学位論文要旨



No 216563
著者(漢字) 渡部,博貴
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ヒロタカ
標題(和) BrmとBRG1の発現を共に欠失するヒト非小細胞肺がん細胞株における神経特異的遺伝子群の発現誘導とその機構
標題(洋) Molecular mechanism of neuronal gene induction in human non-small cell lung carcinoma cell lines that lack expression of both Brm and BRG1.
報告番号 216563
報告番号 乙16563
学位授与日 2006.06.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第16563号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 助教授 尾藤,晴彦
 東京大学 助教授 宮澤,恵二
内容要旨 要旨を表示する

背景と目的

 真核生物のゲノムDNAはヒストン8量体へ巻き付くことによって、ヌクレオソームと呼ばれるクロマチン構造の基本単位を形成している。クロマチンの核内での状態は、転写が活発に行われている領域ではDNAに転写因子などが近づきやすい比較的ゆるい構造をとっている一方、不活性な領域では数珠繋ぎとなったヌクレオソームがさらに高度に折り畳まれ凝縮した構造となっている。クロマチン構造を動的に変化させる機構はエピジェネティクスのひとつとして知られており、それを司る酵素複合体が多数同定されている。その内のひとつであるSWI/SNF複合体はAP-1をはじめ様々な転写因子と結合して、その標的遺伝子の不活性なクロマチン構造を変換し転写を開始させることが報告されている。哺乳動物のSWI/SNF複合体は9〜12のサブユニットから構成され、各複合体はその触媒サブユニットとしてBrmかBRG1のいずれか1分子のみ含む。BrmあるいはBRG1分子内のATPase活性はSWI/SNF複合体のクロマチン構造変換活性に必須である。

 SWI/SNF複合体は、p53, Rb, BRCA等のがん抑制遺伝子産物やc-Myc, c-Fos, c-Jun等のがん原遺伝子産物と相互作用することから分かるように、がん発生機序に深い関与を示す。特にSWI/SNF複合体の必須サブユニットをコードするIni1, Brm, BRG1はがん抑制遺伝子としても知られており、前立腺・肺・膵臓などのがん細胞株や腫瘍細胞において様々な遺伝子変異・欠失が起こり、その発現の消失している事が報告されている。特にヒト非小細胞肺がん(non-small cell lung carcinoma; NSCLC)ではBrmとBRG1の発現を共に消失することが多く、このようなNSCLCの患者では、Brm及びBRG1を保持するNSCLCに比べ予後不良であると報告されている。肺がんは先進国におけるがん死亡原因の第一位であることから、発がんの分子機構の解明や根本治療薬の開発が切望されている。肺がんの中でも80%以上を占めるNSCLCは病理学的に3つに分類されているが、最近のmicroarrayによる発現解析に基づく複数の報告から、分子レベルでさらに細かく分類できる事が分かりつつある状況を考慮すると、NSCLCにおける分子レベルでの詳細な記述は益々必要になると考えられる。本研究では、BrmとBRG1の発現を共に欠いているヒトNSCLC細胞株で起こっているエピジェネティックな変化を明らかにすることを目的として、NSCLC細胞株における神経特異的遺伝子の発現抑制の分子機構を探求した。

結果と考察

 はじめに、いくつかのヒトNSCLC細胞株でのSWI/SNF複合体のサブユニットの発現をWestern blottng法で解析し、BrmとBRG1の発現を共に欠失している細胞株を3種類選んだ(NCI-H23, NCI-H522, A427)。このBrm/BRG1発現消失NSCLC細胞株で発現が増加あるいは減少している遺伝子を半定量的RT-PCRで検討した結果、これらの細胞株ではsynaptophysinやSCG10などの神経特異的遺伝子の発現が上昇している事を見出した。まず、これらの遺伝子の発現上昇がSWI/SNF複合体の欠損によるものかどうか、BrmとBRG1の発現が正常なNSCLC細胞株において、VSV-Gシュードタイプレトロウイルスを用いてSWI/SNF複合体の必須サブユニット(Brm, BRG1, Ini1)の発現を抑制するようなshRNA (short hairpin RNA)を発現させて半定量的RT-PCRで解析した。Brm/BRG1発現消失NSCLC細胞株でみられたように、必須サブユニットを抑えることでsynaptophysinとSCG10の発現が誘導されたことから、NSCLCにおいてSWI/SNF複合体が神経特異的遺伝子の発現を負に制御する事が分かった。次に、Brm/BRG1発現消失NSCLC細胞株へBrmあるいはBRG1を過剰発現させたところ、SWI/SNF複合体によって発現が正に調節される遺伝子のひとつであるIL-6の著しい誘導がみられる一方、synaptophysinやSCG10のmRNA発現量は約4分の1に抑制された。このようなBrmあるいはBRG1の過剰発現による抑制効果は、ATPase活性を欠損させた変異体であるBrm (ATPmut)やBRG1 (KR)を代わりに過剰発現させた場合にはみられなかった事から、SWI/SNF複合体によるsynaptophysinやSCG10の発現抑制はBrm及びBRG1のATPase活性に依存している事が分かった。

 肺がんでの神経特異的遺伝子の異所発現は、小細胞肺がん(small-cell lung carcinoma; SCLC)においてよく知られている。この分子機構として、神経特異的な遺伝子発現を正に調節する転写因子Mash1の異所発現、あるいは負に調節する転写因子NRSF (neuron-restrictive silencer factor、またはRESTと呼称される)の発現欠失がこれまで報告されている。しかし、Brm/BRG1発現消失NSCLC細胞株ではこれら転写因子の発現様式の異常をRT-PCRで認めなかった事から、Brm/BRG1発現消失NSCLC細胞株でのsynaptophysinやSCG10の発現上昇は、特異的にBrm及びBRG1が共に欠損した結果である事が分かった。

 SWI/SNF複合体が神経特異的遺伝子を抑制する機序として、抑制性転写因子と協調して働くことが想定された。肺などを含め通常神経マーカーを発現しない非神経細胞において、synaptophysinやSCG10の転写は前述した神経選択的サイレンサーNRSFによって抑制される事が報告されている。したがって、SWI/SNF複合体による神経特異的遺伝子の発現抑制に対してNRSFが関与するかどうか検証するために、BrmとBRG1の発現が正常なNSCLC細胞株へNRSFの発現を抑制するようなshRNAを発現するレトロウイルスを導入した。果たしてsynaptophysinとSCG10のmRNAの発現が誘導されたことより、SWI/SNF複合体とNRSFは神経特異的遺伝子の抑制作用の点で協調している可能性が示唆された。次にこの協調作用が直接の相互作用によるものかどうか免疫沈降法で解析した。293細胞へFlagタグを付けた全長のNRSFを発現させ抗Flag抗体で免疫沈降したところ、Brm, BRG1及びBAF155が共沈したことより、in vivoでのNRSFとSWI/SNF複合体の相互作用が確認された。NRSFはそのN末端部分(aa 43-83)とC末端部分(aa 1009-1097)に独立した転写抑制ドメインを持っており、それぞれ特異的なco-repressorであるmSin3とCoRESTが直接結合している事が知られている。したがって、次にSWI/SNF複合体はNRSFのどちらの領域に主に相互作用して機能するかを検討した。N末側半分 (N-NRSF; aa 1-528)あるいはC末側半分 (C-NRSF; aa 502-1097)のFlagタグ付き欠失変異体を使って共沈実験を行った場合、Brm, BRG1, BAF155はN-NRSF変異体に強く結合した。このことより、SWI/SNF複合体はNRSFのN末側と相互作用し、協調して神経特異的遺伝子の転写を抑制することが分かった。面白いことに一部のSWI/SNF複合体はmSin3-HDAC複合体を含む事が報告されている事を考えると、NRSFのN末部分へのSWI/SNF複合体の相互作用はmSin3複合体を介している可能性が示唆される。

 次にこのNRSF-SWI/SNF複合体がどのような分子機構によって、神経特異的遺伝子発現の抑制をもたらすかをクロマチン免疫沈降(ChIP)法で解析した。Brm/BRG1発現消失NSCLC細胞株へBrmあるいはBRG1を過剰発現し、クロマチン抽出後、ヒストンH3あるいはH4のアセチル化抗体で免疫沈降した。精製したゲノムDNAを鋳型とし、synaptophysin遺伝子上のプライマーでPCRを行ったところ、SWI/SNF複合体がNRSF結合配列近傍へ動員されることによって、周辺のクロマチン上のヒストンH4が特異的に脱アセチル化されることが分かった。さらにSWI/SNF複合体活性を保持した細胞株にヒストン脱アセチル化酵素阻害剤FK228を作用させる事によってもこれらの標的遺伝子の発現誘導がみられた事から、NRSF-SWI/SNF複合体による抑制機構はヒストンH4の脱アセチル化を介するものと考えられた。

まとめと展望

 本研究では、SWI/SNF複合体の活性を失ったNSCLC細胞株では神経選択的サイレンサーNRSFの機能が破綻する事によって、NSCLCにおいて通常は発現が抑制されているいくつかの神経特異的遺伝子の発現が脱抑制されることを証明した。さらにこの抑制分子機構は、NRSFのN末半分領域へのSWI/SNF複合体の相互作用とそれに引き続くNRSF結合配列近傍のヒストンH4の脱アセチル化が関与している事を示した。Brm, BRG1の発現が共に失われたNSCLCでは、予後が不良であるという報告もあることから、以上の知見は、NSCLCにおける神経特異的遺伝子の脱抑制がSWI/SNF活性を欠損した肺がんにおける有効な診断マーカーとなりうる可能性があることを示唆する。

 最近、大腸がんにおいてNRSF/REST遺伝子の欠失が高頻度で起こっている事が報告され、NRSFはがん抑制遺伝子として考えられるようになった。特にNRSFの標的遺伝子には神経細胞での生存・増殖に関わる因子やその受容体などが含まれるため、NSCLC細胞でSWI/SNF複合体が欠損した際に、これらの遺伝子の発現が脱抑制することによってがん細胞の形質が変化する可能性も考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究では、クロマチン構造変換因子SWI/SNF複合体が神経選択的リプレッサーであるNRSF(neuron-restrictive silencer factor)と協調して神経系特異的な遺伝子の発現を抑制する分子機構、及びSWI/SNF複合体の機能が欠損した非小細胞肺がん(non-small cell lung carcinoma; NSCLC)におけるこれらの遺伝子発現の亢進を検討したものであり、下記の結果を得ている。

1. Western blotting法によって、いくつかのNSCLC細胞株でのSWI/SNF複合体の触媒サブユニットBrmとBRG1の発現を検討したところ、高頻度でそれらの発現が失われていることを見出した。次にこれらの細胞株での神経特異的遺伝子synaptophysin, SCG10の発現をRT-PCR法によって解析したところ、SWI/SNF複合体触媒サブユニットの発現とは逆相関関係になることを見出した。さらに、BrmとBRG1の発現が正常なNSCLC細胞株で、short hairpin (sh) RNA発現VSV-Gシュードタイプウイルスを用いて、Brm/BRG1あるいはIni1の発現を抑制した場合、これらの神経系遺伝子の発現が誘導されることが示された。

2. BrmとBRG1の発現を欠失するNSCLC細胞株に、BrmあるいはBRG1を強制発現させたところ、高レベルで発現の認められたsynaptophysinやSCG10の発現が有意に抑制された。一方、BrmあるいはBRG1の代わりに各々のATP結合能変異体を強制発現させた場合には、このような発現抑制は認められず、SWI/SNF複合体はATP依存的に神経特異的遺伝子の発現を抑制する事が示された。

3. synaptophysinやSCG10の発現抑制に関与するNRSFがSWI/SNF複合体と結合するかどうかを検討するため、293細胞へFlag-tagged NRSF (F-NRSF)を強制発現させた。これらの細胞から細胞抽出液を調製後、抗Flag抗体で免疫沈降法を行ったところ、SWI/SNF複合体はNRSFと相互作用していることが示された。さらに、Flag-tagged N末側欠失NRSF (C-NRSF)あるいはFlag-tagged C末側欠失NRSF (N-NRSF)でこの相互作用を検討したところ、N-NRSF でのみSWI/SNF複合体との結合がみられた事より、SWI/SNF複合体のNRSFへの相互作用は主にNRSFのN末側の領域が必要であることが示された。

4. BrmとBRG1の発現を共に欠失するNSCLC細胞株にBRG1を強制発現させ、クロマチン免疫沈降を行ったところ、BRG1はヒトsynaptophysin遺伝子上のNRSF結合部位に動員される事が示された。また、NRSFのcorepressorであるHDAC2及びCoRESTは、BrmあるいはBRG1の強制発現に関わらず、常にNRSF結合部位に存在していた事から、NRSFとそのcorepressorのゲノム上への動員にSWI/SNF複合体は関係しない事が示唆された。さらに、BrmあるいはBRG1を補完することによって、NRSF結合部位付近のヒストンH4のアセチル化レベルが有意に減少する事が示された。

5. BrmとBRG1の発現が共に正常なNSCLC細胞株に、HDAC阻害剤FK228あるいはDNAメチル化酵素阻害剤5-azacytidineを処理したところ、FK228処理のサンプルでのみsynaptophysinやSCG10の発現が誘導された。さらに、BrmとBRG1の発現を欠失するNSCLC細胞株と両者の発現が正常なNSCLC細胞株におけるsynaptophysin遺伝子上のCpG islandのメチル化レベルをbisulfite法で検討したところ、どちらの細胞株でもCpGのメチル化は起きていなかった事も合わせて考えると、NRSF-SWI/SNF複合体による神経特異的遺伝子の発現抑制には主にヒストンの脱アセチル化が重要である事が示唆された。

 以上、本論文はSWI/SNF複合体の活性を失ったNSCLC細胞株では神経選択的サイレンサーNRSFの機能が破綻する事によって、正常組織において通常は発現が抑制されているいくつかの神経特異的遺伝子の発現が誘導されることを証明した。さらにこの抑制分子機構として、SWI/SNF複合体によるNRSF結合配列近傍のヒストンH4の脱アセチル化が関与している事を示した。これまで良く知られていたSWI/SNF複合体による転写活性化とは全く異なる、同複合体による特異的な遺伝子群の抑制機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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