学位論文要旨



No 216463
著者(漢字) 加藤,英孝
著者(英字) Kato,Hidetaka
著者(カナ) カトウ,ヒデタカ
標題(和) 黒ボク土壌中のイオン吸着・移動過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 216463
報告番号 乙16463
学位授与日 2006.03.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16463号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 妹尾,啓史
 東京大学 教授 米山,忠克
 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 教授 塩澤,昌
 東京大学 助教授 西山,雅也
内容要旨 要旨を表示する

アロフェン,イモゴライトなどの非晶質・準晶質鉱物を主要な粘土鉱物とする黒ボク土は変異荷電と呼ばれる表面電荷を有し,溶液のpHおよび濃度・組成に応じて,硝酸イオン(NO3-), 塩化物イオン(Cl-)などの陰イオンを吸着しうる.施肥窒素由来のNO3-の農耕地からの溶脱による地下水汚染が懸念されており,陰イオン吸着による移動の抑制は環境保全上大きな意味を持っている.しかし,表面電荷の大きさが溶液のpH,イオン強度だけでなく吸着イオン種にも依存すること,下層土の多くは多量の吸着態硫酸イオン(SO42-)を含み,溶液移動過程ではpH変化も生じうるなどの理由から,黒ボク土壌中のイオンの吸着・移動過程には未解明の部分が多く残されてきた.

本研究では,野外で典型的に見られる吸着態イオン組成を持ち,変異正電荷・負電荷を有する黒ボク土壌中のイオン,とくに一価陰イオンの吸着・移動過程を解明・モデル化し,吸着による移動の遅れを定量的に予測することを目的とした.研究にあたっては,一価陰イオンの吸着・移動に対する土壌固有の吸着態SO42-の影響に着目するとともに,塩溶液の移動過程では土壌の正味電荷が事実上一定に保たれるためにイオン吸着量は溶液濃度・組成のみの関数として記述できるという考えにもとづいて,吸着・移動過程を単純化してモデル化することに重点を置いた.

黒ボク土壌中の競争吸着を伴う陰イオンの移動

黒ボク土壌中の陰イオン移動過程での吸着による遅れに対する溶液濃度・組成の影響を明らかにするために,濃度の異なるCaCl2, Ca(NO3)2およびCaCl2-Ca(NO3)2混合溶液を用いて,観音台黒ボク土下層土(腐植質普通黒ボク土)カラムへの一次元浸潤実験を行った(図1).供試土壌は電解質濃度の低い液相と平衡したCa2+およびSO42-を主要な吸着態イオンとして含み,実験では溶液pH,濃度・組成およびイオン吸着量が時間・距離とともに変化しうる.

土壌によるCl-およびNO3-吸着は非線形であり,両陰イオンは吸着基をめぐり競争するため,陰イオンの水移動に対する遅れの程度は浸入溶液の濃度と組成により異なった.移動の遅れは溶液濃度が低い時ほど大きく,NO3-はCl-に比べて吸着基への親和性が小さいために(選択係数KV = 0.51),液相中にCl-が共存すると移動距離が増した.塩溶液の浸潤に伴うCl-およびNO3-の吸着量は,土壌固有のSO42-の脱離量よりはるかに多かった.このことは,SO42-がきわめて強く吸着されているために,侵入陰イオンとのイオン交換は限られた程度しか進まなかったこと,一価陰イオン吸着の大部分は,溶液のイオン強度の上昇に応じた土壌の陰イオン総吸着量(または陰イオン交換容量(AEC))の増加によるものであったことを示す.このような条件下の一価陰イオンの水に対する相対的な移動速度を決めるのは,AECの大きさそのものではなく,溶液濃度の上昇に応じたAEC増加の大きさであると考えられる.また,バッチ法で測定したAECが一価陰イオンの移動の遅れに実効的に働く正電荷量をしばしば過大評価するのは,土壌固有の吸着態SO42-の脱離に伴う一価陰イオンの吸着が生じるためと考えられる.

これらの結果をもとに,競争吸着を伴う一価陰イオン移動の近似理論を組み立てた.陰イオン吸着を記述するに際して,(i)土壌固有の吸着態SO42-とのイオン交換による一価陰イオンの吸着は無視できる,(ii)中性塩溶液の移動過程では土壌の正味電荷が事実上一定に保たれるために,陰イオン吸着量はみかけ上,pHの関数として表す必要がないとの仮定をおいた.一価陰イオンの総吸着量が液相中陰イオン濃度の関数としてLangmuir型の吸着式に従い,選択係数KVを通じてCl-およびNO3-の吸着に割り当てられるとした競争吸着モデルを組み立てた.このモデルを組み込んだ移流分散式を数値的に解くことにより,実験で得られた陰イオン含量分布は十分に再現された.

黒ボク土壌中の溶質移動過程におけるイオン吸着と正味の表面電荷

黒ボク土の表面電荷のpH依存性に比べ,溶液濃度の変化のイオン吸着と移動速度に対する影響には十分な関心が払われていない.塩溶液移動過程におけるイオン吸着量と土壌の表面電荷の変化を明らかにするために,黒ボク土下層土を用いて(i)CaCl2溶液浸潤実験,および(ii)CaCl2溶液混和土壌への蒸留水浸潤実験を行った.

0.025 M CaCl2溶液の浸潤過程では,Ca2+とのイオン交換による土壌中のMg2+の置換・脱離が効率的に進行したのに対し,Cl-による土壌固有のSO42-の置換はわずかな程度しか進まなかった.陽イオン総吸着量と陰イオン総吸着量にはほぼ等量的な増加が生じ,土壌の正味電荷はカラム内を通じて事実上一定であり,陽イオン前線と陰イオン前線はともに塩溶液由来の水の前線の0.65倍の位置にあった.一方,CaCl2溶液混和土壌への蒸留水浸潤過程では,液相のイオン強度の低下により,溶液混和時に吸着された陽イオン・陰イオンの脱離が生じた.この場合も,陽イオン総吸着量と陰イオン総吸着量の減少はほぼ等量的であった.また,Cl-が土壌からほぼ完全に除去されると,SO42-の吸着基に対する高い親和性および正味の表面電荷が一定に保たれるという制約のために,それ以上の陽イオンの脱離は抑制された.

正味の表面電荷が事実上一定に保たれたのは,溶液によるH+の輸送が無視できる量であったことによる.この結果は,溶液濃度が変化すると,土壌の正味電荷がほぼ一定に保たれるように溶液pHも変化することを示唆する.この場合,溶液pHは独立変数ではなく,土壌の正味電荷と溶液濃度に依存する従属変数と見るべきであり,イオン吸着は液相中イオン濃度のみの関数として表すことができる.

非定常浸潤実験を利用した黒ボク土のイオン吸着等温線の測定

黒ボク土などの変異荷電土壌では,バッチ吸着実験は溶質移動過程におけるイオン吸着量を過大評価することが多い.これは,強い吸着性を持つ土壌固有の吸着態イオンの脱離が過度に生じることによる.ここでは,土壌固有イオンの脱離をほとんど引き起こさずに吸着性の弱いイオンの吸着量を求めるための,非定常浸潤実験を利用した新しい方法を提案する.塩溶液を混和して吸着平衡に達せさせた土壌をカラムに充填し,水を浸潤させると,カラム内の"plane of separation"と呼ばれる面の前方には,浸潤前に土壌中に存在した溶液が濃度・組成不変のまま押されて集積する.この領域について,土壌中の溶質含量を乾土当たり溶液体積に対してプロットすれば直線関係が得られ,その切片から浸潤前の溶質の固相吸着量が,傾きから平衡溶液濃度が求められる.濃度の異なる塩溶液を混和した一続きのカラム実験を行えば,吸着等温線が求められる.この方法には吸着平衡に達しているかどうかに関する不確実さがない,土壌溶液を抽出することなく低水分含量での吸着平衡を測定できる,独立に測定した"plane of separation"の後方の溶質含量分布を得られた吸着等温線が再現できるか試すことができるなどの長所がある.この方法を黒ボク土下層土によるCl-吸着に適用し,得られた吸着等温線をもとに予測したCl-含量分布は,実測したCl-含量分布とよく一致した.提案した方法は,吸着の大部分がイオン交換容量の増加を通じて生じる,変異荷電土壌中の吸着性の弱いイオンに対する吸着等温線の測定に最も適している.

pHを独立変数としない変異荷電土壌のCEC, AECの表現

変異荷電土壌の陽イオン交換容量(CEC)とAECを溶液のpHと濃度の関数として表現すると,土壌中のイオン移動を予測するにはpHの時間的・空間的な変化を正確に計算しなければならない.ここでは,pHが明示的には現れない,CECとAECの新しい数式的な表現法を提案する.その基礎となるのは,H+またはOH-が加えられない限り,溶液濃度Cの変化に伴う陽イオン吸着量Qcat (= CEC)の変化と陰イオン吸着量Qan (= AEC)の変化はほぼ等量的であるという概念である.そこから,溶液濃度の変化に伴うH+濃度の変化d[H+]/dCと,[H+]およびCに関するQcatおよびQanの偏導関数との関係を表す式が導かれる.その関係を使うと,CECとAECがそれぞれ,Qcat = kcat [H+]-acat CbcatおよびQan = kan [H+]-aan Cbanと表される場合には,一価イオン飽和土壌のCの変化に伴うQcat (またはQan)の変化は,pHを変数として含まない常微分方程式によって表現できる.この方程式を解くことにより得られたQcatとCの関係は,pH依存性の吸着量,物質収支および電気的中性を表す式を従来の方法により同時に解いて求めたものとよく一致した.この新しい表現法の利点は,ひとたび吸着パラメータの値を知れば,溶液濃度の変化に伴うpHの変化を知ることなく陽イオンおよび陰イオン吸着量の変化を計算でき,イオン移動を予測するに際してH+の移動を表す式を解く必要がないことである.

以上から,pHおよび溶液濃度依存性の表面電荷を持つ黒ボク土による一価陰イオンなど吸着性の弱いイオンの吸着は,液相のイオン強度の上昇に応じたイオン総吸着量の増加に伴う吸着と低下に伴う脱離によって特徴づけられ,イオン吸着量は溶液濃度・組成のみの関数として表すことができることが,実験的および理論的に明らかになった.これにより,一価陰イオンの吸着・移動過程を単純化してモデル化し,吸着による移動の遅れを予測することが可能になった.

図1観音台下層土カラムへの0.0115 M CaCl2-0.0124 M Ca(NO3)2混合溶液の浸潤過程で生じた陰イオンの移動.M = 乾土当たり陰イオン含量; C = 液相中の陰イオン濃度; Cn = 液相中の陰イオンの初期濃度; Q = 乾土当たり陰イオン吸着量.x* = 浸入塩溶液に由来する水の前線.

審査要旨 要旨を表示する

アロフェン,イモゴライトなどの非晶質・準晶質鉱物を主要な粘土鉱物とする黒ボク土は,pHおよび溶液濃度依存性の正電荷および負電荷を持ち,陽イオンだけでなく陰イオンに対しても吸着能を有する。農耕地からの硝酸イオン溶脱による地下水汚染が懸念されており,陰イオン吸着による移動の抑制は環境保全上興味の持たれるところである。本論文は,塩化物イオン・硝酸イオンなどの一価陰イオンを主たる対象として,黒ボク土によるイオン吸着・移動過程を解明・モデル化し,吸着による移動の遅れを定量的に予測することを目的としたもので,6章からなる。

第1章では,黒ボク土のイオン吸着特性・荷電特性に関する既往の知見を概説したのち,それらからイオンの移動速度を予測する上での問題点を指摘し,本研究の目的について述べている。

第2章では,陰イオンとしてCl-, NO3-または両者を含む塩溶液の黒ボク土下層土カラムへの浸潤実験を行い,これらの陰イオンの吸着の大部分は液相のイオン強度の上昇に応じた陰イオン総吸着量の増加によるものであり,土壌固有の吸着態SO42-とのイオン交換による吸着は限られた程度しか進まないこと,一価陰イオンの吸着は非線形であり,吸着による陰イオン移動の遅れは溶液濃度が低い時ほど大きいこと,液相中に他種陰イオンが共存すると吸着基をめぐる競争のために吸着量が減少し,移動距離が増加することを明らかにした。また,塩溶液の移動過程における一価陰イオンの移動速度を決めるのは,陰イオン交換容量(AEC)の大きさそのものではなく,溶液濃度の上昇に応じたAEC増加の大きさであるとし,従来のバッチ吸着実験で一価陰イオンの吸着に実効的に働く正電荷量がしばしば過大評価される理由について論じている。これらの結果をもとに,黒ボク土による一価陰イオンの競争吸着モデルを組み立て,モデルを組み込んだ移流分散式を数値的に解くことにより,実験で得られた陰イオン含量分布が十分に再現されることを示した。

第3章では,塩溶液の移動によって液相のイオン強度が上昇する過程においても低下する過程においても,黒ボク土では陽イオン総吸着量と陰イオン総吸着量のほぼ等量的な変化が生じ,土壌の正味の表面電荷は事実上一定に保たれることを実験的に示した。このことは,溶液濃度が変化すると,土壌の正味電荷がほぼ一定に保たれるように溶液pHも変化することを示唆し,イオン吸着は溶液濃度・組成のみ関数として表すことができると論じている。

第4章では,黒ボク土などの変異荷電土壌中の吸着性の弱いイオンに対する吸着等温線を求めるための,非定常浸潤実験を利用した新しい方法が提案され,その原理が説明されている。新しい方法は,従来のバッチ吸着実験における土壌固有の吸着態イオンの脱離による吸着量の過大評価,カラム浸透法により吸着量を推定する場合の吸着平衡に関する不確実さなどの問題点を克服するために開発された。黒ボク土下層土によるCl-吸着にこの方法を適用し,得られた吸着等温線をもとに予測した土壌カラム内のCl-含量分布が,独立に測定したCl-含量分布とよく一致することが確かめられた。

第5章では,変異荷電土壌の陽イオン交換容量(CEC)とAECを,pHを独立変数とせずに近似的に表現する式が提案されている。新しい表現法は,土壌に酸またはアルカリが加えられない限り,土壌の正味電荷は事実上一定に保たれることに基づき,CECおよびAECは正味電荷と溶液濃度のみの関数として表される。この方法により得られた陽イオンの吸着等温線は,従来の方法によりCECとAECをpHおよび溶液濃度の関数として表し,物質収支および電気的中性を表す式と同時に解いて求めたものとよく一致した。この結果は,黒ボク土による一価陰イオンの競争吸着モデルで,吸着量を溶液組成・濃度のみの関数としたことへの理論的根拠を与えるものである。

第6章では,本研究で得られた黒ボク土壌中のイオン吸着・移動過程の描像,農耕地からの硝酸イオンの溶脱抑制との関わりと残された問題,および結論が述べられている。

以上要するに,本論文は,黒ボク土壌中のイオン吸着・移動過程を実験的に解明するとともに,塩溶液の移動過程では正味の表面電荷が一定に保たれるとの考えに基づいて,これらの過程を単純化してモデル化し,イオン移動速度の予測を可能にしたものであり,学術上,応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/38154