学位論文要旨



No 216523
著者(漢字) 内田,祥士
著者(英字)
著者(カナ) ウチダ,ヨシオ
標題(和) 近代日本に於ける日光東照宮評価に関する歴史的研究
標題(洋)
報告番号 216523
報告番号 乙16523
学位授与日 2006.04.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16523号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

 近代日本の建築界に於ける日光東照宮に関する言説を通観すると、明治中期には、既に賞賛と批判が混在した言説が見出され、更に、直観的な言説と客観的な評価が交錯している事実を指摘できる。このことは、当時の専門家の内部に、東照宮評価を巡る葛藤が存在していたことを示している。これが、ある時期に限られた事柄であれば、価値観の転換期に於ける一時的な混乱との理解も可能である。しかし、東照宮の場合、この葛藤は、明治中期に顕在化して以降、繰り返し表れ、戦後に於いて尚、解消されなかった等、一時的な現象として理解するのは困難である。近世初期を代表する建築の一つである東照宮の建築的評価が、これほど長い期間に渡って混乱した事実は、歴史的建造物の建築的評価を考える上でも注目すべき事例である。

 本論の目的は、事態が顕在化する明治中期以降昭和初期に至る日光東照宮評価の在り様をその背景と共に検証することにある。

東照宮評価を廻る葛藤の顕在化

 近代日本に於いて最も早く、東照宮評価に疑問を提示したのは、恐らく、明治23年に開始された東京美術学校に於ける日本美術史の授業で「日光廟の如きも錯雑華美に失し、全体として完美のものと云ふべからず」と持論を展開した岡倉天心であろう。これは、同時に、近代日本に於ける恐らくは最も早い専門教育に於ける東照宮批判でもあった訳である。その後、塚本靖が、明治30年に「日光廟建築装飾概論」を建築雑誌に、更に明治36年に「日光廟建築論」を発表し、近代に於ける東照宮評価を明らかにした。まず、「日光廟建築装飾概論」では「此建物に就てどうも装飾のしやうが宜くないやうに思はれるです(中略)此缺點は全く色の用ゐ方にあるのを見ました」或いは、柱に「渦紋を付けて居りますが元來縦の物に以て斯う云ふものを附けるは偶拙劣を現はすもの」とか、他にも「日光廟を見ると曲線の濫用が矢張りあります(中略)これ(唐門)は曲線を用ゐ過ぎた誤りであります」等と批判的な評価を述べる。一方、「日光廟建築論」では、一般に賞賛と批判の両方が存在する事実を示し、更に、それらの多くが主観的であることを指摘した上で、客観的な評価の必要性を述べている。しかし、この報告書を読んでも塚本の言う「日光廟建築ノ眞價」は明らかにならない。その後、伊東忠太が、明治40年に「晃廟建築の美を論ず」を国華に発表し、東照宮が多くの欠点を有することは明らかであり、その様式は明式の濫用に過ぎないと強く批判した上で、逆に、意匠の豊富さ、技工の精緻さ、彫刻の巧みさ、彩色の豊かさ等「本邦無二の國寶と認むるに於て素より亳も不可なるを見ず」と高く評価する。塚本と伊東の言説は、共に近代日本の東照宮評価を巡る葛藤を象徴している。

 大正3年には、関野貞が、最も完備した代表的な霊廟建築であり、施工の精美さ、手法の新奇さ、意匠の豊富さ等、江戸時代初期の工芸の集大成ではあるが「繁縟の弊に陥りたるを惜しむ」と「工業大辭書」に記して、やはり両義的な評価を下している。

初等教育

 明治中期の発言者の多くは、明治に育った近代日本人である。彼らの葛藤を理解する爲には、彼らが、どの様にして自らの東照宮観を獲得するに至ったかを検証する必要がある。それには、まず近代日本の特に初等教育に於ける東照宮評価を通観すべきだろう。

 初等教育に於ける東照宮評価に積極的な役割を果たしたのは、地理の教科書であった。明治7年には市岡正一が「小学読本皇國地理書」で、明治10年には大槻修二が「日本地誌要略」で、そして明治13年には南摩綱紀が「小學地誌」で、それぞれ東照宮に言及し、礼賛の一文を付している。市岡・大槻・南摩の3人は、いずれも旧幕臣またはそれに近い立場の武士であったことが解っている。特に明治13年刊行の「小學地誌」は、その後の小学地理の基本となった教科書であり、そこに、「日光山ニ東照宮ノ社アリ。其壮麗日本第一ト稱ス。」という一文が添えられた影響は、極めて大きかった。そして、「小学地誌」以降、敗戦に至るまで、主要な教科書に於ける東照宮礼賛の姿勢は、強化されていった。従って、人々が、初等教育に於いて、極めて積極的な東照宮評価を教えられた事実に疑いを差し挟む余地は無い。

寛永造替工期の訂正

 大正10年2月、平泉澄は「誤られたる日光廟」を史学雑誌に発表して、東照宮寛永造替工期の訂正を主張した。これ以降、寛永造替工期の訂正を巡る混乱の時期で、東照宮に関する議論は特に見出せない。混乱の原因の多くは、当時の東照宮評価が、十数年という工期によって漸く成った東照宮という内容を含んでおり、その評価が、工期によって相対化された表現になっていた点にあった。昭和3年11月、大熊喜邦は「日光東照宮の寛永造替に就て」を建築雑誌に発表し、平泉澄とは全く別の資料である甲良家文書を基に、同じ結論へと辿り着いたことを明らかにした。以後、寛永造替工期の訂正は漸く建築界の認めるところとなった。また、その後の経緯を見る限り、工期の訂正は、その建築的評価には及ばないと言うのが建築界の結論であった。

初等教育と高等及び専門教育の対峙

 昭和初期を、稲垣栄三は「考えてみれば大正年間までは、日本建築の通史はあらわされておらず、昭和になってはじめて記述されたのであるから、ある意味では日本建築史は昭和から始まったといっても過言ではない。」と述べている。従って、昭和初期とは、日本建築史上に於ける東照宮評価が、初めて示された時代であった。

 通史は、限られた紙面で日本建築史の全体像を明らかにしようとする行為である以上、もともと、時代間或いは建築間の相対評価を前提とせざる得ない。例えば、藤島の「編史法及び論法は最も穏健な事を旨とし、在來最も適當と認められた方法を採り一切の私見を差控へた。標準的な知識を得ん爲に、特に利用せられるであらう事を信ずる」という見解は、自らの史観を排除しようとする意志の表明であり、足立の「伊勢神宮に拝するやうな建築意匠は(中略)極めて高度な完成を示してゐるのであって、この建築精神を正しく繼承してゐるものが即ち眞の意味での日本建築であらねばならぬ」という見解は、逆に史観を明確にした上で、自説を展開したことを表明したものと考えられる。また、日本建築史の通史は、高等教育及び専門教育の教科書として用いられた訳であるから、通史に於ける東照宮評価とは、高等教育及び専門教育に於ける東照宮評価でもあった。

 この時期の東照宮評価は、藤島亥治郎の「彫刻や彩色の亂用は建築の本質を無視して居る」、岸田日出刀の「比例釣合の美は到底みられない」、或いは大岡実の「惡傾向の第一歩を明らかに示している」等、概して批判的な印象を与えるものが多い。精読すると、評価を巡る葛藤は、未だ失われてはいないものの、明らかに批判の側が強化されている。

 一方、初等教育は、一貫して東照宮を高く評価していたが、その表現は徐々に変化していった。日光に於ける天然美と壮麗なる東照宮の対峙という表現が、日光の自然美と人工美という表現に変化していったのである。大正中期以降の教科書に於いては、この「自然美と人工美」という表現が支配的になる。

 明治30年代に顕在化した評価の混乱と葛藤の背景には、初等教育に於ける東照宮評価と、近代化の過程で移入された美の概念が対峙する状況が存在した。それは、東照宮に於ける壯麗とは美なのかという疑いであった。その後この構図は、初等教科書に於ける壯麗の美への置き換え、専門教育に於ける美の概念の更なる浸透によって、東照宮は美しいのかという問いへと転化していったと見られる。

タウトの評価と影響

 昭和10年代の東照宮評価を通観すると、そこには明らかにタウトの影響がある。タウトは、昭和8年5月の来日から昭和11年10月の離日迄の間に、多くの講演を行い雑誌に執筆し著作を公にした。その出版は離日後も続き、更に他界後、戦時下に於いて既に全集が刊行された建築家である。

 タウトの東照宮評価批判は、彫刻と彩色を以て建築を装飾するという行為が、本来の日本の在り様ではなく、中国からの輸入様式であり、しかも極めて皮相的な、或いは未消化な模倣であるという点にあるのだが、今日から見ると、その特徴は、寧ろ、主張が極めて明確で、全く葛藤が見出せないところにあったと言った方がよいだろう。換言すれば、タウトは、東照宮を日本建築ではないと断じることで、この葛藤の外に在った。これに対して、藤岡通夫の「輸入様式と云へば云ひ得るかも知れぬが(中略)完全なる日本化を具現し得て居た」や保田與重郎の「桃山文化のデカダンス」といった主張は、日光東照宮をあくまで日本建築と捉えた上で、そこに日本的な何物かを見出そうとした言説である。しかし、日本の建築であるとする側も、その評価の多くは、決して高くはなかった訳であるから、藤島の言う様に、褒めるは俗人、貶すは専門家という構図が成立しつつあった。

 専門家は、先ず被教育者として、後に教育者として、この構図の形成過程に深く関わっていた。彼らはこの構図を認識出来る立場にあった。従って、専門家の東照宮批判は、人々の圧倒的な東照宮礼賛を前提として行われており、彼らが幾ら批判しても東照宮の価値は決して損なわれないという信頼感と絶望感が同居した認識の中にあった。換言すれば、専門家にとって、東照宮は安心して批判できる対象であった訳である。そして恐らく、この構図こそが、近代に於ける東照宮評価に於いて最も重要な点ではなかったかと推察される。

審査要旨 要旨を表示する

 近代日本の建築界に於ける日光東照宮に関する言説に関しては、概ね調べがついており、その整理も為されているが、それらを精査すると、明治中期には、既に賞賛と批判が混在した言説が見出される。このことは、当時の専門家の内部に、東照宮評価を巡る葛藤が存在していたことを示しているが、その原因と形成過程に関しては、既往の研究を見出せない。

 これが、ある時期に限られた事柄であれば、価値観の転換期に於ける一時的な混乱との理解も可能である。しかし、東照宮の場合、明治中期に顕在化して以降繰り返し表れ、昭和初期に至って更に深まっていること、また、戦後に於いて尚、解消されなかった等、一時的な現象として理解するのは困難である。近世初期を代表する建築の一つである東照宮の建築的評価が、これほど長い期間に渡って混乱した事実は、歴史的建造物の建築的評価を考える上でも注目すべき事例であるが、本論文は、事態が顕在化する明治中期以降昭和初期に至る日光東照宮評価の在り様をその背景と共に検証したものである。

 本論は、8章からなる。まず第1章は、近代日本の東照宮研究に於ける最大の発見と言ってよい、寛永造替工期の訂正の経緯とその影響についての検証である。寛永造替とは、現在、私達が見ることの出来る日光東照宮の主要な部分を決定付けた造替であったとされているが、寛永造替工期の訂正は、その工期が、当時、一般に考えられていた十数年ではなく、僅か一年数ヶ月に過ぎなかった事実を明らかにたものであった。従って、近代に於ける東照宮評価を検証するに当たって、まずはその前提として、この訂正が、当時の東照宮評価に如何なる影響を与えたのかを、確認する必要がある。その結果、寛永造替工期の訂正は、建築界にとって、工期に言及し建築の評価を相対化することの意味を問うものであって、東照宮自体の建築的評価には影響を与えなかった点が明らかにされている。

 第2章では、葛藤を表明した専門家の多くが明治に育った近代日本人であった点に注目し、彼らが、どの様にして自らの東照宮観を獲得するに至ったか、との観点から、近代日本の教育に於ける東照宮評価に焦点を当てている。初等教育に於ける東照宮評価は、明治の初頭、南摩綱紀らによって、最初、地理の教科書に記載されたことを明らかにした上で、その評価が、江戸時代の評価を継承するもので、多くの場合、壮麗という言葉で積極的に記述された事実を指摘している。一方、近代日本の建築界に於ける評価は、明治30年代には、塚本靖や伊東忠太或いは関野貞らが、批判的な評価を提出する様になること、彼らが、それまでの壮麗という評価を濫用或いは繁縟といった表現で批判しつつも、東照宮が依然として何物かであるとの認識を持っていたことに言及した上で、初等教育には、敗戦に至るまでその評価に全く揺らぎがなく、寧ろ、礼賛の方向へと強化されていったこと、また、文語体が口語体に、旧字体が新字体に改められるに従って、美しい或いは人工の美という言葉に改められていった事実を指摘し、専門家の葛藤と初等教育に於ける礼賛という構図が存在していた点を明らかにしている。

 第3章では、逆に高等教育及び専門教育に注目しつつ、近代日本の東照宮評価を巡る葛藤が、その後どの様に継承或いは解消されていったのかを検討している。本章では、日本建築史の通史が、高等教育及び専門教育に於ける教科書として用いられるべく刊行されたものであった事実を指摘した上で、これらを通観し、明治中期に専門家の内に生じた賞賛と批判の併存という葛藤が、昭和に至って、批判の側がより強化され、義務教育と高等教育の対峙という事態へ進みつつあったことが明らかにされる。

 また、研究者にとってタウトの東照宮批判は、変質しつつもいまだ残されていた自らの葛藤を精算する一つの有力な契機となったが、葛藤の精算へと進んだ研究者も、実は、人々の圧倒的な東照宮礼賛を前提としており、彼らが幾ら批判しても東照宮の価値は決して損なわれないという信頼感と絶望感が同居した認識の中で発言していたと推察される点も指摘されている。

 第4章は、第2章の補足に当たる内容で、初等教育に於ける国語教科書と歴史教科書に於ける東照宮評価を通観し、その東照宮評価を明らかにしたものである。近代日本の初等教育に於ける東照宮評価を推進したのは、地理教科書と国語教科書であったが、国語教科書への記載の背景には地理が未だ必修科目ではなく、国語の時間に国語教科書を通して地理を学ぶという状況が教育の現場に存在したこと、従って、初等教育に於いて積極的な東照宮評価を支えていた分野は、やはり地理であったこと、更に、国語教科書に組み込み得る地理の頁は非常に限られていた訳であるから、東照宮が主要な国語教科書に記述されている事実は、地理に於いて極めて重要な項目であったと判断されることが示されている。

 第5章から第7章までは、何れも事例及び事例研究である。尚、第7章に6.6東照宮の指定経緯が追記され、指定順位に見る東照宮評価に関する考察が加えられた。

 第8章では、明治中期に専門家の間に生じた、東照宮に於ける壮麗とは美なのかとの問いが、昭和に至って東照宮は美しいのかという問いへと転換し、ついには、初等教育と高等・専門教育との対峙へと進んでいった経緯と、専門家が、先ず被教育者として、後に教育者として、この構図の形成過程に深く関わっていた点を指摘した上で、専門家の東照宮批判が強化されていく背景に、高等教育を受けなかった大多数の人々による東照宮礼賛という状況が存在し、専門家の東照宮批判が、実は、人々の圧倒的な東照宮礼賛を前提として行われており、彼らが幾ら批判しても東照宮の価値は決して損なわれないという信頼感と絶望感が同居した認識の下にあった事実を明らかにし、専門家にとって、東照宮は安心して批判できる対象であったという構図こそが、近代に於ける東照宮評価に於いて最も重要な点であった考えられるとの研究成果が明らかにされている。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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