学位論文要旨



No 216443
著者(漢字) 芳村,圭
著者(英字)
著者(カナ) ヨシムラ,ケイ
標題(和) 水の安定同位体比情報を用いた地球水循環過程の解明に関する研究
標題(洋) A Study on Systems of the Global Hydrologic Cycles with Stable Water Isotopic Information
報告番号 216443
報告番号 乙16443
学位授与日 2006.02.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16443号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 沖,大幹
 東京工業大学 教授 吉田,尚弘
 東京大学 教授 小池,俊雄
 東京大学 助教授 石原,孟
 東京大学 助教授 陽,坤
 東京大学 助教授 岸,利治
 東京大学 助教授 佐藤,正樹
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、水の安定同位体(重水素と重酸素を含む水分子:HDO・H218O)を用いて地球の様々な水循環過程を解明することを目的としている。水の安定同位体を用いた研究は、水文学や生態学を中心とした様々な分野で古くから行われており、特に年代や起源、経路の特定及び更なる応用に有効なツールとして用いられてきた。中でも降水の同位体は、流出過程等の研究のはじめの入力値として必要なばかりではなく、アイスコアなどを用いた古気候再現等の研究を進めるに際して現行気候の理解を深める必要があるという意味からも、非常に重要視されており、1960年代から全球規模の観測を中心として精力的に行われてきた。これまでに、非常に大きな時間的・空間的遍在性が確認されるとともに、それらの変動に影響のある要素(例えば気象条件や地理条件、季節性)についていくつかの説明がなされてきた。しかし実際には、数多くの因子が相互に複雑に絡み合い影響を及ぼしているため、降水同位体比の時空間変動メカニズムの説明は定性的なものに終始してきたといっても過言ではない。そこで本論文では、降水同位体比の変動メカニズムの定量的な解釈を可能にし、なぜこの雨がこの同位体比を持つのか、この同位体比が持つ意味は何なのか、といった疑問への回答を試みた。降水同位体が大気中の循環過程や蒸発した際の地表面過程の影響を受けていることはすでに知られており、先ほどの疑問に回答することは即ち、地球水循環過程を解明することに他ならない。

上記の目的を達成するため、著者は同位体全球輸送モデルを構築し、降水同位体比の実際の日単位変動から年々変動を相当程度再現することに成功した。また、再現性の良悪から用いた大気水循環場を評価する手法も併せて示した(2章と3章)。次に、地表面・水面における蒸発過程とそれに伴う同位体の物理挙動を合理的に表したモデルを用いて大気−陸面−水面結合シミュレーションを行い、再現性の良化を確認した(4章と5章)。最後に、蒸発時の空間情報や時間情報によって区別された(色付けされた)水蒸気が、大気中をどのように移動するかを詳細に解析し(色水解析)、モンスーンの季節進行と降水起源変動の関係や、平均大気滞留時間と降水同位体比の関係について調査した(6章)。以降、各章に関する要旨を述べる。

第2章では、これまで合理的な説明がされていなかった降水同位体比(δ18O)の日々変動に着目して、その変動要因の解明を行った。既往研究では、大気大循環モデルに同位体の物理過程を組み込んだIso-AGCMや、より簡略なレイリー蒸留式を用いたモデルが用いられてきたが、ここでは、両者の特徴を併せ持つレイリー型同位体循環モデルを新たに開発した。本モデルは、鉛直一層水平2次元のグリッドを持つ全球水蒸気輸送モデルであり、降水量・蒸発量・可降水量・鉛直積算水蒸気フラックスからなる水蒸気循環場を外力として大気水収支式に適用してグローバルな水蒸気輸送と混合過程を表現し、水蒸気から降水への同位体分別に際しては簡素なレイリー式を用いている。現実により近いGAME(全球エネルギー水循環実験観測アジアモンスーン領域プロジェクト)再解析データを循環場として用い、1998年4月から10月まで、1.25°×1.25°全球の降水同位体比の時空間変動を推定したところ、タイの3地点における降水同位体比の日々変動を有意に再現し、全球の月単位の観測結果とも良く一致した。モデルによる降水同位体比の変動のうち、循環場の各要因別に分析すると、日単位の降水同位体の変動は水蒸気フラックスによる影響が一番大きく全球平均で47%(タイでは37%)だが、それは地域によって大きく異なった。 また、より精度の良い衛星観測GPCP (Global Precipitation Climatology Project)を用いた場合に再現性が大きく向上した。

第3章は、第2章で開発した同位体循環モデルにNCEP/NCAR(アメリカ国立環境予測センター/国立中期予報センター)再解析(NRA1)とECMWF(ヨーロッパ中期予報センター)再解析(ERA15)を外力として与え1979年から1993年までの全球シミュレーションを行い、推定された降水同位体時空間変動場をGNIP (Global Network in Isotopes in Precipitation)の観測同位体と月単位と年々変動の再現性について比較した。ERA15を用いた推定結果の方が、ヨーロッパを含む西〜中央ユーラシア大陸において再現性の精度が高く、当該地域における116の比較可能なサイトのうち87のサイトで有意な再現性が得られた。一方NRA1による結果では4サイトのみであった。ERA15の結果は、降水同位体比の年々変動も良く再現されており、月単位の結果と同じくヨーロッパ域でより高い再現性が得られた。外力である気象4要素(降水・蒸発・可降水量・水蒸気フラックス)のうち、特に降水の精度の良し悪しが推定された降水同位体比変動の差異をもたらすが、その良し悪しの現れ方も地域によって異なり、高緯度地域での降水同位体比変動の再現は低緯度よりも困難であった。

第4章では、地表面における水とエネルギーのやり取りの結果として大気に返される蒸発散フラックスの同位体比を合理的に求めるため、水の安定同位体の挙動を組み込んだ陸面モデル、Iso-MATSIRO (Minimal Advanced Treatments of Surface Interaction and Runoff)を構築した。モデルには、植生からの蒸散や土壌からの蒸発、樹冠による遮断水が蒸発、積雪の昇華・融解等に応じて、それぞれ異なる同位体物理が含まれている。3点の地域において1年間のシミュレーションを行い、同位体陸面モデルのパフォーマンスを調査したところ、同位体の年間収支、土壌水分同位体比の季節進行及び鉛直分布、植生水同位体比の日変化(昼間に重くなる)、土壌蒸発・蒸散・流出といったフラックス及び土壌水分・樹冠遮断・積雪といった貯留水のそれぞれのδ18O−δD関係は、いずれも尤もらしいものであった。最後にGAME再解析を用いて1998年の半年の大気−陸面結合シミュレーションを行ったところ、降水同位体比の推定値はより観測値に近づき、同位体陸面モデルで組み込まれた同位体物理の妥当性が確認された。

第5章ではまず、著者が開発した同位体循環モデル(ICM)と、前述の同位体を組み込んだ大気大循環モデル(Iso-AGCM)との比較検討を行った。Iso-AGCMの出力である大気循環場をICMの外力とし、蒸発時の同位体プロセスを考慮する場合としない場合において、推定した降水同位体比の一致度をIso-AGCMと比較した。その結果、両半球の緯度30°〜60°において、蒸発フラックスの同位体比変動が降水同位体比に大きく影響していた。さらに、ICMに陸面モデル・水面モデルを組み込み、ERA15を用いた実験を行ったところ、中高緯度で季節変動がより精確に再現されると同時に、低緯度でもこれまで存在していた過小バイアスがほぼ消散し、降水同位体比の再現性は全球的に高まった。即ち、循環場の何を評価しているのかという質問に対して、第3章で得られた結論を修正して、「低緯度では主に降水・水蒸気フラックスによる水蒸気輸送過程を評価しているが、中高緯度では水蒸気輸送過程に加えて地表面・水面過程も同位体で合わせて評価している」という結論が導き出された。

同位体を用いて評価された水蒸気輸送スキームを用いて、水循環の詳細を描き出し降水同位体比との関係について再検討を加えたのが第6章である。ここでは、大気中の水輸送の挙動を解明するために色水解析(Colored Moisture Analysis: CMA)という手法を構築した。CMAとは、蒸発地域ごとに区別した水蒸気に対して大気水収支式を適用する全球2次元モデルに外部から循環場を与えることにより、水蒸気及び降水の起源を推定・視覚可する手法である。GAME再解析を外力として1998年4月から10月までの計算を行ったところ、アジアモンスーン特有といえる、雨期と乾季で明瞭に異なる水蒸気の動きが視覚的に顕著に示された。また、アジアモンスーン域においてインド洋を起源とする水蒸気が増減する様子に着目し、その急激な増加をモンスーンの開始、減少を終了と定義してみると、一番早いモンスーンはインドシナ半島南西部で5月16日頃に起こり、その後一ヶ月を経てインドに到達することがわかった。この結果は、雨量や風系、雲量等の気候値を使用したモンスーン開始/終了の定義と良く一致する。これまでは、雨量や風系といった一つの気象要素について注目しモンスーン等の挙動を分析していたが、CMAでは、用いた4つの気象要素を複合的に考慮して起源別の水蒸気の輸送を計算しているため、総合的な大気循環場の時空間変動がより明確に示されるようになった。またその結果は、気候値を用いないある特定の年のモンスーン進行を初めて示した。さらに、時間に対して水蒸気に属性を与えた「年齢CMA」を実行した。その結果、低緯度の特定の場所で降水同位体比の日々変動と「降水の年齢」のそれが非常に一致した地域が抽出され、ブラジルのマナウスでは、降水の平均年齢についてξ=-0.25×δ18O+5.8という関係が得られた。

最後に第7章にはこれまでの章のサマリー及び結論を示した。

審査要旨 要旨を表示する

人口増加や都市への集中、地球温暖化などの気候変動は洪水対策を含めた広い意味の水資源管理に大きな転換を強いており、頻発する洪水や渇水、地下水位の低下、水質の悪化、水をめぐる国家間、コミュニティ間の軋轢などの水問題が途上国を中心として世界中で問題となっている。水問題の解決は健康状態の改善、農業生産性の向上や教育の普及などを通じて貧困削減という国際的な大目標にも資するため、国際社会においても水問題への取り組みが重要視されている。統合的な水資源管理を支えるには、水循環の現状把握や将来予測が不可欠である。

本論文は、観測データと大気大循環モデルを統合した4次元同化データに基づいて推定された地球の様々な水循環過程の推定精度を、水の安定同位体(重水素と重酸素を含む水分子:HDO・H218O)を用いて明らかにしつつ、グローバルな水循環に関して、物質循環としての視点から、新たな研究分野を開拓したものである。さらには、水循環の将来予測に不可欠な陸面水文過程数値モデルに同位体プロセスを導入してその予測精度に関して量や水質だけではない検証を可能にし、葉の含水量の変動といったプロセスの数値モデル的表現についても考察できるようにしている。

第一章で研究の背景や目的が示された後、第2章では、これまで合理的な説明がされていなかった降水同位体比(δ18O)の日々変動に着目して、その変動要因の解明が行われている。このために、本論文では、降水量・蒸発量・可降水量・鉛直積算水蒸気フラックスからなる水蒸気循環場を外力としてグローバルな水蒸気輸送と混合過程を表現し、簡素なレイリー式によって相変化に伴う同位体分別を表現する、鉛直方向に積分された形式の全球水蒸気輸送モデルが開発された。4次元同化されたGAME(全球エネルギー水循環実験観測アジアモンスーン領域プロジェクト)再解析データを循環場とし、1998年4月から10月における全球の降水同位体比の時空間変動が推定された結果、タイの3地点において観測された降水同位体比の日々変動を的確に再現すること、また、グローバルな月単位の観測結果とも良く一致することが示されている。また、4次元同化データよりも精度が良いと期待される衛星観測などに基づく降水量データを用いた場合には再現性が大きく向上することも示されている。

第3章では、降水同位対比の月単位と年単位の観測再現性が検討され、高精度をもたらす要因分析では、外力である気象4要素(降水・蒸発・可降水量・水蒸気フラックス)のうち、特に降水の精度の良し悪しが推定された降水同位体比変動の差異をもたらすが、その良し悪しの現れ方も地域によって異なり、高緯度地域での降水同位体比変動の再現は低緯度よりも困難であることが明らかにされている。

第4章では、植生からの蒸散や土壌からの蒸発、樹冠による遮断水が蒸発、積雪の昇華・融解等の過程における安定同位体の挙動を組み込んだ同位体陸面陸面モデルが構築されている。同位体の年間収支、土壌水分同位体比の季節進行及び鉛直分布、植生水同位体比の日変化、土壌蒸発・蒸散・流出といったフラックス及び土壌水分・樹冠遮断・積雪といった貯留水のそれぞれのδ18O−δD関係がいずれも現実的にシミュレートされていることが示されている。また、この同位体陸面モデルを組み込む2章に示された降水同位体比の推定値がより観測値に近づくことも示され、同位体陸面モデルに組み込まれた物理過程の妥当性も確認されている。

第5章では両半球の緯度30°〜60°において、蒸発フラックスの同位体比変動が降水同位体比に大きく影響しることが明らかにされた。また、低緯度では主に降水・水蒸気フラックスによる水蒸気輸送過程が同位体循環モデルでは評価されているが、中高緯度では水蒸気輸送過程に加えて地表面・水面過程も同位体で合わせて評価していることが明らかとなっている。

第6章では、大気中の水輸送の挙動を解明するために色水解析という手法が示されている。これによりモンスーンに特有な雨季と乾季で明瞭に異なる水蒸気の動きが視覚的に顕著に示され、また、インド洋を起源とする水蒸気の急激な増加を指標とすることにより、モンスーンの開始、減少に関する広域分布が推定されている。さらに、時間に対して水蒸気に属性を与えた「年齢CMA」を実行した結果、低緯度の特定の場所で降水同位体比の日々変動と「降水の年齢」のそれが非常に一致した地域も抽出されている。最後の第7章には全体のまとめと結論が示されている。

これらの研究上の成果は、膨大で煩瑣な計算を必要とするとはいえ、基本的な物理法則を精度の良いデータにあてはめることによりこれまで誰もきちんと精度を検証しつつ示すことができなかったグローバルな水循環のラグランジェ的様相を明らかにした画期的なものであり、水循環変動にともなう損失を最小に抑え、便益を最大とする総合的水資源管理実現に大きく資するものである。成果は国内外の学術雑誌に発表され、論文賞などの受賞を含む高い評価を得ているものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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