学位論文要旨



No 216546
著者(漢字) 大橋,厚子
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,アツコ
標題(和) 男が地域を離れるとき、あるいは近代の裏側 : ジャワ島西部プリアンガン地方の場合 18世紀半ば-1820年代
標題(洋)
報告番号 216546
報告番号 乙16546
学位授与日 2006.05.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16546号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 教授 水島,司
 東洋文化研究所 教授 中里,成章
 東洋文化研究所 教授 加納,啓良
 慶応義塾大学 教授 倉澤,愛子
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、現在のインドネシア・ジャワ島西部においてオランダ植民地期に進行した中央集権化の過程で、ヨーロッパ起源の近代官僚システムが在地の東南アジア的2者関係を利用しつつ実体化され、プリアンガン地方社会から青壮年男子労働力の大量引出しを可能とするとともに、社会の自律性を奪っていくメカニズムを具体的に描くことを課題とする。

 序論と第一編において次のような問題意識と視角を示した。本論文象期のプリアンガン地方における植民地支配の展開は、これまで東南アジアにおけるヨーロッパ植民地支配の例外的早期の事例として、歴史的位置づけの作業が事実上放棄されていた。これは従来のインドネシア研究において、現地人首長レヘント(19世紀以降は県長)などの支配層の変容の分析については、主に政治史・政策史の手法が採用され、村落社会の変容については主に社会経済的分析がなされていたことに一因があると考えられる。これに対して本論文では、インドネシアの地方社会を組織あるいはシステムとして捉えて、当該期の社会変容を近代的組織と在地の社会組織が接合されてゆく過程として考察するという視角をとり、レヘントから村落の長および住民にいたる縦の社会関係に注目し、この関係の変化を主要な考察対象とした。またこれまで研究があまり行なわれなかった、近代的中央集権化の弊害の側面に焦点をあてた。この作業は、研究対象がほぼ重なるM.C.ホードレーの著書(1994)を全面批判すること、I.ウォーラーステインの「組込みの時代」の変化を組み込まれる社会の側に焦点を当て、具体的事例によってウォーラーステインの議論に修正を加えること、そして現代インドネシアのスハルト期まで見通せる社会変化の分析枠組みを模索することを目的としている。

 このように従来とは異なる視角を採用したことによって、史料についてはこれまで使用されてきたオランダ植民地文書のレベルより1レベル下位の文書を利用することとなった。すなわちヨーロッパ人理事州長官が政庁に送った文書にくわえて、郡部の現地人役人が理事官に宛てた理事官のために作成した文書を利用した。また文書の他に、5万分の1の地図、筆者による景観観察・聞き取り、絵画、さらに史料ではないが、農学・地理学・生態学の知識を広範に援用した。

 第2編では、コーヒー生産管理システムの形成を中心とした官僚制的組織の形成によって、地域社会に対する管理強化が進展した過程を跡づけた。オランダ政庁は1750年頃から現地人首長を利用したコーヒー生産管理機構を整備し、1720年代には不可能であった、住民の生産するコーヒー量の統御を、不完全ながらも18世紀末までに可能とした。政庁はこのコーヒー生産管理を主な目的として、1750年頃より、政庁直属の現地人首長であるレヘントの任免権の掌握および財政の管理を、彼らへの融資をテコとして強化した。またレヘント配下の下級首長に対しても、1790年代より郡長と言う呼称を使用し、任免権の掌握、任地への駐在などを実体化させて官吏的性格を付与していたのである。

 以下の各編では、上述のような官僚制的組織が形成されてコーヒー生産管理が実施され、地域社会の自律性が奪われたメカニズムを、コーヒー輸送システムと食糧生産方式の2側面の変化に焦点をあてて論じた。

 第3編では、現地人支配層の官吏化を促進した大きな要因であるコーヒー輸送システムの変化を、17世紀後半から1820年代まで跡づけた。コーヒー生産導入以前の1720年頃までのレヘントは、首都バタビアまでの産物の内陸輸送を独占的に組織しており、大きな利益を得ていた。しかし1740年代からオランダ政庁は内陸輸送に対して設備投資を開始し、輸送に中国人を利用しはじめた。そして内陸のコーヒー集荷基地を設置して、バタビアを拠点とする中国人輸送業者と、レヘントの支配地域内部で輸送組織者として成長し始めた郡長以下の郡部の支配層とを結びつけることで、レヘントのコーヒー輸送独占を崩壊させた。1820年代にはコーヒー園から内陸輸送基地までの輸送は郡長やその他の下級首長および有力な住民が主に担って利益を得、内陸輸送基地からバタビアまでは中国人・ヨーロッパ人が担っていた。レヘントはこうして輸送より切離されて財政的に政庁に依存する一方で、新たな経済的利益を求めて灌漑田開発に積極的に取り組むようになった。

 第4編では、焼畑耕作から灌漑田耕作への主要な食糧生産の移行が、地域社会、特に住民の農業経営の自律性喪失を招くメカニズムを、プリアンガン地方全般について検討した。まず、灌漑工事および水田開拓の計画者・資金提供者・指揮者・実際の労働を行った者を時代毎に特定し、さらに水田が住民の個人所有となっていたことを明らかにした。そして住民がコーヒー栽培に大量参加した要因が、封建的生産関係(土地所有関係)の成立にあるのではなく、焼畑時代と同様の夫役貢納制下で支配層が行う灌漑施設・農業信用をはじめとする便宜供与にあったことを論じた。ついで、灌漑田耕作民がコーヒー栽培を受入れた理由のひとつとして、灌漑田耕作の持つ安定的高収量性および無季節性がコーヒー栽培と食糧生産の両立を可能としたこと、しかしこれによって住民は自給農業の作業暦をオランダ政庁の都合によって編成されたコーヒー栽培作業暦に従属させざるを得なかったことを指摘した。

 第5編では、第3・4編で得られたプリアンガン地方一般にかんする仮説を、1820年代のチアンジュール・レヘント統治地域に例をとり、集落の分布状況、統計数値、記述史料などのつきあわせによって数量的・空間的に検証した。これらの考察によって第3・4編で提出された仮説が補強されるとともに、1)行政単位である郡のサイズは大小様々でかつ郡の機能は、コーヒー生産、米穀生産、輸送基地などコーヒー生産と輸送のために明確に分化していたこと、2)ファーニバルの言う複合社会の萌芽状態が存在したこと、そして3)土地所有関係についてオランダ政庁の規定と郡部での実態の乖離が大きかったことなどの、新たな知見を得た。

 第6編では、住民がコーヒー栽培・輸送の労役を受け入れた生活面での要因として、1)核家族3・4世帯が生活(労働の再生産)と夫役貢納の単位として認められていたこと、および2)塩・鉄などの生活必需品の入手をオランダ政庁や配下の中国人商人に依存していたことを指摘した。

 第7編は3つの補論からなる。XVII章およびXIII章では、それぞれコーヒー生産量の変遷と統計のコラムの変遷とから、1820年代プリアンガン地方統治を植民地期ジャワ島の歴史の中へ位置づけ、植民地政庁にとってプリアンガン地方のコーヒーが最も重要であったのが当該期であったこと、その後の生産および生活の統制は人口増と共に弛緩した可能性があることを示した。XIX章は、本研究の成果を利用した当該期の歴史の叙述であり、本研究の行論では果たせなかった、庶民の視点を重視した叙述の試みである。

 XX章は結章であり、本研究で展開した議論をまとめて次の点を主張した。第1に、研究対象がほぼ重なるM.C.ホードレーの著書の主張する18世紀半ばのジャワ島西部における封建的生産関係の成立は、基礎的な事実認識に大きな間違いがあることを示し、全面批判した。第2に、ウォーラーステインの議論では、ヨーロッパ勢力が自らの脆弱な部分を補うために在地社会の能動的対応を利用した側面が考慮されていないことを指摘し、そのうえで、プリアンガン地方史の新たな時代区分を提出した。すなわち、18世紀後半から1830年頃までの時期に、大港湾都市バタビアを拠点とする政治権力が、プリアンガン地方の住民の生産活動を大規模にコントロール出来るシステムが、史上初めて出現した。中央政府に対する地域社会の従属という視点から見るならば、プリアンガン地方にとっては13世紀から現代までをわける分水嶺であると言える。第3に、1820年代のプリアンガン地方の社会変化分析から抽出した青壮年男子労働力の大量引出しメカニズムを、近代化あるいは近代性全般の持つ弊害の側面(巨大官僚制的組織による生産設備・金融・輸送・生活必需品供給の寡占、これを利用した男女共々の労働強化、地域社会の自律性崩壊と放置により発生する諸問題など)として問題提起的に提示して、本研究のメカニズムと、スハルト政権下の社会変化との比較を今後の課題とし、あわせて日本をはじめとする上からの近代化が進んだ地域への適用可能性に言及した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は17世紀末から19世紀はじめにかけて、西ジャワのコーヒー栽培地域において、東インド会社のコーヒー独占輸出システムがもたらした農民社会の変貌をあきらかにしたものである。インドネシアの社会経済史研究は植民地時代以来、長い伝統をもち、日本にも多くの世界的な研究蓄積があるが、その多くはジャワ中東部の研究に集中し、17世紀から植民地経営が優越する西ジャワはほとんど例外視されていた。大橋氏の研究は西ジャワの植民地社会史を再構成し、植民地システムの形成を通じて、現代社会を省察しようとするパイオニア的であり、同時に画期的な論文である。

 コーヒーの安定的な供給を目的として、東インド会社は当該時期の約1世紀、なかでも18世紀後半以降の時期に、さまざまなハード、ソフトのインフラストラクチャーを整備し、在地社会と世界市場とを強引に結びつけ、在地社会の大規模なコントロールシステムを作り上げた。この在地社会の世界システムへの組み込みによって、成年男子の労働力が強制的に家庭外、地域外のシステムに吸収され、この結果、女性労働力が家事労働と生産労働の過剰な負担を迫られると同時に、家庭と地域の中核になっていく。本論では近世後期に出現した植民地のシステムが、一つの地域社会を破壊し、変質させ、現代の社会の原型を構築したことが、膨大な資料を駆使して証明されている。

 18世紀初期、オランダ東インド会社が西ジャワプリアンガンを領有したころ、眼目のコーヒーの供給は、在地の首長層、および華人の流通に任され、発展する欧州市場に比してきわめて不安定だった。1740年代、東インド会社は運河建設、パサール(市場)開設、欧人プランテーション開発などのインフラ整備とともに、在地首長を植民地地方行政に組織化し、また在地首長層への融資システムを作り、在地首長層を通じてのコーヒーの安定供給に成功した。

 1780年代以降、東インド会社は、賦役を動員した大農園の大規模開設とともに、コーヒー監督官の現地への常駐、在地社会秩序のコーヒー集荷システムへの編成を行い、市場の需要にみあった供給システムを作り上げた。同時に輸送ルートを新設し、在地首長のルートに依拠せずにコーヒーを港湾に積み出すハードなシステムも開設した。この結果、在地首長のコーヒー集荷独占体制は解体し、下級首長、有力農民のコーヒー供給への参加がはじまった。また大規模な水利灌漑工事を施し、住民の水田化を促した。灌漑水田の整備により、住民の農業暦はコーヒー栽培と出荷に対応したものに変質した。こうして、住民、とくに青壮年男子の労働力は、新しい消費物資とひきかえに、ことごとくコーヒー栽培と出荷に適応させられた。この結果、これまでの自律的な地域社会は変質し、世界市場を前提とするオランダ植民地システムへの構造的な従属を強いられた社会が生まれた。世界市場とリンクさせられたがゆえに、西ジャワ史の以後の展開は、より変動の激しいものになる。コーヒー生産の相対的な低落、これにかわる織布業の発展、農業社会の再開発など折々の政策の強い影響のもとに、西ジャワは変質していく。18世紀末の巨大な在地住民のコントロールシステムの形成が、13世紀以来の西ジャワの世界と現在の西ジャワの社会との分岐点になっている。

 以上の大橋氏の所説は、膨大なオランダ語資料を収集、分析し、古い地形図の詳細な分析、考証などを加えた、すぐれて実証的な研究であり、きわめて堅実なすぐれた歴史論文である。同時に、随所に世界システム論、あるいは近世封建制度論など、既存の研究への鋭い批判を加え、さらに大橋氏の独自のインドネシアに限定されない鋭い現代社会分析の視座を主張している。今後の東南アジア研究にはかりしれない貢献を果たす業績と評価できる。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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