学位論文要旨



No 216442
著者(漢字) 阿部,貴弘
著者(英字)
著者(カナ) アベ,タカヒロ
標題(和) 近世城下町大坂、江戸の町人地における城下町設計の論理
標題(洋)
報告番号 216442
報告番号 乙16442
学位授与日 2006.02.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16442号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 篠原,修
 東京大学 教授 清水,英範
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 中川,祐
 東京大学 教授 岸井,隆幸
内容要旨 要旨を表示する

我が国の主要都市のほとんどは、奈良や京都、鎌倉などの古都を除き、近世城下町の都市構造を基盤として発展してきた。その近世城下町の町人地は、水路網と街路網が複雑に入り組んだ、日本独自の大変興味深い都市構造を有していた。こうした城下町町人地の設計論理の解明は、極めて魅力的な研究テーマであり、これまで歴史地理、都市史、建築史、日本史、考古学などの諸分野において、長年にわたり城下町研究が行われてきた。しかし、それらの研究において、近世城下町町人地の具体的な設計論理を説明する十分な研究成果が得られているとは言い難い。

その要因の一つは、城下町設計に関する文献史料の限界にある。すなわち、設計論理の解明には、既存の文献史料にとどまらず、新たな史料を用いた分析が必要であると考えられる。既存研究では、江戸時代の絵図ないし地図についての定性的な分析は行われているものの、明治初期に近代測量により作成された地図の計測による、定量的な分析は十分には行われていない。これは、城下町設計の結果として出来上がった、水路や街路といった実物から設計論理を読み解くという方法論が欠如していたためであり、近代測量図を史料として用いた、新たな研究展開が求められている。

一方、城下町の計画・設計過程は、 「立地」、 「基本構想・基本計画(マスタープラン)」、「基本設計・実施設計」、 「街区の計画・設計」の各段階に整理することができる。設計論理を解明するためには、マスタープランを則地的に適用する段階である「基本設計・実施設計」段階において、 「実際の設計者が、設計にあたり検討すべき様々な要素のうち、何を優先させて、どのようなプロセスで設計を行ったのか」という点を総合的に読み解く必要がある。さらに、 「基本設計・実施設計」段階では、水路や街路、下水路などのインフラ整備が、町割に大きな影響与えていたと考えられる。すなわち、設計論理を解明するためには、町割とインフラ整備との関係を読み解く必要があり、この点において土木史的な視点からの研究に対する要請が強まっているということができる。

以上のような背景を踏まえ、本研究では、近世城下町大坂及び江戸の町人地を対象に、近代測量図を史料として、町割とインフラ(水路、下水路、主要街路)整備との関係に着目し、近世城下町町人地の設計論理を解明することを目的とした。

第1章では、大坂及び江戸の城下町設計に関する既存研究をレビューした。

大坂では、 (1)宅地奥行や街区形態などのモジュール、 (2)街路幅員や下水路幅員などの設計標準、 (3)地区の大まかな開発範囲や開発過程、 (4)堀川の完成年次及び開削者、 (5)道頓堀川及び長堀川の開削位置と開発モジュールについて明らかにされている。

江戸では、 (1)宅地奥行や街区形態などのモジュール、 (2)濠及び掘割運河等の水系の大まかな開削位置及び開削過程について明らかにされている。

しかし、既存研究では、 (1)町割の基点や基軸、 (2)主要街路の配置位置、 (3)堀川や濠、掘割運河の開削位置及び開発モジュール、 (4)町割と主要街路、堀川や掘割運河、さらに下水路などのインフラ整備との関係、 (5)地区の具体的な開発過程については明確な成果が得られておらず、設計論理を説明するには至っていないと考えられる。

第2章では、既存研究の成果と課題を踏まえ、城下町町人地の設計論理を解明するための分析視点及び分析方法を提示した。

本研究では、分析視点として「設計基準」、 「設計単位」、 「開発過程」を提示した。 「設計基準」とは、どのようなモジュール及び設計標準で、どこを基点に、あるいは何を基軸として、町割や水路の開削が行われたのかを読み解く視点である。 「設計単位」とは、地区の設計にあたり、同一の設計基準の下で設計されたと考えられる単位を読み解く視点である。「開発過程」とは、実際の町人地開発がどのようなプロセスで行われたのかを読み解く視点である。

こうした視点に基づき、近代測量により作成された地図の計測による定量的分析を行うこととした。分析にあたっては、主に宅地奥行及び街区形態について、基本モジュールからの「ずれの度合い」や「ずれの要因」に着目した。基本からのずれが小さい場合、そこでは基本モジュールに則った町割が行われたと考えられる。一方、ずれが大きい場合、そこでは街道、主要街路、水路、下水路などのインフラが、町割に対して大きな影響を与えていたと考えられる。

さらに、街道、主要街路、水路、下水路などのインフラと微地形との関係に着目することで、街道及び主要街路の配置位置決定の論理や、水路の開削位置決定の論理の解明を試みた。

こうして、町割に対してどのような要素が優先していたのか、その優先度を読み解き、町人地の設計論理を明らかにした。

第3章では、大坂及び江戸の町人地における設計論理の分析と結果の考察を行った。

大坂では、上町地区から下船場地区に至るまで、通りから堀川へと町割の基軸が継承されていたと考えられる。こうした町割の基軸は、上町地区では複雑に入り組む地形に配慮して通され、船場地区では上町地区の町割の基軸の延長上に、ほぼ正東西方向に通されたと考えられる。下船場地区では、船場地区の町割の基軸の軸を受けながらも、微低地に沿って町割の基軸となる堀川が開削されたと考えられる。

一方、町割のモジュールに着目すると、上町地区では町割の基軸に沿って両側に奥行20間の宅地が配置され、基軸と基軸の間に20間には満たないものの等しい奥行の宅地が配置されたと考えられる。船場地区では、町割の基軸に沿って奥行20間の宅地が配置されるとともに、 40間四方正方形街区が面的広がりを持って配置されたと考えられる。下船場地区では、町割の基軸となる堀川の沿川に、セット開発というかたちで奥行20間の宅地が配置され、各基軸間では、ある程度の広がりのある土地では40間四方正方形街区が、その他では20間には満たないものの等しい奥行の宅地が配置されたと考えられる。

このように、大坂の町人地における町割のモジュールは、定説の40間四方正方形街区及び奥行20間宅地といった単純な考え方ではなく、町割の基軸に沿って両側に奥行20間の宅地を配置することがモジュールの最小単位として存在し、その上で、地形条件が比較的穏やかである程度の面的広がりを持った土地が確保できる場合には、 40間四方の正方形街区が配置されたと考えられる。さらに、地形の制約などから面的広がりを持った土地が確保できない場合には、基軸と基軸の間を埋めるように、 20間には満たないものの等しい奥行の宅地が配置されたと考えられる。こうした基軸の両側に奥行20間宅地を配置するという町割は、大坂城と四天王寺門前町を繋ぐ平野町の町割が、まず上町地区の島町通り沿いをはじめとした街路沿いに適用され、その後堀川を基軸としたセット開発へと応用されたものではないかと推察される。

江戸では、各地区の主要街路が、地区全体の町割の基軸となっていたと考えられる。一方、東西堀留川や浜町川などの掘割運河も町割の基軸となっていたと考えられる。また、主要街路や掘割運河といった複数の町割の基軸が互いに入り組んで存在し、それらの基軸間には、宅地の間口方向や街路の配置に対して、それぞれ優先度の違いがあったと考えられる。こうした町割の基軸は、地区の排水を確保するための微地形や、交通結節点の接続、さらに先行基盤や先行条件に配慮して配置されたと考えられる。

一方、町割のモジュールに着目すると、江戸においても大坂と同様に、町割の基軸に沿って、両側に奥行20間の宅地が配置され、その上で60間四方正方形街区が配置されたと考えられる。しかし、大坂とは異なり、主要街路や掘割運河といった複数の町割の基軸が互いに入り組んで存在し、基軸間の優先度の違いが宅地間口方向の決定に影響を与えていたと考えられる。

このような大坂と江戸の町人地における設計論理の相違は、設計に際しての先行基盤や先行条件、さらに地形の制約条件の違いによるものではないかと考えられる。大坂よりも江戸のほうが、町人地のマスタープランを則地的に適用するにあたり、中世以来の先行基盤や、五街道の起点である日本橋と町人地を貫く街道などの先行条件、さらに地形の制約条件など、多様な要素を総合的に関連付けて検討する必要があり、より成熟した設計論理が求められたのではないかと考えられる。すなわち、大坂から江戸に至る、いわば近世城下町の町人地における設計論理の進化の過程が、大坂と江戸の相違点として表れているのではないかと考えられる。

第4章では、本研究の結論として、研究成果と研究課題を整理した。

本研究では、城下町町人地の設計論理を解明するにあたり、町割とインフラ(水路、下水路、主要街路)整備との関係に着目し、 「設計基準」、 「設計単位」、 「開発過程」の視点から、近代測量図計測に基づく定量的分析を行うことが、有効な分析方法であることを提示した。さらに、大坂、江戸の町人地において、設計基準、設計単位、設計単位間の開発の前後関係(開発過程)を明らかにし、設計論理を体系的に組み立てるとともに、城下町設計のプロセスを明らかにした。

一方、本研究では土木史分野から城下町町人地の設計論理を明らかにしたが、今後は日本史、歴史地理、都市史、建築史、考古学などの分野における研究との連携を図り、研究をより精緻なものとする必要があると考える。また、大坂、江戸以外の城下町や、大坂、江戸の近代以降の発展にも視野を広げ、都市設計史の研究を発展させる必要があると考える。

審査要旨 要旨を表示する

我が国の主要都市のほとんどは、近世城下町の都市構造を基盤として発展してきた。しかし、そうした近世城下町の町人地における設計論理は、長年にわたる諸分野の研究にもかかわらず、十分には解明されていないのが現状である。本研究は、その要因の一つが城下町設計に関する近世の文献史料の限界にあるとして、近代測量により作成された明治初期の近代測量図に着目し、それらを史料として用いた地図計測による定量的分析により、近世城下町大坂及び江戸の町人地における城下町設計の論理について論じたものである。さらに、城下町の計画・設計過程において、町人地のマスタープランを則地的に適用する基本設計・実施設計段階では、水路や街路、下水路などのインフラ整備が、町割に大きな影響与えていたとして、町割とインフラ(水路、下水路、主要街路)整備との関係という、土木史的な視点に着目した分析を行っている。こうした分析方法や分析視点から、城下町町人地の設計論理を読み解く試みを既存研究に見ることはできず、独自性の高い着眼点であるということができる。序論においては、以上の内容を論文の背景として述べている。

第1章では、大坂及び江戸の城下町設計に関する既存研究をレビューしている。まず、既存研究では、基本とされる宅地奥行や街区形態のモジュールをどのように則地的に適用したのかという分析視点が欠如しているとともに、町割とインフラ整備との関係、さらに微地形と町割、微地形とインフラ整備との関係に着目した分析が不十分であり、また、文献史料や絵図史料を用いた分析が中心で、近代測量図を用いた定量的分析が行われていない点を指摘している。そのため、(1)町割の基点や基軸、(2)主要街路の配置位置、(3)堀川や濠、掘割運河の開削位置及び開発モジュール、(4)町割と主要街路、堀川や掘割運河、さらに下水路などのインフラ整備との関係、(5)地区の具体的な開発過程について明確な成果が得られておらず、城下町町人地の設計論理の解明に向けた既存研究の課題として指摘している。

第2章では、既存研究の成果と課題を踏まえ、城下町町人地の設計論理を解明するための分析視点及び分析方法を提示している。本研究では、「設計基準」、「設計単位」、「開発過程」という分析視点を提示しており、設計論理の解明に向けた独自性の高い視点として評価することができる。さらに、分析方法として、主に宅地奥行及び街区形態の基本モジュールからの「ずれの度合い」や「ずれの要因」に着目し、インフラや微地形など、町割に対して優先していた要素と、その優先度を読み解くことで、城下町町人地の設計論理を明らかするという新たな方法を提示している。

第3章では、第2章で示された分析視点及び分析方法を踏まえ、近代測量図の計測による詳細な定量的分析から、大坂及び江戸の町人地における設計論理の分析を行っている。

大坂では、上町地区から下船場地区に至るまで、通りから堀川へと町割の基軸が継承されたこと、さらに、町割のモジュールに関して、定説の40間四方正方形街区及び奥行20間宅地といった単純な考え方ではなく、町割の基軸に沿って両側に奥行20間宅地を配置することがモジュールの最小単位として存在したこと、また、町割に際して、地形の制約条件が比較的穏やかである程度の面的広がりを持った土地が確保できる場合には40間四方の正方形街区が配置され、地形の制約などから面的広がりを持った土地が確保できない場合には基軸と基軸の間を埋めるように20間には満たないものの等しい奥行の宅地が配置されたことを明らかにしている。

江戸では、各地区の主要街路や掘割運河が町割の基軸となっており、それらが互いに入り組んで存在し、宅地の間口方向や街路の配置に対して基軸間に優先度の違いがあったこと、また、町割の基軸は、地区の排水勾配を確保するための微地形や交通結節点の接続、中世以来の先行基盤や城郭の設計論理などの先行条件に配慮して配置されたこと、さらに、町割のモジュールに関して、江戸においても大坂と同様に、町割の基軸に沿って両側に奥行20間宅地を配置することがモジュールの最小単位として存在し、その上で60間四方正方形街区が配置されたことを明らかにしている。

こうした大坂と江戸の設計論理を比較することで、主要街路や堀川/掘割運河を町割の基軸として配置し、さらにモジュールの最小単位として、それらの町割の基軸に沿って両側に奥行20間宅地を配置することが、大坂及び江戸に共通する設計論理であったと指摘している。さらに、その他の設計論理については、先行基盤や先行条件、地形の制約条件に配慮して則地的に決められたこと、そして、大坂に比べて先行基盤や先行条件、地形の制約条件がより厳しかったと考えられる江戸では、町人地のマスタープランを則地的に適用するにあたり、より多様な要素を総合的に関連付けて検討する必要があったことを指摘している。また、町人地の設計主体に着目することで、官による設計が行われたと考えられる地区では、宅地や街区の基本モジュールを適用して町人地の顔となるメインストリート沿いが優先的に整えられ、一方、民による設計が行われたと考えられる地区では、宅地や街区の基本モジュールを適用することよりも町の機能に配慮した設計を行うことが優先されたことを指摘している。

こうした研究成果は、近世城下町大坂及び江戸の町人地における城下町設計の論理に関して、既存研究では得られていない、新たな知見を提示するものである。

第4章では、本研究の結論として、以上の研究成果をまとめるとともに、研究課題として、日本史、歴史地理、都市史、建築史、考古学などの分野における研究との連携、さらに、大坂及び江戸以外の近世城下町や、大坂及び江戸の近代以降の都市設計とのつながりにも視野を広げた研究の発展の必要性を提示している。

以上概観したように、本研究の最も評価すべき点は、町割とインフラ整備との関係を読み解くという新たな分析視点から、これまで用いられてこなかった近代測量図の計測による詳細な定量的分析を行い、近世城下町大坂及び江戸の町人地における城下町設計の論理を解明している点にある。こうした土木史的な視点からのアプローチは、既存の城下町設計に関する研究には見ることのできない、独自性の高い方法論であると結論付けることができる。よって、本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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