学位論文要旨



No 216503
著者(漢字) 中村,仁
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ヒトシ
標題(和) 密集市街地におけるストック活用型環境改善アプローチの展望 : 大阪の長屋集積地区を事例として
標題(洋)
報告番号 216503
報告番号 乙16503
学位授与日 2006.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16503号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大方,潤一郎
 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 小出,治
 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 助教授 小泉,秀樹
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景

日本の大都市には,道路などの基盤が未整備で老朽木造住宅などが密集する,いわゆる密集市街地が広範に分布している.密集市街地は,住環境上のさまざまな問題を抱えており,その環境改善は,都市政策上の重要な課題である.とくに,1995年の阪神・淡路大震災以降は,密集市街地の防災性の向上,とりわけ,市街地大火の防止が,政策上の主要な課題となっている.

一方,1990年代半ば以降,少子高齢化の進行と人口減少,地球環境問題への意識の高まり,まちなみや地域文化の保全・再生への関心の高まりといった社会的背景のもとで,都市計画や住宅政策などの分野において,新規に都市施設や住宅を建設するだけでなく,既存のストックを有効に活用することが,重要な政策課題として認識されるようになってきた.

本来,木造建築物は,改修(模様替え,修繕,増改築など)が容易であり,密集市街地の木造住宅においても,改修が頻繁に行われている.密集市街地の環境改善においても,「住宅の改修」という潜在力を評価し,既存住宅をストックとして積極的に活用していく発想が必要である.

研究の目的

本論文の目的は,「密集市街地整備における耐震改修促進策の位置づけと意義」および「大阪の長屋集積地区の実態と環境改善の課題」に関する文献研究および実証研究を通じて,「住宅の改修」を基本とする環境改善の意義とその展開方法を検討し,密集市街地における「ストック活用型環境改善アプローチ」の可能性と課題を明確にすることである.

なお,大阪の長屋集積地区を事例対象とするのは,長屋集積地区が,密集市街地の一典型であり,大阪市に広範に存在していること,また,長屋集積地区に多く存在する長屋建て住宅や戸建て住宅は,形態的にみて,改修が比較的容易であることから,「住宅の改修」による環境改善の可能性と課題を考察するうえで適しているからである.

「ストック活用型環境改善アプローチ」の定義

本論文では,「環境改善」を,「当該区域における市街地の物的環境(「住宅の性能」,「住環境」)および物的環境に関連する非物的な環境(住宅にかかる費用の適切性,居住者属性のバランスなど)の水準を向上させること」と定義する.

長屋集積地区などの密集市街地における「環境改善の手法」は,主要な環境構成要素である「既存住宅」への対応に特に着目すると,1)「個別改修」:既存住宅の個別の「改修」の促進,2)「個別建替え」:既存住宅の個別の「建替え」の促進,(建替えに伴う)細街路拡幅,3)「面的整備」:既存住宅の「共同建替え」の促進,道路や公園などの基盤整備,の大きく3つの類型をあげることができる.

本論文では,「ストック活用型環境改善アプローチ」を,「「個別改修」による「環境改善」を基本とし,「個別建替え」や「面的整備」による「環境改善」よりも重視する「環境改善」の方法(アプローチ)」と定義する.

論文の構成

本論文は,「序論」,「密集市街地整備における耐震改修促進策の位置づけと意義」に関する研究(第1章〜第2章),「大阪の長屋集積地区の実態と環境改善の課題」に関する研究(第3章〜第5章),および「結論」で構成される.

「序論」では,本論文の研究の「背景」,「目的」,論文で使用する「用語の定義」,本論文の「構成」および研究の「方法」を示すとともに,関連する「既往研究」を整理して,本論文の研究上の位置づけを明確にする.

「密集市街地整備における耐震改修促進策の位置づけと意義」に関する研究(第1章〜第2章)では,密集市街地整備に関する国・自治体の方針,大阪市における市街地整備施策の現状を整理し,「ストック活用」としての耐震改修促進策の位置づけを明確にするとともに,耐震改修促進による地区レベルでの地震被害軽減の効果を分析して,密集市街地整備における耐震改修促進策の意義を考察する.

「大阪の長屋集積地区の実態と環境改善の課題」に関する研究(第3章〜第5章)では,近代長屋の特性,大阪の長屋集積地区の形成と変容,長屋集積地区の分布状況,近年の人口動態および市街地更新動向,長屋の再評価と長屋再生の動向を把握して,長屋集積地区の実態と環境改善の課題を明確にするとともに,長屋集積地区を特徴づける「戦前長屋」に着目し,典型地区における事例研究を通じて,戦前長屋の耐震改修を促進することの意義と課題を考察する.

「結論」では,第1章〜第5章で得られた知見および密集市街地の環境改善に関する既往文献をふまえ,長屋集積地区における「住宅の改修」による環境改善の有効性を多面的に検討し,長屋集積地区において,「ストック活用型環境改善アプローチ」を展開することの意義を考察する.さらに,「ストック活用型環境改善アプローチ」の展開方法を概念的に提案して,密集市街地における「ストック活用型環境改善アプローチ」の可能性と課題を考察する.

結論の要旨

密集市街地整備における耐震改修促進策の位置づけと意義(第1章〜第2章)

住宅の耐震改修は,密集市街地の主要な環境構成要素である「住宅」(木造住宅)を,直接「既存ストック」として「活用」する施策であるが,たんに住宅の倒壊を防止するだけでなく,密集市街地における地震時の道路閉塞を抑制し,それが避難や消火活動の円滑化に寄与する側面もある.また,モデル地区での地震時の被災シナリオ分析の結果から,地区レベルの地震被害軽減効果の即効性を高めるためには,耐震改修の促進を,他の市街地整備手法の補完的な手法として位置づけるのではなく,むしろ,耐震改修の促進を市街地整備の基本的な手法として位置づけ,他の整備手法を適宜連携させるほうが効果的であることが示唆された.

大阪の長屋集積地区の実態と環境改善の課題(第3章〜第5章)

現在でも,大阪市には,長屋建て住宅が集積する「長屋集積地区」が広範に存在している.長屋集積地区における住宅の個別の改修や建替えは,住宅の性能や相隣環境の面で改善すべき課題はあるが,住宅形式および居住者属性の多様性を維持し,それが地域の衰退を一定程度は防止する役割をはたしている.

また,長屋集積地区を特徴づける「戦前長屋」は,まちなみや路地空間に魅力をもたらす「魅力資源」としての側面と,地震時の危険性を増幅させる「危険因子」としての側面の両方をもっており,戦前長屋の耐震改修は,「魅力資源」を保全しつつ,地震時の倒壊を防いで被災危険性の軽減を図るという点で,大きな意義を有する.

戦前長屋の耐震性能と補強案に関するモデル調査と住民との意見交換の結果,戦前長屋の耐震改修は,技術的には対応可能だが,実施するうえでの課題も多いことが明確になった.とくに,権利関係の調整,近隣関係の調整は,長屋において必要不可欠な課題であり,長屋1棟の全住戸がまとまって耐震改修を行うために,関係住民や地権者の合意形成が必要である.

「ストック活用型改善アプローチ」の意義

長屋集積地区において「ストック活用型改善アプローチ」を展開することは,以下の点において重要な意義を有する.

まち(地区)の魅力や活力の維持・向上に寄与する

耐震改修を施すことで防災性の向上にも寄与できる

空間的に適用可能な範囲が広い

環境を「改修」のサイクルで持続的に改善していく

「まち育て」,つまり「意味のある小さな出来事の連続と人々の意識のゆるやかな変容により,やがて「まちや社会の構造」を再編成していく」アプローチとして展開しやすい

「ストック活用型改善アプローチ」の展開方法

長屋集積地区における「ストック活用型環境改善アプローチ」の展開方法として,「耐震改修重視型の市街地整備」と「「住宅の改修」を手がかりとする「まち育て」」を重層的に展開する方法を概念的に提案する.

「耐震改修重視型の市街地整備」は,行政施策に位置づけられた「ストック活用型環境改善アプローチ」の展開方法のひとつであり,「重点的に環境改善を進める地区」を,広域的な見地から,行政が計画的に位置づけたうえで,当該地区において,住民,地権者,行政など関係主体が協働して,耐震改修などの「住宅の改修」による環境改善を重点的に促進しつつ,より適用範囲を絞って,補完的に,「個別建替え」や「面的整備」による環境改善を進める方法である.

「住宅の改修」を手がかりとする「まち育て」は,「長屋集積地区」あるいはそれに類する市街地の任意の地区やエリアにおいて,「まち育て」を担う「まち育て人」が自ら,あるいは,建築家や工務店などとともに,モデルとなる「住宅の改修」を,基本的に採算の取れるビジネスとして実施していき,それを波及させていく方法である.

「ストック活用型改善アプローチ」の可能性と課題

長屋集積地区の環境改善においては,戦前長屋の耐震改修を実現できるかどうかが,環境改善の実効性を判断する大きな要素となる.また,「住宅の改修」に関わる諸課題に有効に対応するためには,「維持管理や改修を適正に行うことが有利に評価されるような法制度」を整備することも,必要不可欠である.

これらの諸課題に対応するうえでは,公的資金に依存しない「まち育て」の小さな成果の積み重ねが,大きな影響をもたらす可能性が高い.また,「まち育て」の波及は,優秀な人材の参入をもたらし,それが「住宅の改修」の技術面,コスト面の改善を促していく可能性もある.

つまり,密集市街地における「ストック活用型環境改善アプローチ」の可能性は,「まち育て」を担う「まち育て人」一人ひとりの理念と行動にかかっており,それは,同時に最大の課題であるといえる.

以上

審査要旨 要旨を表示する

日本の大都市には、道路網など都市的基盤施設が未整備で老朽木造住宅などが密集する、いわゆる密集市街地が広範に分布している。密集市街地は、住環境上のさまざまな問題を抱えており、その環境改善は、都市政策上の重要な課題である。

一方、少子高齢化の進行と人口減少、地球環境問題への意識の高まり、まちなみや地域文化の保全・再生への関心の高まりといった社会的背景のもとで、都市計画や住宅政策などの分野において、新規に都市施設や住宅を建設するだけでなく、既存のストックを有効に活用することが、重要な政策課題として認識されつつある。

本論文は、典型的な密集市街地として、大阪の長屋集積地区に着目し、その実態および改善手法に関する検討を踏まえ、「住宅の改修」を基本に据えた市街地環境改善による密集市街地整備の方法を「ストック活用型環境改善アプローチ」として提案したものである。

「序論」では、本論文の研究の「背景」、「目的」、論文で使用する「用語の定義」、本論文の「構成」および研究の「方法」を示すとともに、関連する「既往研究」を整理して、本論文の研究上の位置づけを明確にしている。

「密集市街地整備における耐震改修促進策の位置づけと意義」に関する研究(第1章〜第2章)では、密集市街地整備に関する国・自治体の方針、大阪市における市街地整備施策の現状を整理し、「ストック活用」としての耐震改修促進策の位置づけを明確にするとともに、耐震改修促進による地区レベルでの地震被害軽減の効果を分析し、密集市街地整備における耐震改修促進策の効果を考察し、基盤整備を伴わない耐震改修促進策であっても、むしろ防災性向上に関する効果が高いことを明らかにしている。

「大阪の長屋集積地区の実態と環境改善の課題」に関する研究(第3章〜第5章)では、近代長屋の特性、大阪の長屋集積地区の形成と変容、長屋集積地区の分布状況、近年の人口動態および市街地更新動向、長屋の再評価と長屋再生の動向を把握し、長屋集積地区の実態と環境改善の課題を明確にするとともに、長屋集積地区を特徴づける「戦前長屋」に着目し、典型地区における事例研究を通じ、戦前長屋の耐震改修を促進することの意義と課題を考察している。すなわち、「戦前長屋」は、まちなみや路地空間に魅力をもたらす「魅力資源」としての側面と、地震時の危険性を増幅させる「危険因子」としての側面の両方をもっており、戦前長屋の耐震改修は、「魅力資源」を保全しつつ、地震時の倒壊を防いで被災危険性の軽減を図るという点で、大きな意義を有する一方、長屋1棟の全住戸がまとまって耐震改修を行うためには、関係住民や地権者の合意形成が課題であることを明らかにしている。

「結論」(第6章)では、第1章〜第5章で得られた知見をふまえ、長屋集積地区における「住宅の改修」による環境改善の有効性を多面的に検討し、長屋集積地区において、「ストック活用型環境改善アプローチ」を展開することの意義と効果を考察している。すなわち、全面再開発による市街地改造や、個別建替の促進を通じた市街地環境の改善は、建替や土地所有関係の整理が困難な日本の密集市街地に適用しようとしても事業の進捗に長期を要し、差し迫った危機に対応する速効性に乏しいこと、これに比して、個別の住宅改修による環境改善は、耐震性向上や居住性能向上に関し速効性が期待でき、また、地域の歴史的文化的魅力の再生にもつながり、さらに地域の相互扶助的な社会関係の再生にもつながることが期待できるとしている。

このように、本論文は、密集市街地整備の既存手法である、全面再開発型面整備手法や個別建替促進型改善手法の限界を実証的に明らかにし、これに代わる新たなアプローチとして「ストック活用型環境改善アプローチ」の理念と展開手法を提案し、その実効性を明らかにしたもので、「安全安心まちづくり」の新たな手法が求められている今日、まことに時宜を得た有用な知見を示した論文といえる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50272