学位論文要旨



No 216429
著者(漢字) 花岡,成行
著者(英字)
著者(カナ) ハナオカ,シゲユキ
標題(和) 旧日本軍遺棄化学剤の廃棄処理及び環境調査に関わる分析化学的・環境化学的研究
標題(洋)
報告番号 216429
報告番号 乙16429
学位授与日 2006.02.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16429号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山口,五十麿
 東京大学 講師 長澤,寛道
 東京大学 講師 吉村,悦郎
 東京大学 講師 渡邉,秀典
 東京大学 助教授 鈴木,義人
内容要旨 要旨を表示する

1997年4月29日に化学兵器禁止条約(CWC)が発効されたことに伴い、日本政府は旧日本軍が製造、中国に遺棄された68万発といわれる化学兵器を処理、廃棄しなければならない。この処理事業において、現在の化学弾等の内容物がどのようになっているかを科学的に調査することは不可欠であり、そのための適切な化学分析が求められた。また、これらの化学剤を処理するための技術開発、現在も埋設されている化学弾を発掘回収する際の作業環境等の安全確保、今後建設が進む処理施設における無毒化管理、更には、周辺環境の保全のための施設からの排水や排ガスのモニタリングなど多岐にわたり化学剤関連化合物の分析が重要な役割を担うことになる。加えて、戦後60年経った今日でも旧日本軍により製造、投棄された化学兵器が広島県の大久野島(旧陸軍忠海兵器製造所跡)や神奈川県の寒川町、平塚市(旧海軍工廠跡)でも新たに発見されている。茨城県神栖町では旧日本軍の化学剤関連化合物に関わる地下水汚染に伴う健康被害が発生しており社会的な問題になっており、これらの汚染実態の把握及び適切な措置のための環境分析手法が求められている。しかしながら、このような化学剤の分析は防衛、化学テロ、CWC検証分析といった特殊な目的のために特定の機関で研究されていたのみであった。

旧日本軍では6種類(表1)の化学剤が製造されたが、そのうち廃棄処理、環境汚染の観点から問題となるのは、きい剤と呼ばれるびらん剤のマスタードガス(硫黄マスタード:HD)、ルイサイト(L)、あか剤と呼ばれるくしゃみ剤(嘔吐剤)のジフェニルシアノアルシン(DC)、ジフェニルクロロアルシン(DA)、みどり剤と呼ばれる催涙剤の2-クロロアセトフェノン(CN)である。旧日本軍が製造した化学兵器にはマスタードガスとルイサイトを混合して砲弾に充填したきい弾やジフェニルシアノアルシンやジフェニルクロロアルシンをセルロイドや軽石に浸漬し、これを充填した有毒発煙筒(あか筒)など諸外国でもほとんど例を見ないものがある。また、ルイサイト、ジフェニルアルシン化合物などの有機ヒ素化学剤は毒性、分析、環境動態に係わる知見が非常に限られており、調査を行うためのオーソライズされた分析法はない。更に、これらの化学剤は比較的容易に加水分解、酸化分解するため、その存在状態により分解生成物、製造時の副生成物、反応生成物、重合体等など様々な形態で存在することになる。旧日本軍に由来する有機ヒ素化学剤及びその関連化合物を図1に示した。

このような背景のもと、本研究では、遺棄された化学兵器内容物の成分分析及び化学剤関連化合物の環境分析のために必要な分析法を確立し、これを実調査や各種の検証や技術開発のための実験に適用、得られた新たな知見を提供することで、中国遺棄化学兵器の処理や国内における化学剤関連化合物のリスク管理など我が国が抱える旧日本軍化学剤に関わる諸問題に資することを目的として実施した。

研究成果の概略を以下に示す。

分析化学的な研究では、現存の遺棄化学兵器内容物の状態を解明するための成分分析と環境調査のための化学剤関連化合物の環境分析の2つに主眼を置いた。

遺棄化学兵器の実処理技術の開発、事業推進のための日中間の協議において、現在の遺棄化学兵器内容物の実態を解明することが急務であったことから、主要な遺棄化学兵器の成分分析法を確立した。一般に有機ヒ素化学剤は比較的容易に加水分解、酸化分解するため、クロマトグラフィー分析を行う場合、チオール試薬による誘導体化法が用いられる。しかし、この誘導体化を行った場合、例えば、あか剤の成分であるDA、DCだけでなく分解生成物であるジフェニルアルシン酸(DPAA)やビス(ジフェニルアルシン)オキシド(BDPAO)も同じ誘導体として検出されるため個別化合物の分析ができない。そこで、これら有機ヒ素化合物の有機溶媒中での安定性や分析操作による影響を検討することで個別化合物の分析法の確立を行った。これらの方法は、1999年に南京市の保管施設で採取された型式の異なるあか筒や2001年に瀋陽市の保管施設で採取されたきい弾、あか弾の各内容物の成分分析に適用された。あか筒内容物の成分分析では、セルロイドまたは軽石と共に充填された二種類のあか筒で分解生成物の組成が異なり、酸性であったセルロイドのものでジフェニルアルシン酸への分解が進行していることが明らかになった。あか弾及びきい弾では化学剤そのものが今なお高濃度(70〜90%以上)に残存していること、きい弾ではマスタードが劣化すると形成する粘性の高いヒール成分が主にマスタードの重合体であることを指摘した。更に、ヒール化したマスタードがマスタードガスやルイサイトを抱合し、分解を遅延させていることが推察された。これらの成果は今後実作業が本格的に着手される中国遺棄化学兵器処理事業において発掘回収時の安全の判断や処理技術の開発、処理施設における環境モニタリング手法に係る試験研究、施策に貴重な情報を提供するものである。また、これまでほとんど知見がなかった旧海軍相模工廠で製造された化学剤についてもその成分を明らかにし、国内で発見された大久野島のあか筒、屈斜路湖のきい弾、寒川町のきい剤など異なる由来の化学剤の組成を比較することで旧日本軍化学剤の科学的知見を蓄積することができた。

次に、化学剤の成分分析で得られた成果をもとに、化学剤の環境調査において不可欠な水質、土壌といった環境試料中に残留する微量の化学剤関連化合物を定性、定量するための分析法として、溶媒抽出及びチオール誘導体化によるGC/MS分析、及びLC/MS分析を用いた。これらの分析において、有機ヒ素化学剤やその中間分解生成物は、分析過程での加水分解、酸化分解や熱分解による影響が確認された。このような分析過程での分解等は分析精度の信頼性にとって深刻であるため、それそれの分析法における分析対象物質と抽出溶媒の適性、抽出条件、誘導体化の反応条件や機器分析条件の検討を行い、化学剤そのものを含む22物質について旧日本軍化学剤の総合的な環境調査を行うためのスクリーニング的、または形態別の定量分析手法を確立した。特に、あか剤の中間分解物であるBDPAOはいずれの方法でも定量性が悪く、分析過程でDAやジフェニルアルシンハイドロオキシド(DPAH)を生成するなど、これらの化合物が検出された場合には適切な確認分析が要求されることが示唆された。これらの成果は、中国遺棄化学兵器の処理施設における排ガス、廃液、固形廃棄物のモニタリング法策定のための基礎データとして活用されることが期待される。また、2002年以降国内で発生した旧日本軍化学剤問題に起因する汚染源、実態解明のための調査でもこれらの分析法を適用し、成果を挙げてきた。茨城県神栖町では住民に健康被害をもたらした井戸水汚染の原因物質の特定を行い、汚染源解明のための掘削調査では安全確認及び汚染実態の解析のための分析データを提供した。旧相模海軍工廠の跡地での化学剤による土壌汚染等の調査では、その汚染実態を明らかにした。更に、汚染された大量の土壌等の処理においても、無毒化確認のための分析を行うことで、安全のための検証に貢献することができた。加えて、実試料の分析結果から、マスタードガスやあか剤そのものに比べ、マスタードジスルフィドやトリフェニルアルシンが土壌中で比較的残留していることから、これらが旧日本軍化学剤の汚染調査における指標となり得る可能性が示唆された。

環境化学的な研究では、水中、土壌中での化学剤の安定性や存在形態に関わる実験データと実試料の分析結果より得られた情報をもとに、環境に投入された化学剤の形態、環境での挙動及び遺棄された化学兵器のリスクについて考察を行った。一般に、化学剤そのものの残留性は高くないものの、マスタードガスのヒール化などその存在形態や環境におけるpH等の条件によりリスク評価が大きく変わること、及び有機ヒ素化学剤は環境中で分解生成物、重合体として存在する可能性が高いが、分解物についての毒性、環境での運命については未だ知見が少なく、今後の重要課題となることなど旧日本軍化学兵器に関わる問題点と行政、専門家による対策が必要な課題についても指摘した。

本研究の成果は、中国遺棄化学兵器及び国内化学剤問題に対する科学的な施策に活用され、今後の廃棄処理や環境調査に関わる分析技術の改良、発展のための先駆的研究として貢献するものである。さらには長期的な視点に立った化学剤の環境挙動を解析するための貴重な知見を提供するものであり、旧日本軍化学剤に関わるリスク管理、リスク評価に資するものである。

表1 旧日本軍が製造した化学剤

図1 旧日本軍で製造されていた有機ヒ素化学剤及びその関連化合物

審査要旨 要旨を表示する

1997年4月29日の化学兵器禁止条約(CWC)の発効に伴い、日本政府は旧日本軍が製造し、中国に遺棄された68万発といわれる化学兵器を処理、廃棄しなければならない。加えて、近年、旧日本軍により製造、遺棄・投棄された化学剤、化学兵器が国内外で新たに発見され、社会的問題になっている。遺棄化学兵器の処理事業において、現在の化学砲弾等内容物の科学的調査は不可欠であり、また、これらの化学剤を廃棄処理するための技術開発、現在も埋設されている化学砲弾を発掘・回収する際の作業環境等の安全確保、今後建設が進む処理施設における無毒化管理のためのモニタリング、或いは施設からの排水、排ガスの測定、周辺環境の保全において化学剤による漏洩、汚染がないことをモニタリング等において化学剤関連化合物の分析が重要であり、適切な化学分析が求められている。

本論文は、遺棄化学兵器の内容物分析法の確立と環境へ漏洩した化学剤のモニタリング公定法の確立を目的とし行われた研究に関するもので、序論と4章から構成されている。

序論では、本研究の背景、目的と意義について詳述している。

第1章では、化学剤関連化合物のガスクロマトグラフィー(GC)分析のための詳細な条件検討を行っている。旧日本軍が製造した6種類の化学剤うち、処理、環境汚染の観点から問題となる、びらん剤のマスタードガス(硫黄マスタード:HD)、ルイサイト(L)、くしゃみ剤(嘔吐剤)のジフェニルシアノアルシン(DC)、ジフェニルクロロアルシン(DA)、催涙剤の2-クロロアセトフェノン(CN)について、分解生成物、製造時の副生成物、反応生成物、重合体等など様々な形態を想定し、これらの分析法について検討を加えている。一般に有機ヒ素化学剤のGC分析において用いられるチオール誘導体化においては、くしゃみ剤のDA、DCならびにその分解生成物であるジフェニルアルシン酸(DPAA)やビス(ジフェニルアルシン)オキシド(BDPAO)は同じ誘導体を与えるため、個別化合物の分析ができないことや、GC/MSにおける再配列イオンの生成等、克服すべき問題点を洗い出し、誘導体化することなくGC/MSとGC/FIDなど複数の検出法を併用して分析することの必要性を示すとともに、関連化合物の有機溶媒中、分析操作での安定性を評価、検討し、個別分析法の基盤を示している。

第2章では、第1章で示した個々の化合物の分析方法を実際に遺棄された化学兵器の成分分析に適用して、その内容物を明らかにするとともに、第1章で確立した方法が有効であることを示すとともに、1999年に南京市の保管庫で採取されたくしゃみ剤兵器の内容物の成分分析を行い、酸性条件下でジフェニルアルシン酸への分解が進行していることを明らかにした。また、同じ有機ヒ素化学剤のびらん剤ルイサイトについても保存状況により異なる状態の個々のサンプルを分析するための最適化を検討するとともに、化学剤が比較的高濃度に残存していることやマスタードが劣化して形成されるヒールはマスタードの重合体であり、マスタードやルイサイトを抱合し、分解を遅延させていることを示した。また、適切な廃棄処理、無毒化の確認を保証するためのデータを示している。

第3章においては、環境に漏洩した化学剤関連化合物の分析法について検討している。環境に漏洩した化学剤は、土壌に吸着されるとともに土壌中の水分による分解をうけるが、化学剤由来の化合物22種を対象として抽出方法、誘導体化などによる分析法を検討し、有機溶媒に抽出される成分をプロパンチオール誘導体としてGC/MS分析すること、また、水溶性成分についてはLC/MSによる分析を行うことにより、モニタリングが可能であることを示した。また、地下水試料では回収率等において良好な分析が可能であるのに対し、土壌溶出液、土壌抽出液、海水、生体試料等ではマトリックスの影響を受けやすく、GC/MSならびにLC/MSの分析を行う必要のあることを示した。

第4章では、化学剤が環境に漏洩した場合を想定して、HD、DA、DC、ルイサイトを対象として、水中での分解、経時変化について調べている。DA、HDは水に添加後30分で分解し、分解物ビスジフェニルアルシンオキシドやクロロビニル亜アルソン酸、チオジグリコールなどとして検出されるのに対し、DCは30日後でも12%の回収が認められた。また、ルイサイトも速やかに加水分化されることを示し、化学剤はそのままの形態で検出される可能性は汚染直後を除いて低いことを示した。

これらの成果は今後作業が本格的に着手される遺棄化学兵器処理事業における発掘回収時の安全性の判断や処理技術の開発、処理施設における環境モニタリングなど一連の事業に係る試験研究、施策に貴重な情報を提供するものである。

以上要するに、本研究は、環境汚染源の一つとして国際的かつ社会的な問題となっている旧日本軍によって生産され、遺棄された化学兵器の安全な処理、環境モニタリングのための公定法となる分析法を確立したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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