.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16418号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 助教授 佐藤,健二
 東京大学 講師 岡本,拓司
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、近代日本における人類学の歴史的展開を、日本で初めて人類学の学会が設立された1884年から、太平洋戦争敗戦をはさんでGHQによる日本占領が終了する1952年までの時期に焦点を当てつつ検証しようとするものである。

周知のように、人類学は西欧の植民地拡大と密接な関係をもちながら発展してきた学問だが、日本における人類学の歴史に関する本格的な検討が始まったのは、1990年代に入ってからのことだといってよい。サイードのオリエンタリズム批判などに影響された文化研究や、近年の民族主義の高まりを背景とした民族・人種問題をめぐる批判的検証、さらには地域研究者を中心とする日本の旧植民地に関する歴史研究の進展によって、90年代以降、人類学者の植民地支配への関与や自-他認識の問題などについても、多くの研究が積み重ねられてきた。

だが、こうした多様な領域の研究者による人類学史に対する関心の高まりの一方で、日本における人類学(自然人類学、民族学、民俗学)の歴史を科学史的観点から総合的に跡づけた研究はいまだ現れていない。そこで、本稿では、こうした近年の研究蓄積をも踏まえつつ、日本における国民国家形成や植民地の拡大、さらには太平洋戦争の遂行といった近代日本がたどった歴史と密接な関わりをもちながら、人類学者が多様な調査研究を推し進めていった姿が描き出されることになる。

まずは、本稿の各章における課題とそこで明らかにされた内容について概略を述べておこう。日本における人類学の歴史について、本稿で最初に焦点を当てたのは、その誕生の局面である。草創期の日本における人類学に関しては、従来、いわゆるお雇い外国人教師の研究に関心が集中し、日本人による人類学研究の受容・開始についての踏み込んだ分析はなされてこなかった。そこで第1章では、サイードのオリエンタリズム批判を踏まえつつ、西欧の研究者による日本への眼差しを意識しつつ研究を開始した明治期日本の人類学者が、西欧による観察の眼差しに抗しながら、いかなる調査研究の主体を形成していったかを検討した。そこで具体的に明らかにされたのは、西欧のオリエンタリズムに対して日本の人類学者が採った様々な抵抗の戦略であった。

続く第2章において考察したのは、人類学者による日本人の起源をめぐる研究である。日本では、明治期以来、現在に至るまで、自然人類学者を中心に日本人の起源をめぐって様々な理論が提唱されてきた。こうした研究は一般に日本人種論と呼ばれるが、人類学者による日本人起源論の提唱は、近代国民国家成立以降における日本人の自己認識と密接に関わっている。本章では、近代的国民としての日本人意識の形成とともに人類学者の日本人種論が生まれる過程や、それらの理論が同時代の日本が置かれた政治的・社会的状況(植民地支配、太平洋戦争など)に規定されている姿を詳細に明らかにした。

それに続いて検討したのは、日本の人類学における他者認識、より具体的には植民地における調査研究をめぐる問題である。この問題に関しては、近年、次々と個別研究が発表されているが、日本の人類学者が植民地支配下に置いた人々に対していかなる眼差しを向けていたのかを総合的に検討したものはいまだ現れていない。そこで、第3章から第6章では、近代日本が新たに領有した地域(北海道、台湾、朝鮮、ミクロネシア)で実施された調査研究を取り上げ、人類学者の他者認識について検討した。ここで注意しなければならないのは、西欧における人類学の海外調査とは異なり、戦前日本の人類学者が対象としたのは「同じ」アジアの民族であったということである。したがって、第3章から第6章では、日本の人類学者による観察対象への眼差しが、そこに見出される他者性と同質性とのあいだで揺れ動く様相が描き出されることとなった。

そして、最後に分析の俎上にのせたのは、太平洋戦争中における人類学者の調査研究である。日本の人類学は、太平洋戦争が戦われた1940年代前半、飛躍的な発展を遂げるが、第7章で、戦時体制下における人類学研究の展開を跡づけた上で、第8章において、敗戦後の人類学者が太平洋戦争をどのように総括したかを検討した。ここでは人類学の各領域(自然人類学、民族学、民俗学)の戦争協力を比較検討しつつ、太平洋戦争中における人類学研究の発展を可能にした条件について探るとともに、日本の人類学における戦時中と戦後の連続性/非連続性について考察した。

以上、各章の議論で明らかにされたことを確認したが、総じていえば、本稿が課題としたのは、人類学という知のなかで、もともと被観察者の側にあった日本(人)が自ら観察者の側へと移行するとともに、植民地/占領地における他者支配と密接な関わりをもちながら進められた調査研究の政治性に関する分析であったといってよい。そこで、最後に戦前日本の人類学者における自-他認識とその政治性をめぐる問題にしぼって、本稿で最終的に導き出された結論的考察を述べておこう。

戦前日本の人類学者による海外調査における第一の特徴は、当然のことではあるが、その調査対象となったのが日本の植民地支配下に置かれた地域の人々だったということである。人類学者は、日本の版図拡大に伴って次々と植民地住民をその研究対象へと組み込んでいったのであり、戦前日本の人類学における海外調査とは実質的に植民地研究にほかならなかった。

そして、各植民地で調査研究を実施していた人類学者に共有されていたのは、ひとまずは植民地住民の「文明化」によって消失する文化の記録・採集という目的意識であったといってよい。西欧の人類学者にも広くみられるこうした定型の語りは、他者に対する西欧の眼差しを日本の人類学者が内面化していたことを示している。

だが、ここで注意しなければならないのは、日本の人類学における観察者と被観察者とのあいだの「近さ」という問題である。西欧の人類学の場合、そこで主たる研究対象となったのが地理的に遠く離れた地域(アフリカ、アジアなど)の住民であったのに対して、日本の人類学者が主な調査対象としていたのは、日本列島から地理的に近く、文化的・身体的な類縁性も高いと考えられる「同じ」アジアの人々であった。

これは、植民地獲得競争に遅れて参加した日本が包摂し得たのがもっぱら日本列島周辺地域だったことに起因しているが、こうした地域の人々を対象とするがゆえに、日本の人類学においては、研究対象となった人々と日本人の起源の共通性がしばしば語られることになった。したがって、戦前日本における人類学者の海外調査においては、研究対象となる植民地住民と日本人のあいだの「近さ」が問題とされ、それが日本人種論に代表される日本人の自己認識に関わる研究と直結していたことを第二の特徴として挙げることが出来る。

しかしまた、ここで興味深いのが、人類学者の研究対象となった植民地住民と日本人との文化的・身体的距離についての語りは、同時に日本人の集団的同一性をめぐる表象を揺るがす可能性を有していたという点である。例えば、「未開」「野蛮」とみなされたアイヌ民族やミクロネシア人、さらには太平洋戦争中における東南アジア地域の「原住民」と日本人との混血をめぐる言説にそれは最も典型的に現れている。人類学者によるアジア各地の人々を対象とした調査研究は、日本の植民地(勢力圏)拡大のなかで、日本人の自己同一性をどのようにして確保するかという問題意識とも深く結びついていたのである。

むろん、このような「かれら」と「われわれ」との距離への眼差しは、日本の人類学固有のものだというわけではない。だが、ここで確認しておきたいのは、「同じ」アジアの人々を対象とするがゆえに現れた、他者をめぐる語りが絶えず自己言及と結びつく構造である。乱暴に整理すれば、西欧の人類学の場合、自分とは異質な他者を観察し、定義しようとする営みは、観察する/されるという非対称な関係のもとでは、観察する主体たる自己への言及を必ずしも必要としない。それに対して、日本の人類学における「同じ」アジアの他者への眼差しは、他者のあいだに自己を「発見」させることになったのである。

ただし、このことは、日本の人類学者の他者認識が西欧のそれよりも深いレベルに到達していた、あるいは自己への反省を伴うものだったということを意味しない。異質な他者との出会いのなかで、自─他をめぐる常識的な思考枠組みの破壊へと至るのが人類学という知において本来あるべき他者認識のあり方だとすれば、「同じ」アジアの人々を対象とした人類学者の調査研究に刻み込まれた包摂と排除の論理を見逃してはならない。周知のように、日本は、植民地支配下に置いたアジア各地の人々に対して、多かれ少なかれ同化を強制することになったが、それは決して他者を「日本化」することで「われわれ」と完全に同じ位置に置こうとするものではなかった。そして、人類学者は、植民地住民と日本人との人種的・文化的類縁性を語ることで、しばしば植民地の日本への包摂を正当化したが、その一方、植民地住民と日本人とのあいだの混血をめぐる人類学的言説は、「かれら」が「われわれ」と文字通り一体化することを避けたいという排除の論理が作動していたことを物語っている。このような意味で、日本の人類学者による自─他関係をめぐる研究は、まさしく近代日本のアジアとの関係を映し出す鏡にほかならなかったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文の概要

本論文で坂野氏が解明しようと試みたのは、明治初期である1884年から第二次世界大戦後である1952年までの日本人類学史の包括的な通史の記述であり、またその特徴の解明である。なお、現在では文化人類学(民族学)・自然人類学(形質人類学)・民俗学に分化しているが、人類学が日本で開始された当初においてこれらはさほど分化していなかったため、本論文では総称として人類学なる用語が使われている。

日本人類学通史の試みの嚆矢は寺田和夫『日本の人類学』(思索社、1975年)である。本論文が第二の試みとなる。『日本の人類学』は労作であり、好著であるが、同書は基本的に学説史であり(科学史学の用語を使うとすればインターナルな方法論に基づいており)、また、寺田氏は自然人類学者であり、同書は綿密なテキスト分析に基づいているとは必ずしも言えなかった。本論文が、科学史家による初の本格的な日本人類学史となる。

本論文において坂野氏は、学説史にとどまらず、学説の変遷が同時代の日本における状況とどう関係していたかを分析の基本的視点に据える。すなわち、科学史学の用語によると、イクスターナルな方法論が主体となっている。その際、学問内における内的必然性以外の要因を坂野氏は「政治性」と規定し、「政治性」という観点から見た場合、日本人類学史はどう捉えることができるのかを追究していく。より具体的な問題設定は、以下の4点となる。(1)人類学はどのようにして日本に輸入されたのか。「みられる」側から「みる側」へどう移行していったのか。(2)「みる」側になったとき、人類学は日本人自身をどのような研究対象としたか。当時の人類学の研究動向は、帝国主義意識の高まりや、大東亜共栄圏といった思想にどう応じたのか。(3)「みる」側になったとき、人類学は同じアジア人をどのような研究対象としたか。(4)第二次世界大戦中、人類学はどう振る舞ったか。そして、戦後そうした振る舞いをどう総括したか。

「政治性」という視点からの具体的分析

上記の4点に対して、以下の回答が立証されてゆく。まず、「みられる」側から「みる側」へどう移行していったのかについて。日本は明治初期に諸学問を西洋から輸入したが、人類学もその一つであった。当時の人類学は進化論的説明が主流であった。つまり、生物学的にも(人種的にも)、文化的にも(民族学的にも)、現在のアフリカ系(当時の言葉では「黒人種」)、アジア系(黄色人種)、ヨーロッパ系(白人種)の順に進化が認められるのであり、また文化の程度も高くなっていくとみなされていた。そして、人類学の目的の一つは、白人種のつくった文化が世界に広まっていくことによって、程度が低い各民族固有の文化が消滅しつつあり、それらを記録保存することにあるとされた。こうした枠組みにおいては、日本人種および日本民族・文化は、程度が低いものであり、その限りで、西洋の文化人類学者の研究対象になるものであった。すなわち、日本人種および日本民族・文化は「未開な」「みられる」ものだったのである。

こうした理論構成をとる人類学を日本人はどのように受け入れたのだろうか。日本人種等の程度の低さをそのまま受容したのだろうか。これに対し、日本の人類学は、西洋の人類学をそのままでは受容せず、問題設定自体を変えることによって対処したと坂野氏は論証する。当時の日本人類学の実態は、江戸期以来の骨董趣味を色濃くもつものであった。これは単なる前近代的残滓なのではなく、坪井正五郎をはじめとする当時の人類学者が意図的に「好事家」として対応することによって、輸入元である西洋の人類学の問題構成をずらしたというのである。明治における西洋学問の輸入においては、多くの分野で、いわゆる和魂洋才、つまり西洋の学問を輸入する際には「技術」として輸入し、それを支える文化的側面を換骨奪胎することが見られたが、日本人類学ではそれがかくのごとき反応として現れたとされる。

次に、「みる」側になったとき、人類学は日本人自身をどのような研究対象としたかについては、このように論じられる。日本人類学は発足当時は上記のような態度で、日本人種等の程度の低さという論題をかわすことができたが、所詮それは一時的な問題解決に過ぎず、態度を明確にせざるを得なかった。この時期に研究テーマとして多く取り上げられたのが、現在の自然人類学的な日本人種論であった所以である。そこでは、いわゆるアイヌ人種と日本人種が対象となった。そして、日本人種交代論が提起されるに至った。アイヌは先住民族の生き残りであり、先住民族は確かに未開であったが、日本列島では人種の交代が起こり、現在の日本人種は他所から来た程度が高いものであったという結論によって、日本人種を未開とみる西洋理論に対抗せんとしたのであった。このように、資料の批判的検討に基づく議論の堅実な積み重ねというよりは、日本人種の程度の高さを立証するという「政治性」に当時の日本人類学は規定されていたと見るのが坂野氏の結論である。

その後大正期のデモクラシーの時代には、それまで混同されていた人種論と文化論が識別され、日本人種としては交代しなかったが、文化が変容したのだという理論が台頭する。この際、先住民族と進入してきた民族の混血が起こったのだとする説も現れた。しかし、15年戦争期になり、ナショナリズム的思想傾向が強くなると、日本人種の自己同一性を確保すべく、混血性が否定されるようになる。このように、日本人類学は当時の「政治性」に対応するような行動をとっていることが論証される。

第三の、「みる」側になったとき、人類学は同じアジア人をどのような研究対象としたかについては、こう論じられる。日本は帝国主義的膨張によっていくつかの植民地(台湾・韓半島/朝鮮半島・ミクロネシア)をもつに至った。そして、それらの植民地下の住民に対しても、人類学的研究が行われるようになる。このとき、植民地行政府は、植民地下の住民の日本人化に資するような研究を期す方向に誘導したかったと考えられる。日本人類学者は基本的にこうした傾向に沿いつつも、必ずしも全面的に従うわけではなく、各地の固有文化を保存する方向で研究を重ねるなど、「政治性」が狭い意味での政治的要求として現れてきた場合には、それに抗する学問的自律性を発揮する側面も見せたのである。

最後の、第二次世界大戦中、人類学はどう振る舞ったか、戦後そうした振る舞いをどう総括したかについては、次のように論じられる。第二次世界大戦時になると、自然人類学・文化人類学・民俗学の分化も進み、それぞれが違う対応を見せるようになる。しかし、戦時期において共通に見られるのは、自己の学問が高い応用性をもつことを示すことによって、つまり戦争にいかに協力できるかを示すことによって、自己の学問の地位高めるように振る舞ったことであるというのが坂野氏の結論である。この時期に日本政府は、多くの植民地を得たあと、日本人がそこに移住するためには、当地の環境に適応する必要があると考え、その適応の方策をさぐる研究を日本の自然人類学者に期待するようになる。そして、自然人類学者はそれに応える。また、文化人類学は民族統治に役立つような研究を志向する。民俗学は、民俗学を日本人の自己アイデンティティーの中核とする構想の下で研究を進め、「大東亜民俗学」を唱えるに至る。

戦後、自然人類学は、戦時中の戦争協力について触れることなく、GHQ体制の下で、新たな研究に急速に適応していった。海外調査地と研究ポストを失った文化人類学は、石田英一郎の下で、戦争協力の汚名を挽回すべく、脱−政治化を模索しはじめる。民俗学は、むしろ積極的に同時代の政治・社会への関与を深めていった。

審査委員からの指摘

審査員からは、いくつかの質問が出された。それらの多くは坂野氏の「政治性」概念についてであった。以上見てきたように、「政治性」の概念は、坂野氏の分析の基本をなす。しかし、植民地政策に見られたような狭い意味での政治と、通常なら学問の前提・パラダイム・イデオロギー性と呼ばれるものとは、いささか性格が異なるように思われる。しかし、坂野氏の分析だと、これら多様な学問外的要因、イクスターナルな要因が、すべて「政治性」で括られてしまっているのは問題ではないかというのである。また、政治性との関連を指摘するだけで議論が終わる場合が多く、そうした事態がまた学問状況にどうフィードバックされていったのかなど、政治性を指摘した後で、そこからどう議論をさらに深めていくかに関する議論的展望にいささか欠けるのではないかという指摘もあった。

しかし、これらの指摘は本論文自体の欠点というよりは、今後研究課題に属するものとみなすべきことが確認された。

結論

以上のように、坂野氏は「政治性」という分析枠組みの下で、明治初期から第二次世界大戦直後までの日本人類学史を的確に特徴づけることに見事に成功している。テキストの詳細な分析による綿密な議論は高い水準を示すものであり、また結論およびその導き方も妥当性が高い。科学史家による初の本格的な日本人類学通史として、少なくとも今後の研究の出発点となる論考であることはまず間違いない。以上より、坂野氏の論文は審査委員全員から、博士(学術)にふさわしいものであると評価された。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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