学位論文要旨



No 216473
著者(漢字) 山田,正行
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,マサユキ
標題(和) 平和教育の思想と実践 : 宮原社会教育学の意義と継承
標題(洋)
報告番号 216473
報告番号 乙16473
学位授与日 2006.03.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第16473号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,一子
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 教授 廣田,照幸
 東京大学 助教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、宮原誠一の思想と実践を平和教育の側面から戦前戦後を通して考察してその意義を示し、次にそれの五十嵐顕による継承と展開を論じ、さらに宮原と五十嵐の思想と実践が秋田の地域社会教育において平和学習運動などとして継承されたことを明らかにした。宮原と五十嵐は、それぞれ何よりも人間を基軸に据えた視座から、人間を支配、抑圧、搾取する社会の問題に迫るとともに、人間が主体的に自らの資質や能力を十全に発達させてこの問題を乗り越えていくための理論を教育学に求め、その研究と実践に努めた。

宮原は戦前に二度の言論弾圧により停学や投獄を経験しながらも一貫して反戦反ファシズムの思想を堅持し、戦後は人間教育を基礎にした平和教育の研究と実践を多面的に展開した。また、五十嵐は天皇を崇敬する軍国主義の将校として従軍したが、敗戦と抑留の経験を通して戦争責任を深く自覚し、それを終生の課題として反省的に追究しつつ平和教育を研究し、かつ実践した。このように両者には戦時下の経験に相違があるが、二人とも人間の十全な発達を実現する民主主義と平和のための教育を進めるべく、現実の諸問題を正視し、その解決を追究し、その中で独自の多面的重層的な思想を構築し、教育学の研究を進め、同時にその実践に努力した。

ここで継承と展開と言う場合、それは宮原から五十嵐へと思想や実践が単純に継続し、再生産しているという意味ではない。二人はそれぞれに独立した思想を擁しており、その上で、五十嵐は宮原の思想と実践に意義を認め、それを自覚的に継承し展開した。二人はそれぞれ社会を成立させている基層に視点を据え、そこで社会を支えながらも抑圧されている人々の現実を正視し、そのような社会体制を批判し、根本的に改革するための学問として教育学を研究し、それと共に自らの研究を実践の中で検証し、その中で思想や学問と実践の統合に努めた。確かに二人の思想にはマルクス主義の位置づけで若干の違いがあるが、いずれもヒューマニズムによってマルクス主義を発展させ、その中で教育学を教育の実践者たちと共同して研究し、同時に自らも実践した。そして、本論文では、それぞれの思想と実践を戦前、戦中、戦後を見渡す一貫した視座で考察すると共に、それを宮原から五十嵐へ、そして地域社会教育実践への継承展開として詳述した。

次に各章について述べていく。その構成は、序章「研究の課題、方法、構成」、第1章「宮原における思想と実践との連関構造−戦前の抵抗と戦後の展開−」、第2章「宮原社会教育学の思想的枠組み−人間発達と社会発展の総体的認識の学問としての社会教育学−」、第3章「戦時下の宮原の論理展開」、第4章「体制変革の現実性と『軍部赤色革命論』−『陸軍国民教育』論に即して−」、第5章「五十嵐顕の平和教育の思想と実践−宮原から五十嵐への展開−」、第6章「地域社会教育実践における宮原と五十嵐の継承−平和憲法学習会と心に刻むアウシュヴィッツ・秋田展に即して−」、終章「本論文の意義と課題」となっている。

まず序章では、戦中の言論統制下で書かれた宮原の論考を理解するためには、表面的には軍国主義の賞揚と見られる文言に内包された反戦反ファシズムの含意と論理の展開を把握しなければならないことを論じた。その上で、言論統制により制約された論考の内容を十分に理解するため、文献資料だけでなく口述資料も考察し、これにより戦時下の宮原の思想や実践の意味をより深く認識できることを示した。そして、論証の構成(上述の各章)を述べ、この論証を開始するにあたり、宮原社会教育学が人間教育と生産教育と平和教育により構造化されていることを提示した。

次に、第1章では、宮原が戦前から一貫して「最も実践的な末端」という社会の基層への視座に立ち反戦平和の思想と実践を統合的に追究したことを論じた。宮原はマルクス主義とヒューマニズムを基本として様々な思想を摂取して多面的重層的な思想を構築し、「最も実践的な末端」で社会を支える人間の十分な発達を実現し、これを通して社会発展を進める学問として社会教育を研究し、特に思想や学問と実践を統合するアクション・リサーチを行った。第2章では、宮原社会教育学の思想的枠組みを、戦前の中田貞蔵(ペンネーム)時代の文献から戦後の『宮原誠一教育論集』全7巻、宮原の編著書、丸山真男、鈴木健次郎、竹内好との対談、座談会、宮原が関わった宣言、声明、意見などを、時代状況や現実的諸問題や実践と連関させて考察し、宮原が人間発達と社会発展の総体的認識の学問としての社会教育学を考究したことを示した。中田貞蔵時代の宮原は山下徳治の社会教育論や新興教育運動などを通して思想を形成し、それは戦後多面的に展開する宮原社会教育学の基点となっている。第3章では、戦時下に宮原が言論統制の検閲を潜り抜け反戦反ファシズムと体制変革を広く伝えようとしたことを、表面的には戦意高揚の文章に内包された論理展開に即して論証した。特に、近衛新体制には反戦反ファシズムの側面もあり、そこにおいて宮原は西田哲学を継承展開しマルクス主義の人間学的発展に努めた三木清と共に軍国主義に抗して「文化政策」論を提起していた。第4章では、天皇制ファシズムに対する宮原の反戦反ファシズムや体制変革の議論が現実に立脚していたことを、同時期に東京大学で教育学を専攻した陸軍情報将校鈴木倉三の「軍部赤色革命論」や「陸軍国民教育」の比較考察を通して論証した。そこには、多くの兵士は社会の基層の出身で、平等で公平な社会の実現という点では生産し社会を支える者と共通しているという現実認識があった。そして、宮原は天皇制ファシズムの矛盾が深刻化し、「最も実践的な末端」の兵士もその問題を認識すれば体制変革を求めるようになると論じていた。

この宮原の思想と実践の考察を踏まえ、第5章では、五十嵐による宮原の継承と展開を考察した。宮原と異なり、五十嵐は自他共にマルクス主義者と認められるが、彼のマルクス主義にはヒューマニズムを始め様々な思想が摂取され、宮原と同様に独自の思想が構築されており、これを公刊された文献と共に、未公開の草稿、ノート、日誌等に基づいて論証した。さらに、五十嵐は自らの戦争体験を繰り返し反省的に考究し、その中で「わだつみのこえ」に即して戦争責任の反省的認識を深め、また、心に刻むアウシュヴィッツ・名古屋展の平和運動を契機に、戦争責任の問題を天皇制にまで展開させており、これは平和教育において意義が大きいことを述べた。

そして、五十嵐の宮原研究により、宮原社会教育学の意義がより一層明らかになることを示した。この点を、教育の「再分肢」機能論、「社会教育の歴史的理解」、自己教育論について見ると、まず、五十嵐は『資本論』研究を踏まえ、社会の政治的、経済的、文化的な機能に対して、人間がそれを捉え返し、自らの望む方向に転化して「人間化」、「主体化」するという教育の「再分肢」機能論を、社会的な分業や専門分化とその統合を「人間化」、「主体化」する理論として展開した。

次に、「社会教育の歴史的理解」では、五十嵐は、前近代の「教育の原形態としての社会教育」、近代の学校教育と社会教育、近代以降の「異なる次元」、「新しい次元」の「教育の原形態としての社会教育」という通時的時間的な「社会教育の歴史的理解」を、共時的空間的に展開し、形成(教育に対する人間形成の基礎)、社会教育(学校教育に対する基礎的な社会的環境)、学校教育という構図を導き出した。いずれにおいても、社会教育が学校教育を包摂した人間発達と社会発展の総体的認識のための概念として捉えられており、それが時間的かつ空間的に把握できるようにされている。

さらに、五十嵐は搾取やイデオロギーの問題を追究し、体制から付与されるのではなく、生産し社会の発展を支える人間が自ら望み、求める自己教育を提起し、その論理を民主的国際連帯まで見通した視角で展開している。その基礎には、マルクスが「フォイエルバッハに関するテーゼ」(第一)で提起した主体的能動的実践の認識論としての弁証法的唯物論がある。

そして、第6章において、このような宮原と五十嵐の思想と実践が秋田という地域の平和憲法学習運動や心に刻むアウシュヴィッツ・秋田展として継承されたことを述べた。1953〜54年頃に宮原は日教組の提唱に応じて進められた秋田の平和憲法学習運動をアクション・リサーチにより調査研究し、それが秋田の平和教育の中で継承され、1996〜97年の心に刻むアウシュヴィッツ・秋田展へと継承された。また、五十嵐の思想や実践の継承もあり、特に彼が深く関わった名古屋展のボランティアは秋田展で大きな役割を担った。

最後に終章では、本論文の意義を確認し、残された課題を提示した。この課題の中では、平和教育やアクション・リサーチなどの側面で宮原の継承展開を考える場合、藤田秀雄の研究と実践は重要であり、この研究が今後求められることを述べた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦争責任問題を根底にすえた社会教育における平和教育論の思想的遺産の現代的継承という観点から宮原誠一の戦前・戦中・戦後の教育思想の展開を系統的に検討し、五十嵐顕による思索と継承、さらには地域における平和教育実践の展開にいたる過程を検証した思想史的研究である。特に戦中ファシズム期における言説の検討について文献資料にとどまらず、言論統制下の口述資料を読み解く方法を試み、さらに五十嵐については敗戦後の南方における捕虜生活時代の未公開日記や、生涯にわたって書き残された未公開研究ノートなど用い、宮原と五十嵐の「多面的重層的」思想構造と相互の関連性を浮き彫りにし、戦後日本の平和教育思想について新たな視点にもとづく解釈を試みた論文である。

論文は、序章、第1章から第6章、及び終章から構成されている。序章では、戦時下の言論統制のもとでの文献資料、口述資料から反戦反ファシズムの含意と論理をどのように読み解くかという方法的提起をふまえ、治安維持法で検挙されるまでの宮原と戦後の宮原を戦前・戦後の連続性において解釈する本論文の視座が示される。第1章では、宮原が「最も実践的な末端」をささえる人々の立場から社会教育学を構想し、マルクス主義とヒューマニズムに立脚して思想と実践を統合するアクション・リサーチを追求したことを明らかにし、第2章では、生涯にわたる言論と実践から宮原教育学の全体像を示している。第3章では、特に論争的に扱われてきた戦時下の宮原について、ペンネーム論文、宮原のデユーイ解釈、近衛新体制のもとでの三木清の「文化政策」論との関連等々の詳細かつ多岐にわたる検討から、戦後につらなるダイナミックな論理の伏在に光をあてる。第4章では当時の状況的背景として鈴木庫三の「軍部赤色革命論」のもつ意味を検討し、第5章では、「優秀な」将校であった五十嵐が南方で捕虜になった直後から晩年にいたる生涯をつうじて、宮原を念頭におきつつ内省を重ね、1990年代に戦争責任『「わだつみのこえ」を聴く』を表明するにいたった思想形成の軌跡をたどる。第6章では両者をつなぐ象徴的な事例として秋田県の平和学習運動実践とアウシュビッツ展の展開にふれ、終章では戦後平和教育思想におけるマルクス主義とヒューマニズムの意義を考察している。

本論文は、戦後日本の平和教育思想を論じるうえで戦争責任問題を根底にすえ、戦前との連続性をふまえて戦後教育思想を再検討したオリジナリティの高い労作である。戦時下の言説・口述資料の解釈については、ひきつづき史実に即した検証がおこなわれる必要があるが、社会教育における戦争責任と平和教育の構想という主題をめぐる多くの論点を示唆しており、さらに新たな視点からの検証をよびおこすという意味でも今後の布石となりうる研究であり、博士(教育学)の学位を授与するにふさわしい論文と評価された。

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