学位論文要旨



No 216499
著者(漢字) 中野,恵子
著者(英字)
著者(カナ) ナカノ,ケイコ
標題(和) 沖積土畑地の排水性に関する研究 : 土壌の物理性・化学性の空間変動・経時変動を指標として
標題(洋)
報告番号 216499
報告番号 乙16499
学位授与日 2006.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16499号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮,毅
 東京大学 教授 田中,忠次
 東京大学 教授 塩沢,昌
 東京大学 助教授 島田,正志
 東京大学 助教授 溝口,勝
内容要旨 要旨を表示する

世界各地で土壌劣化が進行しており,人間生活に与える打撃が憂慮されている。集約的な農業が行われる穀倉地帯では,機械導入,化学肥料利用などの累積による劣化の報告が相次いでいる。しかし,連作可能な水田を中心に農地が構成された日本では,一部土壌流亡など農地系外へ影響を及ぼす場合を除いて,土壌劣化はあまり認識されていない。ところが,畑地や転換畑では土壌の物理的性質を含む地力(土壌の性質に由来する農地の生産力)消耗の意識はあり,近年では,これに起因する圃場の排水性低下が疑われている。本研究は,過去に優良農地であった沖積地畑地圃場に生じた排水不良の原因を土壌の物理性・化学性の空間変動および経時変動を指標として明らかにしたものである。

本研究は埼玉県深谷市豊里東部地区(N 36°13',E 139°17')を対象とした(Fig. 1)。この地区は,利根川とその支流の小山川に挟まれた沖積地であり,ネギ(Allium fistulosum L.)を基幹作物とする優良な畑地と認識されてきた。しかし,近年一部の農地で湛水・湿害が問題となっている。この地区では,ネギ作に湿害を生じる場合を「排水不良」と称している。等高線図・土壌図・圃場整備事業に関する資料等既存の資料を精査し,降雨後の現地踏査と併せて排水不良化の要因を整理した。旧河川にあたる微地形部や幹線排水路周辺を除いて,集団的な排水不良は見られなかった。周辺造工物や用排水路組織との関係に排水不良の原因があると考えられた圃場もあったが,それらの要因がなく,しかも所有者が「水がしみこみにくくなった」と自覚している圃場があった。そのような圃場では土壌の悪化が排水不良を招いたと推察された。

そこで,土壌の悪化が原因と疑われた排水不良地から3圃場(B1,B2,B3),排水良好地から3圃場(G1,G2,G3)を選定し,土壌の物理的・化学的性質を調査した。これらの性質を比較することによって,排水不良地の特性を明らかにしようとした。ここで,G2は有機物投与,G3は超深耕による排水改良が行われた圃場である。土壌を構成する基本的な性質である粒径分布,粘土鉱物組成,有機物含量や交換性陽イオン含量と,それらの土層断面内分布からは6圃場の排水性の違いを裏付ける特徴は見いだされず,同じような土壌であると判断された。なお,土壌液相のECやイオン組成は施肥の影響を受けて時期的に大きく変動した。しばしば排水改善指標に用いられる飽和透水係数は,排水不良地(B)では目標値の10-6 m s-1を概ね上回った。むしろ排水良好地で小さく,目標以下の値が見られた(Fig. 2)。従来の値の大小による判断では,排水不良地は良好地と比べても排水性を左右するような透水係数の悪化はないことになる。

排水不良と良好地の差違は,下層土の圧縮の程度の違いにあることが,貫入抵抗分布と硬度分布から明らかとなった。機械走行跡に直交する断面の硬度分布の例をFig. 3に示す。排水良好圃場,不良圃場とも高い硬度の等値線は島状に現れ,下層土の圧縮は面的に不均一であったことが示された。機械走行跡に平行な断面では,等値線が帯状であったので,この不均一な圧縮は機械走行によってもたらされたと考えられた。排水良好圃場における下層土の圧縮は局部的なものに留まったのに対し,排水不良圃場では,断面内で相対的に不均一であっても全体的には硬度が高く圧縮が進んでおり,そのために作土と下層土の間にはより明瞭な物理的境界が認められた。

土壌の乾燥密度と飽和透水係数の関係を表す各種モデルを用いて,土壌の圧縮が飽和透水係数に及ぼす影響を評価した。Fig. 4にこれを示す。下層土では乾燥密度が大きいほど飽和透水数が小さいという関係があった。一方,作土では,両者に関係を見いだせなかった。同じ乾燥密度で比較すると,作土では常に下層土よりも飽和透水係数が小さかった。同じ土性の土層にのみ注目し,粒径分布が透水係数に及ぼす影響を排除すると,乾燥密度と飽和透水係数の関係はより明瞭になった。これに3つのモデル(非相似(NSMC)モデルの式,Campbellの式,Kozeny-Carmanの式)を適用したところ,NSMCモデルの式の適用性が最もよかった。超深耕の施工があり,その後経年的に圧縮を受けた圃場の下層土についても同様の過程で評価した。その結果,乾燥密度が大きいほど飽和透水係数が小さい傾向があったが,実測値はつねにNSMCによる推定値を下回った。作土や撹乱を受けた下層土の飽和透水係数が,圧縮された下層土の乾燥密度と飽和透水係数の関係の延長にないことは,透水係数を決定している要因が撹乱層と圧縮層で全く異なることを意味する。よって,作土−下層土境界付近の水移動には特に注意を払う必要があると考えられた。

施肥後の灌漑・降雨による土壌液相中の電解質濃度の低下は,土壌の分散性を変化させ,粒子の分散・移動を通じて透水性に影響を及ぼすと考えられた。そこで,土壌液相の電解質濃度が小さくなるとき,作土−下層土の境界が土壌の透水係数に及ぼす影響について調べた。乾燥密度の違いで作土−下層土を模した土壌カラムを作成し,蒸留水浸透実験を行った。カラム内の全水頭分布の経時変化と流出水フラックスを測定した。電解質濃度変化と分散粒子の移動を流出水のECおよび懸濁物質濃度の測定により確認した。その結果,供試土壌由来の高電解質濃度の溶液がカラム内を通過するとき,土壌粒子は凝集した状態にあり,溶存物質のみが移動することがわかった。蒸留水の浸透に伴ってカラム内溶液の電解質濃度が低下すると,土壌粒子の分散性が高まり,分散粒子が懸濁物質として移動・流出した。Fig. 5のように,乾燥密度が上層で小さく,下層で大きいカラムでは,低電解質濃度溶液の浸透が続くと層境界付近の全水頭の差が著しく増大した。カラム内任意の2地点間の全水頭の差は,その土層の透水係数の値に逆比例するので,カラム内でこの部分の透水性が局部的に低下したことがわかった。移動土壌粒子が,乾燥密度の大きな下層に浸入するとき沈積し,難透水層が形成されたことによると考えられた。

以上のように,本対象地区では,土壌の基本的な性質や土層構成に大きな違いが無いにも関わらず,排水性に劣る圃場と良好に維持される圃場があることがわかった。排水不良地では,下層土の圧縮が著しく作土との境界が明瞭であったが,良好地では,圧縮は局部的なものに留まっていた。この違いが,圃場の排水性と関与したと判断された。しかし,下層土の飽和透水係数は,排水不良地でも十分に大きかったため,下層土全体によって水の浸透が制限されたとは考えにくい。そこで境界の明瞭さに注目した。すると,施肥・灌漑による土壌液相の電解質濃度の変化は土壌粒子の分散と移動を引き起こし,作土−下層土のような下層の乾燥密度が高い明瞭な境界部分では,移動粒子の目詰まりによる難等水層の形成があると考えられた。排水不良地では,耕耘層直下が一様に圧縮されており,圃場一面に難透水層の形成されやすい条件が広がっていることが排水の妨げとなったと推定された。排水良好地においても,下層の圧縮が進んだ部分では難透水層が形成されると考えられた。しかし,圧縮自体が部分的なものに留まっているために難透水層の形成も部分的なものに留まり,表層から下層へのみずみちが確保されて良好な排水性を維持したと考えられた。超深耕G3圃場においては,飽和透水係数が他圃場よりも全体的に小さいが,排水は良好であった。超深耕により作土−下層土の境界が壊され,みずみちが確保されたことによる排水改良効果であると判断された。

本研究により,圃場の排水不良化を回避するには,作土,下層土それぞれの物理的性質の過度な均一化を避ける営農上の工夫が必要であることが示唆された。

Fig. 1 埼玉県深谷市豊里東部地区排水不良概況

Fig. 2 飽和透水係数の分布 (a) 排水良好圃場,(b) 排水不良圃場

Fig. 3 機械走行跡に直交する断面の硬度分布 (a) 排水良好圃場の例,(b) 排水不良圃場の例

Fig. 4 圧縮下層土の乾燥密度と飽和透水係数の関係

Fig. 5 乾燥密度(ρb)の境界が透水性に及ぼす影響

審査要旨 要旨を表示する

世界各地で土壌劣化が進行している。特に、集約的農業が行われる穀倉地帯では、機械導入、化学肥料利用などの累積による劣化の報告が相次いでいるが、連作可能な水田を中心に農地が構成された日本では、一部土壌流亡など農地系外へ影響を及ぼす場合を除いて、土壌劣化はあまり認識されていない。ところが、日本の畑地や転換畑でも、土壌の物理的性質を含む地力消耗の意識は高まりつつあり、近年では、これに起因する圃場の排水性低下が疑われている。本研究は、過去に優良農地であった沖積地畑地圃場に生じた排水不良の原因を土壌の物理性・化学性の空間変動および経時変動を指標として明らかにしたものである。

第1章は緒言であり、日本の農地における排水問題の特質を論じ、本研究の位置づけを明確にした。

第2章は研究対象地区の排水不良問題について、具体的な問題を提起した。すなわち、対象地、埼玉県深谷市豊里東部地区は、利根川とその支流の小山川に挟まれた沖積地であり、ネギを基幹作物とする優良な畑地と認識されてきたが、近年一部の農地で湛水・湿害が問題となっていることを示し、等高線図・土壌図・圃場整備事業に関する資料等既存の資料を精査して、降雨後の現地踏査と併せて排水不良化の要因を整理した。その結果、518件の事例中89件の圃場が、土壌劣化による排水不良発生地と推察された。

第3章では、第2章で抽出された圃場から排水不良圃場と排水良好圃場を複数選択し、これら圃場土壌の化学的・物理的性質の実態調査を行った結果を述べた。すなわち、土壌劣化が原因と疑われた排水不良地3圃場、対照とする排水良好地3圃場を選定し、各々の土壌の物理的・化学的性質を調査したところ、土壌を構成する基本的な性質である粒径分布、粘土鉱物組成、飽和透水係数、含水比、有機物含量や交換性陽イオン含量などの項目において、排水性の良否を説明しうる特徴は見いだされなかった。しかし、貫入抵抗分布と硬度分布を比較してみたところ、排水不良と良好の差違は下層土の圧縮程度の違いと強い相関があり、排水良好圃場における下層土の圧縮は局部的に発生したのに対し、排水不良圃場では局所的でなく全体的に均一に圧縮されていることが分かった。

第4章では、圧縮下層土における透水係数と乾燥密度の関係を実験的に調べ、既存の3つの理論モデルを適用して、土壌の圧縮が飽和透水係数に及ぼす影響を評価した。その結果、下層土では乾燥密度が大きいほど飽和透水数が小さいが、作土では両者に関係を見いだせず、同じ乾燥密度で比較すると、作土は常に下層土よりも飽和透水係数が小さかった。次に、下層土のみについて、非相似(NSMC)モデルの式、Campbellの式、Kozeny-Carmanの式を適用したところ、乾燥密度と飽和透水係数の関係は、NSMCモデルの式の適用性が最もよかった。

第5章では、土壌溶液の電解質濃度および作土-下層土境界が透水係数に及ぼす影響について実験的に調べた。作土と下層土の境界面に着目したのは、作土層内の土壌の物理性・化学性が、降雨や灌漑で土粒子を分散化させる傾向を有し、こうして分散した土粒子の移動・集積が境界面に発生すると考えられたためである。実際、圃場の不撹乱土における作土と下層土の境界面を観察すると、粘土の薄膜の存在が確認された。そこで、カラムに土を充填して作土と下層土からなる2層を作成して蒸留水や電解質溶液を流したところ、表層土が良く撹乱されて乾燥密度が小さく、下層土が良く圧縮されて乾燥密度が大きい土壌の場合、蒸留水を流すと土層全体の透水性が著しく低下することを確認した。一方、電解質溶液を流した場合、このような透水性低下は著しくなかった。圃場においても同様の現象が起こりうることは容易に想定されるので、作土の分散化と分散土粒子の移動・集積が圃場の排水性に及ぼす影響は、重要であるとの認識に至った。

第6章の結論では、本対象地区では土壌の基本的な性質や土層構成に大きな違いが無いにも関わらず、排水性に劣る圃場と良好に維持される圃場があることについて、排水不良地では、下層土の圧縮が過度に一様であり、作土との境界が明瞭であって、その境界に分散土粒子が集積しやすいことを述べた。一方、排水良好地も類似の土壌、類似の営農体系を有しているが、下層土の圧縮がそれほど一様ではなく、結果的に水道などが確保されて排水性が良好に保たれていることを述べた。なお、本結論において、対象地区の複数の農業者の「現場の声」と本研究との関連について言及し、現場への貢献を強調したところにも本研究の特色が見られた。

以上要するに、本論文は、優良な畑地として利用されている土壌において近年発生している排水不良問題を、地元の意識調査、現地調査、室内実験、モデル理論などの手法を駆使して解析し、その主要な原因を明らかにすると共に、農業者が日常的に感じている問題意識にまでこれを繋げることに意を尽くしたものであり、学術応用上寄与するところが大きい。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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