学位論文要旨



No 216479
著者(漢字) 吉岡,昇
著者(英字)
著者(カナ) ヨシオカ,ノボル
標題(和) 海馬シナプス可塑性のNMDA受容体依存性と水平断切片培養法による海馬シナプスの再構成
標題(洋)
報告番号 216479
報告番号 乙16479
学位授与日 2006.03.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第16479号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 川原,茂敬
 東京大学 講師 山田,麻紀
内容要旨 要旨を表示する

神経系におけるシナプス可塑性には、軸索の伸長・分岐・縮退、シナプスの新規生成や消滅などといった、構造的変化に着目した構造的シナプス可塑性という概念と、学習・記憶の成立などに伴って起きると考えられる機能的シナプス可塑性という概念とがある。前者は神経の発生過程あるいは再生過程において多く見られる可塑性であり、後者は生体が個体として機能し始めた後に環境の変化に適応するために起こるシナプス可塑性である。機能的シナプス可塑性はシナプス伝達効率の神経活動依存的な変化によって達成されると考えられるが、それには何らかの構造的変化を伴う場合がある。一方、構造的シナプス可塑性にも活動依存的な場合があり、機能的シナプス可塑性と同様の現象が、その過程の中で起きている可能性がある。

私は「構造的シナプス可塑性と機能的シナプス可塑性には、両者を統一的に説明するような共通の原理・メカニズムといったものがあるに違いない」と考え、本研究に着手した。

本研究の対象は、海馬の神経回路が示すシナプス可塑性である(図1)。海馬が学習・記憶に関与していることは古くから信じられてきており、海馬のシナプスが非常に顕著な可塑性を示すことも古くから知られている。また、海馬は構造が完成するのが比較的遅く、成熟動物においても海馬歯状回で神経細胞の新生が見られる。海馬は機能的シナプス可塑性を有しつつ、構造的シナプス可塑性も保持しながらその機能を発揮していると考えられ、機能的可塑性と構造的可塑性を平行して調べる上では非常に好適な研究対象である。さらに、これら両可塑性に共通に関わる分子として、NMDA受容体がある。NMDA受容体が特に海馬での機能的シナプス可塑性に深く関わっていることは周知の事実であるが、幼若な神経系での構造的シナプス可塑性に関与しているという報告も多々ある。そこで、本研究においては、両シナプス可塑性に共通なメカニズムとしてNMDA受容体に着目し、機能的シナプス可塑性および構造的シナプス可塑性において果たす役割を海馬において調べることにした。

まずは、機能的シナプス可塑性として海馬CA1領域における長期増強を選択し、そのNMDA依存性に関する研究を行った。次に、海馬およびその周辺の領域を含む、水平断切片培養系を開発し、NMDA受容体依存的な長期増強を起こすシナプスが構造的シナプス可塑性を発揮しながら再生して行く過程を追跡した(図1)。

マグネシウムイオン無添加条件での低頻度刺激(1 Hz)による海馬CA1長期増強発現と長期増強のNMDA受容体依存性

本実験では、モルモット海馬CA1領域の興奮性シナプスにおける長期増強の性質を調べた。実験開始当時は、海馬CA1領域の長期増強にはシナプス後細胞の脱分極が必須であることが明らかとなっており、この脱分極がNMDA受容体の活性化と"NMDA受容体チャネルを介したカルシウムの細胞内への流入"を引き起こすことに必要であると考えられていた。しかし、NMDA受容体チャネルを介したカルシウムイオンの細胞内流入が長期増強の生起にとって十分であるかどうかは、当時未解決の問題であった。そこで、この点について吟味するため、成熟モルモット海馬切片CA1領域を用いて実験を行った。

まず、マグネシウムイオン無添加条件下で1 Hz 50回の低頻度刺激を条件付け刺激として用いることで、長期増強が起こることを見出した。この長期増強は、通常の長期増強と同様に2-アミノ-5-フォスフォノ吉草酸(2-amino5-phosphonovaleric acid: APV)によって阻害された。これにより、この長期増強がNMDA受容体依存的に起こることが分かった。成熟動物の海馬CA1領域では、1 Hzの刺激では脱分極の加重も起こらないが、マグネシウムイオン無添加条件下ではNMDA受容体のマグネシウムイオンによる電位依存的閉塞が取り除かれているために、大きな脱分極が無いにもかかわらずNMDA受容体を通って十分なカルシウムイオンがシナプス後細胞樹状突起内へ流入したと考えられる。"脱分極が必要なのはNMDA受容体チャネルを介したカルシウム流入のためである"という仮説にしたがうと、本実験のマグネシウムイオン無添加条件下ではシナプス後膜の脱分極は長期増強の生起のためには不要であることが予想された。そこで、シナプス後樹状突起の脱分極をγ-アミノ酪酸(GABA)およびムシモル(muscimol)の局所投与により抑制した条件下において、長期増強の実験を行った。予想に反し、GABAおよびムシモルによって長期増強は阻害された。この結果は、NMDA受容体チャネルを介したカルシウムイオン流入は長期増強の生起にとって十分な条件ではなく、それがあってもなお脱分極が必要であることを示唆している。すなわち、シナプス後樹状突起の脱分極は、NMDA受容体の閉塞を取り除いてNMDA受容体チャネルを経由したカルシウムイオン流入を増加させるということ以外にも何らかの役割があることが示唆された。一つの有力な可能性として、樹状突起に存在する電位依存性カルシウムチャネルを介したカルシウムイオン流入への寄与が考えられた(図2)。

内嗅野−海馬水平断切片培養系の構築と軸索切断後の投射パターンの再生

内嗅野−海馬投射系は、皮質から海馬への主たる入力経路であり、その入力線維における長期増強は、NMDA受容体依存性を示す(図1)。また、この繊維の投射先である歯状回はニューロン新生の場所として著名である。この線維の再生過程におけるNMDA受容体依存性などを調べることで、機能的シナプス可塑性と構造的シナプス可塑性の生起メカニズムについての理解を深めることが期待できる。ここでは、その第一歩として、この投射系の切片培養による再構築をおこなった。その中で、この入力線維において、(1)生後に切断を受けた線維が再生し得るかどうか、(2)再生した線維により本来の特異的投射関係が再生されるかどうか、の2点について検討を行うことができた。9-10日齢のラットの前脳後半部より内嗅野皮質と海馬を含む水平断切片をとり、これを培養した。この方法であれば、内嗅野と海馬という2つの領域が組織としてはひとつながりの構造として同一切片に含まれるが、この2つの領域を繋ぐ内嗅野-海馬投射線維は、切片を作製するときにいったん切断されることになる。これは、内嗅野から海馬への投射線維が内嗅野皮質を出た後に背側へ曲がってから海馬へ入るという走行をとるためである。培養開始後の内嗅野と海馬との間の結合形成過程を調べるため、バイオサイチンあるいはビオチンデキストランによる細胞外および細胞内からの順行性標識、ビオチンデキストランによる逆行性標識、および、シナプス結合の電気生理学的確認を行った。また、切片内の細胞構築をin vivoの状態と比較するためサイオニン染色を行った。

サイオニン染色により、切片内の細胞構築は培養後も良く保たれていることがわかった。結合の形成に関しては、切片培養作成後24時間の時点では、内嗅野軸索は皮質深部の白質にとどまり、海馬および海馬歯状回へは到達しなかった。切片培養作成後3日の時点ではごく少数の線維が海馬台を通過し投射領域へと到達していた。この時期の神経細胞は未熟な形態を示し、投射領域の近くでは最終的な投射領域から逸脱して伸長する線維が多々見られた。6日から14日の間には、この投射線維の量が増加し、投射パターンの成熟が見られた。通常の発達過程で形成される結合関係と同様、内嗅野II層の星状細胞は歯状回と海馬CA3領域に、内嗅野III層の錐体細胞は海馬CA1領域と海馬台に投射していた。さらに、これらの線維がシナプス結合を形成していることを電気生理学的に確認した。

本研究において、切片の取り方を工夫することで、まるで通常のシナプス形成過程を見るかのような軸索の再生、結合関係の再現を観察できる系を作ることに成功した。この系は、組織の連続性を壊さずに、投射していた軸索のみを切断でき、しかもその再生を経時的に観察できる、オリジナリティーの高い新規な実験系である。従来の共培養の場合には、組織片の境界を軸索が通過しなければならず、多くの技術的困難が伴うが、この水平断切片培養においてはそのような技術的な問題は回避できる。この水平断切片培養系を用いることにより、生後一週間以上経った組織の培養であったにも関わらず、内嗅野と海馬の間の特異的線維結合を、いったん切断した後で双方向的に再生させることが可能になった。

この内嗅野から海馬への投射は、NMDA依存的な機能的シナプス可塑性を示す投射線維で構成される。そして、ここで用いた生後9〜10日齢のラット海馬では、すでに長期増強および長期抑圧が発現している。機能的シナプス可塑性を媒介するNMDA依存的メカニズムが、本研究で見られた投射パターンの再生に寄与している可能性は十分にありうる。従って、この投射パターン再生におけるNMDA依存性、長期増強や長期抑圧と投射パターン再生との関係などを調べる研究を行うことが、次の段階ということとなる。ここで得られた内嗅野−海馬水平断切片培養系は、そういった機能的シナプス可塑性と構造的シナプス可塑性に共通のメカニズムを調べるための実験系として活用し得るものである。

図1 海馬とシナプス可塑性

審査要旨 要旨を表示する

神経系におけるシナプス可塑性には、軸索の伸長・分岐・縮退、シナプスの新規生成や消滅などといった、構造的変化に着目した構造的シナプス可塑性という概念と、学習・記憶の成立などに伴って起きると考えられる機能的シナプス可塑性という概念とがある。前者は神経の発生過程あるいは再生過程において多く見られる可塑性であり、後者は生体が個体として機能し始めた後に環境の変化に適応するために起こるシナプス可塑性である。

海馬が学習・記憶に関与していることは古くから信じられてきており、海馬のシナプスが非常に顕著な可塑性を示すことも古くから知られている。また、海馬は構造が完成するのが比較的遅く、成熟動物においても海馬歯状回で神経細胞の新生が見られる。海馬は機能的シナプス可塑性を有しつつ、構造的シナプス可塑性も保持しながらその機能を発揮していると考えられ、機能的可塑性と構造的可塑性を平行して調べる上では非常に好適な研究対象である。さらに、これら両可塑性に共通に関わる分子として、NMDA受容体がある。そこで、本研究は、海馬のNMDA受容体が機能的シナプス可塑性および構造的シナプス可塑性において果たす役割を調べることを目的とした。

まず、機能的シナプス可塑性として海馬CA1領域におけるNMDA依存性の長期増強を取り上げた。次に、海馬およびその周辺の領域を含む、水平断切片培養系を開発し、NMDA受容体依存的な長期増強を起こすシナプスが構造的シナプス可塑性を発揮しながら再生して行く過程を追跡した。

マグネシウムイオン無添加条件での低頻度刺激(1Hz)による海馬CA1長期増強発現と長期増強のNMDA受容体依存性

本研究開始当時は、海馬CA1領域の長期増強にはシナプス後細胞の脱分極が必須であることが明らかとなっており、この脱分極がNMDA受容体の活性化と“NMDA受容体チャネルを介したカルシウムの細胞内への流入”を引き起こすことに必要であると考えられていた。しかし、NMDA受容体チャネルを介したカルシウムイオンの細胞内流入が長期増強の生起にとって十分であるかどうかは、当時未解決の問題であった。そこで、この点について吟味するため、成熟モルモット海馬切片CA1領域を用いて実験を行った。

まず、マグネシウムイオン無添加条件下で1 Hz 50 回の低頻度刺激を条件付け刺激として用いることで、長期増強が起こることを見出した。この長期増強は、通常の長期増強と同様に2-アミノ-5-フォスフォノ吉草酸(2-amino5-phosphonovaleric acid: APV)によって阻害されたことから、NMDA受容体依存性であることが分かった。成熟動物の海馬CA1領域では、1 Hzの刺激では脱分極の加重も起こらないので、脱分極は小さい。マグネシウムイオン無添加条件下ではNMDA受容体のマグネシウムイオンによる電位依存的閉塞が取り除かれているために、大きな脱分極が無いにもかかわらずNMDA受容体を通って十分なカルシウムイオンがシナプス後細胞樹状突起内へ流入したと考えられる。そこで、シナプス後樹状突起の脱分極をγ-アミノ酪酸(GABA)およびムシモル(muscimol)の局所投与により更に抑制した条件下において、長期増強が起こるかどうか調べた。その結果は、GABAおよびムシモルによって長期増強は阻害された。従って、NMDA受容体チャネルを介したカルシウムイオン流入は長期増強の生起にとって十分な条件ではなく、それがあってもなお脱分極が必要であることを示唆している。すなわち、シナプス後樹状突起の脱分極は、NMDA受容体の閉塞を取り除いてNMDA受容体チャネルを経由したカルシウムイオン流入を増加させるということ以外にも何らかの役割があることが示唆された。一つの有力な可能性として、樹状突起に存在する電位依存性カルシウムチャネルを介したカルシウムイオン流入への寄与が考えられた。

内嗅野−海馬水平断切片培養系の構築と軸索切断後の投射パターンの再生

内嗅野−海馬投射系は、皮質から海馬への主たる入力経路であり、その入力線維における長期増強は、NMDA受容体依存性を示す。また、この繊維の投射先である歯状回はニューロン新生の場所として著名である。この線維の再生過程におけるNMDA受容体依存性を調べることで、機能的シナプス可塑性と構造的シナプス可塑性の生起メカニズムについての理解を深めることが期待できる。そこで、この投射系の切片培養による再構築をおこなった。その中で、この入力線維において、(1)生後に切断を受けた線維が再生し得るかどうか、(2)再生した線維により本来の特異的投射関係が再生されるかどうか、の2点について検討を行うことができた。9-10日齢のラットの前脳後半部より内嗅野皮質と海馬を含む水平断切片をとり、これを培養した。この方法であれば、内嗅野と海馬という2つの領域が組織としてはひとつながりの構造として同一切片に含まれるが、この2つの領域を繋ぐ内嗅野−海馬投射線維は、切片を作製するときにいったん切断されることになる。これは、内嗅野から海馬への投射線維が内嗅野皮質を出た後に背側へ曲がってから海馬へ入るという走行をとるためである。培養開始後の内嗅野と海馬との間の結合形成過程を調べるため、バイオサイチンあるいはビオチンデキストランによる細胞外および細胞内からの順行性標識、ビオチンデキストランによる逆行性標識、および、シナプス結合の電気生理学的確認を行った。また、切片内の細胞構築をin vivo の状態と比較するためサイオニン染色を行った。

サイオニン染色により、切片内の細胞構築は培養後も良く保たれていることがわかった。結合の形成に関しては、切片培養作成後24時間の時点では、内嗅野軸索は皮質深部の白質にとどまり、海馬および海馬歯状回へは到達しなかった。切片培養作成後3日の時点ではごく少数の線維が海馬台を通過し投射領域へと到達していた。この時期の神経細胞は未熟な形態を示し、投射領域の近くでは最終的な投射領域から逸脱して伸長する線維が多々見られた。6日から14日の間には、この投射線維の量が増加し、投射パターンの成熟が見られた。通常の発達過程で形成される結合関係と同様、内嗅野II層の星状細胞は歯状回と海馬CA3領域に、内嗅野III層の錐体細胞は海馬CA1領域と海馬台に投射していた。さらに、これらの線維がシナプス結合を形成していることを電気生理学的に確認した。

本研究において、切片の取り方を工夫することで、まるで通常のシナプス形成過程を見るかのような軸索の再生、結合関係の再現を観察できる系を作ることに成功した。この系は、組織の連続性を壊さずに、投射していた軸索のみを切断でき、しかもその再生を経時的に観察できる、オリジナリティーの高い新規な実験系である。従来の共培養の場合には、組織片の境界を軸索が通過しなければならず、多くの技術的困難が伴うが、この水平断切片培養においてはそのような技術的な問題は回避できる。この水平断切片培養系を用いることにより、生後一週間以上経った組織の培養であったにも関わらず、内嗅野と海馬の間の特異的線維結合を、いったん切断した後で双方向的に再生させることが可能になった。

以上のように、本研究は、海馬における機能的シナプス可塑性誘発のための必要条件・十分条件を解明し、また、内嗅野から海馬へ投射する線維の再生における構造的シナプス可塑性を研究するための有用な実験系(水平断切片培養法)を開発した。この内嗅野から海馬への投射は、NMDA依存的な機能的シナプス可塑性を示す投射線維で構成される。そして、ここで用いた生後9〜10日齢のラット海馬では、すでに長期増強および長期抑圧が発現している。機能的シナプス可塑性を媒介するNMDA依存的メカニズムが、本研究で見られた投射パターンの再生に寄与している可能性は十分にありうる。従って、この投射パターン再生におけるNMDA 依存性、長期増強や長期抑圧と投射パターン再生との関係などを調べる研究を行うことが、次の段階ということとなる。ここで得られた内嗅野−海馬水平断切片培養系は、そういった機能的シナプス可塑性と構造的シナプス可塑性に共通のメカニズムを調べるための実験系として活用し得るものである。以上より、本研究の成果はシナプス可塑性の研究に新知見を加えたものであり、博士(薬学)の学位に値するものと判断された。

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