学位論文要旨



No 216547
著者(漢字) 上野,哲
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,サトル
標題(和) 低温及び酸性下でのウサギ骨格筋の収縮特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 216547
報告番号 乙16547
学位授与日 2006.05.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16547号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 吉田,謙一
 東京大学 教授 中村,耕三
 東京大学 助教授 今村,知明
 東京大学 講師 山本,希美子
内容要旨 要旨を表示する

I 緒言

 わが国の業務上疾病で最も多いのは,筋骨格系障害であり,労働衛生上の大きな問題になっている。休業4日以上の業務上疾病の発生状況は平成15年には8055人で,腰痛がその約60%を占める。特に,筋肉への負荷が大きい業務の割合が高い建設業や運送業において,腰痛の発生が多い。諸外国においても筋骨格系障害の発生頻度は高い。

 職場における筋骨格系障害の危険因子について数多くの研究がなされている。米国労働安全衛生局は,筋骨格系障害が生じる外界からの要因を,(1)繰り返し動作,(2)大きな力,(3)不自然な姿勢,(4)静止姿勢,(5)動的要因,(6)力学的な圧力,(7)振動の7つに分類している。さらにこれらの要因の大きさを決める作業要因として,(1)作業の強さ,(2)作業の長さ,(3)作業と休みの組み合わせ,(4)低温が挙げられている。

 繰り返し動作と作業に必要な力に関する米国産業衛生専門家会議の基準によると,繰り返しが多いほど作業の限界力は小さく,少ないほど作業の限界力は大きい。繰り返し大きな力を必要とする作業をすると,細胞内に乳酸などの疲労物質がたまりpHは酸性に傾き,作業するのに必要な力が出せなくなるため,筋肉損傷の要因になると考えられる。

 低温も筋骨格系障害と関係があると言われ,寒冷作業を必要とする職場では筋骨格系障害が多い。低温条件での筋肉の収縮力は,疲労のときと同様に減少する。また,低温下で繰り返し運動をすると,常温で繰り返し運動をするのと比べて早くから疲労が現れるという報告がある。従って,低温と酸性下における収縮特性の変化を実験で詳しく調べることは重要である。

 筋肉障害の1つの説として,各筋肉の疲労の程度が違うことで,関節における力の安定が失われ,筋肉自体が損傷を起こすのではないかという"Differential fatigue theory"がある。遅筋と速筋という異なる筋肉タイプで,低pHならびに低温での収縮特性の違いが示されれば,この説から筋骨格系障害が生じる可能性がある。

II 材料と方法

 実験材料は,日本白ウサギの腸腰筋とヒラメ筋から作成したグリセリン筋を用いた。実験当日,実体顕微鏡下でピンセットを用い1本の筋線維を取り出した。腸腰筋とヒラメ筋のミオシンアイソフォームは,ウェスタンブロッティング法を用いて調べた。

 実験装置は,筋肉長が可変で張力を測ることが可能なものを作成した。単一筋線維を張力計とスキャナーに取り付け,張力のデータはAD-DA変換ボードを介してパソコンに保存した。筋肉の硬さを測るため,筋肉長を500Hzの正弦波で細かく変動させ,その張力変動を測定した。サルコメア長はレーザー光による筋線維の回折像を用いて測定し,2.4μmになるように調節した。筋肉収縮はCa(2+)を含む収縮液に漬けることで行い,各条件につき10本の単一筋線維の筋肉張力をそれぞれ3回計測した。pHの影響を調べるために,温度一定でpHを変える実験と,温度の影響を調べるためにpH一定で温度を変える実験の2種類を行った。

1)温度一定でpHを変える:

 収縮液,弛緩液の温度を5, 15, 25℃に保ち,それぞれの温度における筋肉の張力や硬さに対するpHの効果を3条件(pH 6.0, 6.5, 7.0)で調べた。最大張力,最大硬さを腸腰筋とヒラメ筋の両方で測定した。

2)pH一定で温度を変える:

 pHを6.0, 6.5, 7.0に保ち,それぞれのpHにおける筋肉の張力や硬さに対する温度の効果を3条件(5, 15, 25℃)で調べた。最大張力と最大硬さを,腸腰筋とヒラメ筋の両方で測定した。

III 結果

 ウェスタンブロッティングの結果,ヒラメ筋では遅筋のミオシンアイソフォーム,腸腰筋では速筋のミオシンアイソフォームが主要な構成成分であることが示めされた。ヒラメ筋は遅筋,腸腰筋は速筋として実験結果を示す。

1) pHの影響:

 最大張力と硬さへのpHの影響のうち,腸腰筋とヒラメ筋に共通することは3つあった。1つ目は,最大張力と硬さが,酸性下で有意に減少したことである。2つ目は,温度が減少するにつれて,酸性下での最大張力と硬さの減少効果が顕著に大きくなったことである。腸腰筋の張力に関して,pH7.0の値に対するpH6.0の値の比率は,68.9% (25℃),63.6% (15℃),49.4%(5℃)であった。3つ目は,酸性による筋肉の張力の減少率が硬さの減少率より大きいことである。

 腸腰筋とヒラメ筋で異なった点は,5℃, 15℃,25℃のそれぞれの温度で,pH7.0に対するpH6.5の相対張力において,ヒラメ筋が腸腰筋より有意に大きいということであった。

2) 温度の影響:

 ヒラメ筋のpH7.0における最大張力は,25℃のときに比べて,15℃,5℃では各々79.4%,33.2%に減少した。硬さは,各々97.8%,62.5%に減少した。pH低下の場合と同様に,張力は硬さよりも減少率が高かった。ヒラメ筋と腸腰筋で温度低下による最大張力の減少率に違いがあり,ヒラメ筋ではpHがこの最大張力減少率に影響しなかったが,腸腰筋ではpH6.0で他のpHよりも温度低下による最大張力の減少率が有意に大きかった。硬さにおいても同様で,ヒラメ筋では温度低下による硬さの減少率にpHは影響しなかったが,腸腰筋ではpHが低ければ温度低下による減少率は大きくなった。

IV 考察

 筋骨格系障害が起こりやすいと考えられる筋肉内の条件として酸性と低温を考え,その時の筋肉収縮特性をグリセリン筋線維で調べた。酸性,低温下では筋肉の張力,硬さがともに減少した。酸性下では張力の減少率が硬さの減少率よりも大きかった。その一つの要因に、アクチン-ミオシン結合以外にアクチン線維,ミオシン線維にも弾性があることが挙げられる。また、酸性下での遅筋の張力減少率は速筋より小さく安定であった。遅筋は姿勢を保持する起立筋等に多く含まれており,酸性下でも長時間力を出し続けるために必要な機能だと推測できる。低温では,アクチンとミオシンの結合が吸熱反応であることと,1個当たりのアクチン-ミオシン結合が出す力が減少するという2つの要因から張力が減少すると考えられる。

 実験結果から,低温や酸性下で筋肉の損傷が生じやすい理由として幾つかの要因が考えられる。1つ目は,筋肉張力が減少したことである。作業中に労働者の筋力が落ちれば,筋肉に損傷が生じる危険性が増す。2つ目は,酸性,低温下で速筋と遅筋で収縮特性に違いが生じたことである。その他に,低温環境下での筋肉は中心部の温度が高く,周辺に行くにつれて温度が下がるため,筋肉内で収縮特性に違いが起きることが考えられる。これらのことから,"Differential fatigue theory"により,低温や酸性下で筋骨格系障害に至る可能性がある。

 現在考えられている筋骨格系障害の要因は,生理的,社会心理的,個人的なものと様々である。筋肉を短期的に使う影響のみばかりでなく,長期的に使うことで、筋膜等が肥厚し神経を圧迫して痛みにつながるとも考えられている。

 低温の運動系への生理的な変化として,次に示すようにいくつか考えることができる。1)最大張力は25℃以下程度で減少する。2)最大張力に達する収縮時間や弛緩に要する時間が長くなり動きが遅くなる。収縮,弛緩時間が張力よりも高い温度で影響を受ける。3)皮膚の温度が下がりすぎると,皮膚の痛覚,温覚,触覚等が鈍くなり,指の動きの調節が困難になる。4)筋肉の温度が下がると血流量が減り,有酸素呼吸が少なくなり,乳酸の排出も悪くなる。5)運動神経の活動電位伝達においては,Na+とK+のポンプの開閉が遅くなるため,伝達速度が遅く,不能期が長くなる。従って,筋肉だけでなく筋肉以外への低温の影響も,筋骨格系障害の要因として考えることができる。日本には低温条件下で働く労働者も多数いる。約4000の大型業務用冷凍庫が国内にあるとされるが,大多数は-20℃以下である。30,000人から40,000人の労働者がそのような寒冷環境下で働いていると見積もられている。このような冷凍庫作業者の約半数が"腰痛"を訴えている。低温の生理的な影響が大きく作用していると考えられる。

V 結論

 筋肉の周りの溶液を酸性にすると,最大張力,硬さとも減少した。低温下でも,最大張力,硬さとも減少した。酸性と低温が重なると,さらに最大張力,硬さとも減少した。筋肉の疲労が大きくなることが予想される。速筋と遅筋を比較すると,遅筋と速筋では低温,酸性下での収縮特性に違いが見られた。

 現在分かっている低温条件下での生理学的な変化に加えて、筋肉の張力低下,速筋と遅筋の収縮特性の相違等がもたらすと予測できる筋肉内や関節内での張力のアンバランスが低温での筋肉障害の一つの要因となる可能性がある。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、筋骨格系障害の危険因子とされる寒冷条件や繰り返し作業における筋肉の収縮特性をくわしく調べるために、ウサギのヒラメ筋(遅筋)と腸腰筋(速筋)のグリセリン筋線維を用い、酸性と低温の条件でその張力や硬さを測定し以下の結果を得ている。

1. Ca(2+)によるグリセリン筋線維の張力測定装置を製作し、計測した張力から硬さを数値計算で求めた。

2. 温度一定でpHを変えた場合、最大張力と硬さへのpHの影響のうち、腸腰筋とヒラメ筋に共通することは3つあった。1つ目は、最大張力と硬さが、酸性下で有意に減少したことである。2つ目は、温度が減少するにつれて、最大張力と硬さの酸性による減少効果が顕著に強くなったことである。3つ目は、酸性による筋肉の張力の減少率が硬さの減少率より大きいことである。最初の2つのことにより、低温下で無酸素運動をすると筋肉の張力や硬さが顕著に減少することが予測される。筋力が少なくなると、筋肉のエクセントリック収縮が増えて、ダメージを受けやすくなると考えられる。ヒラメ筋と腸腰筋で異なる点は、ヒラメ筋は、5℃,15℃,25℃のそれぞれの温度で、pH7.0に対するpH6.5の相対張力が腸腰筋より有意に大きかった。酸性条件下で、遅筋の収縮力は速筋ほど減少しないと予想された。

3. pHを一定にして温度を変えた場合、ヒラメ筋と腸腰筋で温度低下による最大張力の減少率に違いがあり、ヒラメ筋ではpHがこの最大張力減少率に影響しなかったが、腸腰筋ではpH6.0で他のpHよりも温度低下による最大張力の減少率が有意に大きかった。硬さにおいても同様であった。遅筋は速筋よりもpHによる収縮特性変化が少なかった。

4. 以上、酸性下や低温下では速筋と遅筋で収縮力の減少率に相違があった。また、低温条件では、筋肉の外側が内側に比べて温度が低いため、筋肉内の収縮力に違いができると考えられる。これらのことから、筋内の疲労度が異なることから筋骨格系障害が起こるという"Differential fatigue theory"を前提にすれば、低温、酸性下の速筋と遅筋の収縮特性変化の違いや筋肉内での収縮力の違いから筋肉障害に至る可能性も考えられる。

 以上、本論文では溶液のpHと温度の両方を変化させて速筋と遅筋のグリセリン筋線維の張力と硬さを詳細に測定した。そして、低温下と反復動作による酸性条件下で、筋骨格系障害が起こりやすいかどうか筋肉の収縮特性変化から具体的な検討を加えた。低温・酸性下での筋肉の収縮力の低下、速筋と遅筋の相対的な最大張力の相違等が示され、筋骨格系障害についての知見を深めることに寄与し、学位の授与に値するものと考えられえる。

UTokyo Repositoryリンク